2005年8月31日
モーツァルト
先日テレビで、モーツァルトの音楽が病気を治すというのをやっていた。高周波というのが非常に多いのだという。どこかの大学の先生が研究しており、そういうゼミのようなものもあるようだった。
クラシックの中で、なぜかモーツァルトというのはよく特別視される。わずか35歳でなくなりながら、後世にこれだけの音楽を残し、伝えられ、さらに評価されているのだから、確かに天才ではある。しかも交響曲からピアノ曲、オペラなど、クラシックの音楽のほとんど全てのジャンルを網羅している。ケッヘルが付けた番号は626まである。5歳から作曲していることを考えれば、年平均20曲以上を書いているわけだ。
ポップスを年間20曲作るわけではなく、その中には20曲ほどのオペラも含んでいる。1曲でCD2枚組3枚組の量があるのだ。現代のような録音技術があるわけでもないから、紙の譜面に書いていく。大変だ。・・・まあでも、バッハなんていうとんでもない多作家もいるわけだから、それに比べれば、それほどでもないのかも知れない。
ともかく、モーツァルトの音楽は病気を治すらしい。なかにし礼が、おまけのように言っていたのは、やはりおまけのように感じるが、確かにモーツァルトの曲というのは特徴的で、ハイドンなどはかなり似た感じもあるが、ちょっとお堅い。
モーツァルトなりクラシックが「癒し」とか言われても、非常に怪しく、もちろん癒される人もいようが、いらいらする人だってきっといないわけではない。アダージョとかラルゴとか、遅い音楽が「癒し」と結びつくのは、例えば「バラード」と言って静かで遅いポップスがやはり癒しを標榜するのと同じく、人の心に安寧を与える可能性が高いと言うことも言えるが、あくまでヒット率が高いと言うだけだ。
昔からよく私が言っているのは、取り敢えず好きな音楽は静かであろうとうるさかろうと、こころをリラックスさせてくれる。高揚感とリラックスは対になるようなことではなく、集中してその世界に入り込めているときは、リラックスしているものだと思う。
ただ「高周波」とか、直接人間の脳に影響を与えそうな言葉が出ていると、病気が治るかどうかは別として、直接的に肉体に働きかけているような気はする。薬を飲まずに、音を聞いているだけで病気が治るものなら、何となく健康的なので、どんどん研究して欲しいし、そういう効果があるのならうれしいことだ。
手の平をかざして病気が治る、呪文を唱えて病気が治る、いずれにしても、そういうことが可能なら、薬を飲んだり、メスを入れたりするよりは遥にいいわけで、モーツァルトもその部類だ。個人的には、モーツァルト以外でも発掘して欲しい気はするが。
マーラーの今際の言葉は「モーツァルト」だったという。そうか、「薬をくれ!」と言っていたのかもな。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:14 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月30日
カトリーナ
カトリーナという名のハリケーンが、アメリカを襲って、甚大な被害を与えた。一時期、風速70メートルと発表されていた。これは、日本に来る台風の、「猛烈な台風」という最大の表現を超えるものだという。
先日来た11号が、三宅島だったか八丈島だったか忘れたが、瞬間最大風速57メートルというのを記録したらしいが、70メートルというのは想像が付かない。
そもそも、アメリカの大西洋岸で発生するのがハリケーン、インド洋がサイクロン、東シナ海から太平洋で発生するのがタイフーンだ。それぞれ、熱帯性の低気圧が発達して、暴風雨が33メートル以上のものを指すらしい。
台風という字は元々颱風と書くらしいが、語源はタイフーンと言うことだという。何となく台風先にありきで、英語のタイフーンができたのかと思っていたが、どうやら逆らしい。台風という言葉が使われ始めたのは大正時代からだという。
昨年は台風の当たり年で(どこかで書いたが、この当たり年という表現は、本来的な使い方としては間違いらしい)、沢山の台風が日本を縦断して被害をもたらした。今年はまだ少ない。最も、沖縄地方では、毎年変わらないのかも知れないが。
今年は既に2つの台風が関東を直撃している。但し、千葉県の辺りをかすめるだけで、東京直撃と言うことはない。高気圧の位置とか、もちろんあるのだろうが、何となく、ヒートアイランドのような都市型の気温異常が、台風の進路を変えているように見えてしまう。
よく昔の東京は寒かったというが、確かに子供の頃は今に比べて雪の日も多く、冬は寒かった気がする。同じように、強い台風というのは昔の記憶に多い。地方によって違うのだろうが、私は埼玉出身で、東京とそれほど違わない気象条件だが、昔に比べると、台風による嵐というのは減っているような気がする。
ハリケーンは世界的なこの熱帯性低気圧の発生件数としては、太平洋に比べて少ないらしい。しかし、規模を考えると、はるかに恐ろしい。
地震、雷、火事、おやじというが、台風も十分恐ろしい。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月27日
電話アンケート
最近、ごくたまにだが電話でアンケートを受けることがある。口頭で女性のオペレーターが質問をしてくるケースと、今日などはそうだったのだが、機械が音声で質問をしてくるケースがある。
今日のは日本の伝統と何とかに関するアンケートだった。
しかし、突然電話を掛けてきて、機械の音声がただアンケートをお願いしてくるっていう方式を、そのアンケートをする会社は失礼だとは、全く思わないのだろうか?口頭のアンケートは、暇があれば答えることもあるが、機械音声のものはすぐに切ってしまう。
機械の音声が問題というだけでなく、そもそもこちらからの問いかけに関して全く反応しないという点が問題なのだ。機械だから当然と言えば当然だが、質問の趣旨や意図、そもそも何のためのアンケートなのかだとか、知りたいと持っても、訊きようがない。まあ、こんな方式はインターネットなどのアンケートなどの普及で駆逐されていくとは思うが。
そういう意味では、唐突にFAXが来ることもある。どこかで調べてくるのだろうが、電話と違ってこちらは、インクリボンを消費する。いざというときにリボンが切れたりする現況となるわけだ。失礼極まりない。
メールのような、ほとんどこちらに物理的な被害を与えない媒体でさえ、迷惑メールというレッテルが貼られるのだ。、当然、迷惑電話や迷惑FAX という分類もあるに違いない。
営業の電話が全て不愉快だというわけではない。それはそれ、企業の営業活動としてやむを得ない部分もあろうが、そこには自ずとルールがあるだろう。
まあそれでも、振り込め詐欺のような犯罪に比べたら幾分かましというものだが・・・・
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:10 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月25日
冷蔵庫
しばらく前に冷蔵庫が壊れた。と言っても完全にではなく、冷凍室が冷蔵室の役目を果たしている。氷はできないが、普通に冷やしてくれる。
と言って、全体としては冷蔵庫の役割を果たしていない。
こうしてみると、冷蔵庫が生活に果たす役割というのが非常に大きいことを実感する。テレビと冷蔵庫は、無くて生活ができないと言うことはないが、無いときに最も不便を感じる電化製品だろう。
個人的には、パソコンがないと仕事にならないので、何よりも困るのはパソコンが壊れることだが、生活上では、冷蔵庫への依存度は非常に高い。
この冷蔵庫は、8年くらい前に買ったような覚えがある。秋葉原のサトームセンで予算は10万、4ドアの350L以上という条件で買ったものだ。当時はその条件では12〜13万はしたからだ。
しかし現在見てみると、10万円以下のその規模の冷蔵庫はたくさんある。全体的に2〜3割安くなっている気がする。
引っ越しを控えているので、引っ越しの際に処分してもらって、新しいものを購入しようと考えているので、どうにかその時まで、冷凍室が10℃以下でこらえてくれることを祈っている。
ところで、ブルーレイディスクに対してHDD陣営は(あ、新しいDVD規格のことだが)、ハードの値段の安さを強調しているようだが、時間が経てばハードの価格は下がるので、できれば性能で勝負してもらいたい。現状は、協賛はHDDの方が多いが、性能的にはブルーレイに軍配が上がりそうなので、その辺りを考えて、統一化を、うっちゃりのようにぎりぎりでもいいでの決めて欲しいものだ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:41 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月22日
小選挙区と比例
現在の選挙制度は小選挙区比例代表制というものだが、以前から疑問に思っていることがある。
小選挙区と比例代表の2つの方式を採用している意味は分かる。完全小選挙区であれば、共産党や社民党などはほとんど議席を得ることができなくなる可能性があるだろう。それを、政党支持率によって議員を確保するというのは、合理的でもある。
しかしよく解らないのは、小選挙区と比例代表の重複立候補という汚いやり方だ。小選挙区制というのはガチンコ勝負で、1票差でも負ければ議員にはなれない。これすごくシビアな選挙だ。しかしそれが、比例代表に名を連ねることで救われ、議員になることを可能にしている。選挙区で「No」を突きつけられても議員になれると言うことだ。そしてそれを「国民に選ばれた」などと言っている議員は少なくはない。
おかしな話だ。「おまえは落ちたのだ」と言ってやりたい。
政治は国民のチョイスを、政党の意図でねじ曲げているとしか思えない。そうでないのなら、選挙区から出なければいい。もちろん、勝ち負けのための戦略であることは解るが、どうも納得できない。特に、せいぜい数千票差で負けているならともかく、1万票以上負けても当選できる。おかしなシステムだ。
いろいろな意味で霞ヶ関は変わりつつある雰囲気が見えている。
変化が全ていいわけはもとより無い。だが、「誰よりも自民党を愛している」などとのたまう造反と言われる議員達は、そもそも何のために議員でいるのかを考えて、そのような愚にも付かない発言をしていただきたい。「自民党をぶっ壊す」と言ってきた小泉純一郎の人気が高いのは、そもそも「自民党など愛していない」からだ。政党などは政策を実現するための器に過ぎない。損なところに変な愛着を持っているから、「既得権益」などということを言われるので、その辺の小理屈すら解らない人たちに政治をやって欲しくない。
ところで、新党「日本」とか「大地」とか、この辺りのネーミングもイメージ戦略なのかも知れないが、なんかださい。今日の「日本」の旗揚げは、何となくかっこ悪さだけが目立った。なんだか田中康夫がこれまでやってきたことを、帳消しにする効果すらありそうだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月21日
リモコン
先生にリモコンがついていて嫌な授業は早送りというファンタの宣伝があるが、あの少年の表情が好きだ。
ところで家にリモコンていうのは幾つあるのだろうか?
テレビ、ビデオ、DVD、ケーブルテレビのチャンネル、エアコン、オーディオ・・・・思いつくだけでも片手以上だ。
全てを一つにしたら使いやすいかというと、必ずしもそうではない。それぞれに特殊な機能があるからだ。しかしよく無くなるのも事実だ。必ず毎日1回はどれかのリモコンを探しているように思う。探しているものに限って見つからない。というような何とかの法則めいたことまで発見してしまう。
一時期、ビデオが2台あって(今でもあるが、1台は壊れている)、どちらがどちらのリモコンだか解らなくなっていたこともあった。
そこでちょっと考えてみた。現状でのリモコンの理想型。
1台でオールインワン。手頃なサイズで、大きな液晶。中に家電のメニューがあり、テレビと選べば、液晶にテレビのリモコンメニューが出る。それぞれの家電に対して、液晶内に、できるメニューが表示される。そのリモコンが1台あれば、新しく何かを買い足したときでも、そのリモコンに情報を送るだけで、全ての家電が同じように使える。
リモコンは良くなくなるので、電話番号が振られていて、その番号にかければ、リモコンが鳴って場所が解る。当然、携帯からでも操作できる、なんていう、個人的にはそれほど欲しいとは思えない機能も必要かも知れない。
いずれにせよ、1台のリモコンで、家中の家電が操作でき、なおかつ扱いやすく、見あたらないときにすぐ見つかる。そんなリモコンを付くって欲しい。
投稿者 keisuke : 日常的 | 21:32 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月20日
駒大苫小牧連覇
駒大苫小牧高校が甲子園の優勝を果たした。夏の甲子園連覇は57年ぶりだという。駒大も北海道も、個人的には縁もゆかりもないが、つい決勝戦を見てしまった。
なかなかいい試合だった。
高校野球というのは自分が出た高校が全く縁がなかったこともあり、それほど興味を持って見たことがない。
元々地元意識も低いので、埼玉県はどこが出ているのかなど、知らないことも多い。あ、今は地元は東京だが、何となく生まれたところの高校が気になるというのは不思議なものだ。
高校時代を、スポーツやら何やらに真剣に燃えて何かをやったという記憶がない。のんべんだらりと過ごした3年間だった気がする。
彼ら高校球児を別にうらやましいと思わないところが、そういう3年間を過ごした人間のそれらしいところかも知れないが、純粋にその努力と結果に関して賞賛を送りたい気がする。見ていて清々しかった。
世の中というのは、優勝の1校に対して、敗れていった数千校があるのだが、実は私が高校時代、野球部を見た記憶がない。あったかも知れないが、新設高校としてはあったとしても名ばかりであっただろうことは予測が付く。つまり、敗れることもなかった高校がまたたくさんあるに違いないのだ。高校野球の予選にさえ出てこれない野球部もあるのだ。
世界陸上の時、60億分の1というキャッチフレーズを、金メダリストに送っていた。
高校野球のナインもその年の60億分の15くらいではあるのだ。・・・でもそうすると4億分の1くらいになってしまうのかな?と下らんことを考えてしまうのが悪い癖だ。
投稿者 keisuke : スポーツ | 23:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月19日
地元議員という考え方
衆議院選挙が来月に控えている。郵政民営化法案に反対した議員に対して「刺客」と称して(誰が称しているんだか?)有名人や、女性が次々対立候補として立てられている。
今日も、ホリエモンことライブドアの堀江貴文が国民新党の亀井静議員の地元である広島6区から無所属で出馬することが決まった。
地元の人へのインタビューで、「地元のことも解らないのに立候補してどうするんだろうね」という意見があった。
以前から思っているのだが、選挙っていうのはいったい何だろう?
地元のことをよく知っている議員を選ぶ意味というのは、かつての利益誘導方の政治の名残ではないか?いや、これはまだまだかつてのことではない。国会議員にとっての地元とは、日本国であるべきで、北海道選出議員だって沖縄のことを考えなくてもいいということではない。北海道のことを専門に考えるのは北海道の道議であるべきで、国会議員を選ぶのなら、その土地の出身者かどうかなどと言うことは、ほとんど意味のないことだと思う。
でもそうではないのだ。世の中は。
地元から国会議員が出ると、地元の人は国会議員に、地元をよくしてくれとまず思う。そしてそれがひいては日本をよくするということに繋がっていく。だが実際は逆であるべきだ。日本が良くなるからこそ地元も良くなるのだ。
世界に目を広げてみよう。国家の幸福よりもまず、世界の平和と幸福を目指すところから始めた方が、実は良くないだろうか?なぜなら、どんなことでもそうだが、自分の利益から始めれば、まずそこから争いが生じるのだ。
まあ、全ての国家が他国家を、全ての人が他人を幸せにしようと考える世の中が出来れば、理想的ではある。が、そこまで極端なことが簡単に実現できるわけではない。
手近なところから、地元への利益誘導的政治をこれからもやっていこうというどこかで考え直して欲しい感じがする。
今回はとてもいいきっかけのようでもあるし。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:37 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月17日
パリス
無性にパリスが聴きたい。特にそのセカンドアルバムが。
と言ったところで、多くの人がパリスなるバンドを知らないと思う。インターネットで検索しても「パリス」というバンドはほとんど出てこない。
フリートウッド・マックと言えば、結構多くの人が懐かしく思い出すに違いない。
ミック・フリートウッド、ピーター・グリーン、リンジー・バッキンガムなどが板が、その中にロバート(ボブ)・ウエルチという人がいた。後にソロで、「フレンチ・キス」というアルバムをヒットさせたが、彼が、マックをやめて作ったのがパリスというバンドだ。
ファーストアルバムは「Bigtown2061」だったかな?そんなタイトルのアルバムで、レッド・ツェッペリンの真似っこみないな事も言われた。確かに中に「Black Book」なんていう曲があって、「Black Dog」みたいだったような記憶もある。
ところがセカンドアルバムは、うってかわってポップな仕上がりで、私はこれが大好きだった。特に、「青ざめた馬乗り(Pale Horse Pale Rider)」という曲が好きだった。当時はハード・ロックと言われていたようだが、どう聞いても普通のポップスだった。軽快だったし。
レコードがCDに変わり、古いレコードのほとんどを処分したときに、そのアルバムも売ってしまった。どうせCDで買い直すと思っていたからだ。
ところが、今に至るまで、1回もCD化されていないのだ。ファーストは何回かCDになって、確かCDの棚のどこかにあるはずだ。ところがセカンドは、一向に出ないどころか、海外のショップで探しても見あたらない。ごく希に、国内で手に入らないものは海外から買ったこともあるが、出ていないものはどうしようもない。
発売元は東芝EMIでレーベルはクリサリスだったと記憶している。レコード売らなければ良かったな。
実はレコード売らなければ良かったのにもう一枚ある。ただこちらは、タイトルもアーティストもうろ覚えで、検索が出来ない。
逆にレコードを売らなかったおかげで聴けたのは(サンプル盤だったからと言うのがあるが)、バンド名は忘れたが、サザンロックのグループだ。レーナードスキナードばりのギターで、もっとハードだった。でもまあ、アメリカで探すとこんなバンドは腐るほど、当時はいたに違いないが。
いずれにしても、ああ、パリス聴きたい。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:09 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月15日
女王の教室
日テレの女王の教室に、スポンサーのテロップを流すのをやめたという記事が載っていた。これは見る人が見ると、より印象的な広告戦略にも映る。
は、ともかく、「女王の教室」という番組は一度だけ、半分くらい見た。それまでの流れを知らないので、印象としては、いじめ渦巻く小学校で、その上を行くシリアスな教師が、女王のように教室に君臨して、言うことを聞かせているという印象だった。
私が見た回は、主人公らしき女児童が、ケンカを止めに入って、そのあおりをくらい、廊下のガラスを突き破って外に落ちるというすさまじい内容だった。しかもガラスの破片が足に刺さり、来合わせた天海有祐希扮する先生が、保健室で治療後、怪我をして足を引きずるその女生徒にガラスの掃除をさせようとしている場面だった。その後なぜか、子供達は、教師に反抗して、一人一人何かを言っていたが、そこはよく覚えていない。少なくとも、天海祐希はひるんではいなかった。
上記の記事には、視聴率の高さと、賛否両論ながら、ホームページでの掲示板での活発な議論について触れていた。番組打ち切りを求める声もあるとも書いてあったが、先ほどホームページを見てざっと見てみたが、好意的な意見しか見ることはできなかった。
実際に内容をよく知らないで語るのはなんだが、天海祐希扮する教師のエキセントリックな言動と、それに対抗して徐々にまとまっていくクラスという構図は、これまでの学園ものには見られないスタイルだし、一種独特の痛快感があるのではと感じた。
強い悪というのは、正義がそれを打ち破る図というのが楽しくもあるし、実はその悪こそが一つ上の正義が名を変えた姿であった、なんていうのもよくある話だが面白い。勝手にそんな風に解釈しても、実は全く救いようのない結末が待っているかも知れないので(だとしたらすごすぎるが)、勝手な推論に過ぎないが、そういう話を小学校を舞台に描いたというのは画期的なのではないかと思う。
日テレは、青春ものの学園ドラマ、「でっかい青春」あたりから「われら青春」に到る作品群や、水谷豊のタイトルは忘れたが先生もの、最近ではごくせん等、いわば先生と生徒の暑い関係を何度も描いてきた。金八先生のようにリアルな学校を描くことなく、どちらかというと、お涙頂戴に近いタイプのストーリーで楽しめる作品だったが、今回は大分毛色が違うようだ。
若干SMチックな演出がどうかという問題はあるような気もするが(ホームページの印象)これはこれで面白いのだろう。・・・でも今更観ないと思うが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月14日
お盆
8月13日から15日までは旧盆だ。東京などでは7月の同じ時期をお盆というが、地方では多くが8月に行う。
お盆は正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、サンスクリット語のavalambanaが訛って、ullambanaとなり、これを音訳したものだという。ところがこの言葉の意味は倒懸(さかさづり)という意味を持っている。目蓮(釈迦重大で氏の一人。神通第一。マウドガリヤーヤナ・・・手塚治虫の「ブッダ」の中ではモッガラーナという名で出てくる)が、地獄に堕ちた母親を救うために、釈迦に教えられて供養したという伝説が元と言われている。
日本では奈良時代倉から続き、現在では地方によってやり方も大分変わるらしい。
私も実家に帰り、墓参りをし、迎え火を焚き、家では提灯を飾り、家に先祖の魂が帰ったと言って仏壇に手を合わせた。と書くと、すごく宗教酩酊見えるが、非常に儀礼的な側面もあり、同時に、彼岸と盆くらいはせめて自分の先祖に手を合わせて、こころを運ぼう、ということに近い。
寺に行くと、同じように墓参りをする家族が多く見られ、風習に従って、お盆を過ごしている家庭も少なくはないのだな、と思う。
お盆に限らず、仏教的な行事というのは、多く日本の習俗に根ざしていることが多い。それは聖徳太子などが仏教を守り、インドから中国伝来の宗教が、日本の中で変遷してきた様を見ることができる。
よく日本人は無宗教だというが、裏を返すと、外国人は信心深いと言うことも言えるのかも知れない。日本には神道があるが、明治以降に国家が管理することで、何かうさんくささを備えてしまった感がある。そもそもは日本古来の宗教だろうが、かなり仏教などにも影響を受けているし、氏子などという、神社のそばに引っ越したとたんにその信者ではないが一部のようになってしまったり、不思議なこともあるようだ。
どんな民族であれ、古来から宗教と無縁な民族はないのであり、日本は神道と、外来の仏教を中心に、今ではキリスト教などもかなり広く信じられている。たまたま今朝のテレビで石原慎太郎が自らを熱心なカソリック教徒だと言っていた。
よく言われるのは、お盆や彼岸、あるいは時たまの墓参りなどで仏教徒である日本人は、正月には神社に初詣に行き、夏祭りで御輿を担ぎ、クリスマスも祝う。今では感謝祭や復活祭までやったりする。この辺りが無節操に外国人からは見えるのかも知れない。そして等の日本人は、墓参りは言っても無宗教だと言いきり、家の宗派は真言宗だ、曹洞宗だとも言ったりする。
確かに無節操さは無宗教というに相応しいようにも見えるが、面白い日本の現実という風にも見える。
私は間違いなく仏教徒だが、同時に仏教の非常に哲学的な面を素晴らしいと信じている。これは多分に、アーサー・C・クラークの影響もある。神を信奉する宗教が、強力な宇宙人の来襲などのより、全て嘘だと暴露され、ほとんど消えてしまっても、仏教は残ると、どこかで言っていたともう。
なぜなら、仏教はその根本に於いて、人がどう生きるべきかの指針を、釈迦が覚ることで見いだした宗教であり、当時のヒンズー教や、様々な宗教との混交や、後の世の様々な人たちの手によって、それぞれ今生きている様々な宗派になってきたわけだ。そういう意味では、キリスト教の様々な宗派と同じと言うことになる。だがそもそも根本的に違うのは、根底に神を持つキリスト教と、人間が見いだした宗教という立場だろう。
お盆のルーツは、今では別の説もあるが、いずれにせよ、先祖供養という点で、今の日本では定着しているように思う。そういう意味では、宗教的な側面以前に、自分のルーツである先祖に対する畏敬というようなものを持ち続けるという点に於いて、決して無意味な習俗ではないだろう。
但し形式化された様々な点は、そもそも形式ということに取り敢えず反発する私としては、なじめない側面もあるにはあるが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:57 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月13日
傘
昨日夜、雨に降られた。家を出るときに稲光が空を染めていやな予感はしていた。音のしない雷というのも不気味なものだ。でもまあ、北関東ではないので大丈夫だろうと高をくくっていたが、食事をして店を出たら降っていた。傘を持ってくれば良かったと少し後悔した。
時刻は11時。傘を売っているようなお店もほとんど閉まっていて、後はコンビニしかない。コンビニまでは濡れたがどうにか傘を購入できた。399円のビニール傘だが、普通の傘は1900円前後した。どうも価格の差がありすぎだ。
最近傘は安い。500円出せばボタン式のプッシュ傘が買える。昔であればビニール傘だったが、今は十分に普通のいい傘だ。コンビニの399円と比較すると、100円の差ではないだろうと思う。
そういえば100円ショップでも傘は売っているのだろうが、どんな傘だか記憶にはない。
以前に中国からの傘の輸入ビジネスについて話を聞いたことがあった。やはり単価はかなり安いようだ。
ブランドの傘などをデパートで買おうとすると、最低でも3000円から5000円、1万円以上の傘もざらだ。個人的には傘など別に何でもいいだろうという、ある意味男らしい感覚で選ぶので、3000円の傘などもってのほかだ。
だからといってビニール傘はどうも好きになれない。とても使い捨て感覚だからだ。
ちなみに、私は2度ほどコンビニで傘をとられたことがあり、それ以降、外に傘を置くのをあまりやらない。店内が濡れて申し訳ないとも思うが、とられた傘に保証はないので、外には置かない。コンビニに限らずそういう店はまだ多いが、可能な限りビニールの傘袋をおいてくれるとありがたいと思う。
ただしこの点は、コンビニなどのレジ袋と同じで、環境問題などを声高に論じるとすれば、それも無駄なのかも知れないが、なんかそのあたりもリサイクルできるシステムってできないものだろうか?
SFなどでよく、物質をエネルギーに全転換して推進する宇宙船の話などがあるが、エネルギーにしたり、原子核レベルで再構成して、新たな物質に変換したりなどという技術が発明されないだろうか?石油からいくらを作るなど、近いことができるのであれば、せめて傘袋やレジ袋から、新たに同じ製品をリサイクルする技術など、何となくできそうな気もするのだが。
何はともあれ夏場は夕立の季節。気になれば傘を持ち歩け、ということかも知れない。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月12日
携帯の中身
母親の携帯を新しくした。Vodafoneの家族間無料というサービスのおかげで、一般電話を使うよりも安く上がる。尤も、基本料金はかかるわけだから、使わなかったら非常に無駄なことだが。
ところで、携帯の機種変を行う時、一般には電話番号やメールアドレスなどはショップで移してもらえるが、それ以外の着メロやVアプリなどはその対象外だ。そもそもこれらはお金を出して購入しているわけで、機種を変えたから無駄になるというのはどうも釈然としない。
もちろん、長く使っていれば、内容が古びたりして、いらないものもあろう。しかし、サービスとしてこの辺りの不備はいかがなものかと思う。ただでさえ高い通話料を考えると、どうにかならないものか。
現在ではSDカードが使える携帯が多いのでそれで移動させればいいのかもしれないが、そんな簡単に出来るのだろうか?
それだけのために携帯用のPCソフトを買っても、その時しか使わないわけでこれまた無駄だ。
今の日本社会は無駄が文化水準の高さを示していると思っているかのように無駄が多い。不用品回収の業者によれば、今最も多いのはテレビだという。もちろんブラウン管のだ。液晶やらプラズマを買えば、まだ映るとしてもブラウン管のテレビは要らなくなるという理屈だろう。
自分自身、多分そういう無駄な生活をたくさんしているのだと思うが、改めて考えてみるとどうもよろしくない気がする。
そういう義憤めいたこととは全く違った次元で、携帯のデータはどうにかして欲しい。
ところで、うちでのこづちは昨日で丸1年がたった。最近はだいぶ空いているが、よく1年間続けてこられたものだ。誰も言ってくれないので一人で喝采。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月10日
ゲームの有害図書指定
「グランド・セフト・オートIII」というゲームが3月に神奈川県で有害図書指定された。当該ゲームが残虐で、青少年に悪影響を与える可能性があるという理由だ。神奈川県知事の松沢氏のブログには批判が相次いだという。
残虐シーンのあるゲームや他メディアと、犯罪などの相関関係は、私は決してないとは思わない。当然ある。それを見ていなかったら、犯罪を起こさなかったケースというのもきっとあるに違いない。それは、レイプもののアダルトビデオを見たことで女性に乱暴をはたらく人間が、この世にはいると言うことと同じだ。
ただ、だから行政が短絡的に規制をすればいいというお話しとはまた異なる。
今回の規制は、非常に限られた人たちが話し合いをし、販売元にも意見も聞かず、規制をした。あたかも昭和30年代40年代の、漫画を悪書として片付けたPTAに似ている。概して「健全」な大人は、自分の価値判断で悪いと思ったものを見せたがらないものだ。もちろんそのことにはきちんとした理屈もあるし、正当性もある。だが、そちらが正当性があるyから、ではそれを子供にも自由に見せることを是とする側に正当性がないかというとそうではない。
そもそも残虐性があるかないかの判断を、誰がどのようにしてするのかと言った点が、常に曖昧であり、それはどんなに事細かに何かを決めたとしても、曖昧の域を脱することはない。私は基本的に戦争映画が嫌いだ。但しこれは近代戦争の映画に限る。例えば、戦国時代を描いた映画で、たとえ何人が死のうと、比叡山が焼き討ちされようと、今という視点からは、リアルな残虐性を読み取ることが私にはできない。それは、時代劇で将軍やその血筋が、悪人を何人切ろうと、最期のシーンでは死体がきれいに消えて無くなっているようなもので、虚構世界の1シーンでしかないからだ。しかし、第2次世界大戦の映画などは時として、残酷に思えることがある。そしてこんな感覚はまさに個人差であり、私はこの感覚を全ての人に敷衍しようとは思わない。
GSO3というソフトを私はよく知らないが、人殺しが自由にできるようなソフトらしい。極端なことを言えば、殺人が罪になるのは現実の世界でだけだ。このことは普通の人は知っているし、それ故、残虐な映画やゲームによってその残虐性を現実の世界に持ち込もうなどとは普通は考えない。
だが、高倉健や菅原文太のやくざ映画を見たばかりの人たちが、あたかも自分が健さんなどになったかのように、映画館を出た後に肩を聳やかせて歩いている等という話を昔はよく耳にした。人間にはそういう側面もある。また、先日逮捕された自殺サイトで知り合った人を殺害して、自分の性癖を満足させていたなどという男がいるように、何かのきっかけで人を殺したがっている人もいるのだ。
確かに、残虐性を秘めたゲームは、そういった可能性を内在した人に、そのような個性を助長する可能性は十分にある。だがこれは、青少年だからではなく、大人だって同じだ。人間は成長したからみんな普通になる等というのは全く妄想だし、お金や、たわいもない理由で、毎日のように殺人事件の報道があるが、そのほとんどは成人の仕業なのだ。
もちろん、殺人をテーマにしたゲームなど、規制すべき内容を持ったものは無いわけではないだろう。それはテレビでの暴力シーンなどでもそうだ。だがそこには、健全な識者然とした数人の大人達が、あたかも社会をただすかのような形で簡単に決めてしまえるものでもないし、その規制が犯罪を必ずしも減らすわけではないことを認識すべきである。ソフトは暴力を助長する場合があるのと同様に、そのことで暴力的な衝動を解消させ、現実の暴力に向かうのを防ぐ可能性も秘めているからだ。
煙草を吸ってはいけないと言われれば吸い、酒を飲んではいけないと言われれば飲み、エッチな本やビデオを見てはいけないと言われれば見る、それこそが青春と思っている人たちもいる。そして年経た頃、自分の過去のそういったことを得々と語る大人は少なくない。褒められたことではないが、むしろこれは健全なので、「若いころ人を殺してしまって・・・」なんていう自慢をする人はいない。
規制をかけるなら、有害図書という形ではなく、アダルト商品のように、ある程度明確なラインを引いておいた方がいいような気はする。個人的には、行きすぎた残虐性は性器を見せることと比較してもよろしくないようには思う。
日本も、この暴力ということに関して、社会的にもっと議論が高まっていいと思うが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月 7日
作る会の教科書
まず今日のエントリーは、最初に書いておかなければいけないが、半ば無責任な書き込みである。その理由は、私が扶桑社から出ている「新しい歴史を作る会」の教科書を、きちんと読んでいないということによる。
さて、私は杉並区に住んでいる。
先日、杉並区役所の前で、上記の教科書を選定しようとした教育委員会かな?の会議に抗議する人が沢山押し寄せて、選定が延期になったことをニュースで伝えていた。
この教科書は、文部科学省から認可されているが、中国や韓国から批判の的になっているあれだ。
現在はこの教科書、書店で購入できる。平積みになっていたりする。扶桑社はそれだけでも出版した意味があるのかも知れない。
問題は、この教科書が、戦争(先の大戦など)を美化しているとか、皇国史観的な内容であることが言われているからであり、少なくとも多くの人が、この教科書からそれを読み取っていることは間違いない。あるいはこの教科書を執筆した中心人物でもある西尾幹二などのテレビでの発言などを見ていると、そういった見方をされるのも、一面、むべなるかな、と思わざるを得ない。私は「国民の歴史」も読んでいないので、実は西尾幹二についてそれほど知ってはいない。
太平洋戦争が、日本にとって大東亜共栄圏という非常に前向きな意図の元に始められたとしても、侵略戦争には違いないわけで、それは糾弾されるべき性格を持っている。だが同時に、西洋の列強がそれまでに推し進めてきた植民地戦争も、同じようなもので、実はこれは、人類が生まれて以来、権力を欲しい人間と、権力をあがめ奉る人間という図式が、時として非常に安定しているために起こることだ。
あの世界大戦を戦ってさえ、いまだに戦争は世界中のどこかで起きている。その学ばない人類をやっぱ戦争はいけないという風に学ばせることが、歴史の持つ一つの大きな意味のような気もする。
何となく、日本人は東京裁判とその後のアメリカナイズされた歴史の中で、それ以前の日本に対して自虐的で、酷な見方を、戦後はしてきたというのは解る。それは必要以上にそうだったに違いない。中国や韓国の日本に対する感覚も、多分行きすぎている。ことに靖国問題などは、行きすぎの例のように思える。
しかし、ではよその国の反日感情に根拠がないかと言えば、決してそんなことはなく、それなりのひどいことをした歴史があるに違いない。
原爆を落とされた広島や長崎の人たちは、原爆が戦争を終わらせた有終の兵器のように語る一部のアメリカ人を、気分よく見られるはずはない。確かにそういう側面がないわけではないとしても、あれだけの殺戮が必要だったはずもない。
何事もそうだが、バランスというのが必要だ。仏教で言う中庸っていうことかな。作る会の教科書に対する、市民運動みたいなものを見ていると、やはりそのバランス感覚というのは、どこか保たれていないのだろうなという気がする。今度読んでみよう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月 6日
スペースシャトル
スペースシャトルが明後日帰還する。無事に帰ってきて欲しいものだ。チャレンジャーが爆発し、コロンビアが空中分解し、スペースシャトルが被った2度の大事故によって、今回のディスカバリーの打ち上げ時の延期や、軌道上に乗ってからの様々な問題が、不安材料として報道などで大きくクローズアップされることがある。
ソ連がスプートニクを宇宙に上げたのが1957年、ほぼ半世紀前のことだ。ガガーリンが宇宙に飛んだのが1961年。そしてその年に月旅行を計画したアメリカが、始めて人類を月に降り立たせたのが1969年。60年代前半に始まったペリー・ローダンシリーズでは、1971年にアメリカの空軍少佐ローダンが、始めて月面に降り立つというのが始まりなので、SFよりも2年も早く月旅行を実現させたことになる。
映画「2001年宇宙の旅」は1968年の映画だ。これは人類が月へ行く前に、木星への宇宙飛行を描いた映画だ(クラークの小説では、土星の衛星を目指していたが)。映画ではこれが2001年のことだ。
スペースシャトル「コロンビア」が始めて地球周回軌道に乗ったのは1981年のことだ。人類が月に行って22年、アポロ計画が17号で終了した1972年から9年後のことだ。
チャレンジャーの爆発事故が1986年。コロンビアの空中分解が2003年。それ以来止まっていたスペースシャトルが、今回2年半ぶりに打ち上げられたのだ。今回が114回目の打ち上げだ。
アポロは17回の打ち上げで、死亡事故はない。地上での事故で3人が無くなっている。シャトルは繰り返し使えるために、それまでとは違い、基地に帰還する。使い捨てで無い分、何回も使うのだから方が来ることもあるのかも知れない。
いずれにしても、100回以上の打ち上げで、大きな事故が2回というのは、宇宙開発ということを考える上では、極端に多いわけではないと思う。もちろん、無事故であることは大切だが、飛行機だってあれほど事故に遭うのだ。ましてやより過酷な条件に晒される宇宙飛行は簡単にはいかないだろう。
ところで、アポロ計画は、どんなメリットがあったのだろう?そして、100回以上に及ぶシャトルのメリットは?
様々な科学実験や、見知らぬ場所の解明以外には、多分あまりメリットはないだろう。まして、大航海時代、多くの航海士が新たな大陸や土地を見つけ出したときと違って、その場所に一般人が簡単に行くことも叶わない。もちろん、シャトルないでの実験により開発された商品なども多数あるだろうが、実感としては、軍事的な目的などの方が大きかったのでは?などと疑いたくなるくらい、100回という飛行回数に比べて、「そんなに沢山飛んでいるのか?」という認識しかない人が多いだろう。
そこに山があるからだ、とは、イギリスの登山家ジョージ・マロリーの言葉だが、そこに宇宙がある限り、そこに夢を馳せ、行きたいと思う人間の欲求は、無くなりはしない。尤も、最初からそんなことはどうでもいい人の方が、実は多いのかも知れないが。
この世で何が有益で何が無駄かを測る尺度というのは、意外に難しい。食物を作らないと、人は食べ物がないと生きていけないから、どうしても必要であることは解るが、ディズニーランドの営業と、スペースシャトルの開発は、実は同じように大切なことなのだ。どちらもなくても生きては行けるが、生きるためだけに人間が生きているわけではないからだ。
沢山のお金をかけて、殺し合いをするよりは、その分を宇宙開発に向ければ、今頃人類は火星にも到達していたのではないか?人が宇宙に飛びだして既に50年が経とうとしている、月に行くまで10年くらいしかかかっていないのに、残りの40年で、スペースシャトルが100回の行ったり来たりをしただけだ。なんだか寂しさを感じる。
もちろん、月までの距離は38万キロ、火星は最も近くに来たときでも5000万キロ以上離れている。おいそれとは、月の次は火星という簡単な一段ではないことは確かだ。
人の命が大切なのは何よりもそうだが、時には命がけで宇宙への夢を求めていくのも人間だ。子供心に憧れた宇宙への気持ちは、お金や幾多の犠牲をもその中に含みつつ、どんどん前に進む科学への憧れだ。
アインシュタインが見つけ出した質量とエネルギーの等価則を、爆弾ではなく、宇宙開発などに有効に使っていこうという、人類全体の意識みたいなものっていうのは、やはり難しいのだろうな。
投稿者 keisuke : 科学 | 23:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月 4日
アップルの音楽配信
アップルが音楽配信を日本でも始めるという。ほとんどが1曲150円で、いくつかは200円だという。この後ナップスターも上陸し、こちらは月額定額制だそうだ。
100万曲が多いのか少ないのか、今の時点ではよく分からないが、ここでは、B'zが1曲200円で、全部買うと18800円だとある。94曲あることになる。B'zのアルバムは間違いなく10枚以上あるはずだから、全ての曲は置いてないと言うことなのか、全曲まとめ買いだと安いのか、このサイトを見ただけでは解らない。まあ、94曲で、CD1枚が10曲3000円と考えると、94曲は9枚程度に収まるので、CDを購入すると27000円くらいになる。B'zではなくて、海外のアーティストなどは、1枚2500円くらいだから、20000円くらいか。そう考えれば安いが、最近は1枚に16曲くらい平気で入れるから、94曲は約6枚。そうすると、2500円のCDでは15000円で購入できる。1曲150円で計算しても94曲で14100円。さほど安くない。
ジャケットやら、ハード(盤やケース)、流通コストを差し引くと、1曲150円はまだまだ高い。以前にホリエモンが言っていたように、100円程度にはならないとやはり値頃感はない。但しこれは、新曲のお話しではない。
著作権という問題があり、例えば3000円のCDが売れると、おおよそ著作権者には1割が著作権料として支払われる。但し、音楽の場合は複数制作に絡んでいるので、作曲家や作詞家、歌手などで分けることになる。1万枚のCDが売れれば、300万円の著作権相当額のお金が、著作権者にはいる。しかし、この10%というお金は、3000円を元とすると、前述のハード部分の製作料、流通コストなどを考えた場合、利益のうちのかなり大きな部分が著作権料になっている。
仮にこれをオンライン販売で考えるなら、流通やハードにお金がかからない分、著作権者には10%出はなく、より大きな割合の著作権料が払われるべきだ。そしてその著作権の額を元に計算すれば、恐らく1曲150円という価格は高いはずだ。
多分音楽配信で一番困っているのは、著作権者ではない。CDショップなどの流通機関だ。もちろん世の趨勢だし、CoolBizと言われればネクタイが売れなくなるのと同様、時にはやむを得ない潮流でもあろう。
ところで、音楽配信ではクラシックの曲なども扱うのだろうか?その場合、長時間のオペラなど、1曲150円で売るのかな?だったら買うけど。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 23:55 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月 3日
睡眠
なぜか最近、夜寝られない。
昨日も6時近くまで起きていた。そのせいか昼間眠いのは当然か。
睡眠のリズムというのは、恐らくあるのだろうが、日の出日の入りなどと言う、非常に自然なリズムと同期するのは難しいようだ。
人間に必要な睡眠時間というのはどのくらいなのだろう。もちろん人によって変わるので、一概に言えないが、よく昔、一日8時間睡眠なんていうことを言ったものだ。8時間眠ったとしても、残りは16時間ある。8時間仕事をしても8時間残る計算だ。もしかすると1日の三等分ということから出てきた時間なのかも知れないとさえ思える。
日の出とともに起きて日の入りとともに寝れば、1年をおしなべて見ると、一日の半分を寝ることになる。あるいは昔はそうだったのかも知れない。
ナポレオンが3時間しか寝なかったとしても、誰もがそれをできるはずもない。
よく、寝る暇があったら何々しろ、とか、少しくらい寝なくても大丈夫だ等という人がいるが、「あんたはそれで大丈夫かも知れない。自分の物差しで全て測るな」という気になる。物事は全てそうで、できる人間ができない人間の能力や努力を決めるべきではない。
睡眠には慣れというのがあって、寝なくても平気だと感じることもある。しかし、やはりどこかに負担が来るのだ。「眠る」という生体の不思議が存在する以上、そのことには重要な意味があって、おろそかにしてはいけない。
寝ている間に身体が勝手に行っていることを、起きている自分が規定したり制限してはいけないのだ。そういう意味で、人間は誰しも二重人格なのだ。眠っている自分の自律神経に感謝。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月 2日
イチゴ味の魚肉ソーセージ?
ニッスイが「いちごミルク」という名前の魚肉ソーセージを発売したそうだ。
「15種類の野菜と3種類の果物入りのおさかなのソーセージ」なんていうのもあるが、こちらは何となくサラダとか料理感覚で分からなくはない。だがイチゴミルクとなると、いくら子供が好きな味だと言われても、所詮は魚肉ソーセージだろう?という気がしないでもない。
他人の味覚にあれこれいうのはどうかな、とも思うが、イチゴミルクの後味を持った魚肉ソーセージなどが出てくると、なんだか昔のSFなどに出てくる未来の食べ物然として、不思議な気がする。
最近では、味覚障害ということが、よく言われている。これは本来の味覚感覚が損なわれた病気であるが、3食菓子しか食べない人とか、何でもマヨネーズをかけるとか、味覚障害と言うには大したことはないが、それでも普通と少し違う人は、結構多いに違いない。
イチゴミルク味の魚肉ソーセージは、味は普通の魚肉ソーセージらしいのだが、後味にイチゴが残るみたいなことが書いてあった。尚更気持ちが悪い。どうせなら味そのものもイチゴミルクなら、イチゴミルクを食べている気になるが。ただ、それでは何のたまのソーセージなのか解らないか。
いずれにしても、これからどんな食べ物が世の中に出てくるのか、楽しみな世の中だ。多分自分じゃこのソーセージは買わないな。15種類の野菜の方は食べてみたいが。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月 1日
マクドナルドの賃金不払い
という内容の記事が出ていたが、中身を読むと、毎日30分以下の残業を切り捨てていた分だという。
厚生労働省は、1ヶ月の残業時間の内、30分未満の切り捨ては認めているという。このマクドナルドと決まりの差は、毎日か1ヶ月かということになる。
20日間働いたとして、毎日10分間残業をしたとしよう。そうすると20日間で200分。3時間と20分だ。この場合、3時間は残業が付くと言うことだろうか。どうやらそうらしい。
私は会社を辞めて6年が経つが、サラリーマン時代、そういう残業代のもらい方をしたことがない。30分以下は毎日残業にならなかった。25分働いても0だし、35分働くと30分分が付いた。現在では35分は1時間分らしい。これにはアルバイトだとか、正社員だとかの区別もないようだ。基本的に労働者にとって非常に有利な決まりになっている。
前者はある意味当然だと、私は思う。かつて私は本社勤務の折、朝礼に出るために10数分早く出社していた。もちろん私だけではない。みんなだ。しかし、朝礼のために10分早くでなくてはいけないのなら、毎日その分の残業代をくれと、いつも思っていた。尤も、その朝礼が大嫌いだったこともそう思った理由の一つだが。
もちろん、この決まりは、ここ数年で決まったことなのだろうとは思うが、18年勤めたことを思うと、その端数の頂けなかった賃金は相当な金額になっていると思う。現在の経営者は、昔よりも大変なのだな、と思う。・・・・おっといけない、今は支払う立場だった。謹聴謹聴。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:25 | コメント (1) | トラックバック (0)