2005年7月31日
器用
高倉健が「不器用」というとかっこいいわけだが、器用、不器用という表現の中には、「抜け目がなく、要領よく立ち回る」という意味があり、そうでない場合でも、「器用」と言うことは、必ずしも人のメリットではないことが多かったりする。
器用貧乏なんていう言葉があったりして、本来であれば利点であるはずのことが、いいように使われたりする場合があることを示唆している。
そういう意味で、器用というのはなんだか非常に小手先の感じがある。
あるいは不器用という表現は、何かをできないことに対する生来の特質であるからやむを得ない的な、いいわけとして使うことも可能なわけだ。
うまくこなすという意味の「器用」というのは、つまり、生来持っている特質であるから、言ってみれば天賦の才なので、努力で培われたものではないから、それほど人前で自慢することもないだろうと言うこともあるのかも知れない。
ただ器用も、テレビチャンピオンくらいになると、「器用」という言葉の枠には当てはまらないようなこともあるようだ。つまり器用とは、やはり小手先の技能なのだろうか?あるいは世渡りのうまさを表す言葉としても、実力外というニュアンスがあるような気がする。
しかし実は器用であることは、実生活の様々な場面に於いて有用なことであるし、不器用であるよりは器用でありたい。
私は小学校1年の時に、お面を作るんだったか何かで、紙に穴を開けようとして、そのまま指まで切った。すぐに病院に連れて行かれたほどなので、深かったのだと思うし、いまだにその指がしびれることがあるのだから、やばい切れ方をしていたのだとも思う。それ以来というわけでもないとは思うが、自分で自分を器用だと思ったことがない。
私は20代の前半からパソコンをいじっていたし、30前後からはワープロを叩き、今ではパソコンを扱うことを生業にしている。だが、ブラインドタッチなどできないし、いわゆるホームポジションでキーボードを叩くこともできない。誤字脱字が多いのは、ワープロソフトのせいもあるし、それ以上にいいかげんさが災いしているのだが、ミスタッチによる不器用さの表れみたいな部分も非常に大きい。
ところが時々人から器用だと言われることがある。いったいどこが器用なのよ?と言いたいが、ある時期から、不器用に見せないコツみたいなことを少し解ったような気がする。できないことをできるように見せる、いわば「似非」なのだが、それも一つの処世かも知れない。
いわば高倉健が映画の中で持っていないと言い切り、それ故かっこいいところを、私は少しだけ持っている、要するにかっこわるい人間だと言うことなのかも知れない。
投稿者 keisuke : | 23:48 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月29日
美容整形
今日、夕方の日本テレビのニュースで、数人がテーブルを囲んで短い討論をするコーナーを見た。途中から見たのだが、テーマは美容整形についてだった。自ら頑迷固陋という、よく日テレでニュースの解説をしている男性が反対派で、美容整形会社の女社長とバトッていた。月収1億円(見間違いかな?)の美容整形の院長が「ヒューマニズム」などという言葉を使うのが、どうも許せないらしかった。確かにその院長の「患者様」という表現には、自ら使うのが嫌だと言っていた「お客様」という臭いがぷんぷんしていた。
確かに美容整形は保険適用外なので、お金がかかる。
しかし、「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」という孔子の言葉を評論家の宮崎氏に引用させて、これを整形に反対する論拠の一つにしようとするに到っては、そもそも美容整形に関して論議する場にいるのもどうかと思う。私などには親父の繰り言にしか見えなかった。
美容整形に対する日本人の(他の国のことはよく知らない)拒否反応の多くは、この例にあるような、どちらかと言えば儒教的なものの考え方が根底にあるような気がする。いわば、親からもらった身体に傷を付けるなとか、極端なことになると、自分に誇りを持てとか、人間は内面だとか、そもそも人間の価値うんうんという問題にまでその話題を広げてしまう。
特に女性が美容整形に向かうのを否定するのは、「身だしなみ」とか言って化粧を許容乃至は進めるような社会がしてはいけないことだ。化粧もせず、人はすっぴんが一番!そういいきれるなら、その延長線上で美容整形を否定しても構わないだろう。
人間が内面だという発言の裏には、美人はお高くとまっているとか、きれいな花にはとげがあるとかの、とりわけステレオタイプな物の見方がある。
人間は、職業によって貴賎をしてきた歴史の流れの中で、ひどい差別を生み、今ではそれが多くの言葉をこの世から抹殺することでしかそれを是正することが出いなくなっている(いや、これは勢いで言い切っているだけだが)。しかし、平気で女をブスだといい、禿、デブ、ちび・・・いくらでも見かけで人を罵倒する言葉があり、時にそれは非常に差別的でさえある。
現実問題としてそのことで真剣に悩み、気持ちが歪んでしまっている人だって沢山いる。そこまで行かなくてもストレスを溜めている人は間違いなく多くいるのだ。
多くの子供が、歯列矯正を受けている。これはもちろん健康面でも意味があることだが、受ける側の多くは見栄えのために他ならない。
犯人が容貌を変えて逃亡する等というのは、そもそも問題が違う。
人が人生をよりよいものにするために、選んだ一つの道が美容整形であっても、いったいそれがなんだというのだろう?全く問題ない。
問題なのは、ろくな技術も無しに看板を上げることが可能な現状であり、とてつもなく高額な費用が、時にかかるという現状の方だ。
人類が病から解放され、永遠の若さを、肉体改造やDNAの調整によってできるようになるような、そんなバラ色の未来のために乾杯だ!
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月28日
過呼吸
知り合いが過呼吸になった。初めてだったし、ごく近しい知り合いでもあるので、息苦しいという連絡をもらったときに非常に心配になった。
私は、発作性の頻脈という症状を持っており、1年〜2年に1回、急激に脈拍が早くなる。看護婦が手首で計れないくらいの速度になるのだ。放っておいて治ることもあるが、一晩入院することもある。その際に、走った後のような息苦しさを覚える。
過呼吸というのは、発作的に息苦しくなり、その結果血中の二酸化炭素濃度が低くなってアルカローシス状態になることを言うらしい。事典を見ると、
「心因以外にとくに原因となる器質的疾患がなく、発作性に呼吸困難、過呼吸状態を生じ、それに伴い多彩かつ一見重篤そうな臨床症状を示す疾患で、過呼吸症候群ともいう。心身症的色彩が強く、ときに呼吸器、循環器疾患に合併して発症することもある。発作は、激しい運動、疲労、疼痛(とうつう)、不安、興奮、緊張など、心身のストレスにより誘発される。一般に若年者に多く、女性は男性の約2倍で、とくに25歳以下の精神の不安定な女性に多くみられる」
と言うことだ。この一見重篤そうなと言うのは、話を聞くと頷ける。私に電話をしてきたときはそうでもなかったようだが、救急車を呼べという言葉に従って、119に電話した辺りから、かなりしんどくなったらしい。電話のボタンが正しく押せなかったり、説明する言葉のろれつが回っていなかったり、顔色を見た人の話では、絶対に入院すると思ったようだし、「チアノーゼ」と言われたという。チアノーゼは過呼吸とは逆に、酸欠などで起こる状態だろう。顔色が真っ白だったらしい。
それでも不思議なもので、回復し出すと徐々に安定し、平生に戻るのだそうだ。
過呼吸に悩む人の話を昔テレビで見たことがある。袋などを用意して、過呼吸になったときにその中で息をする。人間の呼気には二酸化炭素が含まれているわけだから、当然その中の空気を吸えば、二酸化炭素濃度が上がり、バランスが安定すると言うことだ。
人間にとって必要不可欠な酸素だが、空気中には20%程しか含まれていない。残りのほとんどは窒素だし、そのわずかなバランスの酸素中に生きている人間だから、多すぎてもいけないと言うことかも知れない。酸素は、元々多くの物質と反応するらしいが、特に不安定になって反応しやすくなった状態の酸素を活性酸素といい、人間にとって有害な物質となる。酸素というのも表裏一体、この世の縮図のような物質である。
いずれにしても事なきを得て、帰ってきたらしいが、人間の身体というのは、様々な不思議とを抱えた精密な機械のようなものなのだと思う。
フジテレビの「アンビリーバボー」に、人間の身体が透視できるロシア人の女性が出ていた。
否定派と名乗る3人の専門外の人間が難癖を付け、それを覆すという流れだったが、信じる信じないはともかくとして、この世には不思議なことが、まだまだたくさんあるのだ。
私などにとっては、身体を透視できる不思議と、過呼吸を起こす不思議が、それほど違わない不思議として移るのだ。違うのは、片や医学的にある程度解明されており、片や証明されていないと言うだけで、不思議の度合いは変わらない。
とにかく今日は、大過なく済んだことが感謝の一日である。
投稿者 keisuke : 科学 | 23:39 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年7月27日
神はいるか?
今夜、どこかのテレビ局で、神はいると思うか?というようなテーマで、世の中の奇跡的な事件などを取り上げて、番組をやっていた。ちゃんと見たわけではないが、20年後に木に埋まった弾丸が復讐を果たしたというのと、9.11の時に、奇跡的に助かった盲目の男性の話の部分を見た。
最初のは(実はこれも途中から見たのだが)、妹をたぶらかした男を銃で撃った兄が、人殺しを悔やんで自殺した。ところが銃弾は頭をかすめ、外れていた。男は死んではいなかったのだ。この男はそれからも悪いことをしたが、20年後、その事件があった場所にある木を切り倒そうとした男が、なかなか切り倒せないことに業を煮やして、木を爆破した。しかし爆発を離れた所から見ていた男に、20年前の事件の時に外れて木にめり込んでいた弾丸が、爆発の衝撃で飛んできて、男の額を打ち抜いた。20年後の復讐完遂というお話しだ。
次のは、9.11の同時爆破テロの時に、貿易センタービルの78階にいた一人の目の不自由な男が、盲導犬に惹かれるままに階下へ降り、助かったというお話しだった。ビル崩落の1分前に1階に着いた男は、レスキュー隊のビルの中央に行けという指示を聞きながらも、盲導犬が引くままに外に逃げ、崩落から一命を取り留めたと言うことだった。この話は神と言うより、犬の素晴らしさを物語る逸話だが。
恐らくこれ以外にも、いわゆる奇跡的な話が幾つも語られたに違いない。それらの、いわば「奇跡的」という日常的には起こりえないような不思議な体験や事実をもってして、「神」の存在を信じるか否か?というどちらかというとお遊び的な発想の番組だ。本気で神の存在がどうのということではない。
神というのは「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの(広辞苑)」だ。英語ではGod。ただ西洋で言う神は、多くの場合キリスト教の神を指すことが多いし、それはそれぞれの宗教によって、特定の「それ(人ではないので)」や「それら」を指すわけだ。
日本にも古来から八百万と言われる神がいる。これらはむしろアニミズム的な神の形態だ。しかも仏教神話やヒンズー教の神話、あるいは中国由来の物まで、多種多様だ。キリスト教とイスラム教、ユダヤ教が唯一神を祀る世界的な宗教だが、キリスト教の三位一体というのはどうも私から見ると怪しい。怪しいというのは否定的な意味ではなく、神とイエスと精霊みたいな、幾つもいるのに実は一つだみたいな表現に怪しさを感じる。
尤も、面白いもので、日本人が神と聞いたとき、実は多くの人が思い浮かべるのは神道の神々ではなく、キリスト教の神だ。これは、お昼の顔と言ったら誰でしょう?という質問に、「タモリ」とは答えても、あまり多くの人が大和田貘とは言わないというのと似ていて、実は有名だからに過ぎない。言い換えれば、キリスト教が世界宗教であり、イスラム教と世界を二分しているからだ。もう一つの仏教は、信者数で言えば残りの2つに比べると少ないし、そもそも仏教には宗教であると同時に、非常に哲学的な側面があり、見方によっては仏陀による思想として、孔子などに近いとも取ることができるように思う。
さて、「神はいるか?」という質問は、実は冒頭のテレビなどでは、人知を超越して、我々の人生に関与する絶対的存在はいるのかいないのか?という質問に他ならないし、そういう意味では、「神はいるか?」という質問は非常に難しく、多くの人が答えられるのは、「神はいると思うか」までで、だからこそ神は信仰の対象なのだ。
鰯の頭も信心からという言葉にもあるように、信じるところから何かが生まれると考えるのが宗教であり、信心なのだ。そういう意味では、神は確かに存在するので、それは物理的な証明など必要がないし、物理的な証明を拒む存在であるかも知れない。
だが、裏を返せば、前出の奇跡も、奇跡的偶然という非常に便利な言葉で解決できる。
偶然と、運命と、神の御業は、私が辞書を作れば、同じ意味を書いてしまいそうな気がする。時間軸に連なって、結果から原因を究明するときの解釈の違いによって使い分けられる表現というように。必然という言葉も足してもいいかもしれない。
いや、だからといって私が神の存在に否定的なわけではない。
たとえマリア様が血の涙を流そうとも、それ自体が神の存在の証拠にならないように、これまで見聞きしたことでは神の存在をいるともいないとも判断できかねると言うことだ。
それに、ユダヤ教の神を信じれば、イエスやアラーも神ではなくなる。・・・元々イエスは神ではないと思うが、菅原道真や徳川家康だって神になるし、靖国神社には相当数の神様もいるらしいので、その辺りの何が神で何がそうではないかなどと言うことはともかくとして、我々がこの世に生きる不思議を何物かがその意志によって招来させたかどうか、あるいはその存在が、我々の人生や世界に関与しているかどうか、と言ったことに関しては、時々関与しているように見えることもあるが、そうでないことの方が多い。
聖書にあるように、神が「怒れる神」だったり、非常に人間的特質を持っているようなら、人々の間に争いが絶えないことも、頷ける。しかし、愛と平和を愛し、この世に幸せをもたらすような、全てが善の固まりのようなものが神だとすれば、到底この世に神は存在するとは思えない。
だからこそ、もっと自助努力せよと言うような仏教的世界観の方が、この世を救ってくれそうに思えるのだ。
神の存在の有無というのは、所詮答えのでない難問だが、恐らく信じることはできる。信じる者は救われる。あるいはそんな言葉が真実の一端を示しているのかも知れない。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:31 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月26日
台風
台風7号は房総半島には上陸したものの、それほど大きな被害を与えずに、北東に逸れていった。
場所によっては相当な大雨も降ったようだし、本州の南に位置する島々では、被害もあったようだ。直撃していたらどの程度の被害だったか解らないが、意外に早く暴風圏もなくなっていたので、それほどではなかったかも知れない。
人間の生活は、この地球という星にあって、現在まで様々な形で発展してきた。地上何十階ものビルを沢山建て、空も飛び、家にいながら世界中の人とも会話ができる。宇宙にも行った。
それでも一度台風が来ると、沢山の列車は運休し、当然飛行機も欠航する。それほど堅固など台の上に生活しているわけではないのだ。むしろ自然の猛威の下では脆弱とさえ言えるのかも知れない。台風や地震などで、毎年何人もが命を落としている。
関東、特に東京周辺は、比較的台風被害の少ないところだ。西日本に比べると、台風が直撃する数自体が少ないから当然と言えば当然だが。恐らく今日の台風など、ニュースで報道しているほどには深刻な人はいなかっただろうし、むしろ会社も早く帰れてラッキーだったに違いない。ディズニーランドも盛況だったようだ。本当に直撃していたら、屋外のアトラクションは皆止まっていたに違いないが、むしろこういう日の方が空いているに違いないと、行った人もいるようだ。
荒い波だからこそ、サーファーは海に出る。
だが待てよ、今日は確かに大したことはなかった。だが毎年そんな感じで、海で行方不明になったり、川で亡くなったり、多くの犠牲も出ている。予測不能なことならともかく、ある程度予測の範囲で、それほどのことがなければ良かったとすればいいところだが、実際には、危険といわれているところで事故に遭う人は少なくない。
実際今日も、ヨットで一時期行方不明になった人がいた。私はヨットに乗らないのでよく分からないが、台風が近づいているのに海にこぎ出すことが果たして必要なのだろうか?
湘南では、遊泳禁止の場所で、「泳いでいるわけではないから」と、平然と嘯くサーファーもテレビに映っていた。
実際に事故にあってはいないからいいが、時には救助に行った人を巻き込むケースだってあるのだ。
危機管理意識ということに関しては、多分私もほとんどできていない。しかし年を追う毎に臆病になったことが、ある意味危機管理に一役買っている部分もある。君子危うきに近寄らずみたいな感覚が、何となくある。
せめて、台風の時に、海にこぎ出すとか、サーフィンや泳ぎに繰り出すとかは、理性で止めて欲しいものだ。
地震の後の台風だけに、もう少し世の中の人は敏感になってもいいような気もするが、目の前で暴風雨が起こらないと、やはりディズニーランドの魅力には敵わないのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月25日
世界水泳
今、夜中に世界水泳をやっている。柴田亜衣が女子の400メートル自由形で銀メダルを取った。
泳げない私にとっては、見ているだけでもすごいことだ。
だが見ていて思うのは、本番に強い人、本番に弱い人というのがいるのだな、と言うことも思う。
かつて岩崎恭子がオリンピックで金メダルを取ったとき、日本代表で出ているとはいえ、金メダルを取ると思っていた人はそれほど多くないに違いない。北島康介のように、やると言ってやることもすごいが、なかなか世界大会で実力を出せない人がいるのも確かだ。
アテネオリンピックでの山田沙知子などは、当時世界ランク1位だったし、彼女は日本記録なども持っているが、なかなか実力を出すことができない。
言い訳のように聞こえるかも知れないが、いつもと違う場所に行ったときに、緊張とは違う違和感で、なんとなく普段と同じことができないことがある。自分自身がよくそういうことを経験している。私の場合は、実力不足が原因であることは否めないが、その時の最大限が出せるかどうかと言うのは、トータルの実力がどうかということではなく、「運」という言葉を使いたくなるほど、上手くいかないことがある。
この世のことは全て不公平な部分から成り立っているので、水泳選手を目指すとすれば、全く同じ食生活、同じ練習量でも、結果はどこかで歴然と出るのだ。もちろん、だからこそ競争の意味があるので、勝つために努力しているわけだ。
この不公平というのは、最初から解っている部分と、最後まで解らない部分がある。であれば、努力も意味を持つわけだ。
全ての選手に、応援してくれる仲間や家族がいるのだ。少しでもいい成績、そして満足のいく泳ぎをして欲しいな、と思う。
投稿者 keisuke : スポーツ | 23:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月24日
夏風邪
夏風邪はバカが引くらしい。ちょっとバカの仲間入りをした。
夏風邪は英語でも「summer cold」というらしい。冬の風邪とは区別しているのだ。どうやらそれはエンテロウイルスというウイルスによるものが多いらしい。これは人の腸内に生息するウイルスらしい。下痢なども起こすことがあるという。
辞書を見ると、「夏風邪は治りにくい」なんていう文例が出ていた。あ、これは英語の辞書の話。
夏というのは暑いので、風邪を引いても涼しいところにいたくなる。尚更治りにくいとも思う。
そもそも風邪というのは感冒の総称で、症状はいろいろだ。今回は、くしゃみに始まり、熱と鼻水、喉の痛み、まさに風邪の諸症状だ。しかし、軽くて済んだので、薬は飲んでいるが、ほぼ治っている。
そもそもなった原因は分かっている。いわゆる冷房病だ。・・・・ちょっと寒いな・・・・でも止めると暑いしな。この感覚で寒い方を我慢した結果だ。・・・いや、やはりバカが引くというのは当たっているかも知れない。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:43 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年7月23日
チャンネル
チャンネルというのは元々通路とか水路という意味で、発音は最近よく言われる「チャネル」に近く、「チャンル」により近い。電波の通り道として、テレビのチャンネルという意味が出てきたらしい。火星の模様が、Channelをcanalと間違えて運河があるということになったというようなことをどこかで読んだ気がする。川のような筋があると言ったのが運河があるということで、知的生命がいるのでは、という風に誤解されたらしい。
ところでテレビのチャンネルは、子供の頃には1・3・4・6・8・10・12とあったように思う。全部で7チャンネルだったわけだ。10チャンネルをNET、12チャンネルを東京12チャンネルと呼んでいた頃の話だ。私は埼玉に住んでいたので、実際には見ることはできなかったのだが、テレビ埼玉が確か14チャンネルくらいで増えたように記憶している。いわゆるUHFだ。テレビ神奈川とかもそうだ。
旅行に行ったりすると、地方のチャンネル数の少なさに驚いたものだった。これは電波の到達距離に関連しているわけだ。電波は、その波長が短いほど遠くまで進むらしく、昔は短波放送というので海外のラジオも聴けた。電波は電磁波の一種で、光と、いわば同じ種類で、だから光と同じ速度で進む。1秒間に30万キロ進むわけだ。それでも太陽まで8分以上かかる、この世で一番速いのだが。
最近では、そこにBS、CS、等が加わり、チャンネル数は相当多い。ケーブルテレビで受信できるそのほとんどは、CSのチャンネルだが、BSやCSは衛星を経由して自宅に届くから、その衛星からの電波を捉えられれば、地方間の格差はないわけだ。有料のチャンネルを加えると、100くらいはあるのではないだろうか?
リモコンでは12まで大概ボタンがあり、これは12チャンネルまであった時代の名残なわけだ。なぜなら今では12では到底足らないからだ。これだけ多チャンネル時代にあって、巨人戦の視聴率が低迷している等というのは、実は当たり前のことのように思える。
家族用に携帯を1台追加した。ボーダフォンの家族定額通話に惹かれたからだが、その1台がテレビやラジオを受信できる。ただ、テレビの映りは最悪で、到底見る気にはならないし、FMの音質も良くない。なんだか余計な機能にも思えるが、実は旅先などで役立つような気もしている。ただ、何でもかんでも電話に付属してればいいと言うわけではなく、逆に何か他の物に電話の機能が付いていればいいのかな?なんていう風にも思わないわけではない。
これだけチャンネルが多くて、そんなに皆さんテレビ見ているのだろうか?今年はヤクルト主催ゲームをフジが有料チャンネルで独占しているので見ることができないため、野球もあまり見ていない。以前、WOWOWも契約していたが、全く見ないので解約した。何となくチャンネルが増えるとありがたいような気もしていたが、所詮見ないのでは、あまり意味がない。
どれほど有意義な使い方ができるか、と考えてもなかなか無いものだ。
これは例えば、DVDが発売になったので購入したはいいが、なかなか見ないというのと似ている。あらゆる無駄が無用ではないが、テレビに関しては、オンデマンドが主流になってくれば、いずれは淘汰されていくに違いない。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月22日
ウォシュレット
引っ越しをするのだが、家を探すとき、いろいろな条件があると思う。駅から近くて、広くて新築で安くて、隣に可愛い女性が住んでいるとか。
問題はこれまで、隣に住んでいる人の顔を全く、どこのマンションやアパートでも知らないで次の所へ移ってきたということだが、それはともかく、水回りというのは案外大切だ。
キッチン、風呂、トイレ、洗面。
昔、ワンルームだった頃は、いわゆるユニット式でトイレと風呂が一緒と言うところにも済んだが、考えてみると、20年ほどの一人暮らしの中で、そういうユニットは6年1カ所だけだった。後はいつでも風呂とトイレは別だった。尤も最初に住んだアパートは、シャワーもなく、追い炊きもない、しかも床はコンクリート打ちっ放しの風呂で、あまりいい想い出はない。そこはトレも和式だった。
風呂は今のところが一番よく、広くて便利だ。トイレもそうだし、キッチンに到っては食器乾燥機まで付いていた。特殊な形態の賃貸なのでそういう利点はあったが、一般的にマンションなどを探しても、賃貸ではなかなか思うような物件は見つかりにくいだろう。
最近では、部屋はともかく、風呂とトイレはしっかりしているところを探したいと思うようになった。
風呂はくつろげるし、トイレも毎日使うところだ。
一人なので追い炊きができる必要はほとんど無いが、自動給湯式だと言うことはない。最近はリフォームなどで、結構水回りを気に掛けてくれる大家さんも増えてきているようなので、これはうまくすれば探せるかも知れない。
トイレは今時和式というのは、都内の賃貸では、あまりないと思うが、ウォシュレット付きとなるとなかなかないものだ。今のところは、便座ウォーマーというのか、冬場に暖める機能が付いているが、ウォシュレットはない。
快適さをどの辺りに求めていくかと言うことと、家賃などとの折り合いは難しいが、まあ自分なりに条件として考えている。
いや実は、そんなことよりインターネットの回線がどうなるかの方が100倍も重要なのだが。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月21日
夏休み
東京周辺の小中学校はほとんど今日から夏休みだ。
7月の下旬から約40日間の夏休みというと、始まる前は長そうに思うが、意外に早く過ぎてゆく。宿題などもあり、早く終わらせようと目論んで失敗した人も多いのではないだろうか。私などは最初から早くやることを無理だと思って、いいかげんに取り組み、いつだったか親父に相当怒られたことを記憶している。
今の子供たちはしないのかも知れないが、私が小学生の時は、7月中はラジオ体操だということで、毎日早起きさせられた。カードにはんこをもらうのだ。
この夏休み、いったい何のためにあるのだろうか?
事典によれば、「高温多湿な時期に、児童・生徒を正規の授業から解放し、その心身に休養を与えるために設けられている。」と言うことだそうだ。まあ、暑いから休もうと言うことだろう。暑いと何かと効率も落ちるし。であれば、夏休みの中途半端な宿題もいらないような気がする。
高校時代に(これは友人などにはよく話すので今更の話なのだが)、夏目漱石の「こころ」の読書感想文という宿題が出た。私は読まずに、読まなかった理由を作文にして出した。その時の先生は、その作文に対して点数をくれた。今でも感謝している。
私は多分「こころ」を読みたくなかったし、めんどくさかったというのが最大の理由だが、その頃から「文部省推薦」とか、学校のお仕着せの推薦図書と名が付くと、それだけで読みたくなかったのを覚えている。
読書感想文というのは、本を読んで感想を書くわけで、その意味は分からないではない。勉学としても意味があろう。だが私は、少なくともその課題図書という考え方に反発してきた一人だ。好きな本を読んで感想文を書けで十分だと思う。たとえそれが漫画でも、感想文は文章を書くわけで、目的は達せられる。読解力という意味なら、漫画にだってそれは必要だ。漫画でなくても、好きな小説やエッセイでもいい、取り敢えず興味のあるものを読ませた方が、よっぽど読書は好きになる。
その上で、読みたい本がなかったら、この中から選べということで参考図書を呈示してやるといい。
私が大嫌いだった読書を好きになったのは、友人がSFを貸してくれたからだ。あれがなければ、長い間私は読書嫌いだったと思うし、こんな文章も書いてはいない。むしろ、小学校の国語ほど辟易するものはなかった。
今年も全国で夏休みを謳歌する子供達が沢山いるのだろうが、私の頃よりも、塾だ予備校だと、きっと大変なんだろうなと思う。子供に自由に遊ばせろとも思わないが、せっかく学校に行っているときにしか味わえない長期の休みだ。楽しく過ごしてもらいたいものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月20日
梅雨明け
東京は一昨日梅雨明けをしたわけだが、何となく夏らしくない天気が続く。
記憶だと、梅雨明けは激しい雷雨とともに訪れ、それ以降は、いわゆる夏らしい濃い青空と照りつける太陽といったイメージなのだが、梅雨明けの発表があった日だけで、昨日も今日も曇りがちだ。
昨年は台風の当たり年で、夏から秋にかけて被害が続出した。この当たり年という表現、実は台風などに使うのは本来的な意味に於いては違うらしいが、今では普通に使うので、そういう意味になったと言うことだろう。
今年の夏は去年のようなことはないと、どこかの天気予報で言っていたが、来週初めにも、関東を台風が直撃するかも知れないという予報も、先ほどのテレ朝の天気予報では言っていた。
異常気象という表現は、正常な気象に対する対語だが、では何を以て正常な気象というかというと非常に曖昧だ。例えば東京では、50年、100年前というと、かなり雪も降ったりしたらしいが、ここ最近は、大雪と言ってもたかが知れている。それは今年急にそうなったわけではなく、少しずつ変化してきたわけで、その原因がフロンガスやら二酸化炭素の急上昇による地球温暖化の影響だとしても、そういう意味ではそれほど異常なことではないように思える。なるべくしてなったと言うことになるわけだからだ。
確かに、長い地球の歴史の気候変化に比べて、最近の気候の変動は異様に急速なのかも知れない。しかしそれは、人間が文明を発達させてきた速度と比例しているかも知れないし、ことさら不思議なことではない。
人類はどんどん数が増え、森林はどんどん減り、様々なこれまで自然界では少なかったガスや化学物質を放出してきたツケが、来ているとすれば、それが気候に影響を及ぼすのは自然の成り行きだし、あたかもここ数年だけ「異常」であるかのような表現はおかしなことだ。
もちろん、人類がより長くこの地球で繁栄していくためには、そのままでいいわけはないが、アメリカなどは、いまだにそんな未来のことよりも、目先の経済活動を優先しようとしているわけで、実はそういうことの積み重ねが現代社会を作り上げてきたわけだから、悲しいかな、人類全体の未来はそれほど明るくはないようにも思える。
しかし、70年代の日本は、例えば東京湾でもヘドロがたまり、工業廃水などで川や土地、空気も汚染され、ゴジラシリーズは「ヘドラ」と闘ったりしていた。郊外は先行きを暗く予測させ、世界的には冷戦構造の中で、核戦争の脅威もそれほど非現実的なことではなかった。
現代でも、よくテレビでは地方で産廃業者が不法投棄したゴミの山や、一般の人たちでも無造作にゴミを捨てることで、有害なガスを発生させたりしている様子を放映したりしている。しかし、東京湾も今では相当きれいになり、かつて公害に汚染されていた川や空気も、この30年で、かなりきれいになってきた。やればできるわけだ。
今アスベストが問題になっているが、昔は石綿金網なんていうのもあった。石綿は有害だが、石綿に代替え品がない物もあるという。だが無くなれば人類は代替え品を用意するものだ。これほど問題になる前に、何度か規制することができたはずだ。石綿に限らずきっと、いろんな危ない物質があって、それが企業や業界の経済的理屈で容認されたりしていることが他にもきっとあるはずだ。全てを洗い出して、人類が未来に憂いを少しでも少なくするために努力していくことは、今を生きる我々の義務だとも思うのだが。
なんだかはっきりしない梅雨明けは、はっきりしない人類と地球の未来への、ささやかな自然の警鐘のようにも思えてくるではないか。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月19日
NEWSの飲酒
NEWSのメンバーが酒を飲んで、仙台の公園で騒ぎ、補導されたというニュースで、このNEWSのメンバーは無期限謹慎で、彼を誘って一緒に飲んでいたフジテレビの菊間アナウンサーなどが言及などの処分になったという。菊間アナなどの処分は、元々1週間だったものが、批判の電話などで重くなったようだ。
国家公安委員長が、「児童の自立支援施設などによると、少年の万引きを『大したことがない』などと受け止める親が多いという。こうした対応が、少年非行や少年犯罪を助長する」などと言ったらしい。
そもそも、未成年の飲酒がなぜいけないかと言えば、法律で決まっているからで、それ以上ではない。酒を飲んで騒ぐのは、未成年であろうと大人であろうと迷惑なことだ。少年の万引きを大したことはないと考える大人がいることは嘆かわしいことで、大人であろうと子供であろうと万引きは万引き。窃盗に過ぎない。飲酒と窃盗を同列にすることが、そもそも万引きを飲酒程度に引き下げている。
この世の中で、飲酒をした未成年を全部補導したら大変なことになる。私は大学に入った年から酒は飲んでいるが、当時は当たり前のように大学生は飲んでいた。もちろん酒など好みなので、無理矢理飲ませるなどと言うのは言語道断だが、恐らく、最近ではもっと若年化が進んでいるだろう。
酒など飲み方が全てで、世の大人の非常に多くが、飲み方を失敗していて、場合によってはより犯罪的だ。
先日も高校生が酒を飲んで運転した車で事故を起こした。危険運転致死罪はできたが、なかなか適用されないことも多く、業務上過失致死などで済んでいることがあるらしい。そもそも酒を飲んで事故を死亡起こした段階で、一律20年とか、日本にはまだ無いが終身刑とか、そのくらい重くてもいい。
子供に酒の規制をかける前に、大人にかけろと言いたい。
もちろん、菊間アナなど、名前の知れた人は、ある意味やむを得ない部分がある。有名人である分、より行動には気をつけなくてはいけないからだ。だが今回の場合、おそらくはNEWSのファンが、悪いのは彼ではなく、誘ったアナウンサー達だろうというファン心理で、苦情を言ってきたのがほとんどに違いない。この少年は18歳だというが、自分で判断できる年齢だし、責任は十分にある。彼もまた有名なるが故のやむを得ぬ仕儀だろう。
煙草もそうだし酒もそうだが、世の大人達よ、未成年のうちはやっていなかった人はどれほどいるのか?
「汝らのうち罪なき者、石もて打て」なんていう聖書の言葉を思い出してしまったりする。
飲酒そのものは、どうも私にはたとえ子供でもあまり「罪」には思えない。いかんかなあ?
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:18 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年7月18日
小川範子
小川範子がTBSの社員と婚約したという。31歳で、相手は53歳だという。小川範子の紹介には女優とあり、確かに「はぐれ刑事」とかにずっと出ていたり、彼女は女優だが、個人的にはアイドル歌手何だなあこれが。
小川範子のデビューは「涙を束ねて」で、まだレコードだった。東芝のレーベルトーラスから結構沢山シングルもアルバムも出している。
歌は決して上手くなかったが、ちょっとハスキーで、切なさの残る独特の声で、いい曲を何曲も出していた。尤も、あまり多くの人が覚えていないだろう。大ヒットはなかったし、アイドル全盛時代は過ぎていたから。
今聴いても自分の中学生の頃を思い出せるような、そんな雰囲気の歌だった。清純とかいうのではなく、どちらかというと背伸びをした女の子の一途な思いみたいな内容の曲が多かったように思う。
別に、ファンクラブに入っていたわけでもないし、もっと言えばファンだったかどうかも怪しいが、アルバムは何枚か持っている。
アイドルの曲というのはその時代の、それなりのレコードメーカーの稼ぎ頭みたいな頃もあったから、作詞家も作曲家も、かなりリキを入れて曲を書いている。意外にいい曲が多かったりするのだ。今では名前もよく思い出せないような歌手の曲が、結構面白かったりする。
時代の中に埋没している名曲は探せばいくらでもある。出せばいつでも売れるアーティストの曲が、何でもいいというわけではないのだ。
まあ、小川範子さん、幸せにと言うことだな。
それにしても22歳差か。勇気づけられる年齢差だな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月17日
風呂
風呂は気持ちがいい。しかし現代のように風呂が必ず家にあるようになり始めたのは昭和30年代頃からのようだ。それまでは銭湯が主だった。
そもそも風呂が歴史に表れるのはいつ頃なのだろう。事典を調べると、古代ギリシアやローマに遡る。ローマの公衆浴場は有名だが、文献によれば、伝説に、風呂場での殺人というシーンがあるという。ただ、実際に浴室が考古学的に確認されているのは紀元前5世紀だという。これらの浴槽はお湯を溜めて入るような浴槽だ。
日本では、奈良時代頃らしい。一口に風呂と言うが、蒸し風呂と入湯式で違うが、風呂という表現が後者にも当てられるようになったのは、江戸時代後期かららしく、それまでは風呂と言えば、蒸し風呂式だったようだ。湯に直接はいるのは湯屋、湯殿と言ったらしい。時代劇を見ると、時折湯殿という表現が出るのでそれほど縁遠い言葉ではない。
尤も、お湯に入る入浴は間違いなく温泉に入るということがその前にあると思うし、それは猿やカピバラだって入るわけだから、人間は尚更だ。温泉が気持ちいいから風呂ができたに違いない。温浴と水浴では大分感覚が違う。夏の暑いとき以外は、水に入るというのは、よっぽどのことがなければしないと思うが(泳ぐとかは別にして)、温泉はあまり季節には関係ない。夏場でも気持ちよく汗を流せるからだ。
しかし温泉は、温泉が湧く場所までいかなくては入れない。家で温泉を模倣しようと思えば、湯を沸かしてはいるしかない。
現在ではボタン一つで適当な湯量で湯が張れたりするし、自動で保温もしてくれる。至れり尽くせりだが、そのうちエアコンではないが、自動洗浄風呂とか、世界のどこにいても入りたい温泉の湯が調達できたり、そんな夢のようなことも実現するかも知れない。
風呂の温度というのは大体何度くらいのものだろう?私は42度くらいで入っているが、草津温泉などはもっと高いだろう。あまり熱いお湯にはいるのは良くないだろうし、以前箱根で湯あたりし、夕食がろくに食べられなくなってしまったことがあった。
風呂の入り方というのも、なかなか大変なものだ。
風呂で溺れる人もいるそうだから、寝るのも厳禁だ。しかし、疲れたときに適度な温度のお湯に浸かると眠くなるのも事実だ。
私は風呂に浸かって読書をするのが好きだが、冬場はともかく、夏場は難しい。そう長時間入っていられないからだ。しかし、意外にこの読書方法は、スムーズに読める。はかどるのだ。しかも普段読まないようなものが読めるのでありがたい。
こう考えると風呂というのは、単に身体を洗う、リラックスする以外にも効用があるようだ。きっと思わぬ発想が風呂から生まれるのだろう。アルキメデスの原理も風呂から生まれたのは有名な話だ。・・・おっと、やはりギリシア人は風呂に入っていたのだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:04 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年7月16日
ゲーム
ゲームと言えば、今ではPS2、セガサターンやドリームキャスト、ゲームキューブ等というのもあるが、私のように何も持っていない人間は、ぱっと思い浮かべたときにPS2となってしまう。
消費者からすれば、あらゆるゲームがどの機種でもできるようなフォーマットが望ましいのだが、ゲームはそうはいかないようだ。VHSとβマックスの時代から、企業は己の規格を中心にしようとすることで、勝とうとしてきた。
面白いと思うのは、ベータは業界などでは相当使われていたが、一般的にはVHSが圧勝していた。アップル社のマックも、iMacなどで巻き返しを図ったが、Windowsを搭載する他のパソコンには勝つことができなかった。このMacはデザインや絵を描く人、あるいは芸能人と言った特殊な世界では非常にユーザー素も多い。
プロフェッショナルなものは大衆にはあまり受け入れられないのだろうか?
Adobe社のプロユースの高いソフト、illustratorやPhotoshopなどはWindowsの世界でも今では幅をきかせているが、普通の人には難しいし、非常に高性能なパソコンを結果的に要求するソフトだ。いずれは淘汰され、他のソフトに変わることもあるかも知れないが、そもそも目的がアーティスティックなところにあるので、この分野は難しいかも知れない。photopaintなどは失敗している。
さて、そういう視点で言うと、パソコンゲームという実はゲーム以外のことを目的として作られた機械でのゲームと、プレイステーションのような専用機では、やはり、単純で判りやすいゲーム機の方に分があるのだろう。
ところで、かつてPC8000などという番号が付けられたNECのパソコンは、かなりゲームに阿ったパソコンだったような気がする。ビジネスよりもむしろ、面白いゲームができることで、売上を伸ばしていた。MSXなども、パソコンとしての機能を十分に持っていたが、最初からゲーム機のようにカートリッジを指す部分が付いていた。実はソニーはこのMSXで、HitBitという呼称でパソコン業に参画していた。
今ではVAIOでコンピュータでも大きなシェアを持つソニーだが、ファミコンをあれだけヒットさせた任天堂に勝つ素地が、実は20年も前にあったのかも知れない。
私はパソコンでできるゲームしかやらないが、それもたかが知れている。最近、昔MSX2でもやっていた野球ゲームをやっているが、見ているだけのゲームが意外に面白い。食事をするときなど、テレビを見ないでパソコンゲームの野球中継を見ていたりする。
今更PS2を買ってアクションゲームでもないだろう。いや、実ははまるのが怖いだけかも知れないが。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 23:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月15日
石原都知事のフランス語発言
石原都知事が都庁内で行われた首都大学東京の設立を支援する組織の総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」と言ったことに対し、フランス語学校の校長などが、損害賠償と謝罪広告の掲載を求めて提訴したという件に関して、記者会見で意見を述べた。
元々石原という人は、知事になった以降、こういう失言めいたことが多い。だがそれは、それまでの知事に比べ、明確に自分の意見を言っているからと言う印象も同時にある。青島や鈴木と言ったそれまでの都知事に比べて存在感があり、それ故に賛否はあっても、支持率が高い所以だ。
尤も、最初に書いたような発言はそもそも不用意であることに変わりはない。実は裏を返せば、石原慎太郎がフランス語に堪能かどうかは別にして、普通の人よりも造詣が深かったということに他ならない。私もフランス語を大に外国語にしていたが、一の数え方など覚えていない。10まで言えないと思う。私自身は、大に外国語を選ぶ際に、ローダンシリーズを生で読みたいからドイツ語にしようか、レ・ミゼラブルや三銃士に対する愛着からフランス語にしようか悩んで後者を選択した。2年間学んで、良ければフランス文学専攻に進もうかとも考えたからだ。実際は、1年生の前期で挫折したわけだが。
「数が数えられない」「国際語として失格」という発言は、知事業にあまり熱心でなく、文筆業の方が忙しくなった最近の石原氏の、作家としての面が良く出た発言だが、1作家ならそんな発言も自由だが、都知事は多少考えた方がよい。せめて、フランス人から趣旨を尋ねる文書が来た時点で釈明すべきだ。
現在に於いては、恐らく国際語とは英語のことで、他の言葉は結果的に国際語に失格しているわけだから、日本語もまたその例に漏れない。だが、今日石原氏が言っていたように、言葉は文化だ。日本語もフランス語もその文化として、重要なわけだが、同時に、変化や衰亡もまた言葉の持つ宿命で、毎日多くの言葉が消えていっている。
いい悪い派別にして、いまだにフランス語が複雑な一の数え方をするままに変化を見せないのは、フランス文化がそれでこと足れりとしているわけで、そのこと自体に他の国の人間がとやかく言うことではない。但し、私などはこの長い歴史の中で、もう少し合理的な方向になぜ、進んでこなかったのかという疑問は残る。
国際語として失格、という表現はそれだけ聞けば、ほとんどの人が「劣った言語」という感じを抱くし、ひいてはフランスを侮辱しているようにも感じる人がいても全く不思議ではない。作家たる石原慎太郎が、それくらいのことが判らないはずはない。
言葉足らずだったと陳謝できないのが石原慎太郎の性格だし、彼に欠けている部分である。自分の言ったことに対する言い訳や、他の人が知識のないことをあげつらって、逆に「そんなことも知らないで文句を言うな」的なことを時折言う。一理あることもあるが、そうやってケンカを売るよりは、知事たるもの、一言言葉足らずを謝り、その上で真意を説明する、あるいは時には一般人の知識を修正してやる。そんなことをしてもいいと思うのだが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月14日
「やばい」という表現
昨日だか一昨日のニュースで、文化庁の「国語に関する世論調査」の結果が報道された。
この中で「やばい」という言葉を「非常にいい」という意味に使う若者が増えているのがあった。16歳から20歳で76%がその使い方をする。うまい物を食べて「これやばい」といえば「すげえうまい」と同義か、それ以上の感動を指す。先日もテレビで、藤井フミヤがまさにその表現を使うのを見た。
「やばい」は辞書によれば、「不都合である。危険である。」という意味だ。「この仕事は何かやばい」と言えば、悪いことに手を染めている感じがするとか、捕まった場合に非常に重い刑になるとか、いずれにしても危ないことを表現しているのが普通だ。もともと泥棒などの隠語で「やば」の変形が語源だという。やばいときに「やばっ」というのは、むしろ言語に近いことになる。江戸時代の文献などにも「やば」という単語が見られるようなので、言葉としては最近の若者言葉でないのはもちろん、歴史も古いことになる。
ただ、いい意味で「やばい」を使うのは、間違いなく「やばい」という表現が持つ一部が単独で意味を持ってきたことによると思う。つまり、元々悪いことをしているやくざやちんぴらが、「兄貴、これちょっとやばくねえか」みたいな表現を使った場合、そもそも悪いことをしている人間が使うわけで、「兄貴、これちょっと危なくねえか」よりも、程度が勝る印象があったりする場合がある。つまり、危険よりももっと危険ということだ。そんな印象が積み重なると、やばいは「とても危険」という意味に感じてくる。そこで徐々に「とても」がクローズアップされ、気づくとそこには、次ぎに来る単語を強調できるような機能が見えてくる。
そうすると女子高生のように「やばい可愛い」で、すごく可愛いという意味になったりする。同様に、すごく美味いは「やばい美味い」だが、形容詞が形容詞を修飾するという非常にゴロが悪いことになっている。そこで、後に来る形容詞を省略する。
そもそも会話は、その時の状況、話の内容、話の相手によって支配されるので、必ずしも全てを文章のように語る必要はない。端的な例が、「あれ」だ。「あれ」は特に年齢が行くと頻繁に会話に登場し、その一部を担うようになる。それは年齢とともに脳が衰退するからに違いないが、そのことはつまり、「あれ」と言っても相手に話が十分伝わるだけの何かが、その前後の会話、会話対象との関係などに含まれているということだ。
前出の「やばい可愛い」や「やばい美味しい」は「やばい」で事足りる場合があると言うことだ。そしてその積み重ねは、やばいに「素晴らしい」という意味を付加していく。
この言葉が定着するかどうかは別として、言葉の変遷というのはそういうことの繰り返しで、いかに多くの人が頻繁にその言葉を耳にしていくかで決まっていくので、その言葉が美しいかどうかというのはあまり問題ではない。
同じアンケートで「(6)面倒臭いことや不快感・嫌悪感を表すときに「うざい」と言う」という設問では、やばいと同じような数字が出ている。こちらは、「うざったい」が既に辞書にも載っているので、そこからの派生だから、定着する可能性は高い。もちろん、「やばい」は意味の誤用だから、ケースは違うように見えるが。
そういう意味では、「(5)いいか悪いかの判断がつかないときに「微妙(びみょう)」と言う」という設問で、非常に数字が高かったのは判りやすい。そもそもの意味は「優れていて美しい」ことを表現する言葉だが、現代では、「細かい所に複雑な意味や味が含まれていて、何とも言い表しようのないさま。(広辞苑)」「はっきりととらえられないほど細かく,複雑で難しい・こと(さま)(大辞林)」と辞書に載っているので、判断が付かないときに「微妙」と言うのは間違ってはいない。
それよりも気になったのは、この設問の1から3で、
(1)「わたしはそう思います」を「わたし的にはそう思います」と言う
(2)「鈴木さんと話をしてました」ということを,鈴木さんと話とかしてました」と言う
(3)「とても良かった」ということを「とても良かったな,みたいな……」と言って相手の反応を見る
この三つは全て、自分の発言に自信がない、あるいは責任を持たないことの表れのような気がする。「みたいな 」に到っては、明らかに相手に同意を求めている。もちろん、若い人の文脈では、必ずしも相手に同意を求めているというよりは、言った結果が相手を傷つけないか、あるいは、自分が場違いなことを言ったのではないかということに対する恐れのようなものが含まれていたりするケースもある。
言葉は変化していくとは、何度も書いたが、実は人はその変遷に恣意的に加わることができる。流行っているというだけの理由で言葉を選んでいくことは、その変遷を容認することで、あたかもそれは、テレビで国会中継を見て愚痴を言っているのに似ている。
そう、政治に実際に参画することと同様、言葉の変遷に一石を投じていくのも、意外に(意外とという人が増えているらしい)難しいものなのだ。
それにしても、世間ずれを「世の中からずれている」という感覚が、彼らの思っている世間ずれという言葉の自家撞着になっているようでおかしい。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月13日
純文学
純文学という言葉を広辞苑で引くと2つの意味が載っている。
@広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。
A大衆文学に対して、純粋な芸術を指向する文芸作品、殊に小説。
一般的に使われる場合の純文学はAで、エンターテインメントに対する対語のような形で使われる。中には「読者に媚びず」という表現を使った辞書もある。
これを恣意的に解釈すると、面白くなくても作者が芸術性を重んじて書いたものが純文学。大衆的であることは、その芸術的価値を貶める。とも取ることができる。
現に芥川賞は純文学の新人賞。直木賞は大衆文学賞と、いわゆる文芸の2大賞は棲み分けができている。ところが最近では、芥川賞を見ていても、大分読者を意識した内容であるように思える。
そもそも、大衆的であることが芸術性の対極にあるとしたら、芸術っていったい何だろう?
確かにモーツァルトの音楽は、ら必ずしも大衆のために書かれたものではない。現代では「芸術」のレッテルを貼っているが、そもそも王様や貴族のために書いていたので、時代が下れば、クラシックだって大衆のためにこそ書かれてきたのである。
絵だってそうだ。多くの画家は売れなくては生活ができない。売れるということは、大衆の支持をいかに集めるかで、実は文学だってそうだ。
大体、書物を書いて、それが読まれようがそうでなかろうがどちらでもいい等という作家は、趣味だ。読んでもらってナンボだ。
実際文学的評価は、多くの人からそれを受けることで高まる。言ってみれば大衆化されることだ。
私は昔から、純文学というレッテルが大嫌いだ。ミステリやSFというのは文学の1ジャンルだが、明らかに純文学はジャンルではない。「純」という接頭辞は、そのカテゴリーの意味を表徴していない。
それのせいもあって、国語と、国文学の歴史は非常に嫌いだった。
文学の最も大切な基準は「面白い」かどうかだ。もちろん「面白い」の中には「感動」や「共感」と言った、読後感の素晴らしさの多くがこもっている。しかし断じて、芸術性なんかじゃない。これは、音楽でも絵画でも、漫画でもアニメでも、基本的にはそうだと思っている。
もちろん、沢山売れればそうかというとそうでもない。要は売れた後だし、長い目で見ることも肝要だ。
そういう意味では、国語の授業で教えられた多くの小説は、ある程度は優れた文学だと思うが、実はそんなものは時代とともに大きく変わるので、「残る」というのは大変なことだ。
もちろん、残るだけが必要ではない。その時代時代の中で指示されることが大切だ。
いずれにしても、大衆小説という括りで純文学と対峙される作品の方が、ずっと重要な気がしている。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:46 | コメント (0)
2005年7月12日
青葉の店主
中野のラーメン店「青葉」の主人が、秋葉家の店主に暴行され、監禁されたという。
たかがラーメン、されどラーメンというお話しなのか。
青葉は前を通ったことがあるが、実は食べたことがない。いろんなところで露出され、さぞや美味いのだろうと思うのだが。きっと今度の事件でまた人気が上がり、並ぶようになりそうだから、また食べにいけない。
しかしそれにしても、ラーメンというのは奥深いものなのだな。私は食事は、大分気分が左右すると思っているので、誰と一緒に食べるかとか、その時の体調や、気持ちによっても味は変わってくるのではないかと思う。また、慣れという問題もある。
だから、「美味しんぼ」などで見るような、味の世界は半分はまやかしだと思っている。誇張といった方が言葉が柔らかい。
例えば、旅行先の港近くで食べる魚は、取り敢えずほとんど美味しい。ここで不味いものを出された日には、旅行が台無しだ。
以前北海道の網走で、有名な地元料理の店へ行った。珍味を出してくれるところだ。珍味は必ず美味しいわけではないので、個人的にはそのいくつかは口に合わなかった。それでもそこでしか食べられないようなものを食べて、取り敢えずは満足した。
多分それが好きな人には答えられない美味しさなのだ。
味の半分は好みと関係している。私はそう思っている。
青葉のラーメンが指示されているのは、好みに合う人の数が多いからだろう。秋葉家の店主も、その程度に考えて、むしろ自分が教えたのなら、それを誇りにしていれば、こんな事件も起こらなかっただろうに。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月11日
なめらかぷりんぷりん
コンビニのデザート、時々ネットのアンケートなどが来ることがあるが、答えてみると意外に食べていないことが解る。
コンビニでケーキでもあるまいとか、それほど食指が動かなかったり。どうせ食べきれないし。あ、これは1個のデザートを食べきることがほとんど無いからと言う経験則なのだが。
ヨーグルトとかは、花粉症が治るかもという気持ちでよく食べるが、これはあまりデザート感覚ではない。
しばらく前に、セブンで「なめらかぷりんぷりん」というプリンを買った。なぜ勝買ったのか、その時の気分を既に忘れているが、とにかく買った。プリンを買ったのなんて、いつ以来だろう?
実は現在このプリンはセブンでは販売してない。ではなぜここにそれを書くかと言えば、そのプリンが、個人的にはめちゃうまかったからだ。全部食った。その後も何回か買った。これをマイブームというのだろうか?
だが、買い始めてそれほど経たないうちに店頭からは消えた。その後別のプリンは買ってない。美味そうに見えないからだ。
確かに人間は時折、甘いものをからだが欲しがる。私はいわゆる辛党ではないので、そういう意味では甘い物好きかという塗装でもない。酒も甘味もほどほどに。まあ、いいところだろう。
でもこのプリン、復活を願うのだ。ささやかに。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:09 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月10日
ハリウッド映画の低迷
ハリウッド映画が低迷しているという記事が出ていた。リメイクや続編ばかりでうんざりしているというような趣旨だ。リメイクは「宇宙戦争」だろうし、続編は「スター・ウォーズ」だろう。どっちもSFか!「バットマン」もあるか。
「宇宙戦争」は確かにそうかな。見ていないけれど、見たいとも思わない。今更「タイムマシン」や「宇宙戦争」でもないだろうと思う。しばらく前にやった「タイムマシン」は、ウエルズの子孫が絡んでいたようなので、解らなくはないが、SFをやるのなら、もっといくらでも面白いものがあるだろう。
そういえば、「盗まれた町」なんかも、2度くらいリメイクされていなかったか?今度の「戦国自衛隊」もそうだな。何であんなにみんなリメイクが好きなんだろう?多分、監督やプロデューサーが昔の作品を見て、俺ならこんな感じでできると思うのか、懐古趣味のどちらかではないだろうか。
前にも書いたかも知れないが、「幼年期の終わり」を、どうにか映画化してくれないものか。楽しいだろうにな。他に映画化して欲しいSFというと、「人類皆殺し」とか、「シリウス」「永遠の終り」とか・・・なかなか小説では面白くても映像でと思って思いつくものは少ないな。・・・でも古いな。
ところで、興業が振るわない原因を、DVDのせいなどにも置いているようだが、だとすれば別ルートで儲かっているのでいいはずだし、だんだん大きな映画館で、皆が見る時代も変わってくるのかも知れない。家庭である程度の迫力で見られれば、映画館である必要が大分無くなる。確かに映画館と同じ大きさは無理だろうが、そこまで必要だろうか?
尤も、振るわない原因は第一に観客になる人々が興味を持たないからで、以前に比べてかなり趣味が多様化しているのは日本ばかりではないと言うことだ。今の携帯料金で昔は何をしていたのだろう?そう思ってみると、可処分所得の使い道は非常に変わっているはずで、映画だけがずっと、ハリウッドだからと言って素晴らしい収入を得られる時代はきっと終わったのだ。
でもハリウッドにとっては、家庭でのDVD鑑賞という、より広い市場ができたのだからよしとすべきであろう。
投稿者 keisuke : 映画 | 22:35 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年7月 9日
星座
星座の歴史は5千年くらいあるらしい。紀元前3千年くらいに黄道の12星座ができたという。1年12ヶ月という非常に実利的なものだろう。
昔から不思議だったのだが、黄道12宮と言われる、いわゆる星占いの星座は、天球上における太陽の通り道だという。つまり、地球から見て太陽の方角にある星座が、その星座で、地球は太陽の周りを回っているから黄道は円になるわけだ。しかも、地軸は公転軌道に対して傾いているから、いわゆる北極星の辺りと、黄道の北極はその分ずれている。
ところで、太陽の方角にある星座っていうことは、昼間、太陽が見えているときにそこにどの星座があるのか、というお話しだ。つまり見えないわけで、まあ、日の出とか、日の入りで太陽が見えないときに、その位置を類推することはできるが、何となく考えてみると面白い。
さて星座だが、現在の星座の大本を体系的にまとめたのはプトレマイオスだ。プトレマイオスは2世紀ゴロにアレクサンドリアで活躍したらしいが、ギリシャ人らしい。アレクサンドリアはエジプトの都市だが、きっとそこで夜空を見ていたのだ。この時彼の「アルマゲスト」という書物に載っている星座は、全部で48だ。現在よりもまだ40少ない。まあ、実際に有名な星座のほとんどがこの中にある。
その後、大航海時代を経て南半球でしか見えない星座が加えられたり、何人かの人が新しい星座を作ったり、中にはでかすぎるという理由で昔の星座を小分けにしたりと、長い歴史の中でいろいろ変遷があったらしい。
現在の星座が定められたのは、1930年のことだ。
星座は、見てみると、その多くが、どうしてこの名前に見えるのだろう?と思わざるを得ない。特に近世になって考え出された物のうち、名前からそのもの自体がどんなものなのかを思い起こすことができない星座に到っては、星の並びとの関連以前の問題である。
彫刻室座なんて、どうしたらそんな名前が付けられたのか、想像もできない。レチクルなんていうのもある。レチクルっていったい何だ?
ちなみに88星座の名前は、
1 やまねこ(山猫)/2 かに(蟹)/3 こじし(小獅子) /4 おおぐま(大熊)/5 こぐま(小熊)6 しし(獅子)/7 ろくぶんぎ(六分儀)/8 らしんばん(羅針盤)/9 ポンプ/10 りょうけん(猟犬)/11 かみのけ(髪の毛)/12 おとめ(乙女) /13 コップ/14 からす(烏) /15 うしかい(牛飼い) /16 かんむり(冠)/17 うみへび(海蛇)/18 りゅう(竜)/19 ヘルクレス/20 てんびん(天秤)/21 こと(琴)/22 はくちょう(白鳥)/23 へび(蛇)/24 へびつかい(蛇遣い)/25 わし(鷲)/26 こぎつね(小狐)/27 や(矢)/28 いるか(海豚)/29 たて(楯)/30 さそり(蠍)/31 いて(射手)/32 みなみのかんむり(南の冠)/33 ケフェウス/34 とかげ(蜥蜴)/35 カシオペヤ/36 やぎ(山羊)/37 けんびきょう(顕微鏡)/38 こうま(小馬)/39 ペガスス/40 アンドロメダ/41 みずがめ(水瓶) /42 みなみのうお(南の魚)/43 ちょうこくしつ(彫刻室)/44 うお(魚)/45 おひつじ(牡羊)/46 さんかく(三角)/47 ペルセウス/48 くじら(鯨)/49 ろ(炉)/50 きりん(麒麟)/51 ぎょしゃ(御者)/52 おうし(牡牛)/53 オリオン/54 うさぎ(兎)/55 ふたご(双子)/56 こいぬ(小犬)/57 いっかくじゅう(一角獣)/58 おおいぬ(大犬)/59 はと(鳩)/60 とも(艫)/61 とびうと(飛魚)/62 りゅうこつ(竜骨)/63 ほ(帆)/64 カメレオン/65 はえ(蝿)/66 みなみじゅうじ(南十字)/67 ケンタウルス/68 コンパス/69 おおかみ(狼)/70 じょうぎ(定規)/71 みなみのさんかく(南の三角)/72 ふちょう(風鳥)/73 さいだん(祭壇)/74 ぼうえんきょう(望遠鏡)/75 くじゃく(孔雀)/76 はちぶんぎ(八分儀)/77 インディアン/78 つる(鶴)/79 きょしちょう(巨嘴鳥)/80 ほうおう(鳳凰)/81 みずへび(水蛇)/82 とけい(時計)/83 レチクル/84 ちょうこくぐ(彫刻具)/85 エリダヌス/86 がか(画架)/87 かじき(旗魚)/88 てーぶるさん(テーブル山)
ざっと見てもすごいでしょう。確かに星を結んで絵を描くっていうのは大変なことだけど、これは実際、全天を88に分けて、住所を付けたっていうことに他ならないわけだ。つまり、千代田区とか、豊島区とかと同じで、意味があっても、それを知っている必要は必ずしも無く、例えば、時計座に流星があったと言えば、その位置が解るという仕組みだ。
しかしそれにしては、星座の区分はかなり入り組んでいて、よく分からない。
しかも黄道12宮の星座なんて、長い歴史の中では位置も形も変わってしまうのに、それで人の運命が解ったりしてしまうなんて、不思議なのか怪しいのか、ともかく、面白いには違いない。
空を見上げて、オリオン座は大概の人が解る。ペガススの四辺形も言ってあげれば大体解る。でも、アンドロメダ座は解らんぞ。空気がきれいなら、何となくアンドロメダ星雲は見えるが・・・・
投稿者 keisuke : 科学 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月 8日
Adobe社のAcrobatというソフトがある。文書や画像などを見た目通りに保存し、表示できる。ブラウザが対応しているのでAcrobatReaderをインストールしてあれば、環境に左右されず表示ができる。Readerは無料だ。
Acrobatで作成されるファイルはPDFと呼ばれる。portable document formatの略だ。
最近ではWebでもよく、PDFファイルが利用されている。ソフトウエアを使うと、比較的簡単にファイルが作れて、HTML等にするよりは、印刷する場合に向いていたりする。
しかし、何でもかんでもPDFにすればいいと言うものではない。特に官公庁などで文字だけの資料をPDFにして閲覧できるようにしたりしているケースがあるが、PDFファイルはまずブラウザがReaderを立ち上げるのに異様に時間がかかるし、読み込んでからも、倍率の問題とか、あまり使い勝手がいいものではない。
印刷して手元に置くようなファイルならいざ知らず、そもそも閲覧だけを目的にするのなら、それほどPDFは優れたフォーマットではない。最近では圧縮率も良くなっているが、元々大きなファイルを扱ったりする場合は、たかが知れている。下に何ページも連なるようなファイルをPDFにして置いておくのは、手間を惜しんでいるとしか思えない。あくまで印刷用に別に用意するのならともかく、まずはHTMLで軽くて読みやすいテキストのページを用意するべきだろう。
時折知らないうちにPDFのリンクをクリックし、plug-inが立ち上がるまでいらいらさせられることがある。気づいて元に戻るボタンを押してもそういう場合は無効だ。
決してPDF自体は悪いフォーマットではないが、猫も杓子もというのはやはり違うだろう。洋服にTPOがあるなら、インターネットの世界にも似たようなことがあっていいはずだ。
もう一つ最近気になるのは、Internet Explorerがjavaなら何でも危なそうに解釈して、オンマウス程度でも警告を出してくることだ。確かにセキュリティは重要だが、煩わしさもある。何が良くて何が悪いというのは判断が難しいが、ちょっと気になったので。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 23:02 | コメント (3) | トラックバック (0)
2005年7月 7日
七夕
今日は七夕だが、ほとんどの場合、七夕に東京で牽牛と織女を見るのは難しい。まずは梅雨時だし、冬に比べると明るい星が少ない。空気も透明ではないし、ましてや東京では光害もある。地方の空気のきれいなところでのんびりと見てみたい。
七夕という言葉は「女が水辺の棚に設けた機屋(はたや)にこもり、神の降臨を待って一夜を過ごすという伝承があり、これから棚機女(たなばたつめ)、乙棚機(おとたなばた)、さらに「たなばた」とよぶようになった」らしい。伝説的には、中国来歴のものと日本古来のものが入り交じっているようだ。
七夕の織り姫はこと座のヴェガ、牽牛はわし座のアルタイルだが、アルタイルというのは「飛ぶ鷲」という意味でヴェガは「落ちる鷲」という意味だそうだ。牽牛と織女の伝説から言うと大分もの悲しい名前だ。
ヴェガは地球から25光年、アルタイルは16光年しか離れていない。比較的近隣の星だ。この2星は白鳥座のデネブとともに夏の大三角を形作っている。デネブだけ遠くて540光年も彼方の星だ。この夏の大三角は小学校で習うが、冬の大三角(シリウス、ベテルギウス、プロキオン)に比べると大分見劣りがする。星の光度自体はそれほど大きく変わるわけではないので、夏の夜空は見にくいのかも知れない。しかも最も暗いデネブが、天の川の真ん中に入っているから、余計かも知れない。
七夕という字は「しちせき」と読み、五節句の一つで、言ってみれば、ひな祭りや子供の日のようなものだ。笹の葉に短冊を付けて祈るのはこちらの風習だ。考えてみれば、織り姫と彦星の伝説と、短冊に願い事を書くことは、関連性があるとも思えない。
お盆の一部とする地方もあるらしい。
7月7日はまた、七夕とは全く関係ないがマーラーの誕生日だ。1860年のその日に生まれた。何度も書いているが、マーラーは私がクラシックを聴くきっかけになった作曲家なので、一入思い入れが大きい。だから、どちらかというと7月7日は、私にとっては七夕と言うより、マーラーの誕生日なのだ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 22:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月 5日
造反議員
今日はあまり時間がないので短く。
昨日の続きというわけではないが、今日の郵政民営化関連法案の採決は、自民党から50名以上の造反議員が出て、わずか5票差の法案通過となった。よほど郵政を民間にしたくない郵政族と、本当に真面目に今回の法案を憂えてる少数の議員、そして、どっちでもいいけど自民党執行部の態度が気に入らない議員と言うことなのだろう。大物が自ら造反しているのだから、みんなで渡れば怖くないに近い感覚もあったに違いない。
だが、郵政の民営化ごときでこれほどの大騒ぎになるよりも、昨年の年金問題で、もっともっと造反してもらいたいものだった。
考えてみると、国民からお金を取る法案には、あまり自民党の議員の皆さんは積極的に反対しようという気はないらしい。今日みたいな時ばかり、反対するのが正論のような態度を示してみたところでたかが知れている。
田中真紀子が言っていたが、本当に無駄な部分は、ほとんど改革などされていない。道路公団のやりとりを見ていたって、溜息が出てくる。
それにしても公明党と言うところの結束はすごいな。
そもそも私は、現状打破という意味で郵政民営化は賛成だが、参議院で否決され、自民党を小泉が本当にぶっ壊してくれて、妙な自公連合など、早めに解消してくれた方が幾ばくかいい。取り敢えず解散総選挙にして、1回だけでも民主党に政権を委ねた方がいいかもしれない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:28 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月 4日
郵政民営化・・・とは直接は関係ない話
郵政民営化法案が、明日にも衆議院を通るかどうかという状況だ。野党の意見などを聞いていると、みんな郵便局の話ばかりしている。郵貯とか簡保のお金の話はあまりしているように思えない。しているのかも知れないが、どちらかというと、過疎地の郵便局が無くなるとか、せっかく公務員試験に受かったのに民営化なんて等という話をしている。
そもそも、公務員は「安定している」からという理由で選ばれていい職業だとは到底思えない。公務員か民間化等というのはこの際、そこで働く人間にとっては関係がないはずだ。もちろん、これは客観的な意見としてだ。本当にそこで働いている人にとっては大きな違いだろう。しかし、何百兆もの借金を抱えながら、増税ですませようとすることがいいはずはない。明確に国民に、ここまでやったのだから後は増税しかないのですよと納得させるならともかく、相も変わらずマスコミでは、行政や特殊法人の放縦とも言うべき金の使い方が、後から後から出てくる始末だ。
企業は、客が来なくなれば潰れる。いっそのこと、国民が全員で税金を払わないという運動でも始めれば、NHKのように国も始めて慌てるのではないだろうか。
ところで、郵便局は、大体5時までやっている。都会の郵便局は土日もやっているところもある。非常に努力していると思う。しかし待てよ。一般のお店は、コンビニであれば24時間年中無休、そうでなくても土日に休む店など、オフィス街の食べ物屋くらいなものだ。
役所も郵便局も、銀行も、平日休んでもいいから土日は開けろというものだ。あるいは、時には休んでもいいが、年中無休くらいのサービスをしろという事だ、警察や消防署はそうだ。最近では病院だって土日診療するところが増えている。
人員の交代制を取ればすむことだ。ここで役所は考える。土日の出勤にシャには手当を。・・・・バカ言っちゃいけない。民間の企業は休みの日数が同じなら、平日も土日もない。
とにもかくにも、郵政民営化という言葉の鍵は、公と言うことと民間の、意識の違いをいかに埋めていくかにあるのだ。そのためには、どんな結果かはともかくも、まずは民営化に英断を振るうことだ。だめな部分は後からどんどん直せばいい。
ついでだが、前にも書いたが、天下りなどなくす必要はない。天下った先の待遇を一般社員並みにすればすむことだ。それを、莫大な給与、短期間での莫大な退職金などということにするからいけないのだ。退官したら、民間企業の人たちと同じように、働いてくれればそれでいいことだ。
いやいや、明日はどうなることだか。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:58 | コメント (0)
2005年7月 3日
都議選の一幕
都議選が終わった。なかなかの低投票率で、そもそも何のための投票なのか解らない選挙だった。ニュースでは、都議選よりも、長嶋が巨人戦を観戦したことの方が大きなニュースだったようだ。
私は夕方に投票に行ったが、実際、その場まで誰に入れようか決めていなかったほどだ。
私は杉並区だが、駅や家の近くでよく見かけたのは、教科書のことばかりを訴える長谷川英憲と、顔がやけに印象的な福士敬子だった。2回ほど、民主党の議員事務所から苦戦しているので是非よろしくという電話があった。「解りました」と言ったが、どちらにも入れなかった。
そもそも、選挙になると立候補者達は、「お願いします」を連発する。お願いしたいのはこちらの方だ。あなた方のために投票しているわけではないのだよ、議員さん達。といった気にもなる。
たまたま昨日夜、笹塚にちょっと行く機会があったのだが、駅で渋谷区の候補だと思うが、スタッフが大声でお願いコールをしていた。非常にうるさく、自分の区であれば、こいつだけに入れることはあるまいと思わせた。
そもそも、今回もそうだが、それぞれの議員が、どういう主張をし、仕事をしてきたのかといったことがよく分からない。
選挙のホームページでは、誰が出ているかは解っても、どういう人かはよく分からなかった。たまたま前述の長谷川秀憲候補のページを見たら、「公選法により6月24日から7月3日まで、HPの更新ホームページの更新をお休みさせていただきます。ご了承ください。」と書いてあった。なんとあほらしい。他の選挙運動に比べたら、圧倒的にお金のかからないホームページ、そこで選挙期間中だからと言って更新ができないというのはどういうことだろう?
チラシを奪ったり、ポスティングしたりと何が違うのだろうか?
投票率を上げたいのなら、時代に即したやり方、より投票しやすい環境作りなど、どんどん改革していくべきだ。駅前でお願いしますを連呼することが選挙運動なら、そんなことに税金を費やして欲しくない。無駄だ。
論点も解らず、興味ある人だけの選挙なら、創価学会に「ありがとう」と礼を言っている公明党のように政教分離も怪しいような政党や、自民党が勝つに決まっている。
単純に自民党がだめだとは言わない。私は個人的に、郵政民営化賛成なので、民主党とは意見を異にする。だが社会保険制度や、そもそも増税ばかりを考えているような能のない自民党にも与しない。しかしでは他の政党が、政治を動かしうるのか?というとそうでもない。ただ、国政はそうでも地方政治は必ずしもそうではないはずで、そう考えると、もっと誰がどういう人なのかが解るよう、工夫をして欲しい。
少なくともインターネットで解るように。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月 1日
やきそば
焼きそばというのはやはり中国料理由来だろうが、そういう意味では炒麺、炒めた麺と言うことだろう。「焼き」というより解りやすい。
焼きそばにはいろいろ種類がある。最もポピュラーなのはソース焼きそば。焼きそばの定番だ。それ以外に、あんかけ焼きそば、上海焼きそばといった辺りが、いわゆる焼きそばの種類だろう。
中国料理店で焼きそばと言えば、あんかけで、肉や魚介、野菜など沢山の具があんかけになって乗っている。味のベースは醤油系がポピュラーだと思うが、時々塩味の物もある。麺は一般的に両面を多少焦げるくらいに焼いて、中は柔らかい。時折堅麺(揚げてある)の物もある。これは皿うどんもその系統だと思うのだが、あれはあれで美味い。というか、個人的には皿うどんの方が好きだったりする。
上海焼きそばは、塩味が一般的だが、時々醤油味っぽいのもある。いわゆる炒めそばだ。ソースで味を付ければソース焼きそばかというとそうでもない。やはり具が豪華だ。
いわゆるソース焼きそばは、豚肉とキャベツ、時にはもやしやニンジンが入ることもあるが、王道はキャベツと豚肉という気がする。夜店の屋台などが人気があるが、町の中華屋のソース焼きそばが美味しいところが多い。これは多分、中華スープを使うからだ。上に書いたソース味の上海焼きそばと言うことになるかも知れない。
焼きそばはカップ麺でも人気がある。ペヤング、一平ちゃん、UFO、日清のソース焼きそばなど・・・・だが実は、乾麺のソース焼きそばが意外にうまいのだ。フライパンにお湯を入れ、両面を茹でるようにしてふやかし、炒めた後、ソースをかけるのだが、恐らく、カップ麺と違うのは、炒めるという動作が入るところだ。この一手間がカップ麺よりも袋の焼きそばが美味しい原因だと思う。そう、私はカップよりも袋の方が好きだ。しかも安い。一挙両得。
明日の昼は焼きそばか皿うどんにしよう。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (0)