2005年6月30日
携帯の料金
携帯電話が普及して大分経つ。かつては一家に一電話は当たり前だったが、家に複数台電話があるというのはあまりなかっただろう。
ところが現在は一人一電話の時代だ。
携帯は今や老人から子供まで、多くの人が所有している。一人で何台も持っていたりする人もいるから、一概に言えないが、人口に対して7割くらいの台数が出ている。
にもかかわらず、1分間の通話料は20円くらいかかる。一般電話よりも現在では多い位なのだから、設備投資があるとしても、もう少し安くなってもいいのではないだろうか?
それと、一般電話との通話や、異なる携帯会社との通話が高い理由も分からない。
そもそも、携帯電話を利用したときに、いったいどの部分にコストがかかるのだろう?電波が飛ぶと電気が使われてお金がかかる、というのは何となく解るが、それだってたいした料金じゃあるまい。
実際には接続料という訳の分からない名目でお金がかかるのだ。
テレビを見ていると、携帯電話のCMはそれこそアリコの保険のコマーシャルと同じくらいやっている。これはどちらも、信じられないくらい儲かっている証拠だ。もう少し消費者に還元して欲しいものだ。
取り敢えず今日は、ゴロを巻いただけ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:24 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月29日
日本語決定戦
本日、TBSで日本語決定戦という番組をやった。日本語は改めて難しいと思った反面、何となく国語の試験を思い出して歯痒い思いもした。
日本人の平均は52点ということだが、ある意味、さもありなんという問題ではあった。
漢字に関しては、「意味から類推すれば正しい解答に結びつく」と解っていても、何となく別の方を選んでしまったり、まったく解らないといったものも結構あった。あるいは間違えて覚えていた物など。
「確信犯」という言葉の意味など、実はこのクイズで始めて知った。
だが、例えば昨年のように「今年は台風の当たり年だ」等という表現を、間違いなくニュースなどで聞いていると、それが本来的には違うと言われても、簡単に納得はできない。
そういう意味で、漢字はともかく、意味を判断する言葉に関しては、いくつか釈然としないものはあった。
そこでいくつか辞書を引いてみた。
「揚げ足を取る」・・・いくつかの辞書で「上げ足」も載っている。
「応待」・・・人をもてなすという意味がある
「老舗」・・・ろうほとも読む
「間髪を入れず」・・・かんぱつと読んで、間髪(はつ)を入れず」の俗語的な言い方。
「青田刈り」・・・これも青田買いの意味で使う。
「足元をすくう」・・・ジーニアスの英和辞典にはこの表現も載っている。
「さいさきが悪い」・・・広辞苑でさえこの用例は載っている。
「当たり年」・・・回数の多い年という意味が載っている辞書もある
「辛党」・・・意味は知っているが、甘党の反対が酒好きというのは絶対におかしい。
などなど・・・・・
言葉の意味や表現方法は時代とともに変わる。微妙な言い回しや、意味の変遷はやむを得ないような気がする。
もちろん、言葉はコミュニケーションツールなので、交わす双方に共通認識が求められる。例えば「憮然とした表情」等という表現は、むっつりした表情のように取られるケースが増えているが、実際はしょげているとか防戦としているという意味だ。この2つは意味的には全く違うから、前者のような意味が大きくなったとすると、「いとおかし」等よりも尚おかしなことになってくる。
まして、これだけ情報網が発達している中では、かつての古文と現代文のような違いを、それほど生まないようにすることもできるに違いない。
表現や意味の維持と、新たな表現や意味の兼ね合いというのは、「時化」や「灰汁」、「態と」を読めないよりも、より重要なことだ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 22:50 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月27日
月日の経過
6月27日、もう今年も半分終わろうとしている。
毎年毎年、1年は早いと、どこかで言っているような気がする。1歳1歳年を取ると、徐々に時間の経過は早く感じられるものらしい。これは、考えるのではなく感じるものだから、致し方ない。重力が軽いと、時間の経過は遅くなるようだから、山の上に住めば、少しは麓よりもゆっくり時間を過ごせるのかも知れない。この点は相対性理論が保障してくれる。
先日テレビで、誰だったか忘れたが、40代は本当にあっという間だった。と言っていた。一番速く過ぎた、と。その人が50代だったからで、60過ぎればきっと、50代が最も早いというかも知れない。
人間が、もし健康で老いるということを知らなかった場合、いったい幾つくらいまで、生きることが嫌にならないのだろう?
よくSFで、不死身に近い男が登場し、「死ねない辛さ」を訴えることがある。死ねないことが辛い理由はいくつかある。生きている間に親しい知人がいなくなる、周りがどんどん死んでいくのに自分だけ、等々。
しかし、知人などというのは生きていても、どんどん入れ替わるものだ。特定の誰かが親友であったり、最愛の妻であったりするかも知れないが、それほどに親しくなれる可能性がある人物が、たまたま自分の周りにいたとしても、その人だけのはずはあるまい。長生きしていれば、何人でも出てくるはずだ。
周りが死ぬのに、自分は死なないというのは例えば「グリーンマイル」のように、どんどん年老いていきながら生きながらえるという、長い老後というのは確かに辛いだろうが、例えば、人間の寿命が500年くらいだったらどうだろう?現在の80年くらいを500年かけて老いていくと考えたら。もちろん、単純に何倍かを計算しても意味はない。6倍生きるからと言って、小学校の卒業が72歳になるということではない。青年期が長かったり、壮年期が長いと言うことだ。そこから推し量れば、老年期も長いから、やはり辛いことになるのかも知れないが。
だがやはり、人生100年程度では短いなあ、と思うわけだ。別に長い老後が欲しいわけではなく、倍くらいのスパンで生きてみたいものだと思うのだ。どちらかというと、世の多くの人は、人生は長さではなく中身だ、と言ったりする。太く短くだ。
たまにこういう質問がある。「あなたは太く短く生きる人生と、細く長く生きる人生のどちらがいいですか?」
私はそういうときこう答える。
「太く永くだ!」
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:07 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月26日
ジャスミン茶
コンビニで売っている伊藤園のジャスミン茶が好きだ。セブンイレブンでよく買う。ローソンも以前は置いてあったが、最近はサントリーの物しか置いてない。こちらは好きではないので買わない。
私はお〜いお茶も好きで、伊藤園に弱みを握られているわけではないが、どうやらこちらも伊藤園で、2Lペットを箱で購入している。お〜いお茶の濃い味も好きだ。今は茶飲料花盛りなのだが、緑茶系で思いつくというと、生茶、伊右衛門、くらいしか思い浮かばない。そういえば若武者とかも緑茶なのかも知れないが、飲んだことがないので解らない。あるいはカテキン式とかヘルシア緑茶も入れてもいいかもしれない。確かにヘルシアは嫌いじゃないが、あの値段はどうにかしてくれという感じなのであまり飲まない。
生茶も伊右衛門も個人的にはあまり好きではない。それ以外にも、しばらく発売されて消えていったようなお茶もあったように思う。
さて、緑茶は置いておいて、ジャスミン茶だ。この伊藤園のジャスミン茶も2Lで欲しいと思い、非常に見にくい伊藤園のホームページを見にいったが、どこにもジャスミン茶はない。あるのはジャスミン緑茶という、あまり見たことのないお茶だ。と言うことは、もうしばらくするとセブンの店頭からも消えるのだろうか。寂しい限りである。伊藤園の人がこのブログを見て、こういうお茶のファンもいるのだ、今後もバンバン売っていこうという気になってくれるとうれしいのだが。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:17 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年6月25日
悪魔
ビアスの「悪魔の辞典」は有名だが、世に『悪魔』という場合、一般的にはキリスト教のサタンやデーモン、デヴィルといったものが日本語では『悪魔』と訳される。デーモンはギリシャ語で「死者の魂」、デヴィルは同じくギリシャ語で「中傷する人(diabolos)」が語源だという。関係ないが映画の「ディアボロス」は大好きな作品だ。
「デビルマン」という永井豪の漫画があるが、あの中で主人公の不動明はデーモン族のアモンという悪魔と合体してデビルマンとなる。悪魔の頭領は不動の友人の飛鳥亮こと、サタンだった。
サタンはヘブライ語の「敵対するもの」という意味だそうだ。つまり、神に楯突くものがサタンなのだ。実際には旧約聖書の中でイヴを唆した蛇だったり、新約聖書の中でキリストを誘惑したりしている。黙示録ではサタンの数字を666とし、映画「オーメン」では、ダミアンの旋毛に666の文字が書いてある。
また聖書にはリチフェル(ルシファー)という堕天使が出てくるが、これも悪魔の代名詞のように使われることがある。よくSFなどで核爆弾にルシファーなどと名前が付いていたりする。
長い歴史の中で、悪魔崇拝などが行われ、魔女やら、雑多な悪魔が登場してくる。黒ミサなどを行って、悪魔を呼び出したり、映画や小説などにもよくあったりする。ハードロックバンドのブラックサバスも、バンド名は映画から取ったらしい。この辺りに端を発し、ヘヴィメタバンドの多くが、この雰囲気をよく使っている。
このサバスは安息日のことだが、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教でそれぞれ曜日が違うのは興味深い。サバスは英語だが、ヘブライ語ではサバトだ。ところが、魔女の集会のこともサバトという。この辺りの語義の変化もまたおそらくは歴史のなせる技なのだろう。
「私は悪魔だ」という人は見かけないが、「魔女だ」という人は時折ヨーロッパにいたりする。そういう人は大体魔女は悪い人ではなく、魔法を使う女のことだという認識らしい。薬草に長けていたり、人の運命を占ったり、意外と占い師との境界線が曖昧な感じもある。そもそも、悪魔が男性を指すから魔女が女性というのとも、実は違うようである。
確かに、「魔」という字は梵語の「マーラ」を音訳したもので、そもそもは仏教系の悪魔のことだ。日本語ではキリスト教であろうが仏教であろうが、「悪魔」というので解りづらいが、仏教の「マーラ」は、どちらかというと釈尊の成道を妨げる、いわば「煩悩」の具象化であり、キリスト教のように想像上でも実体を伴う生き物とはちょっと違う。尤も、悪魔が生き物かどうかもよく分からないが。
いずれにしても、いわゆる悪魔という単語は「悪い魔」ということであり、例えば魔法と言うときの魔なのだろう。ここには仏教的な「悪事をなすもの」という意味ではなく、むしろ不思議な物程度の意味がある。つまり、悪魔は「悪い不思議な物」、魔女は「不思議な女性」といった意味であるとすれば、解らなくはない。ただしかし、中世の魔女狩りなどは、悪魔の眷属、あるいは悪魔に魂を売った女という位置づけで、悲惨な行為が行われていたのであろう。
様々な宗教の中で「悪魔」という風に日本語で表現される何らかの異形がいる。これは、神を善とし、二元的にその対局をその異形に任せることで、バランスを取っているに違いない。砕いて言えば、世の中はいい物もあるし悪い物もある。だが、よく生きろと言うことだ。それが象徴的に悪魔という存在となり、様々な種類の悪魔を生んできた。
ゲーテの「ファウスト」にも出てくるメフィストフェレスなんていうのは時代を超えて、「悪魔くん」という漫画の中でメフィストという悪魔で甦ったりしている。元々はヘブライ語で「mephis(破壊する者)〉と〈tophel(惑わす者)〉」をくっつけた言葉だという。中世ではメフォストフィレスだったようだ。いずれにしても「メフィス」+「トフェル」だとすれば、メフィストという区切りはちょっとおかしい。
悪魔はかように、人に何かをもたらすことで魂を自分のものとすると言うことがよくあるが、考えてみると、これは仏教の「煩悩」とよく似ている。いわば人の欲望を煽って、悪魔の側に引きずり込むという構図だ。そう考えると、確かに長い歴史の中で、様々な悪魔が考え出されてきたであろうが、それは元々人間の心に内在する欲や悪心等の具象なのだ。
人類は生まれて以来、いつでもその欲望と良心の間で揺れていると言うことがよく分かる。そして、悪魔的な心を嫌い、戒めるのだ。
それにしても、グレートヒェンに代表されるように、純真な乙女というのは、男社会が生んだ、女性への憧れとか、あるいは母性への憧憬みたいなものがそこにきっとあるのだろうな。ジャンヌ・ダルクだって、きっと何かそんな何かあったのだろう。
そういう意味では、悪魔との葛藤を、悟りという方法で消滅させた仏教というのは非常に論理的かつ哲学的な宗教なのだなという感を深くしてしまう。どちらかと言えば、その方が分かりやすい。
ともあれ、悪魔学というものもあり、そんな本を読むときっと、「やっぱり悪魔っているのかな?」なんていう気にきっとさせてくれるのだろう。興味だけなら、きっと楽しい何かを提供してくれると思う。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月24日
生物の存在する星
今文庫で「大宇宙・7つの不思議」という本を読んでいる。監修をしている佐藤勝彦氏はよく宇宙論の本などを書いている先生だ。
その中で1章を割いてETに言及している。ET(extra-terrestrial)。スピルバーグの映画で有名になった地球外生物を指す用語だ。この言葉がいつ頃からあるのか知らないが、陸生生物(terrestrial)のエキストラという、しゃれた言い方に思える。宇宙人を表すもう一つの用語は同じ映画から「エイリアン」だが、こちらは元々外国人とか異邦人という意味だ。外国人も異邦人も同じ意味だが、何となくカミュのせいもあるのか異邦人という言い方は雰囲気がある。
ところが、ちょっと話が脱線するが新明解国語辞典を見ると異邦人は「(韓国・中国などを除く)外国の人」の意の漢語的表現。とある。これは、昔は日本と中国を除けばその先は皆天竺だというところから、異邦人は既知のアジアを除くということになるようだ。
エイリアンは例えば、スティングの「Alien in NewYork」のように、やはりForeignerとは違う響きを持っている。日本語で言う外国人、あるいはForeignerは、あくまで外国の人であり、政治的というか地理的に別の国の人間を指すが、Alien、または異邦人は、国家と言うよりは部外者というか、その土地のものではない「余所者」といった響きがある。だからこそ、SFの中では宇宙人のことをエイリアンというのだ。
ところが英語では宇宙人と引くとspacemanは別として、「a visitor from (outer) space」とか、「little green man」「saucerman」等、沢山の言い方がある。
さて、これらの言葉の中で、ETという表現だけが、どちらかと言えば、知的生命であることを必ずしも要求しない。他の表現はどちらかというと、動物以上の知性は最低備えた生物というニュアンスが強い。しかし、ETは生命体であればよく、知的なETの場合には「extraterrestrial intelligence」という表現がある。
宇宙論で異星の生命体を指すときは、どちらかというとそれほど知的なものを期待していない。むしろバクテリアのような、これくらいだったらいるかも知れないというレベルの話題が多いように思う。
いかほどUFOの目撃例があり、どれほどNASAが秘密主義であろうと、確かに宇宙人の証拠は非常に眉唾だ。
そんな中で、エンリコ・フェルミが提唱したパラドックス「こんなに沢山の星があって、きっと惑星もたくさんあって、生物も沢山いて、知的な生物もその中には沢山いるだろうに、どうして宇宙は沈黙しているのか?」これは、裏返して宇宙人を信じる人、あるいはUFOが異星からの乗り物だと信じる人たちにとっての傍証みたいなものだ。
よくこういう本に載っているドレイクの方程式というのがこの本にも載っているが、この銀河にどれほどの知的生物が、現在存在しているかを計算する方程式だが、昔からこの妖しげな方程式は何なのだろうかと思うのだが、変数のほとんどが曖昧で、自由に代入することができ、入れ方によっては、とんでもない数字をはじき出せる。当たるも八卦当たらぬも八卦のような方程式だ。
最近では、人間原理もあって、地球は宇宙の中の、極めて特殊な星であるという、宗教家が聞いたら我が意を得たりとばかりに喜びそうな考え方をする科学者も多いらしい。これとて否定するのは難しいが、夜空に輝くのが全て星で、宇宙には数千億の恒星を含む数千億の銀河が存在するとすれば、この地球をそれほど特殊と考えることができること自体不思議で仕方がない。我々が実際に観測で知ることができるのは、現在の宇宙論を信じる限り、130億光年という彼方ではあっても、その光だけ、そしてそれは130億年も前の光でしかない。せいぜい解ることといえば、地球の表面から太陽系。それだって多くは理論的な想像に過ぎない。ここ数十年の間に、何度も書き換えられたりしている。
そんな中で、我々人類を特殊と考えるのは、「俺が宇宙の中心だ」というのと同じくらい、哲学的には真実であっても、科学的には怪しい。
また、SFの読み過ぎかも知れないが、生命には水がないといけないとか、ずっと遠くへ行けばどんな世界があるのか解ったものではない。考える金属とか、無機質の生命体だって無いとは言えない。もちろんそんなものは机上の空論だが、宇宙の始まりに、あれだけ奇天烈なことを考える科学者が、どうしてもっと新規なことを言い出さないのかと不思議でならない。
なぜ宇宙は、我々の脳の大きさに比べてこんなに大きく、そして長命なのだろう?
興味は尽きない。
投稿者 keisuke : 科学 | 23:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月23日
総理の飲酒問題
国会で、一部議員や総理が飲酒をして国会に出席していたなどと問題になっている。自民と民主が互いに懲罰動議を出してもめているのだ。あほらしくて見ていられない。
社民党の阿部議員が「国会の品位を汚す」というようなことを言っていたように思うが、そもそも国会中継を見ていると、国会は品位などとはあまり縁があるとは思えない。
私は国会で居眠りは確かに良くないとは思うが、人間だから時には仕方がないと思う。それよりも、当たり前可のように常に飛び交っている野次の方がよっぽど品位もなければ、人としてどうかと思う。仮にあそこが学校だとしよう。あんな教室があっていいはずはない。酒を飲んでいるとすると酔っぱらいの野次だとすれば尚更悪いが。
酒を飲んで国会に出るのは確かにいいことではないが、損なことばかりに貴重な時間と税金を使うのはどうかと思う。損なことはさっさと済ませて、別の議題を進めるべきだ。
最近はよくNHKでも国会中継を流すが、なんだかあれを見ていても日本が良くなる気はほとんどしない。重箱の隅も含めて様々な点から与党を攻撃する野党。調べます、解りませんみたいな答えに終始する与党。調べた結果は後で野党議員に報告されるのかも知れないが、国民が知るところとはなかなかならない。多分自分が議員になれたとして、あの場に行くとそういう波に呑まれてあまりなにもできないのかな?そんな風にも思ったりする。
ではいったい何が、今の日本を作り上げてきたのだろう?結果的には微分されて個人に跳ね返ってくるしかないのだろうか?
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月20日
反対語
反対語というタイトルで、カテゴリーを文学というのもどうかと思うが、まあいいだろう。
友人とコーヒーを飲んでいて、砂糖の話になり、「甘いの反対は何か」ということになった。「辛い」だと思われるが、では酸っぱいの反対は何か?と言うことになったときに非常に難しい。
そもそも、甘いと辛いは本当に反対語なのだろうか?
反対語は対義語、反意語ともいうが、読んで字のごとく、反対の意味を表す言葉だ。上と下、大きいと小さい、長いと短いなど一瞥して反対の意味だと解る言葉も多い。ある尺度があって、その尺度の両端にその意味を置くことができるような言葉だ。ところが、「甘い」という言葉は非常に曖昧な味覚を表現している。何となく、甘い物の対極にあるのは辛い物のような気がするが、果たしてそうだろうか?
私は甘いの反対は「甘くない」だと言ったのだが、では、長いの反対は「長くない」かというとそうではない。「〜でない」を反意語としてしまうと、何でもそれで良くなってしまうから意味がない。
そもそも「長い」と「短い」も、何と比べて長いのか短いのかという尺度であり、意味を考えていくと、よく分からないことになる。但し、反対かどうかという意味に於いては「長い」と対になるのは「短い」だ。
であれば、感覚的なことに依存して、「甘い」の反対が「辛い」でもいいが、じーっとこのことを考えていると、実は甘いと辛いが本当に対になるのかどうか解らない。なぜなら、味覚は二者択一ではないからだ。甘いと辛い以外にしょっぱい、酸っぱい、甘酸っぱい等、微妙な言い回しが存在する。長さは二者択一だ。長いか短いだ。ちょうどいい等という表現を持ち出すのは意味がない。
そうしてみると、反対語というのはその意味するところが、二元的な対立に置き換えられない限り存在しないと言うことになる。
楽しいの反対が悲しいは、では腹立たしいはそれらの感情と比較してどの辺りに位置するか、と考えたときに解らなくなる。もちろん、へりくつと言われればそれまでだが、例えば試験などに出る次の言葉の反意語を答えよなんていう問題は、一度じっくり見つめ直してみると、案外首をひねるものが少なくないような気がする。
でも酸っぱいの反意語は、やはり酸っぱくないだろう。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:11 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月19日
サービス
サービスという言葉は、解っているようでよく分からない言葉だ。英語の辞書の最初には「奉仕」と書いてある。続いて「役に立つこと」とか「尽力」とかである。
我々が日常の中でサービスという言葉を使うときには、言外にお店などで、「商品の対価以上の何らかのメリット」を指す場合が多い。特に値引きや量的な追加等を指すことが往々にしてある。あるいは、その対価で、他のお店に比べて、よりよい物、乃至はより多い商品量を得ることができる場合にいう。
確かに日本語でも「ご奉仕価格」なんていう表現は使う。奉仕というのはそもそも、報酬を考えないで人のために何かを行うことのような気がする。どちらかと言えば、サービスではなくボランティアに近いイメージだ。お店にとっては利益を減らす、すなわち報酬を削っての提供だから、「奉仕」と言うことになるのだろうが、奉仕という単語に暗黙に含まれているように感じる、高邁さがそこにはない。店舗のご奉仕価格はそれがたとえ利益を度外視していても、全体として利益を上げるための施策でしかない。店舗全体が利益を度外視していれば、遠からずその店は潰れてしまうからだ。
つまり、店舗がサービスという場合には、それは奉仕とか、ボランティアではなく、「顧客の満足度を上げて、いかに自分の店舗にお金を落とさせるかのテクニック」だと言うことになる。と言うことは、店舗にとってはサービスというのは「金ももらわないでこんなことをしているんだぞ」の行為ではなく、お金を頂くための付加価値なのだ。
先日荻窪ルミネのイタリアンレストランへ行った。そこそこ遅い時間だったのだが、とても混んでいた。食事が終わってしばらく話し込んでいたが、ファミレスではないので、コーヒーのお代わりとかは期待していなかったが、ラストオーダーも過ぎたからだろうが、店員が気を利かせて追加を注ぎに来た。そのタイミングと、一言添えながらの様子が非常に良かった。それだけでまた行きたいと思った。混んでいる理由は味だけではないだろう。もちろん、いつでもお代わりがもらえると思っているわけでもない。
サービスというのはこういうことだろう。商売にはこれが必要なのでサービス業と呼ばれるわけだ。
ところで、もしサービスの意味が、奉仕とか尽力というようなことであれば、行政こそが最たるサービス業であろう。「行政サービス」という表現があるが、行政全体がそもそもサービス業であるという視点に立って、業務を行う必要がある。ましてや、値引きなど無い税金を、消費者の意志とは関係無しに取っていくわけだから、より重い意味でのサービス精神を培ってもらいたいものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月18日
電子ペーパーディスプレイ
折り曲げたり、くるくる丸められる電子ペーパーディスプレイが実用化されるが、一旦世に出れば、ノートパソコンを非常に軽量化するための技術革新が一気に進むに違いない。また、ネットワーク化でハードディスクも会社や家庭にあるものを利用し、モバイルの中身はメモリだけになれば、キーボードなども含め、ほとんど数百グラムのノートパソコンが実現するかも知れない。
ものは小さくなればいいかというと、必ずしもそうではないわけで、例えばキーボードなどは、ノートよりもデスクトップに付属しているものの方が打ちやすい。テンキーが分かれていたり、人間の手のサイズにあった大きさなのだろう。
また、ノートパソコンの小型化や、モバイル端末の普及に比して、デスクトップのモニタサイズはどんどん大きくなっている。唯一、モバイルの重さだけは少ないに越したことはない。究極は0gだ。
軽くて、実用上有効なノートパソコンのサイズが実現されれば、日常的に持ち歩くことが可能だ。
ライブドアが山手線内でネットワーク接続のサービスを始めるらしいが、これらのサービス合体すれば、本当にどこでも仕事ができるし、ペーパーレスも一気に進む。
ソニーは電子ブックに電子ペーパーを利用するらしいが、文庫はともかく、ハードバーや専門書を持ち歩かずとも、どこでも読める。
後は電源の供給と、省エネの推進、そして慣れだ。
CDが普及してもレコードを追いかけている人たちは沢山いる。同様に、書籍の電子化がいくら進んでも、簡単に本が無くなると言うことはないだろう。しかし、それも長期的な目で見れば、ほとんど紙の本が姿を消すという時代は来るに違いない。
紙というのは非常に便利なので、紙が無くなることはないだろうが、書籍が大幅に減ることは考えられる。
携帯がどんなに発展しても、携帯で論文を書こうという風に思う人はあまりいないだろう。だが、音声入力が正確なものになれば、ヘッドフォンタイプの入力デバイスがあれば、どこでも文章は書ける。絵だけは、非常に人間の感性に依存しているので、「手」を離れて機械化されたとしても、それは図形や、資料中に挿入されるようなイラストなどに限られよう。しかし、同じ感性が必要でも、文章は文字や音を通じてその中身が伝わりさえすればいいので、どんな形でも良い。もちろん、書道などは絵の部類だが。
我々が生きているこの時代は、電子計算機という表現がある程度聴かれるようになって、100年も経っていない。その間に、情報をやりとりする手段は非常に大きな変革を遂げてきた。今やポケットに入るパソコンがある時代に、より実用的なサイズで、より軽い製品が出現しようとしている。すごいことだ。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (1)
プロ野球交流戦
セ・パのプロ野球交流戦が終わった。パ・リーグトップのロッテが、交流戦でも1位を取り、強さを見せつけた。私はヤクルトファンだが、セ・リーグのペナントでは5位6位にいたヤクルトは、交流戦のおかげで上位に上がれた。
5月6月で、1チームが6球団と6戦ずつするわけだから、1週間に1日休みがあると6週間かかる計算だ。パ・リーグでは軒並み観客動員増となったらしい。
しかしここで交流戦が終わると、まずオールスターまでの1ヶ月は動員が減るだろう。セ・パとも。また、オールスター後は、その時の状況にもよるが、おそらくは、なぜ一気にまとめて交流戦を行ったのかという議論が起こるに違いない。
交流戦の1位を決めるという目的のために、総当たりのリーグ戦をまとめて行うと言うことが目的ではあろうが、シーズンの中にちりばめたところで、交流戦の1位を決めることはできる。その方が、「交流戦だけのファン」というのがきっといるに違いないから、そういうファンを1年を通して確保することができるように思うし、何より不確定要素がシーズン終盤まで残り、ペナントレースが楽しくなるだろう。
同一リーグの場合、シーズン終盤では1勝1敗が1ゲームの変化を及ぼすが、交流戦の場合、それが0.5ゲームになるからだ。もちろん、まとめてこの時期にやっても、例年のように、勝ち数と負け数の割合が同じでないので、マジックが微妙なものになる。ただ実際は、パ・セ双方の勝ち数がほとんど変わらないので、それほど極端なことにはなっていないはずだが。
期間中思ったのは、やはりマスコミの巨人贔屓はどの放送局も変わらないと言うことだ。放映されるのはほとんど巨人戦。しかも、最後の方は連勝したおかげで交流戦5位となったものの、ずっとセ・リーグの最下位だったチームの戦いをどう考えてもメーン・イベントに置くやり方というのは、ナベツネが帰ってきたのと同じように、日本の野球界のと、マスコミの旧態依然とした姿勢に変わりはないと言うことだ。ああ、日本的!
日本ハムが、あれだけの観客動員を札幌で行い、ロッテで盛り上がっている野球界を、もしつぶすとしたら、それはほとんどマスコミの冒険心の全くないスポーツ報道と放映のあり方にあるとさえ思う。巨人が野球界でその野球の代名詞になったのは長島や王のせいではない。最も古い球団であることと、長い年月にわたって、テレビでもラジオでも、必ず放映をするということを続けてきたからだ。
少なくともプロ野球界が何かを変えようとわずかではあるが何かを始めた年に、相も変わらず巨人中心主義を貫き通すマスコミの姿勢には開いた口がふさがらない。
いずれにしても、交流戦そのものは活気があったというのは経済効果も含めて良かった良かった。
投稿者 keisuke : スポーツ | 23:07 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年6月17日
人は何のために生きるか
人は何のために生きるかという表現は生きることの目的を問うている文章である。その問は、科学的にも哲学的にも、宗教的にも、そして子供の問、大人の問いかけにもなる。
この世に生を受けたからには、同じ人生を歩む人はいない。これまでの歴史上に何百億の命が生まれて消えていったか解らないが、そのそれぞれが違った人生を歩んでいる。生まれ落ちた瞬間に死する者から、100歳を超えて比較的平穏な人生を送る人まで様々だ。死後の世界があるかどうかは、死んでみないことには解らないし、「生まれ変わり」というのもやはり眉唾の領域を超えているようには到底思えないので、人の人生は一度きりと考えるのが、当面は妥当のようだ。
しかし、生まれながらにして明確な意志を持ち、「俺はこう生きる」と考えている赤ん坊も聞いたことはないので、人はその成長過程の中で生きる意味を見いだしていくというのが、ある意味正しいように思う。
ところが、世の中には別に生きる意味など問わない人も沢山いる・・・と思う。もちろん人生は長いので、似たようなことを特に多感な時期に何らかの形で考えたことがあるという人の方が多いかも知れない。
信長が桶狭間に今川義元を破る前、あたかもこれだけは史実として間違いがないかのように、多くの小説やドラマでも必ず出てくるのが、信長が幸若の敦盛の一部を舞うシーンだ。熊谷直実が平敦盛を討ったことに題材を取ったものだが、信長のシーンの多くは「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか」という部分だ。ドラマにしても小説にしても、このシーンを描く目的は、信長の背水の陣、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれということを強調するためだ。あるいは信長の強運、人と違った様を描くためだったりもする。
この世を夢幻と謳うのは、死に臨む敦盛、あるいはその亡霊の心象なのか、いずれにしても、その儚さはよく伝わってくる。この儚いという字が人の夢という字であるのも、何か事の本質を突いているようにも思える。この世の生の儚いことは、どんなに歴史に残ろうと、そのことを本人は知ることができないことであり、より長い歴史の上から見れば、残りもしないことなのだ。人類の歴史は、歴史として残って以来、せいぜい中国でさえ4千年だ。地球が生まれて50億年近くが経つらしいから、4千年というのはそのわずか0.00008%に過ぎない。これから地球が(今の科学論を信じるなら)、膨張する太陽の内側に隠れてしまうまでまだ50億年。
一人の一生を100年としたとしても、人類の歴史の2.5%しか経験できない。人生とは、かくも短く儚いものなのだ。
何のために人は生きるのか?という疑問は解答のない質問であるが、その答えはもし出すとしても生きている間に出さないと意味がない。試験が終わった後に答えが分かっても、試験の点数には反映されないからだ。
不思議なもので、例えば哲学者の一部などはきっと、このことだけを考えて一生を送る人もいるのかも知れない。一見本末転倒のような気がするが。
自分の人生は波瀾万丈ではないと私は思っている。少なくともこれまでの人生は比較的平板だった。波瀾万丈というのは起伏が激しいと言うことだから、必ずしも望ましいわけではない。グラフで言えば、上の方を横に一直線の人生のがいい。もちろんそんな人生が転がっているはずもないのだが。
だがこの問は、信長ではないが、時に敦盛を舞う気持ちで生きることの重みを教えてくれる。その質問に答えはなくとも、意識がある間は十全に生きる努力をしておいた方がいいと言うことだ。そうすれば、夢幻もいい夢と言うことになるだろう。
投稿者 keisuke : 人生 | 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月15日
マジック
ペンのマジックのことをマジックというのは内田洋行の商標らしい。宅急便がヤマト運輸の商標であるのと同じに、マジック、あるいはマジックインキは、特定の商品名を指すと言うことだ。英語では一般的にはマーキングペンというらしい。今時、油性のマジックはどのメーカーのものでも皆「マジック」と呼ぶ。手元にzebraのマッキーがあるが「マッキー取って」とは誰も言わない。「マジックとってだ」。
そもそもマジックというのは不思議な物だが、これもまた不思議な現象ではある。
さて、言葉ついでに、日本語の手品はそもそも英語ではマジックだが、辞書を引くと「a conjuring trick; sleight of hand; magic」の三つが出ていて、さらにトランプ手品と引くと「a card trick」とある。trickはごまかしとか策略とか錯覚とあるので、まさに手品はtrickという役の方が本来は正しい。
マジックはどちらかというと魔法や魔術という、超自然の何かという意味があるから、マジシャンは魔術師の傾向が強いと言うことだ。そもそも魔術が科学的な知識の薄弱だった時代に、手品めいたことでその地位を保っていた一般の手品師、あるいは占星術師とかだということであれば、Magicianという言葉は古今変わらないということにもなる。
昔のマジシャンが本物だったか偽物だったかは別にして、日本では今、手品が大流行だ。年中テレビで目にする。
昔から多くの手品師がいたが、恐らく「超魔術」という看板を下げてやってきたMr.・マリックが出てきてから手品の世界は変わったような気がする。かつて先代の引田天巧は「大脱出」という今でいうイリュージョンの元のような大がかりな奇術を多く行った。
それに比べるとマリックの超魔術は、天巧に比べれば仕掛けは小さいが、それより前のユリ・ゲラーのスプーン曲げを凌駕する、不思議をそこに備えていた。ユリ・ゲラーのスプーン曲げを台無しにしてしまうスプーン折りや瞬間移動などと銘打った、それまで見たことのない「超魔術」を見せてくれた。
その後、「超魔術」なんて言ってるけど実は手品だろう、なんていう騒ぎもちょっとあったような気がする。そもそもマジックが魔法であれば、超魔術という表現は、それをせいぜい和訳した程度のことでしかない。確か彼は、「超能力」という表現を使った記憶はなく、「ハンド・パワーです」は流行語にもなった。実際に手品だったとしても、まさにすごいハンド・パワーには違いない。
一時期あまり姿を見かけなかったマリックも再び復活し、よくテレビに出ているし、最近の手品師は、皆マリック顔負けのとてつもない手品を披露する。これは日本ばかりではなく、海外でもすごい腕前が沢山いるようだ(当たり前だが)。
デビッド・コッパーフィールド等という文学作品みたいな大御所や、プリンセス・テンコーなど、最近ではこれでもかという程すごいものが多い。その一部は覆面をした手品師がトリックを明かすことで、むしろ難しい物の価値を高めている。
最早最近の手品の多くは、超能力との区別もつかない。いや、あれだけの話術、巧みな手さばきなどはある意味本当の超能力と言ってもいいかもしれない。
人間は錯覚するが、この錯覚もまた人間らしさなのだろうと思う。
今のところ、有名な手品師(マジシャン)の、あるいは有名ではなくとも驚異的なマジシャンの実例を目の前で見たことがない。テレビなどでは、時たま映す芸能人の顔がとてつもなく煩わしいが、一度この目で見てみたいものだな、と思う。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:53 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年6月14日
中国が外国産アニメを規制
中国では全国のテレビ局でゴールデン・タイム(午後五−九時)に日本など外国製アニメを放映することを禁止することになるという。
こういうニュースを見ると、改めて中国は共産主義国家なのだなあ、という思いを強くする。テレビアニメまでが国策の一部になるということを、中国の人々はどう見るのだろうか?
自ずと無規制の世の中というのは存在しないと思うが、国家が上から押さえつけるような形でそれを実現するかどうかの境目というのはいったいどの辺りにあるのだろう?
先日何かの番組で、「総理大臣が失敗したら、国民が罰金を払う」という主張を議員にさせて、芸能人などがそれに共感するかどうかという番組をやっていた。実は、そこの結果しか見ていないので、どういう主張だったかとか、具体的なところは解らないのだが、日本の総理大臣やアメリカの大統領など、多くの国では国家の元首を国民が選んだという建前になっている。アメリカの大統領も直接選挙だとはいうが、選挙人の制度など、完全な直接選挙による多数決にはなっていない。まして日本では、小泉純一郎以前の総理大臣の就任当時の支持率を見れば、到底国民が選んだとは言えない数字なので、「総理大臣の失敗を国民が取る」というような法律が容認されるはずもない。
しかし、中国などでは、結果的に人民の代表は人民が選んでいることになっている点では、日本やアメリカと見た目だけはあまり代わらないような気がするが、内実は大きく違う。明確に共産党の中からしか選ばれない代表は、党の指導者階級の意向を汲んだ、少なくとも元首であるだろう。
この元首という表現も、なかなか問題があるので、突っ込まれそうなのだが、あくまで、政治的な一国の代表という意味でここでは使っているので、日本に元首はいないとか、そういう表現的なことはこの際無視する。
中国がアニメを規制するのと、アメリカが暴力シーンを規制するのと、日本が性器の映像的な露出を規制するのと、どれも言ってみれば国家による表現の規制な訳だが、何となく違うというのは多くの人が解ることだろう。しかし、今のようにアニメが社会的地位を得る前、PTAなどが漫画を悪書としていた当時に、仮に国家が、アニメを何らかの形で規制していたらどうだったろう?
例えば、権力を握るものが交代できないという意味であれば、北朝鮮のような独裁国家を極として、中国のような共産主義国家、かつてのソビエトのような社会主義国家等、一部の人間が権力を掌握し、政治を推し進めるというのは非常に嫌なことだ。しかし、自民・公明の多数派が国会を牛耳っている現状は、それとほとんど変わらないような気もする。
昨年の年金法案など、まさに世論とは大きな隔たりのある法案を無理矢理通してしまうところなど、結果的にはそれほど中国などと違いを感じない。
自由主義国家がうまく機能するためには、いかに国民の求める政治を政治家が行えるかで決まるので、少なくとも今の日本は、そうではないような気がする。確かに、共産党や社民党はあるが、彼らが政治を変えられるとは思わない。それは非常に感覚的なことだが、あながち間違ってはいない。確かに多くの問題提起はできるが、それだけだ。彼らが票を取れない、つまり国民の意思がそこにはないと言ってしまえばそれまでだが、しかし、ではなぜ、多くの人が自らが投じた票で、選出された多くの議員が運営する日本という国家が、国民の意識を反映することが下手なのだろう?
私は政治学を勉強しているわけでもないし、ごく普通の日本国民なので、その辺りがどうもよく分からない。「ドラえもん」をゴールデンタイムで見たい中国人が見られないという現実と、結果的に税金などを無駄遣いされている日本国民の間に、それほど大きな差があるのだろうか?
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:33 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月13日
花田家騒動
故・双子山親方の死去後、毎日、貴乃花と、前若乃花の話題がニュースで流れない日はない。こんな話題がほぼトップニュースで流れているのは、多少なりとも平和な証拠のような気もするが、その影で教室に爆弾を投げ込んだ高校生のニュースなどもあるので、一概にそうとばかりも言い切れない。
花田家の騒動は、いわば他人の家のことだが、亡くなったのは初代貴乃花、話題の渦中にいるのは息子の花田勝と貴乃花、ということになると、世間は放っておけないらしい。
時折世の中では、遺産相続ということが争いの種になるが、財産が多いのも考え物だ、などということに、そういう場合はなるわけだが、今度のことは必ずしも遺産の多寡には関係ないようだ。よく夫婦は他人という。血は水よりも濃いという言い方もする。その割に生みの親より育ての親という言葉もある。かように人間関係というのは肉親であろうが他人であろうが、時に難しく、時に断ち切りがたいほど強いこともある。
結果的に人はそれ個人が単独なのだ。どんな場合でも、生まれるときと死ぬとき、それが双子であろうと、戦争で一気に死のうと、その個々人の生や死が単独であるように、その人生も単独だ。そしてその単独の人生が様々な他の個人と絡み合っているのが社会であり、それが家族であるかどうかというのは、多くの場合、幼い頃から共に暮らしているという点か、そうでない場合は、自分の遺伝子はこの両親の物なのだという確信が、何らかのその人の考え方に影響を及ぼしている。それ以外は他の他人と一緒だ。
二十歳で結婚し、20年経てば、親子と夫婦は多くの場合、共に生活した人間は同じ年数になる。しかも直近は夫か妻と言うことになるので、その精神的な繋がりはそちらの方が強かったりするだろう。
貴乃花と若乃花を見てみると、相撲では明らかに弟の方が才能があり、実力も上、横綱になったのも先で、在位も長い。兄弟横綱だからといって、兄はどこか引け目を感じる部分もあったろう。弟は父の名を継ぎ、兄は叔父の名を継いだ。この微妙な差が、何らかの形でずっと二人の間に影を落としてきたであろうことは想像が付く。
会社でも息子が兄弟で継いだりすると、意外に上手くいかない場合が多い。自ずと兄弟であっても能力に差はあるし、双方がそのことに向いているとは限らないからだ。若乃花が相撲界を抜けたのは、彼なりの人生観だったろう。相撲界にいる限り、彼は弟を抜くことは叶わない、そう判断したのではないかと思う。だが弟にはその点は理解できなかったに違いない。
兄弟が仲良くする。これはあたかも当たり前のことのように世の中では言われるが、そこに利害が対立したり、非常に厳しい競争があればそれも難しい。最も近いライバルが自分の兄弟であれば、その二人が仲良くするというのは、できなくはないとしても、困難を伴う。
勝負と生活は別、そんなものではない。例えば、できる長男の弟が、よく兄と比較されて苦しむなんていうのはよくあることだ。誰もがみんな、浅見光彦のように生きられるわけではない。彼は、東大を出て警察官僚の道を選んだ兄と常に母親から比較され、自ら俺はオチこぼれだと嘯きながら、飄々と文筆業に精を出し、行く先々で難事件を解決する。現実ではほぼあり得ないわけだが、それでも、できる兄弟と、それよりは劣る兄弟のそれぞれの生き様は、やはり違うフィールドの方が良いという、一つの示唆でもあるような気がする。
まあ、いずれにしたところで、追いかけ回すマスコミもやむを得ないとも思わないでもないが、いささか他人の家に土足で入っているという感が、こういうことに関してはやはりする。またそれに整然と答える貴乃花も、なかなか一筋縄ではいかない不思議な人物だ。
相撲業界という、どちらかと言えば伝統や格式にがんじがらめになっていそうな社会にあって、さてこの結末はいかに?というほど大きな事件ではないとも思うのだが。
そんなことより、突如効かなくなったうちの冷凍庫の方が大問題だ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:47 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月12日
略語・または言葉を短く言い表すこと・短縮
大人は時々、「最近の若い人の言葉は分からない。何でも短くする」などという。
「若い人の言葉は分からない」は、ある程度、「古い言葉は分からない」の裏返しなので、子供が大人の言葉を分からないのと同様、大人が子供の言葉を分からないのは普通のことだ。もちろん、子供の立場の「解らない」は、多分に勉強不足という側面があることも、また事実だ。だがこれは、言葉の変遷という文脈の中で、アローワンスを広く取って考えていかねばならない問題でもある。
例えば、同様な問題が、外国語ばかりを使う一部のビジネスマンや、評論家、業界人などと、一般の人との間にある乖離、それぞれの業界にだけ通用する言葉等存在し、必ずしも若者に対して「おまえらの国語はいいかげんだ」と主張することはできないように思う。それでも何となく、多くの大人が、「最近の若いやつの言葉は・・・・」と思うのは、何かがありそうだ。実際には単なる世代間のギャップがほとんどではあっても、昔に比べて情報量が多いことと、表現手段が多様化したことで、自分たちが子供だった頃の大人とのギャップ以上のものを、大人達は感じているに違いない。
その一つが、「あけおめ(あけましておめでとうございます)」「ことよろ(ことしもよろしくおねがいします)」等の表現や、告白することを「告る(こくる)」という風に言ったりする短縮表現で、以前テレビで誰かが、それを気に入らないと言っていた。ただ、言葉を短くするという表現手段は、古今東西、常にあることで、例えば英語などでも、CD ってなの略かなんていうのも、業界によって違ったりする。「あけおめ」なんて可愛いものだ。むしろ、近しい間柄で、「明けましておめでとうございます、本年もどうぞよろしく・・・」なんていうのは気恥ずかしくて言いづらいという場合もあるだろう。「あけおめ、ことよろ」がいいという感覚は分からなくはない。
うざったいなどという言葉も、最近では「うざい」になり「うざっ」になる。これは、「がんばれ」が「がんばっ」になったのと似ている。
先日、金八先生の昔のが流れていて、その中で三原じゅん子が新宿のことを「じゅく」といっていた。これでは新宿か原宿か解りづらいような気もするが、当時、「じゅく」といえば、学習塾ではなく新宿を指すというシチュエーションがあったのだ。今でも「しぶちか」といえば、渋谷駅の地下街だったりする。
但しこれらの言葉は消えてしまうものが多い。非常に短命なものと、しぶとく生き残っていくもの、そしてふるくから使われていても、消えてしまう言葉、意味の変わってしまう言葉、その中で生きているのだ。
よく「美しい日本語」などというが、「美しい」という、一見共通概念でありそうなのに、実は人によって大きく違う感覚的な言葉で表現された内容は、極論をすればこのみに他ならない。
「袖振り合うも多生の縁」という言葉も、「袖摺り合うも他生の縁」、そして、「多少の縁」となり、ほとんどちょっとした出会いのことだと思っている人も大いに決まっている。こういうことの間違いに気がつくために、現代が用意しているのはクイズ番組であり、読書ではない。
こういう世の中の変化がいいか悪いかというと、私はあまり良くないなあ、と感じる世代ではあるが、部分的にはやむを得ないのだろうとも思う。
少なくとも、若い人が言葉を壊しているような物言いは違っている。彼らの言葉の多くは非常にローカルであり、そのほとんどは消えていく刹那的な言葉である。むしろその中から生き残る言葉というのは、社会的に認知されていくわけで、いい言葉なのだ。・・・内容は悪くても。
ただ、それでも尚、日本語というこのひらがな、カタカナ、漢字で構成された滋味豊かな国語は、愛すべき言語である。微妙な言い回しや、表現の多彩さは世界に誇っていいと思う。長く大切にはしていきたい。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:11 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月11日
UFO
今日夜のテレビ番組でUFOの話をしていた。久々に矢追純一の顔も見た。超常現象の話題でよく見る人がいたので、そんな内容だったに違いないが、UFOのところだけをちょっと見た。
さて、UFOといえばピンクレディーと焼きそばといった感じもあるが、昔は「ゆーふぉー」なんて英語では言わないなんて言われたものだが、今では英和辞典にも「ユーエフオー」「ユーフォー」2つの発音記号が載っている。
子供の頃はまだUFOではなく「空飛ぶ円盤」で、英語で言えば「Flying Saucer」なんて、雑誌には載っていたような気がする。
テレビでは、前出の矢追純一が日テレのディレクターだったときに、よく特番を組んでいた。70年代から80年代くらいではなかったかと思う。それから30年前後経ったわけだが、昔と比べても、いまだに放送内容がさほど変わったようには思えない。
これだけ本当っぽい写真がありますが、ほんとっぽいビデオに変わり、それでもほんとか嘘か解らないというスタンスで放送されている。片や、必ず宇宙人は存在していて地球に来ているという主張から、現代科学の常識を踏まえて「そりゃ無理だ」と否定してしまう科学者などの非常に二元的な対立は、UFOをテーマとした机上のディベートにしか見えない。
もちろん、UFOはこういうもので、こういう風に存在していますと公の機関が発表すれば、取り敢えずは一件落着なのかも知れないが、昔からそれは気球ですとか、隕石ですとかプラズマですなどと言われても、信奉派が信じるはずもない。彼らの多くは、太陽系外から来た宇宙人の乗り物ですという発表がない限り、ほぼねつ造だと主張するに違いないからだ。
これは心霊とか、ネッシーを代表とするいわゆるUMAとか、生まれ変わりとか、いわば教科書には存在が書かれていないが、世の中に信じる人が沢山いるいわゆる超常現象一般に当てはまる。
科学が実験や経験で実証されて理論となるのであれば、幽霊にしてもUFOについても、十分すぎるほどの証拠は揃っているような気がする。但しそれが何であるかは、どちらも明らかにそれを捉えたという証拠がないようなので、断定するのは難しいように思う。観光地の写真に手だけが写っていたからといって、それが霊魂であるという証拠はどこにもない。同じように、UFOは何か飛んでいるという証拠は相当あるように思えるが、中に誰が乗っていて、どこから来たかという部分を写した写真やビデオはほとんど無いし、捕まった宇宙人という、背の低い人をからかう材料になっている有名な写真も、いったいいつの物だよ、というくらいに古い。
本当に、光より速い宇宙船が造れないとしても、高速で動く物体の時間経過などを考えれば、他の恒星系から地球を訪れることができないと判断するのは早計だ。例えば今のパソコンだって、1000年前の人は想像すらできていなかったのは間違いない。それが数万年単位で進んだ文明があったとすれば、物理現象がどうあれ、ほぼ光速に近い宇宙船を造ることが不可能だとは言いきれない。
人間の寿命は百数十年がせいぜいらしいが、他の星の人間が同じくらいしか生きられないという証拠はない。医学的に不死に近い延命だって、達成しているかも知れない。だとすれば、片道100年かかろうが、宇宙旅行はするだろう。地球が含まれる銀河のはずれの周辺だって、そんなにして恒星間を行き来している種族がいないと言い切ることはできない。
もっと言えば、光速の壁を、人間が小説や漫画の中で解決したような方法で解決していないと断言してしまうのは、科学が常にどの時代でも抱えている不遜という名の欠点であろう。ニュートンがアインシュタインに代わられたのよりも、もっと劇的な変化が、この世にないとは限らない。そもそもそれくらいこの宇宙は不思議に満ちていたところで不思議ではない。
もちろん、だからといって宇宙人が地球に来ていることの証明にはならないし、何十年もかかって何の証拠も出てこないところを見ると、いないといった方が真実に近いような気もする。少なくとも地球上には。
ペリー・ローダンシリーズで、一触即発の東西世界の状況を救ったのは、異星人の力を利用して「第三勢力」を打ち立てたローダンだった。言い換えれば、異星からの驚異に対して人類がまとまったと言うことだ。多くのSFが地球がまとまるために異星人を介入させている。新たな驚異のためには身内がまとまるという構図だ。
そう簡単に異星人が来ていたとして、そこの攻撃的な意図があるとも思えないので、異星人がいると解った時点で地球がまとまるとも思えないが、いつまでも殺伐とした世界が、何とか平和になるために、宇宙人の皆さん、何とか一役買ってもらえない物でしょうか?但し危なくない方法で。
投稿者 keisuke : 科学 | 23:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月10日
腰痛
腰を痛めた。何をした、というわけではない。机の脇の積み重なった紙類の中を捜し物をしていたときに、「やべっ!」と思った。時々やるのだ。
静かに動いて、まずいことにならないように・・・・と思ったが、結果的にはいつものような感じで痛めてしまった。
今日は、飲み会があり、幹事だった上、どうしても出たいという理由もあったので、だましだまし出かけた。新宿が遠かった。雨も降っているし。
二次会の席に着いたとたん、携帯に仕事の電話が入った。どうしても今日中に解決しなくてはいけないというクライアントの依頼。やむを得ず席を立って事務所に戻った。どうにか解決したが、改めて出かけるにはちょっと歩きたくない感じだった。
世にぎっくり腰というのがあるが、多くのぎっくり腰は身体を動かせないほどだという。ありがたいことに、そこまでの痛みはない。しばらく前に船越栄一郎がぎっくり腰になって入院していたっけ、と思う。ただいずれにしても、骨か関節か筋肉か解らないが、ずれているか、こすれているか、理由はともかく、痛いことには違いない。
階段は上るより下る方が辛い。今度のようになった当初は、長い時間同じ姿勢を取っていたりすると、その時は大丈夫なのだが、動こうとすると腰が伸びない。理由の多くは、運動不足と肥満に依ることは言われなくても解っている。
しかし考えてみると、始めて痛めたときから、既に10年くらい経つ。当時は朝腰を痛め、それでも出社していた。デスクワークだったが、行き帰りの10分程度の時間が辛かったのを覚えている。実質は家から駅までと駅から会社まで行きに20分、帰りに20分かかっていたので、今よりよっぽど辛かったはずだ。今より10若かったわけだが。
安静にしていたり、時にはちょっと辛くても姿勢良く歩くと直ることがある。必ずしも寝ていれば直るというものでもないらしい。むしろ、横になってばかりだと長引くこともある。とはいえ、なったばかりはやはり安静にするしかない。なぜなら辛いからだ。
新明解国語辞典で「腰痛」と引いたら、「腰の痛み」とだけ出ていた。この説明は頭が痛いぞ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:39 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月 9日
住宅情報
しばらくして引っ越さねばならないので、最近、ネット上の住宅情報をよく見ている。
リクルートが情報を出しているISIZEのフォレントというサイトだが、結構見やすい。間取りなども結構乗っていて、ありがたい。できれば、すべての物件を見られるようにしてほしい。それと、できれば地図でどの辺りなのかというのがその場で解ると非常に便利だと思うのだが。
駅から何分とは書いてあるし、大まかな住所も書いてあるが、だいたいの位置がその場で地図で解るとうれしい。
それにしても東京の物件は相変わらず高い。それでも、都心の新築高層マンションの100u以上の広い物件に数十万円も出して暮らせる人がいるというのはすごいことだなと思う。
マンションの情報ページなどは、3Dで内部が見られたり、360度の絶景がFLASHで見れたりと、なかなかよくできている。もちろん賃貸ではないが。
実際には本気で探す時期になったときに、不動産屋へ足を運ぶことになるのだが、前情報として、物件と相場みたいなものが解ってありがたい。考えてみると、昔は雑誌を買って見ていた情報だ。今では無料で見られる上、最新情報が更新になったことをメールで教えてもくれる。便利になったものだ。
内部写真があると尚ありがたいと思う。
それにしても、いまだに解せないのは「礼金」というシステムだ。前にもどこかで書いたような気もするが、一般の商取引に見立てれば、販売店出物を購入し、例えばそれが千円であれば、「売ってくれてありがとう」と言って2千円を余分に払うようなシステムだ。
家というのはないと暮らしていけない。礼金を払いたくないと言えば貸してもらえないようにも思うので、やむを得ず払う。なんだか税金似ている。尤も、家賃10万円、敷・礼/2・2だとすれば、初期設定費用20万円、保証金20万円、月額費用10万円という考え方もできるので、「礼金」というおかしな名称がいけないのかも知れない。
ニューヨーク当たりの賃貸物件も非常に高いようだが、日々の生活の場が毎月稼いだ給料の数分の1を削っていくというのは、時代とともに変わっていくのだろうか?都会と地方の距離が縮まったり、様々なコンビニエンスが実現されたり、SOHO感覚がもっと進めば、住宅事情も変わるのかも知れないと思うのだが、人間のコミュニケーションに対する欲求を考えると、どこでもドアくらいが実現しない限り、なかなか難しいのだろうな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月 8日
祝・日本サッカーW杯出場
サッカーの日本代表が北朝鮮に勝って、ワールドカップ出場を決めた。まずはめでたい。
こんな時しかサッカーを観ない男なので、ファンとも言えないが、日本代表が勝ったというのはうれしいことだ。所詮人間は、大なり小なりの民族主義的な集団への所属意識というのがあり、国家から個人に到るまでの各段階で、自らが所属する集団に何らかの思い入れを持つ。
サッカーに興味が無くても、日本代表を応援する所以だ。
私は取り敢えず、バーレーン戦も最後まで見ていた口なので、平均的な日本人のおじさんくらいには興味を持っている。人と人の、相手を傷つけることが目的ではない戦いというのは、どこか人間の本能的な興奮を誘うのだと思う。
さて、中田、中村、サントスが出場停止、小野、高原が怪我で出場できないという状況で臨んだ試合だったが、私は出かけていて試合を観ていない。たまたま入った店で、勝った瞬間を放送していた。街中のインタビューされている人たちのような興奮はないが、うれしかった。
それにしても、試合を放映していたテレビ朝日は、あたかも今日ばかりは日本人の全てがサッカーにしか興味ないのではないかという程、ずっとサッカーの放映をしている。
その中で、サッカーの競技場の外から応援している日本人の様子も流していたが、試合開場の外で、付近の住民には迷惑ではなかったのかと、そんなことの方が気になってしまう。フーリガンのようなひどいものではないが、結構うるさいのではないか?
何でもそうだが、すぎたるは及ばざるがごとしみたいな感じもする。
もちろん、ファンとしての盛り上がりに水を差すつもりはないが、元来日常的に、盛り上がりに欠ける人間なので、そんなことで余計気になるのかも知れない。あ、ひねくれてるってことかな?
まあ、とにかく選手は素晴らしかった。あんなに走ったら、俺は倒れるな。
投稿者 keisuke : スポーツ | 23:36 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年6月 7日
梅雨入り
今日は天気が良かったが、週末辺りに梅雨入りするらしい。
不思議なもので、雨は好きな人と嫌いな人がいる。みんながみんな憂鬱なわけではないのだ。実は私も、外出しなければ、取り立てて嫌ではない。というより、意外に雨の日曜日なんていうのは好きだったりする。
でも、それが毎日となると、さすがにうっとうしくなるから、梅雨というのは、気分的にはあまり喜ばれないのだろう。確かに営業の人などには、最も嫌な季節の一つだろう。
私が梅雨が嫌な理由のもう一つは、髪の毛が収まらないからというのもある。元々癖っ毛なので、整髪料で押さえたりするわけだが、雨の日はそれもままならない。40も半ばを過ぎて、短く刈ればいいじゃないかと言われるかも知れないが、あまり似合わないのでしたくない。
昨日、ジーコジャパンのタイでの練習風景で、すごいスコールが放映されていた。スコールというのはそういう地方に行ったことがないので経験したことはないが、土砂降りの夕立が毎日あるような感じなのだろう。外出先だったらたまらないな、と思った。だがそれとは逆に、ちょっと清々しそうだし、やんだ後はきっと涼しいのかな?とも思わせる。
もうじき梅雨が始まり、明けるまでには1ヶ月あまりかかる。雷が鳴って、スコール並みの土砂降りが来れば梅雨明けかな?そんな日本の風物はなかなかいいな、と思わせる季節でもあるのだ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月 6日
漢字の書き順
漢字検定というのがある。受けたこともないし、受けるつもりもない。が、先日テレビで、漢字検定には漢字の書き順も出るというようなことを誰かが言っていた。
漢字の書き順て、そんなに大事か?
漢字の成り立ちや、書き順というのは、学問としては意味もあるような気もするが、日常的に知っている必要性を全く感じない。
かつて高校時代に、数学の問題で、友人が当たるというので、答えを見せたことがある。クラスが違ったのだが、ノートを返してもらうときに、答えは合っていたが解き方が違っていて、怒られた。と言われた。今思えば、たまたまその答えが、その時だけ正答と同じになった、つまり他の場合には上手くいかないと言うことだったのかも知れないが、そうではないかも知れない。私は普通に説いてそれでいいと思っていたので。
なんだか書き順ていうのは、ほとんどそんなのと同じに思える。
個人的には書き順なんてどうでもいいだろう、と思っている。
最近、「ネプリーグ」という番組で漢字の読みを答える問題が必ず出るが、あれは面白い。なかなか難しい問題も出る。また、昔は知っていたのに、頭が錆びて解らなくなっているときもある。
漢字そのものは、日本語を構成している非常に重要なパーツである。ひらがなとカタカナだけでは、意思の疎通は非常に困難で、また読みづらい。漢字があることでメリハリが出て、リズム感も生まれる。だから、漢字は重要なコミュニケーションツールで、読み書きはできた方がいい。最近は「書く」機会がかなり減っているので、それはそれで問題も多いが、せめて読める漢字は多いに越したことはない。
今日の夕方のニュースでナレーターが「人工皮革」を、「じんこうひかわ」と呼んでいた。ロボット仕掛けの演歌の若大将のようだが、一通り終わったところで、アナウンサーが訂正していた。たまたま間違えたのかも知れないが、テレビというのは恐ろしい。
漢字の書き順を知っていることのメリットを(知識が豊富という点だけでなく)知っている人がいたら教えて欲しい。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:40 | コメント (3) | トラックバック (0)
2005年6月 5日
DVDのケース
DVDのケースは、その多くがトールケースと呼ばれる背の高いケースである。もちろん、CDが採用している15cmくらいのケースに入ったモノもあるが、かなりの割合で大きなケースの方が多い。
一つには万引き対策だろう。CDが発売になったとき、万引きは最も懸念された弊害だった。レコードに比べると、明らかに万引きはやりやすいからだ。ただ、それだけであれば、わずかばかり背が高くても、さほど防止効果があるとは思えない。
もう一つは、背の幅が広いので、タイトルが解りやすいということがある。CDの高さでは、幅を広げても文字を大きくしづらいかも知れない。
しかし、CDが同じケースに移行しないというのは、同じ光ディスクなのに、間違えないようにという配慮もあるのかも知れない。大きなパッケージはDVDですみたいな。しかしそうしてみると、DVDよりもCDの方が、実はライナーなどの付属品が付く率が高い。オペラなどは、字幕が出るから、DVDでは歌詞対訳が必要ないが、CDの場合にはそれが必要だ(もちろん付かないのもあるが)。だから、むしろCDのケースを大きくした方が理にかなっているようにも思える。
どちらのケースもプラスチックには違いないが、落としたときにDVDの方が割れにくい素材になっている。郵送などの場合も、「ワレモノ」という心配が少なくてすむ。
ただまあ、増えてくるとそれはそれでこのケースは邪魔になってきそうだ。当たり前だが、CDよりも場所を取るからだ。
次世代ディスクは、容量をかなり増すから、今まで2枚だったものが1枚にはいるなどの利点はああるだろうが、実際には画質や音質を上げるためにビットレートを変えて、1枚に映画なら一作品とかになるのだろうか?
SPがレコードになったとき、枚数は圧倒的に減った。さらにCDになって、レコード2枚分くらいに相当する場合もある。DVDが、DVD-DAというハイクオリティではなく、通常のCDと同じオーディオだけを収録すれば、ワーグナーのオペラも、大分枚数が減る。
MP3で収録すると、手持ちのバーンスタインのマーラー交響曲全集がCD1枚に収まる。1分1MBとして、約CD1枚分だ。次世代DVDであれば、CDクオリティにして、余裕でこれが1枚にはいることになる。
そうなれば、現在のパッケージと同じ形態でも、マーラー交響曲全集や、ニーベルングの指輪全曲のオーディオは1枚で収まるので、場所を取らない。
以前から思っていることだが、何枚組というCDの発売をなぜ、DVD1枚に収録するという(オーディオだけ)手段を取らないのだろう?カラヤンが決めた(といわれる)1枚74分なんていうのは、今や無駄な限界で、映像が入っていても180分程度は普通に音声の入るDVDがあるのだから、そちらで発売すればいいと思うのだが。
美空ひばり全集でも、山口百恵全集でも、エルビス・プレスリー全集でも、DVD1枚に音楽が全て入りそうな物だが。
いやいや、パッケージの話からそれているように感じるかも知れないが、それらだって、でかい箱に入っているんだ、実際に発売されれば。・・・・やっぱり値段の問題かな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月 3日
まんが
書店へ行って漫画のコーナーへ行くと、ほとんどの書店で、ほとんどの漫画にビニールがかぶせてある。当然立ち読み対策であることはよく分かる。以前にテレビでフランスで漫画が流行っているという映像を流していたが、その店内たるや、日本以上の立ち読み座り読みが横行してすごい様だった。
しかし客は立ち読みをする人間ばかりではない。もちろん立ち読みを、書物の中を確認したり、多少の内容を読んだりすることを含むのであれば話は別だ。書店ではほとんどの書物は、内容をある程度確かめられるように書棚に並べられている。漫画とアイドルなどの写真集だけが透明なカバーを付けられて売っている。談合でもしているのではないかと思うほど、各書店共通仕様だ。かつてビニ本というのがあったが(今もあるのかな?)、まさにビニ本状態だ。
私はそもそも漫画を多く読む方ではない。漫画週刊誌に到っては、1年間に数回、何かの待合室とかで、たまたま読む本でもなければ手にする程度だ。では漫画が嫌いかというとそういうわけでもない。むしろ漫画にしろアニメにしろ、日本が世界に誇れる文化だとも思っている。ただ、他の本や音楽と一緒で、漫画だって選ぶのだ。誰でもそうだろう。
タイトルや表紙を見て気になっても、どんな漫画なのか全く判らない状態で、買う気にならない。
もちろん、何かを購入する場合、あるいは食事でも何でもいい、お金を払って手に入れる物には、何らかのリスクがつきまとう。それと一緒だという意見もあるだろう。そういう意味では、CDなどもそういうケースが多い。私も、ジャケットやタイトルだけでCDを購入したことは一度ならずある。だが、だからいいというわけではない。
私はビニールの中を見てみたいし、それで買う気にならなければ買わないし、買う気になれば買う。書店でそういう買い物がしたい。丸々一冊読むことは、私の性格からもライフスタイルからもあり得ない。実は多くの人がそうだと思う。ただ、あの場で何冊も読みふける輩がそれはそれで沢山いるのだ。それは知的所有権の侵害であり、書店の営業妨害であり、客にとっての邪魔である。
ブックオフのように二束三文で叩き買いをして棚に並べているのとは訳が違うから、書店の大変さは解る。考え方によれば、違法性のない万引きと同じだからだ。そもそも万引きについての認識も世の人たちは非常に軽い感覚を持っている。これは今日、夕方の日テレで特集していた痴漢と一緒で、社会としての認識の甘さが根幹にある。鉄道会社のように、自動改札を導入することでキセルを大幅に減らせたのとは訳が違い、なかなか数を減らすのは難しい。なぜなら、社会全体がこれらの罪を、あまり重く捉えていないからだ。
痴漢に到っては、地方の「迷惑条例違反」だそうだ。軽犯罪法にもないのだろうか?
万引きをする奴らには、すべからく販売業させる、痴漢をする奴らには、生理的に嫌な人物にあちこち触らせる、飲酒運転を軽く考える者どもには泥水運転手しか走っていない道路の真ん中に立ってもらう、というようなことをしないと、彼らにはことの重大さは解らないのだろうか?・・・・多分解らないのだ。これは、社会保険を管理するそれぞれの省庁のあり方や、税金を扱う行政のあり方を見ていれば明らかだ。当事者感覚というのは、実は非常に難しいのだ。これは自戒も込めて、それを持ちたいと思う。またそういう教育をして欲しい。
立ち読みと書店は恐らく長い間の戦争状態だったのだ。書店はバリアを張ることで対抗しているが、それによって明らかに利益の一部を失っている。・・・考え方によれば、ブックオフや漫画喫茶など、書店や出版業界から目の敵にされている業態は、むしろそれを救っている側面もあるのかも知れない。・・・・その影で失っているものも多くあるとしても。
とにかく、中が少し確かめられるようにして欲しいものだ。いちいち店員にお願いしないでも。
投稿者 keisuke : まんが | 23:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月 2日
フィデリオ
新宿の新国立劇場でやっているベートーヴェンの「フィデリオ」を観てきた。
指揮はミヒャエル・ボーダーに東フィル、タイトルロールにガブリエーレ・フォンタナ、夫のフロレスタンにトーマス・モーザー、監獄所長ピツアロにペテリス・エグリーティス、監獄の番人ロッコにハンス・チャマー、その娘マルツェリーネに水嶋育、大臣ドン・フェルナンドに河野克典他、という配役だった。
そもそもベートーヴェンのオペラというだけで珍しいが、なかなか演奏される機会は少ない。ところが昨年サイモン・ラトルが来日して上演しているし、実は意外によくやるのか?と思わせたり。
実は私は新国立劇場デビューで、初めてにしては当日券で端っこの端っこで観たのだが、やはりオペラはかぶりつきがいい。歌手の表情まで肉眼で見える位置で見るのが面白い。さすが奥の上の方ではいいものもよく見えないかも知れないと思った。最初から観るつもりであれば、CDも持っているので、久々なので予め聴いておけば良かったと思ったが、なんのなんの、ベートーヴェン節炸裂なのでそれほど気にする必要もなかった。
そもそもこのオペラは男装したレオノーレがフィデリオと名乗っているから「フィデリオ」なのだが、ベートーヴェンにはこのオペラように書かれた「レオノーレ序曲」が別に存在する。しかも複数あったりするわけだ。なんだかややこしい。冒頭から交響曲のような序曲で始まる辺りがモーツァルトなどとは根本的に違うが、だが、その重々しさが全体を支配しているので違和感はない。
歌手はトーマス・モーザーしか知らないが、フロレスタンは第2幕にしか出てこないので、ちょっと事情もあり、あまりまともに聴いていなかった。モーザーは手元にはマーラーの「大地の歌」を、カツァリスのピアノ伴奏で歌ったCDが1枚あるが、探せば他にもあるかも知れない。大御所だ。もっとちゃんと聴けば良かった。
第1幕ではマルツェリーネが最初に歌うアリアがなかなか良かった。水嶋さんは遠くて顔は判らなかったが、出だしからふくらみのある声で堪能できた。前半は門番のヤキーノがテノールだが、中心になるロッコとピツァロがどちらもバスなので、このことも暗さを助長している。まあ、暗いオペラなのでそれでもいいのかも知れないが、なんだかメリハリが・・・
最後しか出てこないがフェルナンド役の河野さんも力強くて良かった。
尤も、オペラ全体はどうも今ひとつの感がぬぐえない。ベートーヴェンがこれ1曲しか書かなかった理由が分かるような気もする。オケがうるさい。昔大学の先輩が、ベートーヴェンは耳が聞こえなくなったので大音響の曲を書いたということを言っていたが、若干頷けてしまった(くれぐれも、差別的な意味はない)。金管がかなり炸裂していた。
多くのオペラが、終わりどころというのがあまり上手くないという風に思っているが、この曲もそうだ。曲の長さのバランスなのか、何度もここで終わりかと思った。CDではそんな記憶はなかったのだが、もう大分前だからな、聴いたの。マーラーの交響曲第3番が、いいかげんにしろよ!と言いたくなるような終わりなのだが、ストーリーが絡むと、非常に難しい。私など、レオノーレが夫を助けた時点で全曲を終わらせてもいいような気がするが、まあ、ベートーヴェンの時代はそういう時代ではなかったのだろう。
まあただ、生でオペラにしてもオーケストラにしても聴くのは、CDやDVDと違って独特の雰囲気があり、概ね楽しめる。もうちょっと価格が安ければいいなあ、といつも思うのだが、演奏者のことを考えるとやむを得ないな。特に日本では、安くしたから観客が動員できるとは思えないし。それにしても新国立劇場は雨にも濡れないで行けるというのは、日本のこういう劇場の中では一番いいな。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月 1日
COOL BIZ
今日から環境省の提唱するCOOL BIZのために、ノーネクタイ、ノージャケットが中央官庁や政治家で実施されることになった。小泉首相や細田官房長官などもそういう姿だった。
そもそもこれの目的は、地球温暖化防止のために冷房温度を28度にするためで、ノーネクタイやノージャケットが目的ではない。義務化されているわけでもないし、多くの省庁や政治家も、今まで通りの面白くもないスーツ姿だ。
さて、そもそもノーネクタイなどということを言うのであれば、猫も杓子もネクタイを巻いてスーツを着ていることに違和感を感じるどころか、そうでない姿を失礼とする暗黙のコンセンサスにこそ問題はある。判で押したようなそんな姿でないと、あたかも一流の大人ではないかのような風潮が、21世紀に入っても、いまだに世界の多くで当たり前であるかのような状態こそ、私には不思議でならない。
不思議なことに、多くのサラリーマンなどと話をすると、「ネクタイしないでよくていいね」などと言われることがある。私は会社に勤めているときからネクタイなどほとんどしたことがないし、そのことで何かを言われたことはない。・・・・唯一、学生の時の会社訪問の時かな。「会社訪問」のつもりが泣く、既知の先輩にちょっと話を聞こうと思ってアポを取り、言われたとおり会社に伺ったら、私以外の他の大学生が一緒で驚いた記憶がある。その折に、「ネクタイぐらいしてきた方がいいよ」と言われた。私はバイト帰りの私服だった。
ネクタイを締めると、仕事をしようという気になるという人がいた。それはその人のことで、あらゆる人に敷衍されることではない。女性はよく制服があるが、なぜ女性にだけ制服があるのかと言うところも疑問だが、制服がない場合、意外に女性の服装はフリーだ。なぜ男だけが、みなスーツにネクタイなのか、どう考えても解せない。
「楽だから」という主張がある。他の服を考える必要がないからだという。だったら、他の人はその人なりに楽な服装で良かろうというものだ。決して楽だからスーツなのではない。結果的にそういうこともあると言うことだ。
ハリウッド映画などで未来を描くとき、案外ネクタイなどしていない。面白いと思う。
現代のスーツ姿というのを、あたかもビジネスマンの定番のように見るのは、「マナー」とよく似ている。「マナー」には2つあって、単純に相手に対する礼儀という意味でのマナーと、歴史的に何となく形式化されてきた礼儀とがある。前者は他人に対する慮りや、人が生きていく上で当然のことながら、守るべきものだが、後者は必ずしも全てがそうではない。守ろうという努力がなければ自然淘汰されてしまうようなものはたくさんある。祝儀・不祝儀袋の水引の方向やら、出し方などは、そのうちどうでも良くなるか無くなるだろう。それでよい。
スーツにネクタイはこういうことに似ている。さっさと自由になっていくべきだ。その中でスーツにネクタイという姿はあってもいい。私自身も時には着ようと思う。そういう中の一つでいいはずだ。スーツがちゃんとしていて、シャツ1枚がちゃんとしていないなんて、いったい誰が決めたんだ?確かにジーンズは昔は西部の労働者が着ていたかも知れない。ガンマンとか。でも今はそうではない。ジーパンで会社に行ったっていいじゃないか。
まあ、COOL BIZとやらが、どうもピントのぼけた方策でも、うまいこと機能してくれればそれでいいとは思う。かつて羽田孜が省エネLookとか言って半袖のスーツを着ていたことがあったが、逆にそこまでスーツにこだわる理由が分からなかった。もう少し自由に、バリエーションを持って社会生活を送りたいものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:54 | コメント (1) | トラックバック (0)