2005年5月31日
有識者会議
NHKのニュースで「皇室典範に関する有識者会議」をやっていた。女帝問題に関しては先日ちょっと書いたが、世の中はいろいろな見方がある。
西尾幹二氏による「正論」への記事がここに載っている。これを読むと、歴史の重要性という中での天皇制の意義みたいなものが解る。
ただ、解ったところで、その論に与するかどうかは別の問題だ。
「万世一系」なんていう言葉を聞くと、戦前・戦中にはきっとそういう言葉で天皇を称揚したのだろうな、なんていう高度成長期の走りみたいな頃の生を受けた人間としては、当時のことをあまり知りもしないで思ってしまう。
確かに天皇制に関して言えば、私は知識が少ない。よくよく考えると、女帝問題より先に、そもそも天皇制そのものに関して、いいの悪いのというほどものを知らない。まあ、こういう人も私だけではなく非常に多いことだろう。
同じ人間に生まれて、天皇と自分たち、何が差があるのか?と、かつては思ったこともあった。若い頃である。
では、歌舞伎役者の家に生まれれば、その多くが歌舞伎役者になり、名前を代々継いでいくことと、それほど何が違うのだろう?神武天皇が本当にいたのかどうかなんて知らないが、結局は武力で日本を統一した王様だと言うことで、世界のあちこちにそういう王様はいる。
世の中には最高権威者の称号がいくつかある。王、皇帝、天皇、大統領などだが、微妙に違う。中国などでは、「帝」の下に「王」がいたりするし、そうなってくると、そもそも言葉の意味としての問題を解き明かさねば、この話題は議論が難しい。
天皇は、日本国憲法で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。この一文がそもそも、歴史を蔑ろにしている。日本国憲法の中では、国民が「止めよう」と言えば天皇制をやめられる。歴史などどうでもいいという風になっていると言うことだ。尤も「総意」に関しては憲法に記載がない。
さて、有識者会議でも「歴史」の大切さということを述べられている人がいる。
翻って、「過去」を守ることはそんなに大切なことなのだろうか?というのが私の根本的な疑問だ。「神武以前」はどうだったのか?何事にも始まりがあれば終わりもある。実は歴史の重みなんていうのは、現在をいかに素晴らしく生き、未来をいかにいいものにしていくかというための教材にしか過ぎない。それが私の考え方だ。たとえ連綿と続いてきたことだって、今と未来のためならどんどん変えて新しくしていく、それでこそ歴史の価値があるはずだ。
有識者会議は「男女平等論で女帝議論せず」ということで、それはそれでいいと思うが、ことさらこういう風にいうところがどうも腥い。洋の東西を問わず、多くの宗教や伝統で、女性は低く見られている。「汚れ」ているように見られている場合もある。これは多くの国に認められることで、例えばイスラム教で女性が顔を出せないのだって、似たようなものだ。
この、世界中にあるということで、実は男女は平等ではないのだ、という見識を持つのも根拠のないことではない。しかし、今時そんなことを言ったら、石が飛んできそうだ。じゃあ、レディー・ファーストはどうなるというような問題だ。
天皇にはそもそも人権がない。なぜなら象徴だからだが、そもそもその辺りに怪しさは潜んでいそうだ。天皇が政治上のトップだった時代から、神様に祭り上げられ、そして象徴になった。つまり、どこかの時点で日本人が天皇から人間性をはぎ取ったわけだ。確かに、人間になる前は神様だったのかも知れないが。
現代に神がいないのはニーチェのせいではない。科学至上主義がそういう世の中を作ったのだ。その中で、人でない人が存在すると言うところに歪みがあるのだ。人ではないのだから男女平等なんて関係ない。だが、人ではないことを人が決めるってどういうことだ?
なんだかこの件は、天皇家に訊いてどうしましょ?と尋ねるのが一番のような気がする。女帝問題だけではない。天皇制そのものもだ。歴史なんてその時は、どうだっていいじゃないか。今のこの動きも、10年経てば歴史の一こまだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月30日
100円のコンビニ
ローソンやスリーエフがショップ99の真似をして100円程度のショップを開いた。コンビニ+生鮮食品で、圧倒的に品数は多いらしい。
コンビニと同じ物も売っているようで、片や150円、片や105円のようになるわけだ。ごく一部だというが、銘柄が違えば、もっと重複は多くなる。100円でも利益が出るとすると、いったい、何百円も払うというのはどういうことなのか?というのが一般の印象だろう。
しかしよくテレビなどで、どこぞのスーパーはこんなに安いみたいな放送をしているが、荻窪ではあまり縁がないような気がする。そんなにバカ安だったためしがない。ずいぶん前に母親に冷凍食品を3割とか4割引の時にたくさん買うようにしているという話をしたら、こっちはいつでも4割引だと言っていたことがある。
荻窪という土地柄を考えると、実は競争がないのだ。現在駅前にオリンピックがあるが、昔はそこが東急ストアだった。それが無くなってずいぶん経つが、今ではタウンセブンと西友、ルミネが一カ所に固まってあるだけだ。しばらく前にルミネは高級志向で食料品の売り場を、紀伊国屋や成城石井のような雰囲気にした。いわゆる普通のスーパーは西友だけだ。西荻とのほぼ中間に別のスーパーがあるが、歩いて10分ではわざわざ競争にはならない。それに西荻寄りだし。
荻窪には駅の近くに3店、セブン・イレブンがある。私の家の近くのセブンはなぜか品揃えが非常に悪い。店舗が広い割には、なんだか同じものが沢山置いてある印象だ。たまたま別の駅のセブンを見ていて、こんな商品置いてないぞ、というのがたくさんあった。
コンビニは24時間開いていて、家のそばにあって、いろんな物が置いてあって便利だが、どうもその最後の部分には店によって格差がありそうだ。
そんなところに100円均一の店でもできた日には、つぶれる店舗も出てくるに違いない。ショップ99は思いの外急成長しているらしい。これもデフレの一つの影響かも知れないが、それとは別の意味でも、波及しているのだろう。
日常的な商品は安く手に入るにしくはない。また、どこもかしこもが大家族ではないのだから、少量を変えるというのもメリットだろう。うまく共存して、生活がより便利になるのは歓迎すべきことだ。
だが、テレビで誰かが言っていたが、寄り便利を強調するのであれば、税込100円が達成されてしかるべきだろう。もちろん、消費税値上げなんてことがあるから、おいそれとはできないだろうが。・・・・せっかく安くなった商品に税金を付けて値上げするってのはどういうことだい?
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:19 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月28日
オペラとミュージカル
ミュージカルというのは舞台や映画で歌を中心として物語が構成されているような作品群のことだが、アメリカで生まれたこの芸術は、私の認識では、リートとポピュラーミュージックの関係をオペラに置き換えたものかな、というような気がしている。もっと単純に言えば、発声の違いかな。
この発声の違いをもっと砕くと、素人でも歌いやすいといえばいいかも知れない。当然他にも違いはあるが、「ポーギーとベス」のように、オペラでもありミュージカルでも通用するような曲もあるので、境界線は非常に曖昧だという気がする。宝塚歌劇団は「歌劇団」だが、演じるのは恐らくミュージカルで、女声でも地声で歌っている。オペラの女性歌手の多くは、いわゆる地声では歌っていないので、その点は大きな違いだろう。メゾソプラノだって宝塚の男役のような声は出さない。
私はオペラの中で何が一番好きだという程聴いたことがないので、何だろうな?と思うが、これまでの人生の中で最も多く聴いているのは多分ワーグナーの「ラインの黄金」だろう。何度かリングを聴き通すぞという気持ちでトライして途中で挫折するから、一番多く聴くことになる。後は、レオンカヴァッロの「道化師」マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、マスネ「シンデレラ」、ビゼー「カルメン」、等は複数回聴いている。あ、「バラの騎士」もかな。モーツァルトやヴェルディ、プッチーニがないのがすごいな。部分的にはいろいろ聴いているが、通して聴いたことがない。尤も、交響曲であろうと、組曲であろうと、部分的に聴いて満足するのは私の特技なので、オペラも同じことだ。ストーリーを追うような聴き方が苦手なのだ。時間がかかるし。・・・・「椿姫」は何回か聴いたかな。ヴェルディ、あったな。
ミュージカルは、ハリウッドの往年の映画の中で何回も観ている物もあるが、一番好きなのは「ジーザス・クライスト・スーパースター」だ。舞台では見たことが無く、映画とレコードだけだが。大好きだ。実は私はミュージカルの舞台というのを観たことがない。「レ・ミゼラブル」など観たいと思うが、何しろ小説の中でも私にとってはとりわけ愛着のある作品で、しかも希代のエンターテインメント小説という見方をしているので、どう考えても不満がぼろぼろ出てきそうだ。むしろそういう思い入れのない作品を観た方がいいかもしれない。
さて、「ポーギーとベス」ではなくとも、オペラとミュージカルは、似たような世界だと思う。ゼッフィレッリなど、オペラを映画化している人もいるが、オペラと映画の境界線以上にオペラとミュージカルの境界線は大してないように思える。ミュージカルでオペラを取り上げないのはそこにはテクニック的な問題があることは想像が付くが、なぜクラシック業界はミュージカル作品を上演しないのだろう?
かつてロックとオペラの融合なんていうのがあった。確かザ・フーの「トミー」などはロック・オペラなんて言われていはしなかったか?エルトン・ジョンの「ピンボールの魔術師」なんてただのポップスだが、いい曲だ。映画としても結構面白かった。もちろん、ミュージカルはクラシックよりもポップスよりなので、ミュージカルをロックにする方が簡単ではある。「ジーザス・クライスト・スーパースター」なんて、まさにロック・ミュージカルだし。
だが、同じ曲をクラシックの発声を勉強した人たちが、そのテクニックで演奏したらどうなるのだろうか?と思う。私は観たことがないが、「ファントム・オブ・ジ・オペラ」なんて、タイトルがまさに「オペラ」だ。
「マイ・フェア・レディ」や、「雨に唄えば」なんて、楽しいオペラ作品になりそうな気がするが。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:46 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年5月26日
ピアノマン
ピアノマンが話題になってからしばらく経つが、最近出てきた情報はことごとく否定されている。
ピアノマンといえば、どちらかというとビリー・ジョエルの曲を思い出すが、世の中には不思議なことがあるのだな、と思う。
そもそも世界各国で報道されるようになって大分経つ。しかも、テレビ、新聞、インターネットで写真入りだ。何十年も前ならともかく、これだけ情報が伝わりやすくなっている世の中で、一人も知っている人がいないということの方が驚きだ。
テレビなどで、未解決事件が解決したなどと言うのをよく耳にしたりするが、普通の人間生活を送っていたのなら、何らかの形で情報が入ってくるのではないだろうか?事実は小説よりも奇なりと言うが、まさにそれを地でいっているような事件だ。
いったいどんな結末が待っているのか知りたいところだ。
ところでピアノといえば、私は弾けないのだが、弾けるようになりたいと思う今日この頃である。
数日前に楽典の本を買ったということを書いたが、その中に面白い記述があった。
鍵盤で「ド」の音を出し、自分で「ミ」の音を出してみる。きれいな和音に聞こえたら、鍵盤の「ミ」を叩くと、自分の出している「ミ」とは微妙に音の高さが違うのだそうだ。これは平均律でピアノが調律されていることによるとあった。詳しい本を読めば書いてあるのだろうが、これは12音を正確に12に分けた半音の一つ一つは、正確にそのその音階を反映していないと言うことになる。和声的な意味で。
和声というのは面白いもので、人間の耳に心地よく響く音の組合せがある。その心地良さに一定の範囲があるという風にも捉えられる。
音は波であり、特定の周波数が特定の音に対応しているわけだが、実際にはその音と音の間には無限の音がある。カウエルが唱えたトーン・クラスターはまさにその無限の音を同時に表現することに近い。
絶対音感というのがどの程度の周波数まで聞き分けられるものなのか知らないが、こういう人には、そういう微妙な音の違いというのが違いとして聞こえるのだろう。
ところで、ドのシャープとレのフラットは同じ音だと思うのだが、楽譜にはそれぞれがある。また、ドのダブルシャープなんていうのはレだろうし、レのダブルフラットはドだろうと思うのだが、であれば楽譜にそんな記号がある必要はないと思うのだが、どうやらこれは雰囲気記号であるようだ。単純な音の高低ではなく、明るかったり暗かったりという要素を微妙に加えて演奏するらしい。
いやはや、世の中いろいろなことが奥深い。ピアノマンのことも、「あっ」というような背景があるのかも知れない。未来や過去から来たとかね。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月25日
時計
時計というのは文字通り時間を計るものだ。現代生活には欠かせない。
最近、携帯を持つようになってから腕時計をするのは止めた。つまり腕時計をしなくなって5年近くが経つと言うことだ。時間を計るという目的だけであれば、それでいいことになる。しかし最近、再び時計をしてみようかな、という気になっている。そうしてみて昔の時計を見てみると、どれも電池が無くなって動いていない。当然といえば当然だが。新しいのを買ってからにしようと思った。そうしてみるとやはり時計は、少なくとも腕時計に関する限り、よりファッション性が大切と言うことになる。時計と言うより、ブレスレットという感覚だろうか。
もちろん、オメガやブルガリやロレックスがしたいわけではないが、気に入ったデザインを選びたいとは思う。
ところで、時計は英語でclockかwatchで、腕時計はwatchの方だ。watchには見るという意味があるが、携帯用の時計はやはり時間を知るためにじっとそれを見るからそういうのだろうか?clockはまさに時計という意味なので、watchといわれる腕時計にはそれなりの意味がありそうだ。
人類が時を計り始めたのは恐らく有史以前のことに違いない。もちろん時間感覚みたいなものと、同意の時代があったはずだ。しかし、日時計で始まり、最近の極めて精巧な時計まで、人類はずっと時を計り、そしてどんどんそれを正確なものにしてきた。
先日、福知山線で悲劇的な事故が起こり、多くの人が犠牲になった。この事故の原因の一つに、過密ダイヤが上げられている。過密ダイヤである上に、それを秒単位で正確に守るという、あたかも機械の作業みたいなことが現場に求められてきたという。
確かに人間というのは機械顔負けの正確さや、複雑なことをこなす生き物だ。時間感覚にしても非常にとぎすまされた鋭敏さを時として発揮することができる。だが、レールの上を走っているからと言って、そこまで正確な運行が実際にできていることの方が驚きだ。
中央線などを見ていると、比較的よく遅れている。せいぜい1分くらいの遅れならそれほど少なくないと思う。
それでも、電車に限らず、多くの交通が、昔に比べると時間に正確で、これこそが文明の進歩の一つのように感じてしまう。
前にも書いたが、昔北海道で、浜中という駅で釧路行きの列車がなかなか来なかったことがあった。といっても、せいぜい5分程度だったに違いない(それほど正確な記憶はない)。それでも、非常に遅れていたという感覚はあった。別にいらいらもしなかったが、不安にはなった。
海外のように、遅れて当たり前という風土があれば、なのも思わないのだろうが、そもそもいつの日からか、少なくとも電車は定時に来るという暗黙の了解みたいなものが自分たちの中にある。
このことは悪いことでは決してない。
そして、その正確な時間と、スピード、それらを求めてきたのは日本人の多くの普通の人たちだ。私はそうではないという人たちは、たまたまそういう環境にいなかっただけの話で、会社に勤めていたりすれば、あるいは会社から家までの距離が遠かったりすれば、やはり途中の交通機関に対する要望は厳しい物になるのだ。
今回の事故を機に、日本人ももっとのんびりみたいな論調を主張する人たちもいる。それも悪くはない。だが変わるとしたら、なかなか進まないフレックス制をもっと多くの会社が導入したり、例えば交通機関などには、多少遅れてもやむを得ないという気持ちや、それに間に合う分、少し早く出るとか、全体的な努力が必要なのかも知れない。
時計がもたらした効用が、人類を苦しめることがないようあってほしいものだ。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月24日
飲酒運転
仙台で飲酒運転の車が高校生に突っ込み、3人が亡くなった。非常に悲しい事故だ。先日の福知山線の事故も悲しいが、今回の事故は明らかな加害者がいるという点で、異なる。
東京などの都市圏では飲酒運転が減っているという。しかし地方では逆に増えているところもあるらしい。危険運転致死罪や、道交法が厳しくなって、確かに全体的には減っているはずだが、それでも、テレビで飲酒運転などの一斉検問の放送を見ていると、この問題に関しては、まだまだやらねばならないことが多いのだろうと感じないではいられない。
以前に、地方の飲み屋では、駐車場もあり、多少の飲酒運転は当たり前だというようなことを聞いたことがある。ある程度はこういう認識があるだろうことは想像に難くない。飲み屋といっても、東京などのように駅の周辺に固まっているわけではない。というよりは、そんなに駅が密集していないのだ。バスなどもそれほどは知っているわけではない。タクシーは金がかかる。自ずと車を頼るしかない。やむを得ない。そういうお話しなのだ。
だが、話はそんな単純ではない。その結果が今回のような事故に繋がるわけだ。もちろん、7時間もはしごして、泥酔状態で車に乗るなどということは普通はしない。でも、だから大丈夫というわけではない。今回の事故ほどではなくても、沢山の事故が起きている。確かに酒を飲まなくても事故は起こる。だが、飲んだ方が起こしやすいことも事実だ。この一事を取って、飲酒運転はいけないという理屈だけでも十分である。
危険運転致死罪は最高20年だが、今の時代で、酒を飲んで運転するということは、可能性として事故を起こしかねないことを認識して運転していると、どんな場合でも考え、殺人罪を適用するのが正しいと思う。それがいやなら飲酒運転をしなければいいだけの話だ。
地方の境遇などは言い訳にはならない。いやなら都会に引っ越してくるか、酒を飲まないか、運転しないか、選ぶしかない。
警察も行政も、もっと厳しく取り待ったところで、世論はきっと後押しすると思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:47 | コメント (1) | トラックバック (0)
ピザ
ピザはイタリア語ではピッツァだが、日本では両方使うとしても、概ねピザで通る。ドミノピザとか、ピザーラとか、そういう店名が定着しているせいもあるだろう。
日本でいつ頃からピザが食べられているのか解らないが、西洋お好み焼きという風情なので、日本人には合う食べ物だろう。
しかし、いわゆるイタリアンレストランで出されるピザと、宅配のピザは、どうしてあんなに違うのだろう。窯の違いなのかな?あのパリパリに焼けた生地は非常に上手い。宅配のピザは非常にトッピングが豊富だが、あれは生地で敵わない部分をトッピングでごまかしているとしか思えない。いや、宅配のピザも十分に美味しいが、レストランのとは別の商品だ。
当然、家でもあれは焼けない。パスタやそば、うどん、ラーメンなどはそこそこのものが家でも作れるが、ピザだけはどうしようもない。やはり窯か?そういう意味で、かなり特殊な食べ物のような気がしないでもない。
でもイタリア人は家で焼くだろうし、実際イタリアでは普通のレストランでは(最近はどうか知らないが)出さない、庶民的な食べ物だと言うことだ。確かに、上にも書いたが、料亭でお好み焼きはあまり出さないのと同じかな。
しかし、よく洋画で汚い部屋でピザを頬張りながら何かをするシーンがあるが、宅配で頼んでも、一人ではMサイズでもでかすぎる。そのせいもあって、なかなか注文できない。最近ではSサイズのある店もあるからありがたいが、それでも、中華や弁当などに比べると頼む回数は圧倒的に少ない。この前頼んだのはいつのことだったろうか?というくらいだ。
まあ、サイドオーダーも揚げてあるものが多かったり、太りそうだから止めておこうというのもあるが。サイドオーダーが命、みたいな人もいるようだが、その本末転倒さが実は好きだ。確かに頼む前はあのサイドオーダー、魅力的なんだよな。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 01:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月22日
ペットの名前
ペットの名前というのは例えば、犬に「たま」猫に「ポチ」と付けないように、それなりの暗黙のルールがあるようだ。人に付けるような名前を付ける場合でも、ある程度雄雌は考慮されることが多い。
身近の人が飼っているペットの名前で知っているものは少ないが、猫の「けの」犬の「レノン」「タオ」と、なかなかユニークな名前が並ぶ。レノンはジョン・レノンなのかどうか訊いたことはないが、可能性はある。けのは八犬伝か?タオはまさか道教の「TAO(道)」ではあるまい。それぞれ想像はたくましくできるが、飼い主の思いというのは格別で、誰も皆世界一自分の飼い猫・犬が一番可愛いと思っている(いや、あるいはそう思うことがペット界の常識なのかも知れない)。
ところでうちの実家でも昔犬を飼っていたが、母はまみちゃんと呼んでいた。以前に「超人ハルク」のエントリーでも書いたのだが、この犬を、最初の頃、親父だったか弟は「あんちゃん」と呼んでいた。そのうち消えたようだが。そして私一人が頑なに「ハルク」と呼んでいた。実家に帰ると母親が、「まみちゃん、ハルク〜が帰ってきたよ」と思えば意味不明なことを語りかけていた。
だがハルクは「ハルク」と呼べば振り向くし、走っても来る。まあ、本名と芸名みたいなものだ。
19年生きて、もう何年も前に死んだが、いまだに実家には遺影が飾ってある。
人がペットに愛着の湧く名前を付けるのは、やはりそれが家族の一員と同じ立場にあるからで、裏を返せば、ペットの虐待というのも、子供を虐待する親がいるのと、ある意味同じ根っこなのかも知れない。やはり、優しくしてやるべきだ。
だが、ハルクもそうだったし、けのも、レノンも、タオも、どうやら皆可愛がられているようだが、その分わがままらしい。いやはや、誰も皆親ばかになるものなのだな。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:52 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月21日
楽典
楽典の本を買った。
そもそも楽典は私に音楽の授業を嫌いにならせる最も大きな要因となったものであるが、今更にそれの本を買った。今読んでも、なぜ音楽が嫌いになったのか解るような気がする。私には数学以上に難解だ。
クラシック音楽をちゃんと聴くようになったのは大学1年の時なので、それから30年近く、聴くだけなら楽典などは必要がないことは十分に証明されている。今もこれを書きながら、かかっているのはハイドンの交響曲だが、美しく耳に響いており、ある意味、それ以上は必要ではない。
しかし、ふと思うと、譜面を見てもっと解ったら楽しいとか、現代音楽も別の角度から楽しみたいとか、なぜ演奏者によってこれだけ解釈が変わるのかとか、そういうことを少しでも知りたいと思い、取り敢えず簡単そうなやつを買ってみた。
五線譜から始まっている。
さすがに五線譜のハ長調くらいは解る。だが、楽器をやらないので、楽譜を見ても音が解らない。これは楽器をやっているかどうかだけが問題ではないらしいが、スコアもできれば読めるようになれば面白いはずだ。
内にはマーラーの楽譜が何冊かあるが、これはもう20年以上前に購入したものだ。最近では手に取ることもない。
ほとんど義務教育以上の音楽を学んでこなかったし(確かに高校でも少し学びはしたが)、独学もこれまでしてこなかった。五十の手習いとか六十の手習いという言葉があるが、それよりは早いが、少し音楽の勉強を始めたいなと、最近思っている。但し人からものを学ぶのが非常に苦手なため、基本的には独学ということになる。もちろん、学校などに行かなくても良ければ、多分教わることも可能なはずだ。とにかく学校で学ぶことが嫌いらしいので。
楽典の典という字は掟とかしきたりという意味があるようだ。楽典は英語ではmusical grammarで、音楽の文法ということになるのだろう。言葉も文法を覚えれば、理解はし易くなる。知らなくても会話はできるかも知れないが。音楽も同じことだ。決まりを知らなくても歌は歌えるし、努力すれば楽器も弾けるようになるだろう。だが、知っていた方がよりよい。
取り敢えず目標は「作曲ができるまで」だ。先は長い。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月19日
ストレス
昔、森高千里の歌に「ストレス」というのがあった。
ストレスというのは「ストレスがたまる」というような文脈で使うように、精神的緊張(広辞苑)のことを言う場合が多い。いらいらとか、鬱憤とか、そんな用語で説明できるような個人の中にわだかまる何かだ。だが元々は「外界から与えられた刺激が積もり積もった時に防衛反応として示す、生体の肉体上・精神上の不具合。(新明解国語辞典)」のことで、溜まった結果のことを言うようだ。その原因を作るものをstressorストレッサーという(レッサーパンダが立ち上がるというのとは関係がない)。
まあ、用語のことは別にして、ストレス社会というように今の世の中は様々な形でストレスを感じることが多い。だが、そもそも人間が人間であるということがストレスを感じると言うことではないのかという気がする。
人は、他人と諍いを起こしたり、思い通りに事が運ばなかったり、思わぬ難問に立ち止まったりと、様々な要因によってストレスに晒される。個人的には躱すのが比較的上手い方だと思うが、それでもないわけではない。あるいは恒常的にストレスに晒されていても、それが慣れとなって解らない部分があるという見方もできるかも知れない。
ストレスといって、人によってそれをストレスと見るかどうかという判断がかなり個人の意識に依存するので、一概に比較はできないが、例えばいじめに遭うとか、手に余るプロジェクトの担当になるとか、といった場合、それをいじめと感じるか、手に余ると思うかによって、同じことでも大分、ストレスの度合いは違うように思える。
また、それを如何に発散できるかと言うことでも違うはずだ。
最近の日本酒のCMで、家まで上司がくっついてきて、酒の蓋を開けたとたんに上司が消えるというのがあるが、まさにあれがストレスの正体であり、発散なのだ。
これをしたら発散できるという定番的な何かがあれば、それを支えにストレスに耐えることは、ただストレスを我慢するよりも、かなりの度合いで楽だろう。例えば家に帰って妻に愚痴を言うとか。逆にそれがストレスを増幅させる家庭もあるかも知れないが。
いずれにせよ、ストレスを感じない人というのは、極めて希だろう。
ストレスという言葉はしかし、極端な苦悩や悲嘆といったものから来る精神的苦痛を、日常的には表現していない。謂われのない殺人や事故で、身内などを失った場合の精神的苦痛は、それをストレスとは言わない。どちらかというとストレスというのは、より日常的な活動の中から、普遍的に存在する圧力のことを指す場合がほとんどで、言ってみれば「解消」できる程度の苦悩であるのだ。
もちろん、ストレス性の病気はたくさんあるし、たとえ胃が痛むだけでもそれは味わいたくない痛みだ。
それでもそれから逃れられないのが今の社会であるし、恐らくそもそも人間がDNAの中にしまい込んでいる、生きることと相克する何かなのだろう。であればやはり、如何にそれを躱し、それを克服していくかということに努力を払った方がいい。概ねその努力は、楽しいことをしたりすることだったりするので、あまり辛くないはずだ。裏を返せば、ストレス解消のための楽しみみたいなところで、遊びや気抜けの言い訳が立つというものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:11 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月18日
カップ麺
最近のカップ麺は非常に種類が多い。価格も150円から倍くらいのものまである。そして、ある程度はその価格差に間違いはない。高いものはそこそこ美味しい。ただいずれにしろ、これは味覚の問題なので、高くても美味しくないものもあれば、安くても美味しい物もある。
カップ・ヌードルやどん兵衛、赤いきつねなどほとんど定番化して無くならない商品がある反面、一月もしないで消えていくようにさえ思えるものもたくさんある。現実問題として、新しい物が続々出てきても、最早味の違いが分からない。このラーメンは絶対以前に食べたどれかと同じ味だ、程度の共通した味がどこかにあったりする。
カップヌードルとどん兵衛が違うのは当たり前だとして、有名なラーメン店の名前を冠した××という商品と、同じくらいの価格で出ている醤油ラーメンは、場合によって食べ比べでもしない限り解らない場合もありそうだ。つまり、同じ味が繰り返し、違うパッケージで出たとしても、少し間を開けさえすれば、ほとんどの人のは解らないだろう。
一つにはカップ麺ばかり食べて生活している人もそうはいないだろうという理由にもよるが。
ただふと考えてみると、では一般的な料理はどうだろう?
極端な話をすれば、A,B,C,D四つのトンカツ屋で食べるロースカツ定食のカツは、どれほど違うだろうか?もちろん特徴的なカツもあるだろうが、一般的なロースカツを食べて、それほど味の違いが分かる人はいないだろう。チャーハンだって、寿司だってそうだ。
もちろん、一皿100円のマグロと、数千円するマグロが同じ味では困るが、数千円のマグロは、その場で食べ比べてみなければ、A寿司店とB寿司店の差はそれほど解らないだろう。
多くの行列ができるお店も、実は、前評判などでインプリンティングされているケースは多いに違いない。その店と遜色ない味の店は意外と近くに何件もあったりするのかも知れない。少なくとも、私にはそれぞれの店を断定的に評価できる舌はない。
ただ、TVチャンピオンなどを見ていると、それを解る人も、少なからずいるということは頷ける。但しそれは一般的ではないだろう。
カップ麺も実はそうで、だからといって、同じものは飽きる。その飽きを踏まえた上での商戦略ということになるに違いない。それでも定番はあるのだ。サッポロ一番の塩ラーメンとか、チャルメラとか、何十年も生き残っている商品があるのだ。
カップ麺に関してもう一つ思うのは、最近はちょっと減ってきたようにも思うが、1.5倍というような大盛りが結構幅をきかせていたりすることがある。若い人とか、大食いの人とか、当然のことながら需要はあるに違いない。しかしコンビニで、そればかりが一時期並んでいたようなときがあって、辟易した記憶がある。
まあ、カップ麺ばかり食べていて、身体にいいはずもないが、忙しいときなどは、それですませることも多い。私は新しい物好きなので、比較的知らない物が出ると手が出てしまう。そういう意味では、最近の多くの種類がどんどん出てくるのはいいことだ。
ところで、カップ麺で1食をすませてしまうことも結構あるのだが、なぜか1個290円などと見ると、異様に高く感じてしまう。マクドナルドだってセットで500円だ。非常に安いはずなのに、なぜだろうか?そういう意味では、カップ麺というのも、製造元にとっては受難多き食べ物なのかも知れない。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:12 | コメント (0)
2005年5月17日
長者番付
今年の長者番付が発表されたが、1位がサラリーマンで話題になっている。給与所得というのがすごい。
この高額納税者の番付は2006年から見直されて発表されなくなる可能性が高いという。確かに発表されるご本人達にとっては、それ以降の様々な営業対象や見ず知らずの人たちのたかりの対象になるわけで、うれしくないケースが多いだろう。
だが高額所得者の公示というが、いったいどこにどういう形で公示されるのだろう?少なくともインターネットで国税庁関連を調べてみても見つからない。新聞社や「ザ!長者番付」というサイトが見つかるくらいで、新聞発表になる各界の上位(100位以下でも)などのリストを見つけ出すことができない。無理してみたいわけでもないのだが、このエントリーを書くに当たって調べていたら、思いの外時間が経ってしまった。・・・・無駄な時間だ・・・・
一般的なサラリーマンの所得は、そのほとんどが一千万円以下で、当然のことながら、所得税は100万円以下だ。世の中が平等になるわけがないし、金持ちになる機会が全ての人に均等に与えられているというのも幻想に過ぎない。ただ、幻想であっても、これは結果論なので、多くの人に機会があることだけは確かだ。
業界別に発表されるのは、スポーツ選手、歌手、芸能人、文化人といった括りだが、これを見ると、スポーツ選手と芸能人、文化人のトップは2億円程度、歌手は3億円程度だ。漫画家や作家などは1億程度だ。
単純に書籍とCDを比較して、この格差がソフトの格差ではないかというのは邪推だろうか?・・・・買ってる人数の違いだけかも知れないが。宇多田ヒカルのベスト盤は250万部売れたそうだが、250万部売れる小説や漫画というのはそうあるものではないかも知れない。でも、だとすれば、CD1枚3000円というのはバカ高と言うことにならないだろうか?
私もわらしべ長者になるべく努力しているのだが、わらしべはわらしべのままなかなか変化しない。しかしわらしべ長者も歩き回って長者になった。要は足で稼げと言うことかも知れない。IT長者を目指して・・・・ちょっと違うな。性格的に合わない。長者ではなく、サラリーマン時代よりは少し上を行きたい物だ。・・・かなりかな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月16日
古傷
古傷といっても心にある想い出とか、そんなんじゃない。たまたま知り合いの女性と話をしていてそんな話になった。彼女は子供の頃、自宅でハサミをふくらはぎに落として怪我をし、いまだにそこは傷跡が残っているという話だった。
実は私も小学校1年の時、図工の時間にお面に目を開ける作業をしていて(と記憶している)、左手の中指をハサミで突いた。今思うと、先生が慌てて病院に連れて行ってくれたので、かなりの怪我だったのだろうと思う。最近は少なくなったが、今でも時折その指はしびれることがある。
私は小学校2年の時に交通事故に遭い、軽トラックに数メートル飛ばされたことがあるが、その時の影響はない。まあ、その時は入院もしないで、帰ってきたので(鼻血だけだった)、影響が残っては困るが。
時折しびれると行っても、もちろん痛いわけではない。梅雨時は古傷が痛むぜ、みたいなかっこいいものではない。ただ、人間の身体というのは面白いな、と思う。前記の女性もそうだが、人間の身体というのは自然に治癒し、元通りになる。かつては転んですりむいたりすると、亀の甲羅のようなかさぶたができたりしても、いつの間にかきれいになっている。にもかかわらず、古傷の跡が残ったり、痛みやしびれという形で、数十年後まで影響を残す場合がある。
いったい治癒力というのはどういう仕組みになっているのだろうか?治癒し、元通りにしようというDNAの働きと、それを完遂させない何かというのはどこで分かれるのだろう?
ピアスの穴だって、しばらく付けていなければ閉じてしまう。人間の身体はそうできているのだ。
ある意味この不完全さと老化というのは、何か似たものを感じる。木は樹齢何千年というものがある。人の寿命はせいぜい100年だ。不老不死というテーマは歴史の相当初期から、現代に言いたるまで、多くの人が望んでやまないテーマだが、何かその不完全さということに意味する部分が解明されていけば、ある程度の不老不死(変な表現だ)も実現するのかも知れない。
終わりのない事象や、終局のない開始はないが、生物的な不完全さを、いつの時代か人間が解決するようになることはあるのだろうか?
投稿者 keisuke : 日常的 | 22:41 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月15日
接客
昨日、吉祥寺の「温野菜」というしゃぶしゃぶとすき焼きの店に行った。予約もしていなかったし、土曜の8時くらいだったので、混んでいた。5組待っていると言われた。しかし店の前にはほとんど待っている人もおらず、実は携帯電話を登録しておくと、席が空き次第連絡してくれるというサービスだった。
5組待っていると言われたときも、席がいくつ現在空いていて準備中であるとか、詳しく教えてくれ、携帯番号を言ったのだが、ビルの外へは行かず、店の前の椅子で待った。店員さんはそれを見ていたらしく、席が空くと携帯を鳴らさず、直接呼びに来てくれた。
ぐるなびで調べていったので、割引券を持っていたのだが、携帯でアンケートに答えると、割引になるアンケートのカードをクレタのそれに答えたところ、ドリンク1杯無料というのが当たった。ぐるなびの割引の方がお得だったようなので、そちらを使おうとレジで言うと、併用できるという。しかも帰りしな、先ほどは外で長い間お待たせしてすみませんでしたの一言。接客かくあるべしと言う非常に気持ちの良いサービスだった。間違いなくまた行くと思う。
確かに肉などは、今半とかあるいは老舗のしゃぶしゃぶ屋と比べてもどうかと思うが、味は十分に美味しかったし、堪能できた。価格も、そういう日本料理屋の半額か三分の一くらいだ。ステーキは何万円もするものから千円前後で食べられるところがあるのに、しゃぶしゃぶはなかなか高額である(ノーパンでなくとも)。しかし気楽に食べたいときにはとてもいい店だ。
食事はまずき持ちよく食べられるというのも一つの味というか、店の持つ大きな価値の一つだ。実はその前にマクドナルドでお茶を飲んだ。たまたま連れがカフェオレを頼んだのだが、思っていたのと違ったのでコーヒーに変えて欲しい旨頼んだ。レジの女の子は、ちょっと偉そうなお兄ちゃんにそれを伝えて、変えてもらったのだが、そのお兄ちゃんの態度が非常に悪かった。そのカフェオレをレジ台にガタンと音を立てて置き、無言でレジを操作していた。非常に不満げな顔もしていた。ただこちらに向かって何かというわけではなかったのだが、連れはやたら恐縮するし、私も非常に不愉快だった。
いや、ここでその愚痴を言いたいわけではなく(結果的に言っているが)、その後に入った「温野菜」との格差があまりにすごいので驚いただけだ。マクドナルドはかつて「笑顔は0円」みたいなことを謳っていたと思うが、笑顔でいることではなく、客に対する感謝みたいなものが、そこで働く人たちに無ければ、いい接客はきっとできない。
私はかつて自身も長いこと接客業をしてきたので、不愉快な客がいることは解らないわけではないが、基本的に「お客様」という視点を無くしてしまえば接客業は右下がりにならざるを得ないのだ。「温野菜」が、繁盛しているわけは味や低価格以上にその接客姿勢ではないかと、つくづく思った。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:23 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月14日
方向感覚
「話を聞かない男、地図が読めない女」という本がしばらく前に流行った。読んだわけではないが、よく方向音痴という人がいる。音痴というのは音の感覚の鈍さが転じて「感覚が鈍いこと」を言う。つまり方向音痴は方向感覚が鈍い人と言うことだが、そもそも、星や太陽でも出ていないで、単純に方向を人が探ることは不可能に近い。曇りの日、砂漠の真ん中にぽつんと置かれて、正確にどちらかへ進むことはできない。
方向音痴は、地図やある目標に対して何かを目安に進むことが不得手なことを行ったり、あるいは、右か左かと言うときに、何となくいつも間違えて方向に行ってしまう(例えば地下鉄の出口を出たあと、目的の建物に行く場合などに)人をそういったりするのだ。
実際に、言っても解らない人がいるし、それはパニクっているのか、理由は定かではないけれど分からないのだ。そんなはずはないと思うのは、できる人間の浅はかさで、実はこのことに限らず、「皆できるのにおまえだけなぜできない」等という、そもそも公平にできていないこの世の成り立ちの中で、あたかも人は平等に生まれついているかのような錯覚をもって教育にあたったり、「やればできる」的な精神論だけで押すなどということが起こるのである。
もちろん、「やればできる」こともあるし「誰でもできる」こともある。だが、そもそも“できる”人が考えるほどに、全ての人が何でもできるわけではない。あるいは、同じ努力でできるわけではない。
方向音痴もある意味それと同じで、全くだめという人もいないかも知れないが、かなり「不案内」な人がいるのだ。
地図も、慣れないと読みづらいものだ。海外の地図などを見ると特にそう思う。
ところで方向感覚というのは、例えば先ほど書いたように初めての駅で地下鉄から外に出たりするとき、迷ったりしないのだろうか?私はかなり気をつけているので、あまり迷わない方だが、そのためには、電車がどの方向に走っているとか、その方向に対してどの方角に出たとかと言うことを意識しながらと、努力をしている。もちろん、努力と言うほど「懸命」さはないのだが、それを考えないと間違えることもある。
太陽が出ていれば、何となく東西南北は感じが摑めるが、都内でもなかなか方角を摑むのは難しい。人間の身体にはそもそもそういう方向感覚というのが備わっているのだろうか?
投稿者 keisuke : 日常的 | 22:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月12日
労働保険の広告
労働保険料の広告が駅や電車の中に結構貼ってある。アイドルの熊田曜子がイメージ・ガールになっている。
労働保険料をあれだけ無駄なことに使い、失業保険を以前に比べるとかなりタイトなものにしているにもかかわらず、いったい何を考えているのだろう。そもそもわざわざ第一線で活躍しているモデルを使うことで、企業が労働保険をしっかり収めるなどと考えているとしたら、厚生労働省の程度が知れるが、おそらくそんなことではないだろう。相変わらず、無駄な金遣いをしたいだけの話だろう。
かつて江角マキコが社会保険庁のCMに出たとき、自身が国民年金を払っていなかったことが問題になったが、問題はそんなところには無い。彼らは国民年金保険料の意味を最も分かっていないに違いないのだ。江角マキコに高い出演料を払うことで国民年金を払う人間が増えるはずは無い。国民年金の徴収率を上げたいのなら、それを払ったことでいずれは意味がある年金を公平に受け取ることができる年金制度を確立するしか手は無いのだ。徒に有名な女優やモデルを使って金のかかるポスターを作り、広告費を使うなら、年金に回せというお話だ。仮にそれが、年金保険料や労働保険料ではなく、税金から出る予算で計上されるなら、そんな広告ではなく、しっかり国民に還元される形で年金や失業保険の金額を1円でも上げたほうがいい。
日本の借金700兆円を、少しでも下げて行きたいなら、まず各省庁が、予算以下でいかに素晴らしい成果を上げたかで公務員を評価するように制度を変えるだけでいい。逆に、予算を満額使うようなプロジェクトはすべてマイナス評価にすれば、あっという間に国家予算額は減るに違いない。もちろん、それほど単純なことではないのは百も承知だ。結局それは国家の仕事を請け負う業者にしわ寄せが行くからだ。
しかし、現在はその業者も、必要以上に多くの利益を国家の仕事から得ているケースが多いに違いないのだ。
国の借金ばかり増えていくのに、そこに携わる多くの政治家や役人が、そのあおりを受けていないというのは非常におかしな話だ。バブルがはじけ、国民が不景気の波の中であえいでいたが、誰よりもその不景気の波を最初にこうむるべきが政治家と役人であるべきではないだろうか。
それでもいいという人だけが、政治家や公務員を目指せばよい。名誉や安定のためだけに、それを選んでるとは思わないが、同じには、それだけの危機感と覚悟を持った人に就いてほしい職業だろう。
少なくとも、労働保険を払いましょうの広告は、無駄以外のなにものでもない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月11日
辞書
日々うちでのこづちに書き込む際、辞書はなくてはならないものだ。辞書と辞典はだいたい同じ意味のようだ。角川の類語新辞典は、辞書のことを辞典類の総称と書いている。昔の人は字引などとも言っていた。例えば漢和辞典は漢和辞書という言い方はあまり聞かない。国語辞典、英和辞典なども「辞書」という言い方を全くしないわけではないが、概ね辞典という。
広辞苑には実は非常に多くの意味が載っており、そのまま以下にコピーを載せる。
@ことばや漢字を集め、一定の順序に並べ、その読み方・意味・語源・用例などを解説した書。辞典。辞彙じい。「―を引く」「英和対訳袖珍―」→事典→字書。
Aワード‐プロセッサー・自動翻訳システムにおいて、漢字・熟語・文法などを登録してあるファイル。
B(→)辞表じひように同じ。じそ。栄華物語玉村菊「大弐―といふ物、公に奉りたり」_新帝が先帝に太上だいじよう天皇の尊号を贈るに際し、先帝がこれを辞退する意を述べる書状。御辞書。御報書。
Cことばを書きつらねたもの。文章。蘭学事始「蘭学は実事を―にそのまま記せし者」
D〔言〕ある言語の語彙のすべてについて、一般的規則では扱えない音韻・統語・形態・意味上の性質を記述した文法モデルの一部門。レキシコン。
確かにAは、@と微妙に物が違う。Dはまたちょっと異質な感じだ。しかもレキシコンは、別な意味も持っており、特定の人物や作品に関する百科辞典的なものをそう呼ぶ場合がある。ドイツで出ているペリーローダン百科事典は「レキシコン」だ。
言葉の意味を扱う辞書にそもそもこれだけの意味の違いがあるというのもなかなか面白い。
今では、広辞苑を始め、多くの辞典がソフト化されているので、棚にある辞典を手に取ることは少ない。クラシック作品名辞典くらいだ。日本山名辞典なんていうのも持っているが、ほとんど開いたことはない。
これまで一番よく使った辞典は国語辞典だろうと思うが、その次が前出の「角川類語新辞典」というより、これを簡易版にした「角川類語国語辞典」だ。文章を作るときに、非常に表現の幅が広がる辞典だ。現在では、類語新辞典も手元にあるが、それもパソコン版を手に入れたので、静かに棚で眠っている。
電子辞書で非常に便利なのは、複数の辞書から一つの語を一斉に検索できることだ。当然、辞書がそのソフトに対応していなければならない。辞書類は各社から出ているので、どの程度がどのソフトで見られるのかと言ったことはよく分からないが、共通仕様を出して欲しいものである。少なくとも百科事典はEncartaなど、オリジナルフォーマットで、それ以外では使えないようだ。
旅行などには、各国語が入ったコンパクトな電子辞書もあるようだが、ノートパソコンがもう少し軽くなり、そこに収納できるようになれば、パソコン1台ですむ。
ヨドバシドットコムの辞書のページを見てみると、国語辞典から図鑑まで、様々な物が出ているが、意外に外国語の辞書はない。書籍の中でも辞書や事典というのはまさにデータベースで、PC版が出ると非常に便利な物が多い。外国語辞典ではよく発音なども音で入っていたりするので、書籍などより遙かに便利だ。辞書類だけは、どんどんPC版に移植して欲しい。
ただ、やはり価格が高いものは気になる。Amazonで一番高い辞書ソフトは「 CD-人物レファレンス事典 西洋・東洋編 EPWING版 」だが、16万円する。まあ、この手の辞書と、例えば翻訳家用、出版の校正用など特殊なビジネス用途に特化したものは、ある程度仕方がないのかも知れないが。
せめて、英、仏、独、伊、露、西、葡、中、韓、くらいの辞書は対日、日対の双方が出ていて欲しいと思う。
辞書や事典というのはただ読んでも面白い物だ。より便利で、楽しめるPCの辞書世界が登場することを願ってやまない。
投稿者 keisuke : 日常的 | 22:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月10日
素麺
まだ季節にはちと早いが素麺の話題なぞ。
夏になるとなぜか食べたくなる麺の一つだが、一番普通の食べ方は、茹で、冷水で冷やして、つけ麺で食べるというものだろう。私が一番好きな食べ方は、茹でて冷やした面の上に、細切りにした粗挽きソーセージとなすを炒めた物、それとキュウリの千切りを乗せ、上からつゆをぶっかけて食うのだが、炒めた油とつゆのマッチングが非常に上手い。あ、ショウガも忘れずに。
素麺はひらがなでかけば「そうめん」だが、そもそもは索麺(さくめん)といったのだそうだ。索の字が誤って素に転じ、素麺となったという。小麦粉に塩を練り込んで麺にしたものだ。原材料から言えばうどんも冷や麦も一緒で、太さによって呼称が変わるという。JASでは規格があって「角棒状のものでは幅1.2ミリ以上1.7ミリ未満、厚さ1.0ミリ以上1.3ミリ未満のもの、丸棒状のものでは直径が1.3ミリ以上1.7ミリ未満」が冷や麦で、それより太ければうどん、細ければ素麺と言うことになる。
だが特に手延べ素麺は、製法などに独特の方法もあり、単純に細ければ素麺と言うには言いがたい部分もあるようだ。
寒いときに製造した物が質がよいが、梅雨の時期を経過すると美味しくなるという。まさに夏の食べ物ということができる。
ごく親しい知人によれば、山菜と油揚げを載せたものに、温かいつゆをかけて食べるのが上手いといっていた。温かい素麺はにゅうめんと呼ばれるが漢字にすると煮麺。まさに煮た麺と言うことなので、煮ないといけないのかな?
ところで宮城県の白石(仙台のちょっと手前・・・東京方面から言うと)には「うーめん」というのがある。食べたのはずいぶん昔の話になるが、煮麺のような感じだったと記憶している。うーめんは、「温麺」と書くらしく、基本的に温かくして食べるのだろう。製法は素麺と違って油を使わず、長さも短い。もともと、胃の悪い父親のために消化のいい食べ物ということで作られたという来歴があるようなので、非常に優しい食べ物だ。
日本人はそば派とうどん派がよくいたりする。私自身も昔はそば派だった。いつの頃からかうどんも好きになったが、昔はうどんを食うと頭が痛くなると感じていた。全くいいかげんなものだ。今ではそば、うどん、冷や麦(冷や麦だけは冷やして食べるから冷や麦なのだろうが)、素麺、何でも好きだ。
素麺もそもそも中国渡来だそうなので、ラーメンなどを考え合わせても、日本人の麺好きと、それぞれの製法の違いや、できあがった状態で味が違うというのも、なかなか素晴らしい。そういえば、パスタだってそうだ。
ああ、素麺が食いたくなったな。
投稿者 keisuke : | 23:32 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年5月 9日
天皇問題-男系という考え方
今日、夕方のニュースで、女性天皇の問題をやっていた。愛子様が天皇になるかどうか?というお話しだ。
世界の多くの地域で、政治や宗教の全面に女性を出さないというしきたりや伝統がある。その世界的な状況をひとつ男性と女性の肉体的な力の差から、そもそも派生したのではなく、何らかの意味をそこに見いだすとすれば、例えば女性天皇という話も「NO」あるいは、女性であっても男系の・・・という意味が分からなくはない。しかし、少なくとも現代に於いては、性差以外に男と女の権利を分けるような考え方は主流ではないだろう。
ところで、男系って何だ?直系ともいうが、この男を直系、女を傍系とするのは、言葉の上の分類としてはいいが、そもそもそこに優劣がある。つまり、女は男の家に嫁に来るという、ただの習慣だけなら誰も文句を言わなければそれでいいかというようなことでも、例えば天皇制や、いわゆる家系という話になるとことは違う。
個人的には家系などというものは後生大事に持っていたって、たいしたものではないという考え方なので、「由緒ある」などという言葉が、本来の意味を通り越して「素晴らしい」という意味を含んで使われることには反発を感じる。
つまり、男の家系に女は嫁に来るので、あくまで外からやってくるという考え方に立つから、例えば愛子さんが、結婚して外から男子を婿に迎え、その子供が皇位を継承すると男系(直系)ではないという考え方になるのだろう。しかし、血のつながりという意味では、連綿と続く(本当にどこまで続いているのかなど知らないし、言ってみれば他人の家なので興味があるわけではないが)血の流れはあるわけで、どこが直系でなくなるのか意味が分からない。
ことほど左様に、伝統とか歴史などという過去ばかりに目を向けていると、そのことが現代の自分たちを縛ることになる。歴史や伝統をないがしろにしろなどと言っているわけではない。しかし、歴史や伝統なんて二の次でいいだろう。参考程度で。
なぜかと言えば、歴史は変革と更新の連続だからこそ歴史という意味があるので、あたかも聖書の創世記のように「××は何歳まで生きた・・・・」を連綿とつづるなら、歴史など不要だ。
皇太子夫婦に女の子しかいないとすれば、そこをエポックとすればいいことで、あまり考える必要などないと思うのだが。
まあ、そもそも一人の人間が日本を象徴するという考え方そのものが成熟しきれない人類の今を表しているような木がしないでもない。・・・会社にはとりあえず社長が必要だ。くらいの考え方でいいかな。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月 8日
リージョンという問題
DVDにはリージョンコードというのが設定されており、海外のソフトを見ることができない。これは、ハリウッドの映画業界が、例えば日本で公開前の映画を、日本人が輸入して見てしまい、映画館に行かなくなることで、興行収入が減ることなどを危惧したということのようだ。
この偏狭で小心な制作サイドの思惑が消費者の行動を制限するというのは、まさに暴挙というしかない。DVD買ったって、ハリウッドにはお金はいるだろう?ではないのだろうか?いずれにしても、日本人の英語力を過大評価し、金では買えない消費者の信頼を損ねるような行為だ。
もちろん、リージョンフリーだからといって、海外の作品を見るかというと、個人的にはあまりない。ただ、海外旅行に行って、欲しい物があれば買いたいと思っても、どうせ再生できないのだから買わないと言うことになる。結果、逆効果だったり。
現在ではリージョンフリープレイヤーでもかからないソフトもあるらしい。
これらの措置は、CDで言えば、エイベックスやソニーが導入している、パソコンでは専用ソフトでないとかからないという、消費者を小馬鹿にしたコピーコントロールCDという仕組みと一緒だ。
ビル・ゲイツの資産や、マイクロソフトの業績を見ていると、果たしてWindowsや、Officeの価格は適正だろうか?と思わざるを得ない。パソコンのソフトや、音楽ソフトは例えば書物と同じ著作物だ。家族や友人同士の貸し借りなど、書物であれば当たり前だ。というか、それもまた読者を増やす一つの宣伝でもある。同様に、ソフトウエアや音楽などの著作物も、その辺りのアローアンスをしっかり保持してこそ、消費者との円滑なやりとりが成立すると私は考える。
ポータブルオーディオプレイヤーがこれだけ流行っても、自分で購入したCDから録音できない人が沢山いる。
もちろん何事も、全て満たされるということは、人生の多くの場面でなかなか無いことだが、それとは全く違った次元で、過度な反応で消費者が不便を被るようなことを実は多くの業界が行っていると言うことだ。
これはある意味、特殊法人や、公務員が不当に大きな給与や手当、あるいは世間的に見て明らかにおかしい家賃で住宅に住んだりという不都合がどれだけマスコミに取り上げられようと、その恩恵を受けている人もまた沢山存在するために、それほど簡単に片が付かないというのとちょっと似ている。
利害は各々が所属する社会を代表しているので、多くの場合、強い方が勝つ。
まあ私たちは、こうやって小さな声を上げ続けていくしかない。
投稿者 keisuke : 映画 | 22:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月 7日
扇子
母親が扇子を新しくしたという。
扇子を辞書で引くと扇を引けとある。一般に、風を送るために仰ぐ道具が扇であり、木を束ねて一端を糸で止め開けるようにした物が扇子。閉じられない物が団扇ということらしい。紙が発明された後、紙を貼るようになったと書いてあった。
扇子も団扇も中国語で、扇が日本語らしい。
扇というと、西遊記の牛魔王が使う芭蕉扇を思い出す。孫悟空が牛魔王から奪って火事を消したという大きな団扇だ。だが、芭蕉扇はそもそも場所の葉鞘を使って作った扇のことで、
http://www.hana300.com/basyo0.html
ここに写真がある。
葉鞘というのもまたあまり目にしない文字で、広辞苑によれば「葉柄の下部が茎を抱いて鞘さや状をなしているもの。イネ・ススキなどに見られる。」で、私などは必ずしも文字からどんなものであるかを想像しにくい。
いずれにしても扇子というのは中国起源で、日本で現在のような物になったようだ。
昔はよく、借金取りや、不動産屋の親父などが、開襟シャツで夏場、ぱたぱたと仰いでいるという印象が強い。別に借金取りや不動産屋でなくてもいいのだが、どうもそういうイメージがある。但し男の場合だ。女性でも和服のオバサンがぱたぱたかな。
だが、扇子にはいい香りがしみこませてあるし、なかなか手仰ぎの風はすゞやかで気持ちがいい。ふと自分でも買おうかなと思った。汗をかいてだらだら流すより、扇子で涼しげにしている方が乙ではないか。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:57 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月 6日
ウッズの暴力
一日古い話題だが、5日の中日×ヤクルト戦で5回の裏に、中日のタイロン・ウッズが、ヤクルトの藤井が投げた胸元のボールに怒って藤井を殴った。藤井はしばらくマウンド近くに横になって動けなかった。その後も続投したので、怪我の程度はそれほどではなかったようだ。
個人的にヤクルトファンであることを別にして、試合後の落合監督のウッズ擁護発言に腹立たしい思いをした。
「アイツら(外国人選手)はあそこ(顔面付近)に来たら怒る。ぶつかるぶつからないという問題じゃない。(藤井が)謝っていれば、何でもなかったけど、挑発したみたいになったから」
というようなことをいったらしい。確かに乱闘が起こることはよくあるし、デッド・ボールは命の危険もある。しかし、この落合発言は盗っ人猛々しいというものだ。私は試合を見ていたが、あのコースでいちいち怒って投手を殴っていたら、野球なんて成り立たない。投手に向かって怒るのはけっこうだが、手を出すというのは別の問題だ。自軍の選手を擁護するのが監督の務めなのかも知れないが、この件で一気にアンチドラゴンズになった。というより、落合嫌いかな。
人生をかけてやっているのは投手も打者一緒で、デッドボールでもないのに、あの場面で藤井が謝るというのは、弱さを見せることだし、危険球でもないのにいちいち謝るようなことではない。少なくとも試合中は。
確かにウッズは五十嵐から死球を食らって骨折もしているので、心情的には外国人ということも加味して解らなくはない。だが事の是非はそことは別のところにあるし、ましてや監督が「悪くない」ということを言うべき状況ではない。
落合は確かにすごい選手だったし、監督になっても中日を優勝に導いた監督だ。今年の中日も強い。だが、だから飄々と、敵軍の選手を殴った自軍選手をかばい、「相手が謝らないのが悪い」という表現をするのは、どうかと思う。
暴力っていうのはだいたいにおいてそれを振るった方が悪いことが多いものだ。
投稿者 keisuke : スポーツ | 21:49 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月 5日
髪型
昨日少し髪型の話に触れたので、今日は髪型のお話しを。
髪型というのは世界各国、そして時代とともに様々な形がある。現代社会は、概ね男性は短髪で女性はかなりファッショナブルに様々なスタイルがある。もちろん、男も様々なスタイルはあるが、ビジネス等に多く左右されているように思う。先進国の首脳が宗教的な意味などもなく肩まで髪を伸ばしている姿など見たこともない。
かつて日本人はちょんまげを結っている時代があった。中国には清の時代、弁髪というのもあった。今でもアフリカなどには特殊な髪型をしている部族もあるに違いない。かように、髪型というのは時代とともにかつてはあったのだ。
さて、髪型というのは見てくれの一つだが、「こういう髪型が望ましい」というのが、ある程度要請される場合がある。飲食店の店員が、長い髪を振り乱していれば、不潔な感じがするとか、同じ理由で医療現場も、それなりの髪の方がいいような気もする。もちろん、どんな会社であれ、不潔でいいはずはなく、人前に出るときの礼儀として、ある程度の清潔感というのは大切なことだ。だが、そういう快不快という基準であれば、それは髪の長さではなく、明らかに何日も洗ってない(それなりの理由もなく)とか、そのために肩が頭垢だらけになっているとか、そういうことだろう。但し頭垢も体質的なこともあるかも知れないので、一概に悪いと決めつけてはいけないのかも知れないが。その点は知識不足だ。
昨日も少し書いたが、中高生などに、短髪やストレートの髪を強要する意味が、この年になっても全く分からない。自分が教師だったら、「理不尽ではあれ、校則に決まっている。君たちの中から動議を出して校則を変える努力をしてみたらどうか。援助は惜しまない」とでも生徒に言ってやりたい感じがする。秩序を守るというのは闇雲に決まっていることを守り通すことではないだろう。法が必ずしもみんなの味方ではないことは、国の法律を見ていても解る。
私は髪の長さも色も、少なくとも自由主義国家であれば、ほとんどの人が自由にしていいと思う。一般人がみんな髪の毛をカラフルにしたら、不良(この言葉も旧いのかな)はきっと、黒々とした髪を尊ぶに違いない。
営業マンが長髪だからと言う理由で信用されないケースは、多分今の時代でもあるような気はする。それは茶髪も同じだ。例えば女性だって、普段着で営業はしないというのと同じだ。という理屈は、ある程度説得力がある。TPOというやつだ。
まあ、現代にすぐ、そのTPOを覆せと言っても難しいだろうが、不思議なことに、未来を描いた映画を見ると、あまり現代では見かけないような制服姿の登場人物が多かったりする。
少し前に読んだ「万物理論」という小説では、性の自由が描かれていた。汎性という、男でも女でもない人物や、男と女の中間など、自由に性をコントロールできる世の中だった。これは保守的なキリスト教的社会の中ではあり得ないことだと思うので、そう簡単に実現するとは思えないが、人が生きていく上で、自由にコントロールできる部分、ファッションや食事のスタイル等、全てが全てではないが、かなり大幅な個人差があっても不都合のない部分はあると思う。
髪型もその一つだと。人間性がその髪型や色で解るというような、不確実な意見は消えていくことを信じたい。
尤も、「その髪型似合わないから変えた方がいい」と、伴侶や恋人から言われたら、素直に変えるにしくはないとも思うが。
投稿者 keisuke : 日常的 | 21:57 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月 4日
ペット
一口にペットといっても、現代では犬や猫ばかりではない。ペットを辞書で引くと「愛玩動物」とあり、愛玩を引くと「(小動物などを)大切にしてかわいがること」とある。まあこれはペットの一般的な理解とまさに一致するところだろう。
爬虫類や両生類、あるいは昆虫や魚など、人によってペットはいろいろだと思うが、多くは犬猫だ。動物病院がかつて「犬猫病院」といわれたゆえんだ。
私は犬も猫も好きだが、世の中には「犬派」と「猫派」もあるらしい。確かに犬と猫は大分違うというのは解る。私自身は猫を飼った経験がないので、人づての話や物の本が参考にはなるが、どう考えても犬の方が従順だ。ところが人間というのは面白いもので、従順であればいいという人ばかりではなく、言うことを聞かない方がむしろ可愛いと考える人もいるのだ。男女の好みともある意味通じるところがあるような気がする。
そう、ペットというのは実は、恋人や家族などとちょっと似ていて、実際に長く暮らせば家族の一員になったりする。
先日ニュースで、都営住宅のどこだかが、ペットを急にだめだと言われるようになったという話と、立川の都営住宅ではペット可の実験をしているというのを見た。
そもそもペットをマンションでは飼ってはいけないというのは、いつ頃から言われているのかは知らないが、暗黙の了解のようになっている。一つには、靴を脱ぐという生活をする日本人の独特の生活環境も影響しているように思える。同時に、家というものに世界でも有数の高額なお金をかけなければならない(ニューヨークなどもっと高いところもあるかも知れないが)生活環境も影響しているだろう。
ペットの被害というのは、猛獣や極端な野生系は別にして、鳴き声や臭いが主な嫌われる原因だろう。だが今では臭いは、いい商品も沢山出ているので周囲の家に影響を与えるほどの被害を出すことは、ちょっと気をつければないだろうし、鳴き声も、家の中であれば、それほどひどいこともないように思える。人間同士のケンカや怒鳴り合いの方がよっぽどうるさい場合もあるだろう。
大型犬などは、多少の不安は確かにある。時折噛まれたというニュースもあったりするから。同じ理由で猿などもそうだし、猫は勝手に出歩くと子供が増えたり、盛りが付いたときの夜中などは相当うるさいこともある。
しかし、都会に住んでいると、電車の音や車やバイクの音、選挙の時は選挙カーなど、多くの騒音に実は囲まれていて、犬や猫が家庭内で多少吠えたとしても、実はそれほどの音量ではないはずなのだ。むしろそれは、犬猫が嫌いという、嫌悪が先にあると思う。
先日、電車内の化粧の話を書いたが、「個と公」の区別がつかなくなっているのだとテレビで言っているのを見た。しかし実は、化粧は自分の家でするものだという、それほど絶対的でもない固定観念があるからに他ならない。それは、人前でキスすることを不快だとするのが、アメリカやヨーロッパへ行けばごく自然の行為だったりして、しかもじっくり考えてみれば、理屈でそれを悪いことだと断じることが意外に難しいことは、ちょっと考えれば解る。
もちろん、どんなことでも急激な変化や、伝統や文化からの脱却は簡単にはいかない。だが、そうやって時代は変わっていくのだし、「言葉がなってない」としても、今では大人だって「ださい」と平気でいう時代だ。変化は不快とか過去への礼賛を否定するところから、自然に起こってくるものなのだ。その時折の多くの人にとって、いい変化ばかりではない。
高校生に長髪を禁じることが教育の一環だと信じている大人がいても、恐らく今ではそう思ってない人の方が多い。パーマで怒る前に、自分の同僚や妻がやっていることを、高校生であるというだけで否定する根拠が、実はないというところから、世の中では何が良くて何が悪いのかを教えていくことの方が大切だと思う。
ちょっと話がそれたようだが、つまり、ペットというのも実は、自然の成り行きで、今では多くの人が家族の一員のようにして、例えばお年寄りが老後のよすがとしたり、子供のできない夫婦が子供の代わりに可愛がったりと、各々の状況も含めて単なる趣味というだけでは無い部分も相当な割合ではあると思う。
海外のように、ところ構わず糞がしてあるのもどうかと思うが、そういう意味では、かなり散歩の糞の処理は日本では良くなってきているように思う。
社会的な関係というのは、一つには迷惑をかけないという視点が大切だが、同時に、ある程度の許容、「許す」という文化も必要だ。この許すというのは、殴られて相手を許すとか、先日奈良で捕まった大声で嫌がらせをするオバサンを許すとか、そういうことではなく、日常生活の中で、違った考え方をしていたりするのが普通の近所で、相手を自分の考えに押し込めること無しに、許容していくことだ。
それは裏を返せば、あまりにうるさければ、「しずかにしてくれ」という自由と、それに反発せず、気をつけるという譲り合いを含めた良好な関係を築こうという互いの努力がいつでも必要だと言うことだ。
近所に迷惑をかけないように、でも自由な環境でペットが飼える方がいいではないか。
ただ私は一人暮らしだし、ペットが可哀想なので、今はまだ飼う気はないが。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:07 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月 3日
置き石
このところネットのニュースを見ると、近畿圏で「置き石」が増えているのが解る。
あれだけの大惨事を見て、たとえ悪戯であれ、置き石をする人間がいるということが、あるいは今の日本を物語っているのかも知れない。もちろん、それは「今の」ではなく、これだけ沢山いる人間の、やむを得ない例外なのかも知れない。
イラクでは、何人死のうがテロが尽きない。最早人々を殺害することで何を達成したいのかも解らないほど犠牲者が出ている。60億以上の人間が、この大地にはひしめいている。
毎年5千万人以上が世界では死亡しているという。人口は増えているから、それ以上の子供が生まれていることになるわけだが、世界では、毎年人口の1割近い人間が入れ替わっている計算になる。
数字というのは冷たくて、統計的に見ると、107人の犠牲者も、今年の死者数のわずか0.0002%でしかない。
だが、その5千万人にも、107人にも同じように人生があり、貴重なはずだ。
置き石では電車が脱線することはほとんど無いという。しかし、物事には何事も例外があり、原因があって結果がある。一つの石が、またも多くの命を奪わないという保障はないのだ。なぜ、そんなことをするのかという感覚については、多くの人が理解できないことだろう。だが、少しでもそういうことが減るようにするためにはどうしたらいいのか、我々は常に考えていかねばいけないだろう。
何かのために、能動的に他者の死を求めることが、世界のあちこちである時代に、せめてその石を持たぬ軽挙が、人の命を奪うことがない世界を、作るための努力をたとえ意識の中だけでもまずは持って行くことが大切だと、改めて感じないわけにはいかない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月 2日
天下り
天下りがいけないとか、税金や社会保険料、郵貯や簡保の無駄遣いなど、ニュースや特番などで、ずいぶん昔からやっているようだが、どれほど何かが変わったのかとなると、出てくるのはここにもこんな無駄があったなどのお話だけで、改善されたという話は少ない。
今日もタケシのテレビタックルで、国会職員の驚異的な年収や退職金、あるいは各自治体公務員の「ありえない」手当についてやっていた。だが、果たしてこれらが改善されるのだろうか?どうもこれまでの経過を見ているとあまり期待ができないが、郵政が民営化されるだけでも「何か」が変わることは間違いない。
ところで、税金や保険料などを使って作られた施設や組織だが、天下り先として問題になっている。
実は以前から思っているのだが、別に天下りをなくす必要など無いのではないかと。ただ、天下り先の待遇を制限をすれば、いいことではないか。例えば特殊法人で、役人が天下って入ってきた場合、新入社員扱いで、退職金もそれに準ずる位にしておけば、天下りしようとも思わないだろう。民間に天下る場合は、給料を出すのはその会社なので、放っておけばいいが、税金を投入したり、何らかの形で「特殊法人」と呼ばれる団体には、それくらいの規制をかけてもいいだろう。
それと、以前から思っているのだが、舛添要一が議員の給料や年金に関して話すとき、必ずそれなりの待遇を要求する。結果的にある程度の待遇は必要だろうが、そもそも、金にならなくても国のために働く人をこそ、議員として選びたい位なのに、ハナから金をよこせと言っているように聞こえる彼の発言は、どうも聞いていていい気持ちがしない。
ついでだから書くが、日本の国会議員は、地元への利益誘導型が多いが、そもそも国家のことをやるから国会議員なので、地方のことを考えて、鉄道を通すだの、公共事業をもって来るだの言っている立候補者は、国会議員の資質に欠けると思っているのだが。ただ選挙民も、特に地方は、そういう人を選んじゃうんだよな。やっぱり国会議員は全員全国区にするか、毎回地元をシャッフルするしかないな。そうすれば、「地盤」なんていう下らない言葉も消えて無くなるだろう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月 1日
ゴンゴール
Jリーグ・ジュビロ磐田の中山雅史が、Jリーグ史上初の150ゴールを達成したという。サッカーに疎い私などでも当初から中山の名前は知っていたし、「タンスにゴン」のCM以来、ゴン中山として、芸能人並みに有名だ。昨今のワールドカップなどには、さすがに年齢もあり名前を見ることもないが、37歳という、あれだけの運動量を要求されるサッカーに於いては高齢とも言える年齢でもがんばっていて頭が下がる。
年間10得点決めても15年かかる計算だ。
確かにハットトリックなどと言うこともあり、優れたフォワードの選手なら、年間数十点を決められることもあるのかも知れないが、年間の試合数は野球などと比べると圧倒的に少ないので、普通に考えても偉業だと思う。記録を見てみると、中山は11年で達成している。まだ歴史の浅いJリーグなので、これからは若い選手がどんどん抜いていくことになるのかも知れないが、1試合平均得点が0.523というのも立派だと思う。当然のことながら、30を超えてしばらくすれば、試合には出場しても、自ずと出場時間は減ってくるはずだからだ。
先日、清原が500号本塁打を打ち、その前には古田が2000本安打を達成した。
本塁打の記録を調べると、清原の上には王 貞治(868)、野村 克也(657)、門田 博光(567)、山本 浩二(536)、落合 博満(510)、張本 勲、衣笠 祥雄(504)しかいない。清原が張本と衣笠を抜くのは時間の問題だし、今年中に落合も抜くだろう。あと何年できるのか解らないが、山本浩二までは抜きそうな気がする。・・・門田は危ういかな。
野球選手にしてもサッカー選手にしても、人がなかなかできない記録をできる選手はすごいし幸せだと思う。古田が達成した2000本安打をイチローは31歳で達成している。安打の1位は張本の3085だが、イチローが今のペースで行けば、30代半ばでその記録を抜く。
今回の中山の150ゴールは恐らくそれくらいすごい記録ではあろう。それにまだ現役を続けるようだし。
単純に努力だけで達成できる記録だとは思えないが、逆に努力がなければ達成できなかった記録は、手放しで賞賛を送りたい。
投稿者 keisuke : スポーツ | 23:42 | コメント (2) | トラックバック (0)