2005年4月30日
ディーリアス
今読んでいる小説に、時折ディーリアスが出てくる。翻訳ではデリウスとなっているが、明らかにディーリアスだ。この登場人物はイギリス人なので、ディーリアスは自国の作曲家ということになる。
イギリスの音楽というと、パーセル以降目立った人がいない。ヘンデルはドイツ人だが、イギリスで活躍していたのイギリスの音楽といってもいいかもしれないが、それ以降、なぜか目立った作曲家は、ホルストやエルガーなどの比較的近代の作曲家しか知られていないような気がする。ディーリアスもその一人だ。
「惑星」のせいで、ホルストは非常によく知られているし、エルガーも「威風堂々」で知られていることを思うと、ディーリアスは非常に地味だ。その音楽も全体的に地味で、言ってみれば、「カラヤンのアダージョ」ではないが、非常に静かな音楽が多い。・・・多いというか、何を聴いてもそんな感じだ。
一番有名(と私は思っているのだが)な曲はオペラの「村のロメオとジュリエット」だと思うが、これなど全体を通して、夢見るような音楽で、激したところが全くない。かなりドビュッシー当たりから影響を受けているようだ。ドビュッシーと同い年で、フランスで死ぬまで過ごしているの、さもありなんというところだが、しかし、印象派とかドビュッシーと同じかというとそうでもない。もっとロマンチックで、絵画的だがより写実的な雰囲気があると思う。おおらかという表現があたっているように思う。
尤も、ディーリアスを全部聴いたわけでもないし、どちらかというと数少ない経験の中での印象だ。部分部分は、ドビュッシーぽいように聞こえても、その後牧歌的なフレーズが流れてくる辺りが、あたかもマーラーの第3交響曲の終楽章のようだったりもする。
CDになっている曲のほとんどが、美しくてゆったりとした曲なのだが、例えばアルビノーニのアダージョとか、パッヘルベルのカノンのようにキャッチーなメロディーライン中心ではなく、一見キャッチーなメロディーをズオーっと引き延ばしたようなイメージがある。
ただ絶対、クラシックを「アダージョ」なら聴けると思っている人、眠りの前の子守歌にいいと思っている人は是非聴くといいと思うのだが。とにかく美しい。
先に書いた「村のロメオとジュリエット」は持っているが、他のオペラを聴いたことがないので聴いてみたい気がするのだが、何となく全部似ている予感が・・・・
あ、ヴォーン・ウイリアムスがいた。イギリス人に怒られちゃうな・・・・でもメジャーって訳じゃないよな。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:48 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月28日
古本
世の中には古着や古本、中古CDなど、ユーズドという商品がたくさん出回っている。
洋服や家具など、多くのものが問題ないが、書籍とCDや、ゲームといった著作権がらみの商品がよく問題になる。つまり、知的財産の二次使用ということだ。
現状を見てみれば、暗黙の内に中古市場というのは黙認されているという気がする。確かに、中古業者というのは、「人のふんどしで相撲を取って」いるようにい一見見えるが、実はこの人のふんどしで相撲を取るというのがすなわち流通業であり、売り手と買い手の仲を取り持って利益を上げるという、非常に合理的な商売なのだ。そして裏を返せば、制作されたものは何であれ、流通しなければ意味をなさない。流通業というものが存在しなければ、作り手は利益を上げることができないのだ。
しかし中古市場というのは実は、売り手側が「製作者」ではなく、そもそも「買い手」なのだ。しかしこの図式も昔から存在する。それは問屋だ。問屋はメーカーから商品を仕入れ、それを直接顧客に販売する店舗に販売することで利益を上げている。
一つ中古を取って、著作権侵害という表現はあたらない。それが著作物であろうと物であろうと、いや、著作物もそもそも物として市場に出回るのであり、コピーやレンタルと中古市場が違うのは、根源で物がやりとりされるということだ。意匠という意味では洋服も家具も、そこにデザインという無形の価値がある。それは言ってみれば小説だったり音楽だったりと同じものだ。身に纏えれば何でもいいわけではなく、それなりに好みのデザインを選ぶことは、好きな文章や音楽を選ぶのと何ら違いはない。
むしろ流通が採算面で失ってしまう、廃刊や廃盤のカバーをしてくれる非常にありがたい市場だ。
購入する側は、新品の洋服でないと嫌な人がいるように、新刊でないと嫌な人もいるが、中古で何ら問題はないと考える人もいる。私自身は、新品で揃えたいものと中古でいい物は何となく線引きがある。例えばCDであれば、アーティストに対するリスペクトが、新品を購入したいという気持ちにさせたりといったことだ。
たまたま今日、ブックオフで何冊か購入してきた。安く買えてありがたいが、なかなか掘り出し物があるというわけではないので、中古市場もある程度棲み分けはできているのだろう。
先日、インターネットで遠藤周作の書籍を購入した。初出で600円という箱入りの本だったが、900円だった。恐らく今新刊で出れば、同じ体裁で2000円程度はしそうな体裁だ。ネットはこういう使い方ができるのもありがたい。
おっと・・・・代金を振り込むのを忘れていた。払いに行かなくちゃ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 21:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月27日
大王膳
私の住まいは荻窪だが、デリバリーは実にたくさんある。ジャンル分けすると、ピザ、寿司、中華、洋食が多い。だいたいどこも、1回のデリで1200~2000円の注文をすれば届けてもらえる。最近はその単価も下がっている。
ピザで言えば、ピザーラ、ドミノピザ、ピザハット、ストロベリーコーンなどだが、比較的どこも似通った味で、いわゆるイタリアンレストランのようなピザはなかなか無い。
寿司も店舗による違いというのはそれほど無い。中華は3店舗あるが、上海エクスプレスとその亜流という感じだ。
最近そこに、大王膳という弁当屋のチラシが入るようになった。
メニューは驚くほど多い。丼系、釜飯、フライ系、天ぷらとうどん、寿司系、パスタ系、カレー、チャーハン、サンドイッチ等、メニューは100種類以上あるに違いない。ガストなどのファミレスや、ファンダースのような弁当系のデリバリーに比べると、商品数の多さもさることながら、見た目はいわゆるお弁当屋さんで、非常に庶民的だ。
ランチも20種類以上あって、みそ汁も付いてくる。弁当のメニューは単価が、580円〜1,380円だが、概ね7〜800円前後で、量は圧倒的に多い。いつも容器からはみ出している。カタログに写真が載っているのだが、写真に偽り無く、そのままが来る。味もなかなか上手い。フライもかりっと揚がっていて、ロースカツランチのカツの厚さなど、肉が2cm近くある。掛け値無くお徳用だ。
まだ全てのジャンルのメニューを試してはいないが、今まで食べたものから類推すると、ほとんど間違いない気がする。
確かにデリバリというのは店舗が小さくてすむので、普通のお店よりも、その点はコストダウンできるのかも知れない。
味付けが庶民的で、本来のお弁当感覚で頼めるというのが何よりうれしい。近所にオリジン弁当があって、昨今、オリジンは至る所で見かけるのだが、オリジンの隣に弁当屋として出せば、間違いなくオリジンを食ってしまうに違いないと思わせる。
ところがどうやらこの店は、西荻窪にある洋菓子屋のこけし屋が仕掛けているというのネットで見たので、「荻窪店」とは書いてあるが、まだ他のお店はほとんど無いのではないかと思う。ただ、この味とボリューム、メニューの多さで採算が取れるのであれば、恐らくあっという間に首都圏には広がるだろう。そして、このお店のようなデリバリーショップ、またはお弁当屋さんが増えるかも知れない。
オリジンのような総菜も買える弁当屋というのは一時期どっと増えたが、最近は落ち着いているようだ。あれはあれでいいスタイルだが、ほっかほっか亭よりもレベルの高い弁当屋というのは、まだまだ都内では有効な店舗だと思う。
ピザや中華も悪くはないが、日常的な弁当が手ごろな価格で買えるというのは非常な魅力だ。私は個人的に応援する。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月26日
巨人の星
今年の巨人は弱くて、今日で5連敗だというが、取り敢えず6連敗まではがんばって欲しいところだ。
さて、先日も「巨人の星」が好きだという話をちょっと書いたが、「巨人の星」という漫画は、もうかれこれ40年近く前の漫画だと思うが、知名度は高い。やはり一時代を築いた漫画だ。
野球漫画というと、必ずしも全部読んだことがあるわけではないが、思いつくのは、「巨人の星」「ドカベン」「男どあほう甲子園」「アストロ球団」「キャプテン」「プレイボール」「侍ジャイアンツ」「あぶさん」などだが(「タッチ」も野球漫画なのかな?なんとなく)、大きくプロ野球と高校野球に分かれる。そして、水島新司が描く作品は基本的に関西に拠点があるので南海だったり(今はソフトバンクなのかな?読んでないが)、阪神だったりが舞台で、在京と言うことになると、まず巨人しか舞台にならないような気がする。
巨人、大鵬、卵焼きを知っている世代だが、個人的にはどれもぴんと来ない。「巨人の星」が好きでも巨人は好きではなかったし、当時は相撲に興味もなかったし、卵焼きよりトンカツが好きだった。
さてそんな「巨人の星」だが、歌にもあるように、これは星親子のど根性物語だ。
梶原一騎は当時、スポーツや学園関連の沢山の漫画の原作をしているが、その多くは、「やる気」と「根性」、「友情」と「男らしさ」という、全体的な押し出しはかなりステレオタイプの作品が多かった。戦争(第2次世界大戦ではなく太平洋戦争)をかなり引きずっていたし、ほとんどの作品で男泣きが随所に見られた。
「巨人の星」も例外ではなく、伴と星の友情はホモすれすれでさえあった(語弊は覚悟)。何ページかに1回は泣いていたし、友情や愛情で殴るシーンもやたら多かった。しかしとても面白かった。
私はこの面白さは、星と花形という2大超人の故だと思っている。左門のような単純な努力家タイプが主人公であれば、あれほど面白くはなかったはずだ。花形はとにかく天才というキャラで、水鳥は水面に優雅に浮かんでいても、水中では必死で水を掻いているという喩えなどどこ吹く風、星飛雄馬の姉明子とのデートでは、堂々と昔の自慢話をしたりしている。
大リーグボール1号を打ち砕いたのはオズマだったが、誰よりも早く魔球の秘密を見破るのは花形で、象徴的なのは、消える魔球の時、努力肌の左門は魔球の秘密を80%まで見破っていたが、その時点で花形は100%見破っていた。
しかも花形の超人性は能力に止まらず、花形モータースの社長令息という肩書きまでをも与えることで、完璧にされていた。
梶原一騎という人は、なぜか悲しいお話しが好きで、最終回はほとんど私が知っている限りの作品では、主人公がぼろぼろになっていた。タイガーマスクでは、伊達直人は子供を助けるために交通事故で命を落とし、夕焼け番長では赤城忠治は、オリンピックを目指しながら、友人を助けるためにアキレス腱を切っていた。伊達直人は孤児院の出、赤城忠治は両親を亡くし、祖父に電車を自宅に変えた家で育てられていた。星飛雄馬も、貧乏長屋で暮らし、原作では寂しく去っていく。
その去る前に、大リーグボール3号で完全試合を達成するかしないかという試合でも、巨人、中日双方が譲らず、コミッショナーに提訴したという、およそ漫画では考えられない不完全燃焼の終わり方を選んでいる。
恐らくタイガーマスクもそうだし、巨人の星も、テレビアニメがなければ、これまで残ったかどうか非常に疑わしいと私は思っている。どちらの最終回も、テレビ版は非常に感動的で、こてこてのドラマツルギーに支配された内容になっている。もちろん、最終回だけではなく、そこに到る数回の経緯で、どんどん盛り上げていくのだ。
私は巨人の星のアニメの中で、最も好きなシーンがある。それは、大リーグボール3号の秘密を探っていた父親の一徹が、自ら同じフォームで投げてみて、腕に異様な痛みを感じる。病院へ行った一徹は、そこで大リーグボール3号に隠された秘密を知る。
その後、雨のそぼ降る公園で、ブランコに揺られながら、「飛雄馬よ、おまえは自分の野球生命を投げていたのか!」と絶叫するシーン、ここが一番好きだ。
アニメ版の最終回は、漫画と同じ「アウトかセーフ」かを審判が迷うシーンはそのまま使われているが、コミッショナーに提訴などという尻つぼみの内容ではなく、一徹が、アウトかセーフかなどと言うことはどっちでもよく、おまえは俺に勝ったと、飛雄馬に言うことで、見事に決着を付けている。最後の星飛雄馬が一人行進している画は、どうもいただけないが、あの長編を締めくくる最終回としては非常に良くできている。
今となっては古くささも随所にあるし、突っ込みどころは数え切れないほどあるのだが、それでも尚、作品の持つエネルギーは色褪せていない。
あの漫画を見て、努力することの素晴らしさを学んだと言うこともないし、巨人ファンになったわけでもないが、作品そのものが持つ面白さは、ドラマティックと言うことの素晴らしさを教えてくれたと思う。
投稿者 keisuke : まんが | 23:59 | コメント (0)
2005年4月24日
祝2000本安打!! と愚痴・・・
ヤクルト・スワローズの古田敦也が、大卒で社会人野球経験者としては始めて2000本安打を達成した。捕手としては野村克也に続く二人目だ。素晴らしい成績で、ファンとしてはうれしい限りだ。
私がスワローズファンになったのは、最初の優勝前後のことだ。子供の頃は、父親が野球を見るために、自分が好きな番組を見られないことで、野球嫌いだったが、「巨人の星」は好きだったので、野球は見ないが父親の好きな巨人は嫌いな子供だった。当時のヤクルトは万年Bクラスで、とても弱いが故に共感が持てた。荒川、広岡という監督時代に隠れファンになり、恐らく広岡監督の下で優勝したときにファンであることを自覚したといった感じだ。
武上、土橋、関根という監督の下でもやはりBクラスが定位置だった。この関根監督の最後の年に古田は入団している。そして野村監督になって4度の優勝、若松監督の下での優勝と、古田は、ヤクルトの優勝6回の内5回も絡んでいるのだ。すごいという他はない。
もちろん古田一人の力で優勝できるわけではないが、古田がいなかったら、このうちの何回かの優勝はなに違いない。
キャッチャーという肉体的にも精神的にも厳しいポジションで、16年間プレイをし、2000本安打を達成した古田という人には頭が下がる。
ヤクルトの現監督、若松勉も2000本安打を達成した一人だが、若松は19年で21732安打だ。尤も、2000本を超えたのは古田と同じ16年目なので、古田が来年もレギュラーで活躍できれば、この数字はきっと抜くに違いない。師匠とも言える野村克也は、2901安打という強烈な記録を保持しているので抜くことは難しいだろうが、何しろ現役26年なので勝負にはならない。古田が高卒ルーキーで活躍していたらどうだったのだろうか?
明日からも是非がんばって、大杉の2228安打を抜いて欲しいものだ!
ところで、2000本安打のシーンは是非テレビで観たかったが、ろくでもないフジテレビのおかげで結局見ることは叶わなかった。フジが、ごく限られた人しか試聴していないCS専門チャンネルでヤクルト主催ゲームを放映するおかげで、Jスポーツなどの標準チャンネルでは放映をしていない。巨人戦は地上波で放映するくせにだ。もしフジが視聴料で運営している局だったら、明日から視聴料を払いたくない。前にも書いたが、読売は、標準チャンネルで放映しているし、何より地上波でほとんど放映している。
昨年、あれだけ野球界にごたごたがあって、低迷している原因をプロ野球機構のせいにしたり、放映権の制にしていたマスコミの一角であるフジテレビが、今やっていることは、到底昨年の報道をした同じ局の振る舞いとは思えない。
さっさとどこかに買収されてしまえ!・・・・あくまでこれは愚痴ですので。・・・・ほとんど飲んだくれ親父の理不尽な・・・・・ああやだ。
投稿者 keisuke : スポーツ | 22:34 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年4月23日
旅行
いつの頃からだか旅行は常にブームだ。
家を離れてどこか違う場所に行くというのは、多くの人にとって楽しいことのようだ。だが、実は旅行が好きな人ばかりではないだろう。家にいてのんびりすることの方が何十倍もいいという人もいるだろう。
また、旅そのものは好きでも、そういう旅が好きかとなると話は別だ。
私は昔から、遠足とか修学旅行が好きではなかった。もちろん、行けば行った先で楽しむことはできる。だがそれとその旅行自体が逝く前から楽しみかと言えば、決してそんなことはなく、かえって憂鬱だった記憶がある。何事もそうだが、万人が共通で楽しんだり、いいと思ったりするのは大きな間違いだ。
私はよくこの「うちでのこづち」で伝統などの問題に非常によろしくない表現を使うことがある。そのままストレートに意味を取ってはいけないが、「伝統は破壊するためにある」というマーラー名言葉を引用したりするが、言いたいことは、伝統であれ何であれ、ある程度の個人差を考慮した中で行き残していくべきだということである。
修学旅行だって結果的には授業の一環のようにして強制的に行かされる。それを止めろとは言わないが、時には「行きたくない人」のアンケートでも採ってみてもいいような気がする。
私は個人的には旅行が非常に好きだ。でも、一人旅や気に入った人たちと行く旅行に限るので、例えば社内旅行や、あるかどうかは知らないが町内会の旅行などは好きではない。サラリーマン時代も社内旅行にはほとんど参加しなかった。何しろ1年目から参加しなかったのだから、むしろ意固地と言うべきかも知れない。だが、旅行というのは私の中では余暇のためのものなのであり、そうであれば個人的な意志で参加不参加は決めなくてはならない。
それが証拠に、個人的なグループ旅行はむしろ積極的に参加することも結構ある。
一人旅が好きなのは、完全に自由裁量で、いつでも日程を変えることが可能だったり、帰りたいときは気兼ねしないで帰れること、等だが、よく一人で寂しくないかと訊かれることがある。
一生誰とも話さず一人で生きていくわけではない。私が一番長くした一人旅は約2週間だったが、その程度で寂しいという感覚は全く起こってこない。そもそもそれも国内だから、行く先々で話す人はいるし、出会いもある。但し、ロマンス的な出会いは経験したことはないが。先日旅行ではないが小淵沢まで行く機会があった。私は荻窪なので、小淵沢は沿線沿いなのだが、そのせいもあって、快速で高尾まで行き、そこから普通列車で小淵沢まで行った。帰りは概ねその逆だ。乗り換えは大月だったが。確かに疲れたが、いい旅行気分を味わうことができた。駅弁も食べたし。
旅を何のためにするのか?
少なくとも私は違う土地を目にするだけで何かいい気分だし、空気も違うような気がする。きっとストレスが発散され、リラックスできているのだと思う。だとすれば、それを実現するために、どういう旅が自分にとっていいのか、それは一人だったり、愛する人だったり、気の置けない仲間との旅であるので、決して決まり事の旅でないことだけは確かなのだ。
投稿者 keisuke : 旅 | 23:48 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月22日
URIAH HEEP
URIAH HEEPは、イギリスのロックバンドだ。ミック・ボックス、デヴィッド・バイロンの在籍したSPICEというバンドにケン・ヘンズレーが加入した後、ファースト・アルバムを発表する。「VERY 'EAVY, VERY 'UMBLE」がデビューアルバムだ。1970年のことだ。
ヒープはプログレッシブなカラーを持ったハードロックバンドだと思う。それは、ケン・ヘンズレーのオルガンが醸し出す音色にも原因があるし、彼の書く曲にも原因はある。
初期の頃はディープ・パープル的な楽曲も多い。バイロンはロック歌手だが、きちんとしたボイス・トレーニングを受けてたらしく、いい歌を歌う。ただ個人的にはその後のジョン・ロートンの方が好みだが。
ヒープのアルバムで最も有名なのはなんと言っても「対自核(Look at Youraself)」だろう。初期の代表曲、「7月の朝(July Morning)」が入っているからと言うこともある。だが、その前に出したアルバム「ソールズベリー(Salisbury)」のタイトル曲が私は非常に好きだ。16分に及びホーン・セクションなどが入った意欲的な作品で、こてこてのミック・ボックスのギターソロが聴ける。16分というと、昨今の4分前後の音楽が当たり前になっている人たちには、なんて長い曲だと思えるかも知れないが、当時はLPの片面に1曲などと言うことも珍しくなかったし、クラシックで言えば、決して長すぎる曲とも言えない。むしろ、メディアに乗せるためにソナタ形式よろしく、時間的にも構成的にも、お行儀いい最近の楽曲の方がなんだか寂しいような気がする。
以前、カラオケで「私は風」を歌ったことがあるが、この曲は10分近い曲で、ギターソロだけでも数十秒ある。カラオケで歌うとその部分がかなり顰蹙ものだ。こういう世相の中では、16分の楽曲というのはあまり生まれてこないし、あってもメジャーにはなりづらい。
ディープ・パープルがそうであったように、ユーライア・ヒープも大曲主義は徐々に影を薄れさせ、しかもどんどんポップになっていった。73年のライブが大きな転換点のような気がする。その前の「悪魔と魔法使い(Demons And Wizards)」「魔の饗宴(The Magician's Birthday)」の時が、そのジャケットの美しさとともにピークだったと思う。特に前者に入っている「安息の日々(Easy Linin')」はヒープの中でも1,2を争う名曲だ。先ほど書いた「ソールズベリー」と比較すると圧倒的に短い、約2分半の曲だ。
ゲイリー・ゼインの感電事故やドラッグによる死などをはさみ、ヴォーカリストデヴィッド・バイロンが抜け、一時期ジョン・ウエットンが加入したりして1976年にジョン・ロートンが加入する。
この人は非常にハードロック向きのヴォーカルで、バイロンの好きな人には恐らく人気はないのではないかと思う。ハイトーンで、非常に伸びやかな声をしているのだが、ライブなどを聴くと、実はバイロンよりも声域は狭いだろうと思わせる。彼の加入したヒープは「Firefly」「Innocent Victim」「Fallen Angel」という3枚のアルバムを出す。
「Firefly」の中の「哀れみの涙 (Sympathy)」 「Innocent Victim」の中の「幻想(Illusion)」「チョイス(Choices)」は、今でも大好きな曲だ。「Fallen Angel」は全体的に非常にポップで、「ラヴ・オア・ナッシング(Love Or Nothing)」が最も好きだが、微妙に平均値のアルバムという気がする。ファンじゃなければ聴こうと思わないが、意外といいアルバム、みたいな。
この後も着実にアルバムを出し続けるが、1980年に最も多く楽曲を手がけてきたキーボードのケン・ヘンズレーが抜けてしまう。個人的にはヒープはケンのバンドだと思っていたが、あっけなく脱退してしまう。この時点で、オリジナルメンバーはギターのミック・ボックスだけになってしまうのだが、西暦が2000年を超えてもアルバムを出し続けてきた。2003年に「ソニック・オリガミ(Sonic Origami」を出して以来は音沙汰がないが、やはりヒープはヒープ、ミック・ボックスだけになっても(ドラマーは、割と初期から参加しているリー・カースレイクだが)、ヒープの音を響かせてくれている。すごいことだ。
私は、全てのアルバムを持っているわけではないが、20枚くらいは所有している。
私にとってユーライア・ヒープはいぶし銀のハードロックで、めちゃくちゃ輝いているわけではないが、時折じっくり聴きたくなる音楽だ。ピーター・ゴルビーという最近のヴォーカリストはあまり好きではないが、それでも全体としてはいい味を出している。
俺の一番好きなのはユーライア・ヒープだと言うことは今までも、そしてこれからも絶対にないが、新しいアルバムが出れば買い続けるし、旧いアルバムも時折聴く、そういうバンドなのだ。
このサイトがヒープに関しては圧倒的にすごい。ここまでやってくれるとまさに脱帽だ。私の知らないアルバムも(特にライブ)何枚も掲載しているし、ジョン・ロートンのバンドについても載っている。いやいや・・・また無駄な金を・・・・いかんな。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月21日
次世代DVD
ソニー、東芝のブルーレイディスクとパイオニア、NECのHD-DVD、両陣営が、共通のプラットフォームを開発することで話し合いを進めているという。
VHSとβはまさに今回の規格競争と似ているようだが、例えばパソコンであればMacとWindowsのように、二種類以上の異なった規格が競争をするというのは決して悪い面ばかりではない。かつてテレビ局などではずっとβマックスが使われていたように、デザイナーや出版関係はMacを使っているところが多い。ところが市場は、圧倒的にVHSが多かったり、Windowsの利用者の方が多い。
かつてエルカセットというのがあった。これも通常のカセットよりはテープ幅が広く音質のいいものだった。
こう見てくると、玄人受けするものはどちらかというと家電やAVでは受けないのだ。
今回、アップルはiPodで、驚異的な成功を収めた。これはCMなどを見ているとよく分からないが、アップルらしからぬ「音楽たくさん入りまっせ!」という、どちらかというと雑駁な機能のうちの一つが正面に押し出された形の成功だと私は見ている。これまでのアップルのイメージで行けば、容量などより、まずデザインと音質などにこだわったはずだというような気がする。もちろんデザインはアップルらしいデザインだが、ハードディスク型のポータブル・オーディオ(PA)で勝負することで、結果的には他と差別化することに成功した。ソニーや松下など大手はそのフィールドのはいなかった。結果として、他とは逆な形で、メモリー型のPAを後から出したのが、上手くはまった形だ。
CreativeやRioなど、以前から出していたメーカーはしてやられた形だ。もちろんそこにはマッキントッシュのアップルというネームバリューはある。しかもソニーのようにオリジナルのフォーマットにこだわるようなことはしなかった。
今回DVDに関して統一規格を目指すのは、言ってみれば消費者の利便性よりも、どちらかが負けることや、共倒れになることを恐れたからというのが最も大きな理由のような気がする。CDがレコードに取って代わり、DVDがビデオに取って代わった。パイオニアの一人勝ちだったLDは結局、だからこそ消えていった。その教訓を生かした統一規格だろう。結果的には消費者にとってもいいことなので、歓迎すべき決断ではある。
デジタル化された商材は、例えばレコードやテープに比べて、圧倒的に寿命が長い。だから、次世代のメディアは、統一されるとともに、これまでのCDやDVDを内包した形がやはり望ましい。また、商品として店頭に並ぶのであれば、小さすぎるというのも実は困りもので、そういう意味では現状のCDやDVDは非常に理にかなっているのかも知れない。
扱いやすさという意味では、傷の問題などがあるので改善の余地はまだまだあるのだろうが、それでもかなりいい線なのだと思う。
当然ライバルはダウンロードとハードディスクや次世代のハードディスクタイプのストレージと言うことになるのだろう。
いずれにしても、自分のコレクションが、全てポケットに入る時代はそう遠くない気がする。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 23:57 | コメント (1) | トラックバック (1)
2005年4月20日
電車内の化粧
都が市中の迷惑行為に関する対策の検討に入ったというニュースをやっていたが、その中で例としていくつか挙げられていたが、電車内の携帯電話と化粧というのがあった。
携帯電話はペースメーカーの問題などもあるようなので、単なる迷惑ではすまない意味を持っているが、個人的には、満員電車でもない限り、多少の会話は気にならない。着メロが大きな音で鳴ると気にはなるが、すぐに気づいて止めてくれればそれほど不快ではない。これは、乗客の車内での会話と同レベルであればという感じである。
携帯電話というツールができた以上、どこかでくぐり抜けるべき通過点で、闇雲に何でも仕方がないと言うつもりはないが、ある程度の過渡期を通して、いずれ普通の現象になっていくような気がする。あるいは、ヘッドホンタイプのアイテムが流行したりするのかも知れない。いずれにしても、酒を飲んで正体不明になっている人よりは圧倒的に迷惑ではない。
インタビューの中で、痴漢は迷惑だという女性の意見があったが、これは迷惑なのではなく犯罪なのだ。男であれば、多くの人が、痴漢をしたいというような犯罪的な動機ではなく、何らかの性的な欲求を社内で持つ可能性は無いわけではないと思うが、そこから能動的に行動を起こすかどうかが、常識と非常識を分けるのだ。階段を見上げて若い女性の下着が見えて不快に思う男はそれほどいないし、むしろ「ラッキー」と思うのがむしろ健全だと思うが、そのために何らかの努力をするのかしないのかが普通と普通でないを分けるのだ。常識的に言えば、目を逸らすくらいの意識があった方がいい。
もう一つ、歩きながら煙草を吸う女性という意見も気になった。確かに女性の喫煙率は増えているような気もしないでもないが、歩き煙草に関しては圧倒的に男の方が多い。そもそも迷惑かどうかには男女の差はあまりないはずで、政治家の発言だったらやり玉に挙がるだろうなと感じた。
さて、そんな中で、電車内の迷惑行為のベストファイブには入っていなかったが、なぜか例として上がる車内での化粧だが、これに関しては、当然レベルの差はあるが、どうしてそれほど不快に思う人がいるのかが解せない。
例えば、左右の人に腕がぶつかる、化粧水が飛ぶ、香水が霧散する等、何らかの被害が及ぶ限りに於いては極めて不快であろうが、その人がただ化粧をしていることに、周りが注目する必要がない。
実は私はちょっと誇張して書いているが、個人的な意識の上では、全く気にならないという前提での意見だが、化粧は家でするもの、あるいは人前でするものではないという価値観を否定するものではないが、価値観などというものはどんどん変遷していくものだ。もちろん、ではなぜ「化粧室」はトイレなのかという問題がある。つまりは、古今東西、女性の化粧は隠れてするものなのだ。なぜなら化けるためだからだ。
このことがオープンになったのは、言ってみれば化粧が社会的に認知されたからであり、女性は人前に出るときは化粧をするものだという暗黙の了解が、歴史の中で積み重ねられて定着しているからに他ならない。いわば、サラリーマンが会社でネクタイをしているというのと同質で、Tシャツで人前に出るホリエモンは、それだけで前時代の人たちからは「だらしなく」見えるのだ。同じように、電車内の化粧はやはり「だらしなく」見える。
だがだらしないことの本質はそんなところにはない。あるいは、だらしないという表現が意味することの全てが悪いわけでもない。だらしなさはリラックスにも繋がるので、家ではだらしなくしたい人もいるはずだ。
ちなみに、ニュースでやっていたメキシコの法律では、家の中でもむやみに裸になってはいけないと言うのがあるそうだ。
イスラム教の女性達が髪の毛を隠したり肌を隠したりするのを、日本人はどう見ているだろうか?
洋の東西様々なしきたりや決まり事がある。基本的には守るべきことがほとんどだが、それでさえも、歴史の中で変わっていくのだ。所詮、電車内の化粧などというものは、せいぜいそんなレベルのお話しで、時代が要請しなければ自ずと消えていくし、そうでなければ当たり前になる。単純に「化粧など自分の家でしてこい」という理屈は、どちらかと言えば自分自身が励行すべき、自分に対しては向けてもいいが、あまり他に対して言っても効力がない言葉のように感じる。
但し自分が女だったら電車内で化粧は極力しないだろうが。小心者だからな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:51 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月19日
だじゃれ
新しいローマ法王にドイツのラツィンガー枢機卿団長が決まったらしい。何度も書いているが、私はクリスチャンではないので、外野の人なのだが、新しく決まった法王は78歳だという。けっこうお年寄りなのだな、というのが印象だ。
法王を決めるのはConclaveという枢機卿会議での投票で決めるらしい。115人が投票して、三分の二の票を誰かが集めるまで、その会場から出られないので、鍵をかけるという意味のConclaveと呼ばれるらしい。
枢機卿自体が全員ではないにせよ、きっと老齢の方が多いのだろうから、なかなか大変な会議なのだろう。
実は私はカトリックとプロテスタントについてもよく分かっていないので、あくまでその上での感想だが、キリスト教ばかりでなく、多くの宗教は、時代とともに変遷し、様々なしきたりや伝統的な様式というのが積み重ねられてきているのだろう。どこでそうなったのか解らなくても、何かを決めるやりとりや、何かの役職に就くための条件などが、伝統という重しの下に決まるのだ。
創始者はどう思うのかな?と思うことがある。
イエスが神なのか人なのか、私には解らない。聖書を読んでいても解らない。この辺りは、成仏すれば仏様みたいな部分とちょっと似ているような気もするが、何であれ、十字架にかけられたイエスがその中心である宗教であれば、私はイエスはどう見ているのかな?ということを問いかけるのはいつでも意味のないことではないと思う。
ヨハネ・パウロ2世が亡くなって、あれだけの人がバチカンを訪れたのを観れば、人間も見捨てたものではないと、イエスは思うのかも知れない。でもイエスの父なる神はどう思うのだろうか?・・・この辺は三位一体で片付くのだな。
新しい法王が、また世界の人から好かれる法王であって欲しいものだ。
ところで、Conclave、「根比〜べ」に思えてしまうのは私だけだろうか?いや、不謹慎、不謹慎。でもそういう大変さは絶対あるはずだが・・・
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:51 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月18日
ジャンクメールコントロール
Netscapeに「ジャンクメールコントロール」というのがある。今までずっと使っていなかったのだが、最近、あまりにいらないメールが多いので設定してみた。
これまで海外からの訳の分からない(英語力のせいもあるが)、営業のメールや、国内の妖しいメール(何回か別のエントリーでも書いた)、知らない間に増えていくメールマガジンなど、1日に500件前後のメールを今使っているこのドメインだけでも受信していた。まとめてゴミ箱へぽいという作業自体もそこそこ煩わしいのだが、何より沢山の未読があふれかえっているというのが見ていてもいやだった。
今回設定してみて解ったことは、1日のうちに本当に必要なメールというのは、多くても10件程度なのだな、ということである。もちろん、他のドメインもあるし、日によっても変わるが、概ねそんなところだ。つまり、残り490件はスパム乃至無用なメールなのだ。
それが面白いように排除されていく。
確かにまだ、完全に信用していないので、ジャンク置き場を一応は見るし、ごく時折、必要なメールがそこに混じってしまうことがあるので、微妙なところもあるのだが、これまでに比べると振り分けができている分、かなりいい感じだ。
インターネットはここ数年で、爆発的に巨大なネットワークになった。今回の中国のデモだって、ネットあらばこそという側面もあるようだし。だが同時に、巨大になればその中で、犯罪や、いかがわしい情報、無用な宣伝など、単純に取捨選択することが難しい部分も拡大されてくるのだ。
多くの企業が、自分のホームページに人を呼びたいと考え、様々な施策をする。その一つがメールマガジンで、役に立つときもあるが、立たないことの方が多い。実際、小泉内閣のメールマガジンだって、最初の頃はそこそこ興味もあって呼んでいたが、結果的に手前味噌な宣伝メールに過ぎないような気がして読むのを止めてしまった。どんな場合でも、謝罪とかはともかく、自社や自サイトに関するマイナス項目をメールマガジンに記載するバカはいないのだ。いいことだけが書いてあるわけで、時には話半分、場合によっては全く信用がおけないことだって有るはずだ。
先日、Yahoo!オークションでの詐欺をテレビで特集していた。自転車詐欺とかいうのだそうだ。人気のある商品を安い価格で販売するように見せかけて、集めたお金で、まず最初の注文者に商品を送る。次の注文者には仕入れるお金がないので、新たな注文者から入金されたお金で仕入れて送る。時間はかかるが、安い金額でいい物が手にはいるので、購入者からの評価はどんどん上がる。但し、送ることのできない注文者の数は増えていくことになる。この辺りが自転車操業なわけだ。そして、ある程度評価が上がったところで、ありもしない商品を大量に掲載し、沢山のお金が入金されたところで逃げる。まあ確かにとんちのようで、よく考えてはいるが、これなども、ある意味インターネットならではの犯罪に違いない。
ジャンクという言葉は「がらくた」とか「くず」という意味だが、メールに限らず、ネット上には大量のジャンク情報がある。これはある意味個人差なので、どの情報がジャンクかと言うことを一律に判断することはできない。ウイルスなどは完全にジャンクだが、実はコレだって、ウイルスソフトで利益を上げている会社にとっては、無くてはならないものなのかも知れない。
ただ、そういう個人差も含めて、情報検索や、ネット上からのジャンクを排除する技術が、今後のネットの課題の一つでもあろう。アダルトコンテンツなどは、すでに一部はそれができているが、必要なものの検索と違って、不要なものの排除はなかなか技術的には難しいだろう。それはそこに個人差があるからだが、しかしこれからの長いインターネットの発展の中で、いずれは何らかの形で、少しずつ実現されて行くには違いない。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月16日
デイ・アフター・トゥモロー
私は最近、映画館で映画を見ない。映画館で見る映画とテレビ画面で見る映画が違うのは当然のことだが、少なくとも私にとっては、大画面だからテレビよりもいいというメリットと、一人でのんびり見られるというメリットのどちらを取るかと言われれば後者を取る。単純にそんな理由から、映画館には行かず、ビデオや、最近ではDVDで楽しんでいる。こののんびりという中には、各駅停車の旅ではないが、途中下車できる楽さというものがあり、映画の途中で止めておいて別の時間に見るというのもメリットの一つだ。続けて見ないととか、臨場感とか、様々な楽しむための意味が映画館にはあるのかも知れないが、ごく個人的な点に於いては、それらはさっぱりメリットではない。
さて、最近では洋画のDVDはかなり価格が落ちてきて、標題に挙げた「デイ・アフター・トゥモロー」は、まだ公開から日も浅いが、わずか999円だった。もちろん、FOXの何周年記念企画みたいな触れ込みはあったが、公開当時から見たいとは思っていたので、躊躇無く購入した。
全体的な感想から言えば、まあそんなものか、なのだが、それはそれ、CGを使った迫力あるニューヨークのシーンなどは十分に楽しめた。こういう映画というのはエンタテイメントと同時に、監督なりプロデューサーの強いメッセージがいくつか入っていて、それは地球温暖化への警鐘であったり、政治と人間性の葛藤であったり(こちらは案外いつでもステレオタイプだが、逆にステレオタイプだからこそ意味を持つこともある)、根本的な人の美しい生き様だったりする。
例えば、ニューヨークを津波が襲うというシーンは、「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」で続けて見ているし、今回のものはそれに比べたら可愛い。だが、先日のスマトラ沖地震ではないが、様々な理由から、それに近い災害というのは起こりうるわけで、単なるエンタとして片付けてはいけない内容を持っている。
実はこのタイトルから、昔の「ザ・デイ・アフター」という映画を連想した。
こちらは核戦争の映画だが、非常にシリアスで、深い内容だったと記憶している。核爆弾投下後の悲劇という意味では、「トータル・フィアーズ」もそうだが、こちらはジャック・ライアンの活躍するヒーローモノという色合いが濃く、同じ素材を扱っても大分違ったものができあがるという好例だ。広島、長崎を国内に抱える日本と、原爆博物館で「かっこよさ」を売り物にさえしてしまうアメリカの、ここが大きな違いのように思える。
確かにアメリカの戦争物は、一部を除くと非常にヒロイックだ。闘って自由を勝ち取るという図式の中で生きてきた国民と、一度大負けをして、その中から、過去を否定いしながら這い上がってきた国民の差がそんなところにもある。どちらがいいと言うこともないが、ただ、爆弾はかっこいいものではなく、人の命を奪う兵器でしかないことは、地球人類の共通認識となる世の中になって欲しいものだ。
投稿者 keisuke : 映画 | 23:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月15日
プリンタと写真
最近のプリンタはすごい。かなりのクオリティで偽札までできてしまうのだから驚異的だ。
私が使っているのは、もう4〜5年前に購入したHPのプリンタで、両面印刷ができるのと、当時はモノクロ印刷の速度とクオリティが良かったので購入した。写真もかなりきれいだったが、なかなかどうして日進月歩、最近のプリンタのクオリティは並ではない。
写真もデジカメの技術と相俟って、かつてのちょっとした一眼レフでフィルム撮影したものより、圧倒的にきれいにプリントアウトできるし、サイズも自在だ。非常に素晴らしいと思う。
思う反面、1枚の単価としてはどうだろう?いわゆるフォト用の用紙は1枚当たり5〜10円だが、インクのコストも意外に高い。もちろん、気に入った写真しか印刷しないなどということになるのでやはりローコストなのだろうか?
ここしばらく、DPE等利用したことがないので、プリントがいくらかかったか忘れたが、10円くらいでできたのではないだろうか?
とすれば、もう少し安くなった方がいい感じはする。
しかしむしろ、デジタル写真のプリントの素晴らしいのは四つ切り等の大判を簡単に印刷できることだろう。実際、A4は一回りそれより小さいが、飾るには問題ない。この上になるとプリンタ自体がA3対応機と言うことになり、売れ筋でないぶん、機能が若干劣ったり、何より場所を取る。それでも、印画紙に自分で焼いたり、ラボを使うよりは圧倒的に廉価で、しかも素晴らしいクオリティの写真ができあがる。
写真の技術はいずれにしても別の問題だが、技術を超えたところで、いい写真というのは各々有るわけで、例えばきれいな風景だって、思い出がそこにかぶさればなお一入だったりするはずだ。
個人レベルでこういったことができるなどと、10年前であればやはり思いもしなかった。いい時代だこと。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 23:12 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月14日
アンケート
世の中には様々なアンケートがある。
街頭で訊かれたりする場合もあるし、電話で訊かれたり、インターネットだったりと様々だが、別に誰が困るわけでもないから、いいかげんに答えてやろうか、と思ったりしても、意外にまともに答えている。きちんと考えて答えたりする。不思議なものだ。
ことさら、先方に気を遣っているわけでもないが、ある意味、自分というものに対するこだわりなのかも知れない。
そういう意味で言うと、世論調査というのは意外に信用できるのだ。もちろん、こういう時代なので、マスコミの報道や、いわゆる識者の意見に左右されるところは非常に大きいように思えるが、それでも非常に冷静で、的確な意見を反映していると思う。
郵政民営化も、議論をしろという意見が大半で、賛成とか反対とかいう次元で捉えることがまだ難しいという世の中の気持ちをよく表している。
個人的にもそれはよく分かるが、官から民へという動きの一つとしては、取り敢えずやってみればいいというのが私の意見だ。反対派の議員の多くは、その反対意見を聞いていても信用できないが、それはなぜなら、現状の郵政省から郵政公社に変わったことで、いろいろ膿が出始めている感じもするし、郵政はまず手始めなのであり、結果がどう出るかなんてやってみなければ解らない。
推進派の、こうなるというのと、反対派のこうなるというのは、いわば未来予測でどちらも証明は難しい。ならば取り敢えずやってみるにしくはない。
話が脱線したが、アンケートを答えていると、逆に自分の今が解ったりもするし、知らない情報も入ってくる。いつの間にかポイントが貯まっていたりと、案外美味しい結果が得られる。
だがこのアンケート、多くの専門業者があり、とても儲かる商売なのだな、というのが最も大きな印象だな。あるいはその点は踊らされているのかも知れない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:45 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月12日
中国−つづき
先日のでもと投石の事件で、中国政府は日本の政府の責任だと言っているそうだ。誤った歴史認識に対する不満だそうだ。
原因や理由がどこにあれ、自国内で暴徒化した自国民が他国の大使館や人間に暴力的な被害を与えたことを、その国のせいだという政府って、いったい何だ?はなはだおかしい。教育教育というなら、これまで中国が自国民にどういう教育をしてきたのかも問題だ。
私は過去の戦争は全て正当化されるものだとは思っていないし、日本軍が中国や韓国の国民にしてきたことの中には、本当にひどいこともたくさんあったろうと思っている。そういうことに対しては、国歌としてきちんとした謝罪が為されるべきだし、日本的という意味では、現在の政府の様子を見ていれば、そんなことを正面切って堂々と行うような国じゃないだろうとも思う。日本というのは良きにつけ悪しきにつけ、曖昧さをその根底に抱えた国家だ。だからその曖昧さが根強い日本批判にあることはやむを得ないし、それに対して真摯に謝罪をする等の行為は必要なことだ。
しかし日本国という国家に住むその多くは、ほとんど戦争を知らない人間だし、戦争自体を憎む教育を受けてきている。その人々にとっては過去のことだし、日本企業を支える社員のほとんどはそういう人たちだ。日本であると言うことだけで排斥をしようという行為は、犯罪者の子供であると言うことだけで、彼らを排斥するのと似てよろしくないことだ。
本当かどうかは知らないが、韓国の教科書には秀吉の朝鮮出兵をも日本の侵略として「反日本」の一つの例になっているものがあるということを聞いたことがある。これは大げさかも知れないが、そんなことを言い出したら、ヨーロッパの列強はみんな犯罪国家だし、アメリカなんて侵略者が打ち立てた国に他ならない。言ってみれば日本だって、その昔大陸から渡ってきた人たちの子孫が大量にいるのだ。
日本政府に対する批判もいいが、だから何でもありではない。少なくとも、国家はそれをしっかり、それこそ統制すべきだ。それすらしないで、日を日本に押しつけるのはお門違いだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:02 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月11日
中国
中国で大規模なデモが起きて、日本大使館が襲われたり、在日企業や、日本人も被害に遭っている。
事の是非だけをいうなら、器物を破損したり、人に暴力をふるったりと、いいわけはない。
日本政府の謝罪とか、戦争に対する自己批判みたいなものが不十分だとか、首相の靖国参拝だとか、原因はいろいろあろうが、見ていて思うのは、人間というものの脆さだ。
そもそも人を戦争に駆り立ててきたのは、欲望や高邁な理想、ことは何であれ、自己と他との比較に於いて、自己を優先せざるを得ない人間の愚かさなのだと思う。ここでこれを愚かさなどというと、非常に突っ込まれどころ満載の表現かも知れないし、所詮はブリュンヒルデだって、自己犠牲したのは愛するジークフリートのためであって、極めて単純なものだ。おろかという表現を使うことで、人間の存在理由さえも否定していると取られかねないのは百も承知の発言だ。
確かに先の大戦は、ドイツや日本の侵略戦争だったに違いない。だが、世界規模であれ国内のものであれ、基本的に侵略でない戦争などあり得るのだろうか?戦争論をするわけではなく、ケンカと同じで、必ずどちらかが仕掛けるのだ。どんな大義名分があろうと、戦争は国同士のケンカであり、しかも生死をかけた大げんかだ。
どこの世界に、ケンカを奨励する国があろう。あるいは戦争を。
確かに、過去の日本には中国や韓国が責めるだけの行為があったことも事実かも知れない。だが、それを理由に関係ない他の国民までが巻き添えを食うとしたら間尺に合わない。
別に、非現実的であろうが、夢物語であろうが構わないが、歴史の中で、多くの物事が争いによって結論づけられてきた。これは勝てば官軍の理なのであり、北朝鮮だって結局はそういうことだ。だが、それが正しいはずはない。争いに勝つことでしか平和な世の中が得られないなんて、なんてばかげた世の中だろう。
平和や友好は平和的で友好的な手段と経過で実現させてこそ意味があるのだ。
政治家もよく言うが、「では北朝鮮みたいな国が、核で攻めてきたらどうするのか?」という難しい命題がある。
言ってみれば、やくざに理屈は通用しないと言われているようなものだ。
もちろんそれはその通りだ。刃物を振り回してやってくる狂気に、まあ話せば解るという人はいない。
だがそれでも、常に、世界の平和は平和的に実現させると言うことを一人でも多くの人類の一員が言い続けていかねばならない。誰もそれを言わなくなったら、実現できるはずはないのだ。
できるかできないかではなく、理想というのは常に掲げていくことしか、実現することはできない。絵空事に見えても、数が増えてくれば、現実的になるものだ。
少なくとも私は、微力であれ、こんな場であれ、それを唱え続けたい。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月10日
NW-HD5
ソニーがようやくポータブル・オーディオでまともな商品を出す。これまでのATRACというオリジナル圧縮規格にこだわらない、MP3やWMAも再生できるタイプだ。20GBタイプとしては価格も高い方ではないし、何より再生時間が他の機種に比べて圧倒的に長いのがいい。
最近は家で仕事をしているので、外出する機会が昔に比べて圧倒的に少ない。そのため、パソコンに音楽をしこたま溜めて、流しっぱなしで仕事をするという日常になっているが、会社に行っていたら、恐らく行き帰りのためにポータブル・オーディオは必携のアイテムになっていたに違いない。
これだけポータブル・オーディオが流行ってきているのに、一部のメーカーはCDからパソコンやこのポータブルオーディオに、楽曲をコピーできないタイプが結構ある。著作権保護もいいが、顧客あっての音楽産業であることを忘れてはいけない。このことは何度かここでも触れているが、まさにソニーのATRACはその内側に著作権保護を目的としたコピー保護機能を持っている。ソニーがATRACでMP3に負けた原因は、まさにその扱いづらさにあることを、ソニーは知らねばならない。いや、きっと知っていて認めないだろう。
著作権を守ることは重要だし、努力はすべきだが、一律に何かを制限することで目的を達しようとしても、結果的に対顧客という世界ではうまくいきはしない。圧倒的多数のいい顧客だって、実はCDの貸し借りなどは日常的に行われているし、実はそのことが逆に音楽を広める一助となっているという側面もあるのだ。
「これいいから聞いてみな」
という一言と、1枚のCD、あるいはそこから選曲して作ったテープやMDが、新たな顧客を獲得していくことはコレまでもたくさんあったし、かつてはエアチェックと言い、ラジオから流れる音楽をテープに録音することでコレクションを増やしていた時代もある。そしてその中から、レコードやCDを購入していくのだ。
個人的楽しみ以外では等という実質的な意味をあまり持たない表現で顧客を縛り、どんどん開発される新たなシステムにそぐわない著作権保護など、実は砂上の楼閣だ。
ライブドアの堀江氏が、ネット上でダウンロード販売されている楽曲は高いと言っていた。それは顧客の多くが感じていることだ。表現としては、こんな素晴らしい音楽ならいくら払っても構わないと言うこともあるだろうが、商売的には通用しない。
現在販売されている音楽は200円くらいが一番多い。確かに、シングルCD1枚1000円と考えれば、圧倒的に安い。もちろん、シングルCDには複数の曲が収められているから、それほどではないと思えるかも知れないが、シングルが曲の多くはその1曲が目的の場合が多いから、そういう人にとっては、確かに五分の一の価格なのだ。だが、当然、メディアが存在しないので、誤って消してしまえばそれまでだ。また、ダウンロード販売されているフォーマットは、なぜかATRACが圧倒的に多い。ダウンロードしたメディアから外に出せないと言うことだ。
旧い楽曲は1曲150円前後。でも10曲で1500円、昔の歌手のCDなど15〜16曲入って2000円しない場合も結構あるから、そうなると、CDよりも高いケースもある。
昔からよく言われていることだが、CDはジャケットとライナーにお金がかかるらしい。確かにパッケージにお金がかかるのはよく分かる。で有ればそれがないダウンロード販売は、もっと安くするべきだ。ホリエモンに賛成だ。
どこかの評論家が、それでは楽曲を提供する側のモチベーションが下がるというようなことを言っていたが、そうだろうか?たくさん売ればいいだけだし、200円が100円になれば、買う人は圧倒的に増えると思う。但し、前出のATRACのように、パソコンにダウンロードした配意が、ポータブルにコピーできないなどという代物は、それだけで顧客を失う。
著作権問題は、もっと発展的解消が望ましい。
音楽が売れなくなった原因を、コピー文化に求めるよりは、そのコピー文化の中で、音楽産業をどうやったら大きくできるのかを考えるべきだ。その中には、例えば携帯代金をたくさん払うから音楽まで手が回らないという若い人が増えていたり、様々な原因があるのだ。聴く側が多様化しているという問題もある。
いつまでもCD1枚の価格を3000円前後に固定して売っている日本のメーカーが、到底努力しているようには思えない。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 20:33 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月 9日
ポルノ
Yahoo!のニュースに、ジャッキー・チェンの息子が出演する映画の監督が、テーマはあくまで「純愛」で「ポルノ」じゃないと言っているという記事が載っていた。中国語で『三級片(ポルノ映画)』と出ていたが、どうもこの辺りは、中国では三流映画=ポルノ、あるいはその逆という見方があるからのようだ。
日本でポルノと言えば、懐かしい「日活ロマンポルノ」だが、そもそもこのポルノという言葉は、pornographieというフランス語で、いかにもと納得がいく。フランス映画と言えば、「エマニュエル夫人」や「O嬢の物語」など、エロティックな映画に事欠かないし、アポリネールなどの詩人もエロティックな小説を書いていたりしていて有名だ。イタリア人などはこの辺の作品に対して非常におおらかなイメージがあるし、フランスも、+エスプリみたいなところでクレイジー・ホースのような高級ストリップ(と言ったらフランス人に怒られるのかな?)が一つの文化となっている。
もちろん、裸とポルノは違う。だが、いわば裸婦の画からポルノに向かって、決して途切れることのないルートが通っていることもまた事実だ。
ある意味ポルノは、隠微で後ろめたさが同居しているからこそ、人々の興味をそそる側面がある。
性欲というのは、人間の三大欲の一つだというが、どう考えても睡眠と食欲とは意味が違う。この2つは断てば死に繋がるが、性欲だけは満たされなければ死ぬという類のものではない。とはいえ、その三つの中に入れられるというのは、それなりの意味があって、それはよく言われるように、種の保存則から来る、子孫を残したいという部分を指すのだろう。
だが現代人に於いて、性欲は決して種の保存のためではない。子をなしたいという欲求は、性欲とは別の次元の話だ。子供を作らないようにコンドームを付けてセックスするという行為には、種の保存などという学術的な意味など無い。これは象徴的なことで、現代人にとって、性欲は快楽と愛を満たす以外の行為ではない。場合によっては愛さえない場合もたくさんある。また、力の強い者、財力のある者、権威のある者が、一方的にそれを満たす行為となる場合も少なくない。
つまり、ポルノを三級に貶めることというのは、日常生活の中に織り込まれた、それらの、いわば不道徳な行為をどこかその作品に見るからに他ならない。だが同時に、そこには、単なる排斥以上の興味や、憧れが潜んでいる。
百科事典を見ると、マルキ・ド・サドの作品などがその嚆矢として挙げられていたりする。
ポルノというのは、かつては小説であり、絵画だったかもしれないが、写真が出、映画が出ることによって、その表現力は格段に広がり、同時に狭くなった。
日本は、世界に冠たるアダルトビデオ(今ではDVDか)の発巻数を誇っている。圧倒的な世界一らしい。アメリカをも凌ぐというところがすごい。何億円市場だか知らないが、相当な経済的地盤を持っているのだ。仮に、日本でポルノを全面的に禁止したとしたら、経済が破綻するのではないだろうか?
映画監督が、躍起になってポルノではないことを主張するのならば、恐らくポルノではない。それは、作曲家がこれは交響曲じゃなくて、管弦楽的愛憎だ、と名前を付ければ、そうなるのと同じだ。でも中身が変わるわけではない。また、ポルノであるというだけで作品的価値が低いと決めてしまう文化もどうかと思うが、実はさっきも少し書いたとおり、そんな文化の中でこそ、成長する分野なのかも知れない。
よくポルノに関して、普通にみんながしてることを書いている(演じている等)だけ何に、という人がいるが、決してそうじゃない。あらゆる文学や映像作品等が、実生活をある程度シミュレートした者だけではないように、およそ日常とはかけ離れたことや、実際には不可能なことも含むからこそ、ポルノグラフィなのであって、そこには別の世界がある。前出のサドの作品などいい例だ。
それでも人が人でいる限り決して無くならない分野であり、少なくとも男は、成長する過程で避けて通ることのできない分野であることもまた事実だ。徒に、悪いとか、劣っているとか決めつけるのは、いかにも・・・・な感じだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:21 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月 8日
フジテレビ
今日は疲れたので、ただの愚痴だ。
プロ野球が開幕してセ・リーグは1週間経った。ヤクルトは弱い。昨日今日は連勝なのでこれから期待だが、がんばってくれよ、五十嵐。
ところで、私はケーブルテレビを契約しているので、取り敢えずスポーツチャンネルで、ほとんどの試合が見られる。ヤクルトファンなのでもちろんヤクルト戦のことだ。ただ、ヤクルトはフジ・サンケイグループなのでヤクルト主催ゲームのいくつかはフジが8チャンネルで放映する(関東の場合)。
読売ジャイアンツは、当然読売だから、4チャンネル(日本テレビ)が主催ゲームに関しては、そのほとんどを放映するが、日本テレビにはCSにG+というチャンネルがあって、試合が延びているときなどはここで続きを見られる。もちろんここでは、放送前というより、試合開始前から放送しているのだが、とにかく巨人戦をほとんど全て放送する。ケーブルテレビに加入していると、基本料金ないでみられる。
フジも複数のCSチャンネルがあって、地上波放送に入らない場合は、こちらで続きを放映している。但し有料なので契約していない。たかがそれだけのために契約するも無駄だ。
まあ、この辺はそれぞれの局の事情もあるに違いない。という風に考える。
ところがこの前の3連戦、火・水・木とあった公式戦、どこのチャンネルを回してもヤクルト戦が見られなかった。スポーツチャンネルはパ・リーグの放送をしている。番組表を見ると、ヤクルト戦はそのフジのCSで放送していた。
ここまでは仕方がない。だがその時、火曜日のことだが、フジテレビを見ると、あろう事か巨人戦をやっている。
昔からそうだが、フジに限らず、プロ野球ニュースはどのチャンネルも巨人中心で、昨年あんな騒動が野球界にあっても、あれだけプロ野球機構を責め続けたマスコミのやることは巨人中心主義の延長であり、話題になる楽天を多少大きく取り上げるだけなのだ。
恐らく関係者はそうは言わないだろう。公平になっているというかも知れない。だが視聴者の目にはそうは映らない。フジテレビは面白い番組を多く作る力もある。だが、その底に流れる「流行至上主義」みたいなものが鼻についてならない。かつてバブル期に、最もトレンディだったのは、多分フジテレビだ。おにゃんこクラブも、オールナイトフジも、軽薄な文化の多くを最もたくさん作ってきたのは、多分フジテレビだ。
だが、その影で失われてきたものもきっと多い。少なくとも、プロ野球界に於いて、巨人は読売が強力にバックアップし続けてきた。最近視聴率が落ちたからって、その姿勢を変えることはない。フジは昔からヤクルト戦の一部を放映し、何年か前の日本シリーズでは、優勝が決まる瞬間、他の番組を突然中止してその瞬間だけ流したことがあった。夕方のドラマの再放送なんて、きっと視聴率は低いかも知れないが、そんなときばかり、そういう手段に訴えるのは、まさにフジ体質でしかない。その時の日本シリーズの中継は別のチャンネルがやっていた。
ライブドアを応援しているわけではないが、フジテレビの体質改善はニッポン放送よりもよっぽど必要だ。そんな気がしてならない。野球のことは一つの例だが、象徴的だ。
ところで、ジャイアンツはなぜ巨人なのか?読売ジャイアンツだから巨人は解るが、であれば、阪神は虎、中日は竜と呼ぶべきだろう。それぞれ、阪神タイガースであり、中日ドラゴンズなのだから、もしその伝で行けば、巨人は読売と言うべきだ。何か特別扱いもこんなところにまであって何だかな。・・・・星飛雄馬は好きだが・・・
投稿者 keisuke : スポーツ | 23:56 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月 6日
フレンチトースト
フレンチトーストという食べ物がある。意外と好きだが滅多に食べない。いや、滅多どころか、いつ食べたのかも忘れている。
ちょっと食べてみたい。
ところで、フレンチトーストはそもそもフランスにはない。フレンチトーストというのが既に英語発音のものだから、恐らくアメリカ起源か?とは思うが。
広辞苑には
「卵・牛乳・砂糖などをまぜたものに、パンの薄切りを浸し、バターなどで焼いたもの」
とある。
同じように、フレンチフライもきっとアメリカ起源だ。これはいわば日本のマックなどの「ポテト」にあたる。
一時期アメリカはイラク戦争を巡って、フランスが武力行使に反対していた頃、「フレンチトースト」「フレンチフライ」ではなく、「フリーダムトースト」「フリーダムフライ」にしていたらしい。
なんだか今の中国や韓国の日本の教科書問題に対する反応を見ているようでさえある。
ただフレンチトーストというのは見た目も雰囲気もどことなくフレンチと言われると納得できるところがある。ホットケーキなどと違った、じわっとした美味しさがある。ホットケーキは起源はどこか知らないが、アメリカンなイメージがし、フレンチトーストはフレンチなイメージがある。別にエスプリとかそんなことではないが、やはりフランスという国はイヤミの「おふらんす」ではないが、どことなくおしゃれで、でも高慢なそんな感じがするのだ。フレンチトーストがおしゃれかどうかは賛否あるだろうが、私にはそう見える。
自分で作るのは面倒だ。どこかで食べよ。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:17 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年4月 5日
現代音楽-1
ずいぶん昔に買った現代音楽の本を読んでいる。
現代音楽は英語で言えばModern MusicまたはContemporary Musicと言うことになるだろうが、いわゆる日本で言うところの現代音楽というのはクラシックのジャンルに概ね限定されているので、Contemporaryという場合の音楽とは全くニュアンスが違う。どちらかと言えば、芸術音楽の中のModernというニュアンスかも知れない。
この本ではポスト・マーラーという部分から入っているし、それは非常にオーソドックスな入り方だと思う。
音楽に限らず、物事を論じる場合には、論じる対象やそれに関連した事象に関しての定義が、ある程度しっかりしていないといけない。そういう意味では、現代音楽というものを論じることの難しさは、現代とか音楽という言葉に曖昧さが残ることである。
調性のあるなしとか、そういう機械的な区切りができるならともかく、ポップスとクラシックの境界線などというのは、時代が現代でなければ、多くのクラシックだって、ポップスたり得たのではないか。それは、現代のポップスが、クラシックと通常呼ばれる作品群の延長には無い(あるいは無いように見える)としてもだ。
まあその辺りのクラシックとポップスの違いなどは、厳密に言ったところでそれほど意義のあることでもないし、曖昧さは常に残るので置いておく。
さてそのクラシック音楽の延長としての現代音楽、すなわち、ポスト・マーラーであれ、19世紀のいわば後期ロマン派以降の音楽というのは、実は小中学校では全く教えてくれない。あるいは教えてくれたのかも知れないが、私は全く知らない。そもそもポスト・マーラーのマの字もなかったはずだ。
マーラーの同時代人である中で、R.シュトラウスなどは20世紀に入って重要なオペラをたくさん書いているが、ポストの中には入っていない。どちらかというとワーグナーの後継者的で、行ってみれば後期ロマン派と言うことなのだろう。
ある意味、シュトラウスの「メタモルフォーゼン」は、シェーンベルクの「浄夜」に似た響きを持っていて、シュトラウスはこれを1940年代に書き、シェーンベルクは19世紀に書いている。そして無調に入る前のシェーンベルクのこの音楽はまだ後期ロマン派の枠の中にいるというのも頷ける。
マーラーに限らず、シュトラウスやヴォルフなどにも無調に移行しそうなあやふやな部分があるが、完全に調性を捨て、さらにそこから12音技法へと入っていくシェーンベルクの勇気はそこにはない。
私は音楽家ではないし、まともに音楽教育を受けているわけでもない(高校までは音楽を専攻していたが、教える側の一生懸命さほど学んでいない)。クラシックを聴くようになったのは学生時代で、なぜかマーラーから入ったので(別の機会に書いたとおり)、現代音楽に入っていくのは全く辛くなかった。
もちろん現代音楽の前に近代音楽なんていう言い方もあって、これは20世紀前半の音楽を指していたりするのかも知れないが、例えばストラヴィンスキーとか、バルトークとか、ドビュッシーとか、何となく、新ウィーン学派の行き方とは違う形で20世紀を迎えた作曲家を指しているようにも思える。何となくだが、音楽が調性を失って、12音、セリー、電子音楽、偶然性の音楽など、極めて実験的で論理的な分野に踏み込んでいくことで、現代音楽というレッテルを貼っているように思えさえもする。
今回面白いと思ったのは、音楽がどんどん音を微分化して行った過程だ。いわゆる調性音楽は基底となるドの音から7つの音を、人間の耳がきれいに思える周波数で段階的に上がっていくことで、一つのグループを作っている。ドレミファソラシだ。これが不思議に一定の周波数差ではないから、時折半音だけだったりする。そしてこの半音しか違わない音があることから、全てを半分にして、半音ごとに上げていくと音は12になる。
シェーンベルクが12音技法に与えた命題は、この半音階ずつの12の音を公平に使用し、それを組み合わせるという、ほとんどパズルの技術で音楽を作るという、直感だけでは音楽を形成できないような仕組みだった。だが、シェーンベルクをしても、例えばドとレの間を全音とするなら、半音階を公平に扱うという方法で行ったわけで、四分音とかはその理論の中で考慮されていない。半音があるなら四分音もあるし八分音もある・・・・という風に考えていくのは、行ってみれば円周率を求めるときに、限りなく細かく分割した長方形の対角線を作っていくようなもので、それは微分音となる。細かい四角の連なりが円に見えてくるのと同様、微分音は一つの線となり、トーンクラスターなどを生み出すことになる。トーンクラスター、つまり微分された全ての音が鳴れば、音程などというものは最早意味が無くなる。という理屈だろう。
今回その本を読んでいて、これまでペンデレツキなどを好んで聴いていたのだが、そこに出てくるべったり塗られた楽譜のトーンクラスターが、しっかりした音楽の歴史の中で必然的に生まれてきたと言うことが、理路整然と解ったことに感動した。まだまだ本はせいぜい5分の1ほどしか読んでいないので、これからが楽しみなのだが、ああ音楽も奥深い、と思えた瞬間だったのだ。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (1)
2005年4月 4日
パンとご飯
パンもご飯も美味しい。
主食としては世界でパン、米、麺類などが主だが、日本人はそれらのものを最もよく分け隔て無く食べている国民のような気がする。西洋人は、やはりなかなかご飯というのを、それほど食べる機会は多くはないように思う。よくは知らないが、中国人はその辺りの主食と副食の区別が極めて曖昧であるような気がする。主食を副食に取り込んでしまったような感じか。
日本人は朝パンを食べ、昼麺を食べ、夜ご飯を食べるなどというのがごく普通に行われる。
今では駅の近くには必ず数軒のパン屋があり、焼きたてのパンを買うことができる。ぐるナビなどで洋食系のレストランや居酒屋を探すと、圧倒的にイタリアンが多い。それだけパンやパスタは日本に浸透している。
だが日本人は不思議と、ご飯の魅力に逆らえない。
おかずにはご飯。
たとえそれがステーキであっても、ご飯がいいという人は少なくないはずだ。
和食系のおかずとパンというのは、全くだめではないと思うが、合いづらい。しかし、洋食系のおかずの多くは、ご飯が合う。これは日本人が小さいうちから慣れ親しんだ食生活による部分も決して少なくはないと思うが、炊いたご飯というのが、非常に多くの食物に合う、何らかの特性を持っているように思う。
ミートソースをご飯にかけて食べても美味しかったりするのだ。
同じ穀類でも、米と小麦というのはそういう部分で何か大きな違いがあるように思う。
麦飯も美味しいが、米のご飯はより美味しい。だから小麦はパンやうどんになるが、米は炊くだけで食べるのではないだろうか。これは長い歴史の中で培われた食習慣が物語っている。
パンもパスタも美味しいが、やはり1日1食は米の飯を食わないと落ち着かない。そんなところに日本人としてのアイデンティティーなんてものはあるのかも知れない。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:23 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月 3日
法王の死
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が亡くなった。
私はクリスチャンではないし、キリスト教の歴史にもそれほど詳しくない。それでも福音書は何度か読んだこともあるし、旧約も含めて、聖書のいろいろな箇所に目を通したこともある。最初はどちらかというと黙示録などの預言的書物としての側面で、おもしろおかしく読んでいたに過ぎないが、たとえクリスチャンでなくとも、聖書には学ぶべき部分は多い。
ヨハネ・パウロ2世の業績などをまとめて見ていると、聖職者としての素晴らしい生き様を通して、改めて感銘を受ける。
宗教というのは必ずしも愛と平和に色取られているわけではない。オウムなんていい例だ。私はイスラム教に関しては実際全く無知で、語る資格以前に語りようもないのだが、キリスト教徒仏教は多生書物を通じた知識がある。
そういう意味では、世界宗教となるにはそれなりの、つまりこれは信者でなくても納得できる内容を持っているものだ。キリストを神と思おうが思うまいが、心理の幾ばくかは必ずそこにある。そしてそれが法王をして、クリスチャン以外の人にもその偉大さを認めさせうる何かなのだ。
金持ちが神の国に入るのが、ラクダが針の穴を通るよりも難しい宗教だ。その含蓄にこそ、世界の平和のために奔走した法王の真価がある。私にはそう思える。
だが長い歴史の中では、その宗教こそが、戦争の原因となり、多くの不幸を生んできたのもまた事実だ。
宗教の定義がどうあれ、私はそれが、信者、ひいては人類の幸福に繋がるべき教義を持っているべきであると思うし、それを持たない宗教とは区別すべき言葉が必要だと思う。ヨハネ・パウロ2世が行い、そして理想としてきた人類の幸福が、一日も早く実現され、神に召された法王が、あの世で微笑むことのできる世の中に世界はなるのだろうか?
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月 2日
ペリー・ローダン2
ひょんなことからペリー・ローダンシリーズの原書の最新刊(既に最新刊ではないが、そのときは)を手に入れた。
いや、買ってきてくれと頼んだだけだが、どうしても原書が見たかった。日本で探すのは大変なので、頼んだ。
Nr.2273 2273巻だ。日本版が出るとすれば、1137巻の収録と言うことになる。現在のペースで行けば、2074年頃の発売と言うことになる。私は115歳だ。・・・・がんばれば読めるかも知れない・・・・仮にその頃原書で話が続いていれば、5900巻前後だ。こういうのを気の遠くなるような話というのだろうが。
作者はホルスト・ホフマン。ハンドブックによると1076巻から登場する作家だ。
ドイツ語なので当然読めない。
装丁はまさに週刊誌らしくぺらぺらで、紙質も良くない。小説だけでなく、宣伝みたいのもあるが、日本の雑誌もそうだが途中に挿入されていたりする。ドイツで1.75ユーロだから日本円にして240円程度だろうか。オーストリアとルクセンブルクでは2ユーロ、スイスでは3.4スイスフランと、ドイツより割高のようだ。日本では、翻訳されて2話で1巻になり、さらに文庫で600円しないので、考えてみるととても安い。

ご覧の通り、表紙はむちゃくちゃな画だ。全体的に日本版の方が表紙絵も含めて洗練されている。ドイツのは、例えばアメコミと日本のコミックのような差を、その全体の装丁から感じる。
しかしそれにしても2273だ。ここまで来たら多分、10000位を目標にしなければ、終わらないに違いない。逆算すれば解るが、この作品は1961年に開始されている。実に45年続いているのだ。2011年は50周年。2600巻が出る。イベントでもあるのだろうか?その年にドイツに行ってみたい。
ローダンのメーリングリストによると、2273巻のタイトル「Der gefallene Schutzherr」は「落ちた守護者」と言うことだそうだ。いかにもというタイトルだ。こういうSFが、SFとして輝きを失わない国というのもうらやましい。決して日本もそうでないとは言わないが、ここまでベタではない。
先日友人と話をしていて、彼は栗本薫の「グイン・サーガ」を読んでいるのだが、「グイン」もいよいよ99巻が発売されて、作家の公言である100巻を目前に控えている。100で終わりそうもないと言うことだが、実にこれまた偉業と言うべきだ。
私もそうだが、その友人も、周りでグインを読んでいる知り合いがいないと言っていた。私の周りにもローダンを読んでいる知り合いがいない。にもかかわらず、新刊が出ればどちらも多くの書店で平積みになっているし、継続して出版されたり、特集の本が出たりするわけで、相当が売れているはずだが、書店で誰かが買う姿も見たことがない。ちょっとした不思議だ。
ただ、日本でローダンを読める人口が仮に6千万人くらいだとして、知人の平均人数が500人くらいとすれば、その中に一人読者がいれば、12万部売れるわけで、1巻の売り上げは6千万円。粗利が10%しかないとしても600万円有るわけで、そんなに売れていないかも知れないが、大きな書店で10冊以上平積みされているのを見れば、あながち夢の数字でもないかも知れない。文庫だし、あるいはもっと売れているかも知れない。・
少なくとも、翻訳開始時とまで言わなくても、今年から毎月刊行ということなので、すごく売れていることだけは確かだ。
これ以上ドイツに差を開けられないためには、最低月2冊刊行が必要になるが、そんなに出ても読めないと言うことがあるかも知れないので微妙なところだ。普通の本よりは早く読めるが、内容にムラがあるので、つまらないときは時間を食う。人によってつまらないと感じる基準はバラバラだと思うので、一概に言えないが、もし儲かっているのなら、翻訳者を倍にして、やってもらいたいな。
ところで、裏表紙に出ていたグッキーの人形は、けっこう可愛いので欲しいな。
投稿者 keisuke : SF | 23:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月 1日
愛知万博の弁当
愛知万博で手作り弁当が許可されたことが話題になっている。
私は万博自体にそれほど興味がなかったので、弁当も飲み物も持ち込み禁止だと言うことを聞いて驚いた。食中毒とか、テロとかの防止だそうだが、普通に考えても、そのうちの理由の多くは、別のところにありそうだという予想はつく。
恐らくディズニーランドなどを参考にしている部分もあるのだろう。だが、片やただのエンターテインメント産業で、普通の営利企業であり、万博は財団法人だが、結局のところ自治体の運営ということだろう。大分違う。
尤もそんなことよりも、10万人以上が入場するのに、食事をする場所は6千人しか収容できないことと、いかにも足元を見た料金設定であろう。単純に人数で割ると、16〜17回、最初の頃の15万人で計算すれば、25回入れ替えなければならない。最長時で9:00〜10:00の開場なので、30分から1時間交代で入ればいい計算だが、入場してすぐ食事をしたり、夜10時の直前まで食事をという人は少ないだろうから、混んでいる日はファーストフードを歩きながら食べるとかになるのだろうか?
それでも手作り弁当だけと、少しでも持ち込みを少なくしようとしているのは見え見えだ。
そもそも入場者数は予想を大きく下回っているのだから、当初の見込み利益から考えても、大分利益も下回っていると見るべきで、今回の措置はそれに拍車をかけるだろう。
万博の意義そのものには、私はそれほど否定的ではない。世界各国の協調が為されるのであれば、それもいい。ただ結局世界を見てみると、こういう場で自国をアピールはするが、他の場面では険悪な状況にあることもままあるだろう。環境保護とか、「愛」というテーマに掲げられた者の大きさに比べて、そのやり口は何かすごく俗な感じがしてしまう。
時には理想のみを追って、理想に協賛する人たちの手だけで、美しいものを作り上げると言ったことがもっと前面に出た博覧会でもいいような気もするが、歴史の中で、結局は博覧会と言っても、最大の目的が観光資源でしかないことはあまりに明白で、そして少し寂しい。
入場者数の多さよりも、掲げた理想の美しさ、大きさにこそその真価があるような博覧会に、最終的にはなることを今更だが願ってやまない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:51 | コメント (1) | トラックバック (0)