2005年3月31日

プロ野球開幕

 パ・リーグは先週から、セ・リーグは明日からプロ野球が開幕する。
 1勝したものの、前評判通り楽天は弱い。これで岩隈がなかったらどんなことになっていたのだろう。だが同様に最下位を走っているのがオリックスだ。近鉄とオリックスが合併するはずだったわけだが、楽天ができたせいで戦力が分散されたのだろうか?中村ノリなどの影響もあるのかも知れない。
 だがオープン戦を見てみると、オリックスが1位で楽天は9位だ。どちらかと言えばいいとこ取りをしたオリックスが強いのは当たり前のような気がするが、ペナントというのは面白い。そして、その楽天よりもオープン戦で下にいたのが日ハム、ヤクルト、広島だ。
 セ・リーグでヤクルトも広島も、それほど戦力補強していないので確かに強いようには思えない。戦力的に言えば、どう考えたって巨人が一番強そうだ。

 まあ所詮、オープン戦はオープン戦なので当てにはならないが、パ・リーグを見ると、去年の名残をそのまま背負ったような順位になっている。まだ5試合だが、ソフトバンクが圧倒的に強い。同じ風に考えれば、セ・リーグではやはり中日が強そうには見える。巨人は見た目強そうだが、その割に勝たないというのが、ここしばらくの巨人らしいと言えば言える。相変わらず4番バッターがたくさんいるには違いない。

 個人的にはヤクルトファンなので、実は他のチームはどうでも良い。稲葉や、飯田が抜けたが、飯田はそれほど出ていなかったし、いつでもいい選手だと言われ続けてきた稲葉だが、しばらく前に優勝した年以外は大して良かった試しがないので、それほど影響はなさそうだ。
 それよりも気になるのはラミレスの息子だ。義理の息子だから、血が繋がっているわけではないが、「アレックス・ラミレス・ジュニア」だぜ!ピッチャーらしいので是非がんばって欲しいものだ。パフォーマンスも含めて。
 それ以外は去年とあまり変わらないので、高望みはしてはいけないと思うのだが、しばらく優勝から遠ざかっている。そろそろ楽しませて欲しい。
 きっと、横浜や広島のファンはもっとそう思っているに違いないが。

投稿者 keisuke : スポーツ | 23:09 | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年3月30日

「みどりの日」が「昭和の日」に

 4月29日、元「天皇誕生日」、現「みどりの日」が「昭和の日」になるらしい。そして「みどりの日」は5月4日になって「国民の休日」という、いかにも暫定的な仮称めいた休日がなくなる。
 まあ、どっちにしても休日なので、正直どちらでも構わないのだが、だからこそ、こんなどうでもいいことを議論している間に、もう少し重要なことがあるだろうという気がする。
 まれに見る予算案の早期通過を見ていると、結局日本は、こういう国なんだなあ、とつくづく思う。自分もいけないのだと思ってみるが、だからといって、明日から政治家になって世の中が変えられるかというと、それは自分の分ではないし、現実的でもない。
 しかし、たくさんの官庁や関連団体であれだけの無駄が叫ばれ、都心に3LDK、2〜3万円というほとんど横領に近い宿舎を作り、それでも金がないと言って増税する政府と、それを阻止できない野党。そしてそれを甘受しなければならない自分自身という構図は、釈然としないながらも、結果的に天に唾して自ら浴びるに似ている。

 あなたの一票が日本を変えるという「チリも積もれば山となる」式な選挙のアドバルーンも、蓋を開けてみれば全く意味をなしていない。
 尤も、2大政党になって、自民と民主が拮抗したとして、ではどれほど二つの党に大きな差があるのかと言われれば、恐らく多くの有権者にはそれが解らないところにこそ、この問題の本質はあり、同時に、増税も、不景気もいやだが、それでも今の生活に大きな変革が訪れることには、むしろその方が大きな不安を覚える国民というものが、現状を作り上げているのだ。そう思えば、例えば過去の革命のように、あるいはもっと近くは海外の独裁を倒した革命のように、大きな変革は、必ずしも直近の平和と幸福を意味しないというのも事実ではある。
 緩やかな変革こそが、多くの国民の望むことであるが、それは一つには徐々に上がっていく消費税とか、少しずつ廃止されていく減税とか、結局大多数を占める国民に広く苦痛を背負わせることでしか実現できないのが今の政治だ。その中で、政治への信頼など築けるはずもない。

 例えばマスコミが取り上げる様々な問題を、そしてその問題に対する世論調査の結果を、なぜダイレクトに反映しようとする政治家がいないのか?私には非常に疑問だ。
「みどりの日」を「昭和の日」に変えるための立法を考え、議論する暇に、もう少し生活に根ざした部分で、国民の溜飲が下がるような立法をしてくれれば、大分違うような気がする。

投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:53 | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年3月29日

JAZZ

 JAZZに関しては、私はあまり強くない。一時期そこそこ聴いていたが、JAZZファンから言わせれば、きっとききかじり程度のことだろう。

 一番古いJazzアーティストとしての認識は、JAZZじゃないと言われるかも知れないが、アル・ディ・メオラだった。多分学生時代のことだ。自分でもジェフ・ベックの流れという感じだし、当時で言えばクロスオーバー、今でいうフュージョンというのがしっくり来る内容だ。ディ・メオラは今でも好きだし、当時のやたら速いフレーズばかりでなく、それ以降の落ち着いたのも好きだ。
 モダン・ジャズを聴き始めたのは20代の半ば、レコード店に勤めていた折、当時の店長からいろいろ教わった。今でも聴くのはソニー・ロリンズ、ジャッキー・マクレーン、マット・デニス等、当時聴いていたアーティストが多い。その中で、これもその店長から教わったのだが、アルフィーという映画のテーマをソニー・ロリンズが演奏していたものと、コールマン・ホーキンスの「ジェリコの戦い」という曲、そして、マット・デニスの「エンジェル・アイズ」は今でもよく聴いている。どちらかというと、かなり演歌的というか、「クール・ストラッティン」や「クレオパトラの夢」なんかもそうだが、べたべたな感じかも知れない。
「ジェリコの戦い」は元々黒人霊歌だが、最初に聴いたのはバーバラ・ヘンドリックスというソプラノの名歌手が出した『黒人霊歌集」というアルバムだった。この曲が好きで、コールマン・ホーキンスという名前も知らなかったがCDを買った。そしたらけっこう良かった。この2つの演奏は大分違うし、そもそもメロディー自体が微妙に違う。それでも同じ曲だし、どちらにも魅力を感じる。

 クラシックで、メロディーが違うが同じ曲というのは余り無いだろうが、ジャズでは元々インプロヴィゼーションがその根底にあるので、即興というより、リアルタイム変奏みたいな表現で言い表せるような味が、ジャズらしさのように感じる。8ビートとか4ビートとかというリズムやテンポよりも、その即興性と、自由さがJAZZの真骨頂のような気がする。

 実はキース・ジャレットとかをあまり聞かない。自分の音楽的指向だと、聴けば好きになりそうな気がするのだが、なぜかほとんど聴いたことがない。最近少し、コルトレーンとか、マイルスとかにも食指が動くようになってきた。ようやくだが。
 音楽というのは奥深く、クラシックだけ聴いていても、相当時間がないと『聴いた』という感覚まで持っていくのは難しい。増してたジャンルに渡ると、非常に表面的にならざるを得ない。

 ただ、まあ、それも音楽の持つ良さの一つではあるのだ。そう思いながら今、小野リサを聴いていたりして。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:45 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月28日

国旗掲揚・国歌斉唱

 今日のNHKのクローズアップ・現代は、主題の内容を取り上げ、都の教育委員会が、校長を通して、現場の全ての教師に君が代斉唱の時に立ち上がって、国旗の方を向くと言ったことを業務命令として出したという。従わなかった者には罰則があるらしい。都内で50人だと言っていた。
 この問題は毎年この時期に必ず浮上してくるし、いつだったかつい先頃、天皇が「強制はいけない」と言っていたのを思い出す。

 都の教育長(こういう呼称ではなかったか?)は、指導要領や、正確に覚えていないが教育基本法かな、いずれにしても彼が言うところの法律で決まっているのだから当然だし、秩序の問題であるというようなことを言っていた。私はこういう人が教育の現場を取り仕切っている社会で、教育を受けたくないとその瞬間に思った。
 私は別に日本の国旗としての日の丸も、君が代も嫌いではない。ことさら尊重もしていないが、現代社会に於いて日本人のアイデンティティーを象徴するモノとしての国旗や国歌はあってもいいし、それが現在の日の丸や君が代であっても一向に構わない。私自身は戦争を経験していないので、国歌や国旗が持つ過去の戦争との兼ね合いという問題に関しても、別に国旗や国歌が戦争を起こしたわけではないので頓着しない。
 しかしことは、そう思う人もいるし、思想・信条の自由を奉じた憲法の下で、それが明らかに犯されていると感じる人たちがいることの方だ。儀式の秩序などというのは、所詮形式上のもので、生き方や信条に比べたら些細な問題だ。
 私が生徒だったら、その行為にこそ反発して、自ら立たない立場を選んだかも知れない。こういう教育現場を預かる者のトップに立つ今回の教育長のような人は、いったいどんな青年時代を過ごしたのだろうかと不思議に思う。 現場の教師の、そして学生の反感を煽っているようにしか思えない。

 愛国心という言葉がある。国に限らず、何かを愛するという心は長い歴史や実生活の中で、大切であり、それが人と人の関係を根本的にいい方向へ導く可能性のある何かだという風に共通認識があると思う。国を愛することもまた、その一つだ。
 だが同時に、愛国心という言葉は、民族主義とか、宗教的信条とかと同様に、他を排斥しかねない危うさもそこに内包している。例えば北朝鮮が愛国と言ったらどういう意味になるだろう?戦前の日本の愛国心は、今の愛国心と同じだったろうか?
 言ってみれば、国歌斉唱と国旗掲揚を強制されることは、この危うさをそこに感じると言うことなのだ。そして教師の多くがそれに反発しているとすれば、上に立つ人間がどう上手いことを言って逃げを打っても、そこに問題があることは間違いない。
 法とか秩序という言葉で片づけようとするそういう人たちは、自らがそちら側に立ち、統制することで秩序を守ろうとする。これは独裁者や独裁国家のやっていることと根っこでは非常に似ている。

 学校で長髪がいけないとか髪を染めてはいけないとかいうのは、それを「不良」という目で見る見識がそこにまずあることを、まず認めていかねばならない。校則を厳しくして生徒を統制しようというのは、結果的に学校が全ての生徒を枠にはめていくと言うことだ。例えば世の中で、芸能人や社会人が茶髪やロン毛であるとき、なぜ学生にはそれが許されないのかと言うことを、学生に納得させることが簡単にできるだろうか?なぜならそこには、秩序を守るとか、ルールだからという根本的な意味が含まれない言葉で説明されるからだ。
 ルールは確かにある。そこには暗黙のものもある。幼いうち、若いうちは、それをどう判断すべきか解らないから、教えていかねば行けないという理由は確かに正論だ。だからといって、ルールだからという言葉が、誰をも納得させるわけではない。例えば茶髪はなぜいけないのかを、それがどうしてルールになり得たのかを説明しなくてはいけない。

 同様に、なぜ卒業式では国旗を掲揚しなくてはならないのか、国歌を一律に歌わねばならないのか、そこには説明すべき義務がある。教育長はそんな説明をしていなかったし、恐らくできないだろう。したとしても納得いく説明ではないだろう。

 どこの国だって・・・・と言うことがよく言われる。もちろん、多くの国家で、国旗や国歌に誇りを持ち、アイデンティティーの寄る辺として、心に住まわせている多くの国民がいるに違いない。だが日本は、先の大戦と、戦後の教育の中で、日の丸や君が代に対し、単純に誇りを持ったり、寄る辺としたりすることができなくなってしまった国家なのだ。
 国会で国旗や国歌を決める前に、国歌(君が代)に対する誇りを持ったり、日本人としてのアイデンティティーを各人が確立できないような社会で、形だけ整えようとするのは、結局のところ権力者の横暴にしか見えない。

 私はこれに反対する都の教職員には是非がんばって欲しい。教育委員会の横暴な仕儀に立ち向かい、そしてもう一度日本という国に対する自分のあり方を考え、自らの意志で国旗や国歌に誇りを持ったとき、それを若い人に伝えて欲しい。我々はいずれにしたって、世界のどこに行っても日本人なのだ。そのシンボルを持つことは決して悪くはない。だがそれは、国家や教育委員会が決めることではない。

投稿者 keisuke : 社会的 | 21:11 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月27日

愛知万博

 愛・地球博という名の、21世紀最初の万博が愛知で開催されている。マスコミも結構特集やニュースなどでアピールしている。せっかく始まったのだから繁盛して欲しいし、愛・地球博が訴える平和や環境問題へのテーマは、ステレオタイプだが、だからこそ重要で、実はもっとその辺りが強調されてもいいくらいだと思う。

 開催3日間の入場者がおよそ15万人で、当初の予想45万人を大幅に下回ったそうだ。
 どうして45万人という予測をしたのか解らないが、予測が甘かったというのと同時に、15万人でさえ、人気のパビリオンは長蛇の列で予約をしていないと何時間も待つという状況だという。これは、もし3倍の入場者であれば、3倍待つということで、別な意味の甘さがそこにあると言わねばならない。考えてみて欲しい。1日近く並んで、1つか2つのパビリオンしか見られないとしたら、何のために来たのかと入場者は思うだろう。しかし、45万人、予測通りに人が入るということは、言ってみればそういうことだ。


 地球博の公式ページを見ると、これだけのイベントの割には、ホームページのできが悪い。それぞれのゾーンがどこにあるのか、せめてFLASHを使うなどして、視覚的に解るようにして欲しいし、それぞれの項目についても階層が深すぎて、何がどうなっているのか解らない。

 会場マップを見て思うが、158haあるらしいので158万平方メートル、東京ドームにしたら40個分近い。相当に広い。あれだけ長時間並んだら、あまり多くは見られないし、その結果、入り口から遠いパビリオンはすごく不利な気がする。
 70年の大阪万博は、時代がそういう時代だった。高度経済成長のまっただ中で、科学技術に大きな夢があり、その割に、現代と比べると娯楽は少なかった。小学生で、クラスの何人が海外旅行経験者だったろう?まだ1ドルは360円だった。

 この時代において、万博だからと言って、それほどの動員を見込むのは大分甘いなと思う。月の石見たさに万博会場を訪れた昭和45年の小学生と、マンモスの骨見たさに長久手の会場を訪れる小学生の数は、やはり大きく違うに違いない。
 それより私など、「長久手」という会場名の方にときめきを覚えてしまう。小牧・長久手の戦いという意味だが・・・

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月26日

モナリザ

 今日のテレビで「モナリザ」はもう一枚あったという番組をやっていた。実は事情があって、最初と最後を見ていない。
 ただ、あまりに世紀の大発見みたいな大げさな番組だったのでちょっと気になった。確かに、学会では昔から話題だったみたいな言い方のナレーションはあったが、全体的に、この番組のスクープみたいな扱いで、鼻についた。
「ダ・ヴィンチ・コード」のヒットもあって、タイムリーで、面白い話題だが、世界に先駆けて番組独占スクープで初公開、誰も見たことがないみたいな雰囲気を感じた。

 たまたま手元にあるコリン・ウイルソンの「世界不思議百科」という本に、同じ内容が載っていて、しかもアイルワースの「モナリザ」の写真も見ることができる。これを見たとき、今日の番組同様、確かにこちらが本物というかジョコンド夫人を描いたものに違いないという風に思えた。この本の翻訳は1995年、原著作は1887年出版になっている。
 そもそもピューリッツァがこの絵を手に入れたときに、所蔵品ばかりか家まで手放したというくだりで、この絵の価値が解ろうというもので、科学的な分析が最近されたというのであれば、そういった歴史的経緯をしっかり流し、番組が発見したかのような作りにするのは、川口浩や藤岡弘。の探検番組のようで、それでいながらシリアスなドキュメントなので、どうも納得いかなかった。

 この絵が確かに公にダ・ヴィンチの「モナリザ」として認められてなく、今回詳細な研究の結果それが公表されることになったとしても、この「モナリザ」が、歴史の闇の奥深くから出てきたような謂いは、ダ・ヴィンチの絵に対して「暗号」という言葉でミステリアスなものを付加していくのと同じように軽薄な気がする。もちろん、「ダ・ヴィンチ・コード」は小説だから関係ない。

 こういう番組を見ると、テレビというものの底が知れるようで、今回のライブドアとフジテレビニッポン放送の問題も、それがいいかどうか分からないが、旧態依然とした放送業界が変わるのなら、ライブドアがんばれとさえ言いたくなる。
 今回の放送のようなものも、実は十分ジャーナリスティックである訳で、そういう意味では中途半端や誇張はない方がいい。
 もちろん、内容そのものは盛り上げるに十分な内容だから、それはそれでいい。だが、そうするあまり、世紀の大発見のような言い方をしたところから、実はジャーナリズムの嘘が始まるような気がする。実際にはそれほどひどい番組でもないし、カラーのアイルワース版「モナリザ」を目にできたのはそれだけでも面白かったからこそ、そう思う。

monarisa.gif

 NHKのその時歴史は・・・のように、番組なりの新しい切り口を時折見せても、それはそれ、学説としてきちんと出されていることを前提としているのは楽しんでみられる。今回も、もう少し煽ることを止めて、しっかり作ってくれたら、もっと良かったな。

投稿者 keisuke : 歴史 | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月25日

竹島の問題

 島根県が竹島の日を制定したことから、竹島ばかりでなく、日韓の間がぎくしゃくしている。
 尤も、その多くは韓国側の強烈な反応とそれに伴う言動が中心だ。
 私は日本人だし、日本で教育を受けてきた。しかも戦後の生まれで、戦争には、前の大戦も含めて基本的には反対の立場だ。すなわち、日本の植民地支配とかの経験もないし、恐らく気質も日本人的だ。それを前提で、思うことを書いてみたい。

 今回の件で、いくつか資料を見たり、様々な人の意見を読んだりしてみたが、竹島が日本と韓国、どちらの領土かという問題は、私には分からない。1905年に島根県へ組み込まれたという時点で、確かに日本の領土だと主張する日本の方が、国際法上は当を得ているとは思う。だが、当時の日韓の関係から、韓国が領有を主張できなかったというのも、意見としては解らなくない。
 ただ面白いのは、韓国は国を挙げてこのことを問題視し、例えばぺ・ヨンジュンの映画制作会見などでさえ、その意見を聞こうとする。そして、もし反対のことを言おうものなら、非国民扱いさえしかねない韓国の様相であり、各自治体がそれを契機に友好的な提携を破棄したり、大統領までがそれを追認する声明を発表する。これをして日本の侵略だと言い切ってしまう辺りがどうも解せない。
 しかもこの問題はかねてより、国際司法裁判所に委ねたいという日本側の意向を、ずっと韓国が無視し続けている状況らしい。当然、この家は俺のだから、何で裁判の必要がある?という姿勢なのだろう。そういう意味では、客観的に見て、日本の方が大人の態度ではある。
 しかも、竹島周辺の漁業に関しては現状は協同でという取り決めがありながら、実行支配している韓国軍によって、日本はそこで漁をすることができない等という話を聞けば、公園を牛耳るジャイアンに対し、のび太が自宅で、あの公園はぼくのだ宣言をしているように見える。日本の国旗を燃やしたり、指を切って血で抗議をしたり、韓国の様々な肉体的、感情的抗議が目立つ。

 日本人はと言えば、首相の鷹揚とも無関心とも取れる態度が象徴するように、単なる島根県の問題、しかも漁業関係者のという雰囲気が強い。あるいは、中国や韓国の「植民地」とか「侵略」というキーワードによって、どことなく政治問題に対して及び腰で、あまり関わりたくないという国民の意識というのがどこかにあるような気もする。
 
 この問題の落としどころは、いずれにしても日韓双方が領有を主張している以上、お互いがどんな根拠をもってそういっているにせよ、最早話し合いで決着が付かないのであれば、国際的な司法の手に委ねる以外に方法はない。韓国がそれを拒否するというのは国際社会の一員として、正しい態度ではない。確かに韓国側の司法に対する危惧も解らないではないが、司法の公平性を信じないのであれば、あるいはその判断を尊重できないのであれば、国際的な協調や協力関係が保てるはずもない。もちろん、どんな時代やどんな場合にも、完璧なものなどない。司法が絶対間違いを犯さない等という保障もない。しかし司法がいかに理不尽に見えても、そこで不正があるあるなら別だが、国内であれ国際的な問題であれ、そこを頼らざるを得ないこともあるのだ。
 竹島の問題は、まさにその典型のような気がする。
 のび太とジャイアンだって、しずかちゃん辺りが出てきて調停してくれた方が上手く収まったりするのだ。

 北朝鮮はああいう国家だからやむを得ないとしても、韓国とは日本は仲良くできるはずだし、過去の歴史がどうあれ、これから先は仲良く、平和的にお互いのプラスになるような形で、あるいは両国にとって極力不幸でない妥協点を見つけることで、やっていけるように思うし、やっていった方がいいと思う。
 こういう言い方は良くないかも知れないが、たかが島一つの問題で、国民全体が互いに反目するとしたら無意味なことだ。そしてそれはおまえらのせいだ、俺たちは悪くないという形で主張しあっても答えなど出てくるはずもない。それは、小さな個人から国家間の問題まで、基本的には同じだ。

 先日アインシュタインについて書いたが、人類がこの地球を飛び出し、宇宙全体に行き渡るなどと言うSF的なお話しはないだろうし、仮にあったとしても遙かな未来だ。それが実現するためには平和な社会がある程度実現しなくてはいけないし、地球というこの一個の星の中で、様々な対立や、意見の食い違いを乗り越えていこうという意志を人類自身が持って行かなくては到底実現などおぼつかない。

 個人的にはこうだ。竹島を日韓の友情の証として共有財産とし、漁業及び観光など、各方面で友好のシンボルとなるような形で位置づける。司法の判断などいらない。過去の不幸な出来事は出来事としても、未来はどうしていかなくては行けないのかを見ながら生きていくこと、そしてそこでは、マイナスではないプラスになる方法を常に模索していく、アジアの一地域からでも一つのそういうことができるのであれば、それは北方領土でも可能だろうし、尖閣諸島だってそうだ。
 いったい、世界の国家は、国家という枠組みで、同業他社との争いをしている資本家みたいな競争を続けることが、国家の永久的な幸福に繋がると皆思っているのだろうか?だとしたら世界政府などと言う人類としてのまとまりなど夢のまた夢だ。寂しい限りではないか。
 

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:24 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年3月24日

覚醒剤の密輸

 中国から覚醒剤を密輸しようとして捕まった日本人が事実上の死刑を求刑されたという。日本では考えられない重い量刑だ。
 しかしこれくらい重いと、殺人罪に等しいから、生半可なことでは犯そうと思わないかも知れない。

 13キロという覚醒剤が、末端価格にしてどのくらいか解らないし、どれほどの人数が使えるのかも知らないが、かなりの量であるような気はする。1回の使用で数グラムしか使わないとすれば、相当数の人間が何回も使える量だ。あるいはこの中の何人かが、自殺するかも知れない。殺人を犯すこともあり得る。とすれば、逆に今回の死刑は妥当な求刑となる可能性もある。
 悪意をもって人を殺せば、そしてそれが凶悪と判断されれば、国内でも死刑になる場合はある。ましてや求刑ベースならより多いに違いない。しかし、麻薬や覚醒剤を使用して、それが結果的に殺人に繋がった場合、それを売っている人間は、その殺人事件に関連して裁かれることはない。
 売人側としては、刃物を売っても殺人事件とは関係ないという同じ理屈で、関係ないと思うかも知れない。しかしことは、薬を打って事件を起こした人間と、薬を売った人間の双方に等しくあると思う。今回の中国での件は、まさにそのことを強く主張しているように思う。

 煙草でさえ、止めるのは大変なのだ。大麻や覚醒剤、ヘロイン等、法で禁じられているものの多くはそれ以上であることも予測が付く。そもそも、それを止められると思うほど意志が強ければ、最初に手を出さないだろう。

 もちろん、薬をやった人間が全て事件を起こすわけではない。1回で止める人間も決していないはずはない。だが、自分がどちらの側に転ぶかなど、やる前には解らない。それほど人間は強くもないし、薬物の与える影響は強い。痛み止めを飲めば頭痛は治るし、傷薬を付ければ、自然より早く治癒をする。薬とは元々そういうものだ。
 病気を治す薬だって、副作用はたくさんある。ましてや認可されていないのではなく禁止されている薬物であれば、尚更その効力や副作用、そして薬物の場合は依存性が高い訳だ。
 人生を棒に振るレベルであれば、百歩譲って個人の勝手という理屈も、成り立たないわけではない。だが、その害が他に及ぶとすれば、それは看過されるべきではない。そして、その結果がより大きな事件や不幸に繋がるとすれば、極めて思い罰をその製造や流通に手を染める者に科すことも、決して間違ったことではない。

 中国の量刑が最終的にどの程度になるのかは不明だが、それほどに重く見ることに、逆にことの重要さを再認識させられた思いがする。

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月23日

アインシュタイン

 ニュースで気づいたが、アインシュタインがいくつかの論文を発表した年から、今年はちょうど100年。世界物理年なのだそうだ。
 アインシュタインはウォーホールの絵や、映画にもなったし、20世紀で最も著名な科学者であることは間違いない。量子論とともに20世紀の最大の発見とも言われる相対性理論は、アインシュタインの代名詞となっている。

 相対性理論というのはまことに寂しい理論で、この世の最高速度は光速だと決めてかかるところから入っているので、非常に夢がない。夜空に輝く星々は、昔の人にとっても現代人にとっても、手の届かない遠い世界だが、それに科学的な証明を突きつけてくれたようなものだからだ。
 光は太陽まで8分少々で届く。その距離を1天文単位と言うが、一番近い恒星でも、その光ですら4年以上かかるというのは有名な話だ。銀河系の端から端までは光が10万年かからなければ届かない。10万年前というのは有史以前だ。有名なアンドロメダ星雲までは200万年以上、ここまで来ると人類と猿はそれほど大きく違わない。
 いずれにしても、遠い宇宙を旅することができなくしたのはこの理論だ。
 
 何となくどんどん加速していけばいつかはその速度も超えそうな気がするが、この理論の嫌なところは、速くなればなるほど時間の流れが遅くなる。そして光の速度になったとき、0になる。多くの場合、物理ではこういう非常識な点のところを特異点という。ビッグバンの瞬間とか、ブラックホールの地平線とか、頭で考えても上手く想像できない点のことだ。
 それでも、E=MC2のようによく知られた式などから原爆ができあがったり、超高速の飛行機上では時計が遅れたりするとか、実験的証拠が出てくると、尚更暗くなる。

 後は超空間とか、ワープとか、別次元とか、ワームホールとか、抜け道を想像で探すしかないのだ。

 SFという文学の一分野は、科学がなければ生まれなかったが、同時にその科学によってぐいぐいと、締め付けが厳しくなりながら生きてきた。現実はさらに厳しく、夢とはほど遠い。

 なんていう逆説的な一文で、アインシュタインを称揚するのはいかがなものか。
 科学とは事実を模索し夢を砕くのだろうか?いや、所詮人間には、どんなにがんばっても解らないことがある。論理的に導き出せても証明のできない部分が必ずある。だからこそ科学は逆に夢に満ちていると言わねばならない。

投稿者 keisuke : 科学 | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月22日

株主−経営者−従業員

 ライブドアとフジサンケイの攻防が続いているが、こと株などの話になると、とんと弱い。
 株式を上場するということは、株主を公募し、資金を調達することだから、当然株主の力は強い。株主総会で議決権のある株の50%を超える株を持てば、これまた当然、経営の実権を握れる。非常に明快な論理だ。
 ホリエモンの言う、「誰が株主になるか解らないのが嫌なら上場しちゃだめ」というのも確かに当然だ。
 
 会社の経営というのは、それが中小、しかも個人企業に近づけば近づくほど、社長の企業、あるいは近親、友人、創業者などの非常に限られた人物の資産となる。株主=経営者という図式は普通だ。少々大きな会社だってワンマン社長が切り盛りしている会社は少なくない。西武なんてその典型だったろう。
 従業員は、役員=従業員でない限り、何らかの形で雇用されているわけで、その会社に入社する前に選択することはできても、入社後は重役会や、取締役会、そして株主総会の言うことを聞かねばならない。そのための対抗手段がこれまで労働組合だったのだろう。
 ニッポン放送はライブドア傘下になった場合、労働組合を作るという。これまでは必要なかったのだろうか?
 私が以前いた会社も労働組合はなかった。同族企業で創業者の関係者が、概ね実権を握っていたと思う。社員が不満を持っても(社員はどんな会社でも、多かれ少なかれ不満を持っているものだが)、経営者と意見が合わなければ、ほとんどそれが受け入れられることはない。
 
 今日、テレビ朝日の古館のニュースで会社は誰のものかというアンケートで、社員のものだという意見が一番多いというのをやっていた。個人的な気持ちとしてはそうだが、世の中はそうなっていない。
 資本主義が生まれ、これまで確かに成長してきたが、資本主義は結局、資本家が世の中を動かす仕組みなのだ。人間という生き物の性向は、結局社会主義や共産主義には向かないというのが20世紀の東側諸国の結論であり、現在でもなおこれらの国家体制を持っている国がどんどん少なくなっていることを見ても解る。
 人間のヒエラルキー指向は、どこかで頂点に立つ人間を設定することでしか世の中を動かしていけない。であれば、ただ一人、あるいはただ一つの機関だけを頂点に持つのではなく、数多い頂点をもって競い合う方を選ばざるを得ないというのが今の世の中だ。
 株式というのは、小さな力でもその企業に対して少なからぬ影響を持つことができる制度だから、本質的にはごく限られた企業なり個人が、過半数の株を所有するというのは、言ってみれば自民党政治みたいなものなのだ。牛耳るというのはいつの世であっても、一面的だし、好ましくはない。

 ホリエモンが友好的提携などという白々しいことをいうのは、過半数を取るなどという目標自体を持たない場合にのみ有効な表現だし、もちろんそれに対する防衛だとはいえ、放送法というものに縛られながら、裏を返せばその温床の中でぬくぬくとしてきた業界が、外敵に対する態度は、まさに現在の行政や特殊法人の様子を見ているようで応援したくなくなる。

 インターネット万能論みたいな言い方をしたり、攻撃的な表現を使うことが、ライブドアの戦略だとしても、インターネットはまだ萌芽でしかないし、あらゆるメディアを飲み込むほど強烈でもない。なぜならこれは、あらゆる人間がメディアになる可能性を秘めることで、結局はメディアの意味を喪失させてしまうからだ。
 例えば、文章を書ければ誰でも作家になれるのかと言えばそうではない。インタラクティブなメディアミックスとしてのインターネットの役割は大きな可能性だが、メディアの本質と、そこに依るプロフェッショナルな部分はどんな形であれ残る。
 もちろん、これまでの発言からジャーナリズムの側が、ホリエモンが言った以上のことを引き出して過剰に反応している側面はある。しかし、時には過去と決別するために、あるいは新たな価値を生み出すために、多少過激な言葉は必要だ。この新旧のせめぎ合いはどんな時代のどんな分野にもあることだから、今回の問題が、それであるなら、大いに歓迎すべきことかも知れない。

 しかし、前述したように、50%を超える株の取得という形で、実質的な買収−これをM&Aと言うのかも知れないが−を今回のような形で行うことが、それでは新しい価値を生むのかというと、実は私はそうは思っていない。
 株主−経営者−従業員と書いたが、そこに−社会というのを付けて、この四者のバランスが大切な気がする。バランスというのは拮抗していればいいということではない。それぞれがいい関係でバランスが取れる力関係を保てるようにいることがベストで、それを目指した方がいいと思っている。

 2600年昔、釈尊は覚りを開いた直後に中道を説いた。物事は何事も極端に走るべからず。これは単純に真ん中を行けというのではなく、極端に依らずと言うことが大切で、今回の騒ぎを見ながらふと感じた次第。経済は疎いが、所詮は人間関係に他ならない。そこで働くのが人間である限り。

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:32 | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年3月21日

誤字脱字

 うちでのこづちを始めて半年以上が経つ。とにかく毎日書くが当面の目標だったが、個人的には抜けている日はあっても、ある程度は誤差範囲内だ・・・いかんな。

 さて、その中にあって、知人などから再三注意されていたのが誤字脱字だ。よく誤字脱字と言うが、脱字ばかりでなく、余計な文字が入っている場合もある。これなど余字とでも表現した方がいいかもしれない。まあ、それは置いておいて、これは偏に私の個人的ないいかげんさに依るところが大なので、まさに頭を垂れ、反省しかないのだ。が、言い訳ではなく、その大きな原因は、全く見直しをしないことだ。
 仕事ではないとか、どうせたくさんの人が読んでいるわけではないとか、この辺は言い訳が大分混じった理由と、取り敢えず毎日書くというか、書くネタを考えるだけで精根が尽きてしまい、言ってみれば見直しをする余力がないといったような、あるいはただ忘れてしまっていると言ったところが事実に近い。

 しかしサーバの移転に伴い、MovableTypeもアップデートしたという、実際にはあまり関連性のない理由から、自分の書いた文章を読み直してみた。思わずパソコンに向かって「ど〜にかせ〜よ〜」と溜息をついた。あまりにひどい。
 もちろん、物理的な部分に視点を移せば、パソコンならではの間違いがほとんどで、選択した漢字候補の間違いなども含め、情けないミスなのだ。私はよく、キーボードの「I」と「O」を打ち間違える。並んでいて、指が微妙に違った方を打っていたりする。
それくらいならまだいいが、読み直したときに、自分でもなんと打ったのか、瞬間的に解らないミスもある。
 もちろん、こんな事がそれでは世の中に対してどれほど影響があるのかと言えば、極めて皆無に近い。

 だがそれはそれ、これは私と関わりがある、あるいは今後関わりを持つであろう人たちに、私の負の部分を堂々と披瀝しているに等しい。よろしくないこと甚だしい。
 一念発起・・・とまで書かなくてはいけないところが、別な意味での情けなさではあるが、これからの目標は、「必ず見直す」。これで行こうと思った。見直しても間違いがゼロにはならないかも知れないが、ゼロを目指してささやかな努力を始めよう。

投稿者 keisuke : インターネット・PC | 23:09 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月20日

水滸伝

 水滸伝というのは中国の小説だが、明の時代にまとめられたと言われる。中国の小説は、章ごとに分かれたものを数えて何回本という言い方をするが、水滸伝は版により70回本、100回本、120回本がある。70回本は登場人物が全員揃うところで終わっている。
 この登場人物こそが、「水滸伝」の「水滸伝」たる部分で、108人という膨大な数の好漢が物語を色取る。この好漢達が梁山泊という湖の中の山に集まっているから水滸伝なのだ。
 この108人には、その昔、洪という軍人が封じてあった魔物を解放してしまい、それが宿った108人なのだが、皆一癖もふた癖もあり、しかも元役人であろうと、山賊仲間なのだ。
 それぞれ名前にはあだ名が付いており、しかも順位がある。例えば順位の1番は及時雨の宋江、2番目は玉麒麟の盧俊義といったようにだ。これらの人物は天こう星、地さつ星に大きく分かれている(この「こう」と「さつ」はパソコンでは出ない)。天こう星36人、地さつ星72人で108人となる。

 まず話は官軍の棒術師範の王進が陥れられて都を逃げるところから始まる。この陥れる相手が、国を牛耳る高毬という高官で、梁山泊と敵する第一の男である。王進は好漢の一人ではなく、逃げる途上、史進(九紋竜)という男の家で世話になり、史進に稽古を付ける。この史進こそは、108人のうちで最初に物語に登場する好漢で、物語は王進から史進に移る。
 108人を登場させるには一人一人は無理なので、ここでも山賊として3人が仲間になり、一気に4人の好漢が登場する。
 史進に次いで、魯智深(花和尚)、林沖(豹子頭)というように、すこしずつ関連性を持ちながら新しい人物が登場し、まず林沖が梁山泊に身を寄せる。
 この時の梁山泊は王倫という男が仕切っているが、その後、晁蓋という男を首謀者に山賊行為をした7人の好漢がまとめて入ってきたときに、王倫は林沖に殺され、晁蓋が最初の山塞の主となる。

 晁蓋は途中で命を落とすので108人の一人ではないが、その後ただの人殺しや、悪徳商人、官吏、軍人など様々な職業の人間を迎え入れて108人が水泊に寄るのだが、人を殺しまくり、人肉をまんじゅうに入れて売ったりしながら、それでも義に篤く曲がったことの嫌いな、奇妙な道徳観に支配された男達が、最後には朝廷に帰順し、官軍として戦い、一人一人と命を落としていく、なんだか結果的にとても寂しさを感じさせる物語でもある。

 とにかく長大な物語の中心は108人が集まるまでの数々のエピソードで、こればかりは読んでみないと面白さは解らない。

 私は初めて水滸伝に接したのはゲームだったので、偉そうなことは言えないが、様々な翻訳で読み直し、漫画も読み、いろいろな人が自分たちでエピソードを書き換えている類の小説も読んだ。一番面白いのは普通の翻訳物で、なんてよくできているのだろうと、他の本を読むたびに思う。
 多分、ただの悪人は悪人に描かれ、それでも義に篤いとか、人助けをするとか、実際にその辺りにいたら、時にはいい人かも知れないが自分勝手で、とても野放しにはしたくない奴らなのに、書き換えられて別な性格付けがされた本よりも非常に生き生きした感じがいいのだろうと思う。

 壮大な歴史上のの事実も交えながら、三国志より大分時代が下っていながら、より幻想的で嘘くさいお話しは、それ故に破天荒でわくわくする。それぞれの好漢の性格付けなど、それほどされているわけではない。ごく数人に関してのみ、しっかり特徴づけられてはいるが、それ以外は実はかなり十把一絡げで、別の好漢と入れ替わってもいいだろうという程度だが、それでも108人はエピソードや得意分野、等で書き分けられているのだ。

「南総里見八犬伝」はこの水滸伝を元にしているが、この108という人物が縦横に飛び交う面白さというのはなかなか味わえないと思う。
 お読みでない方は是非ご一読あれ。

投稿者 keisuke : 歴史 | 23:46 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月19日

パスタ

 この間テレビで、パスタの呼び方として、いくつから下はパスタで、いくつから上はスパゲッティというのをやっていた。境が何歳だったか忘れたが、確かに昔はパスタなどという呼び方はしなかった。取り敢えずスパゲッティーだった。
 だが、家庭で作るパスタは、普通はやはりスパゲッティーかスパゲッティーニだ。この「ーニ」が付くのと付かないのの差は太さらしいから、いずれにしても「スパゲッティー族」には違いない。敢えてパスタと総称する必要はないわけだ。
 種類についてはここが詳しい。

 私が大学生の頃は、まだスパゲッティーだったし、メニューとしてはミートソース、ナポリタン、カルボナーラ、ボンゴレ、くらいなものだった。ナポリタンというのも和製らしいし、そういえば、イタリアンなんていうのを出していた店もかすかに記憶している。
 具材を名前に入れてナスと何とかのとかもあまり見かけなかったし、パンチェッタが正式でもベーコンで代用だし、チーズは取り敢えず緑色の筒型容器に入った粉チーズだった。
 例えば当時、ピラフと言えばただの洋風チャーハンで、サラダオイルの代わりにバターで炒め、肉の代わりにベーコンを入れ、塩味が多かった。それにカレー粉が入るとドライカレーだ。

 最近ではイタリアンの店が非常に多く、パスタもピザも非常に多くの種類が普通に食べられる。
 昔は、アルデンテという言葉も知らなかったが、今考えると、結構のびた麺が多かった。今ではそういうい店のパスタはまずく感じられる。

 私が個人的に一番好きなのはトマトソース系のパスタのような気がする。アマトリチャーナとかよく頼む。以前はクリームソース系やカルボナーラなんか好きだったが、何となく最近はしつこい感じがして頼む機会が少なくなった。
 和風も好きだ。醤油というのが、いろいろな料理によく合うと言うことか。でもパンに醤油はあまり聞かないが。

 自分では、かなり自己流でいいかげんな作り方をするが、自分で作ると取り敢えずは美味い。自分が自分の料理を褒めるのに、誰にも遠慮はいらないので、失敗しても褒めておく。
 パスタ料理の基本は、パスタのゆで方さえ間違えなければ、だいたい美味くゆくような気がしている。レトルトのカレーをかけただけでも十分に美味い。それでも、もう少し手をかけたいなと思えば、それなりに努力するし、そこそこのレベルにはなる。店で出すわけではないので、唯一の客、自分自身が満足すればいいことになる。

 でもどうせなら、レパートリーは広げたいと思うし、そう思わせるパスタというのは、やはり奥深い食べ物ではあるのだ。あ、私が使っているのはスパゲッティーニだが。ほとんど。

投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:56 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月18日

個人認証

 個人認証のために暗証番号やパスワードではなく、人体の特徴を利用した指紋や、掌紋、虹彩などを利用したシステムがどんどん開発されている。スキミングなどの犯罪が増加しているからでもある。
 当然犯罪防止に役立つわけだが、同時に暗証番号などを忘れてしまうという心配がない。一卵性双生児の指紋は同じだという話を聞いたことがあるが、それ以外の場合は、自分以外は認証されないわけで、いざというとき、知り合いに頼んだりはできなくなるわけだ。
 自宅も、家族以外は入れなくできるし、有効範囲は広い。

 ただ、ふと思ったが、それでも情報はデジタル化される。指紋であろうが何であろうが、0と1の数字の組合せに置き換えられて、銀行なり機械なりの中に蓄積される。もちろん暗号化されているだろうが、それも含めて「破られない」という保障はどこにもない。確率が極めて低くなるというだけだ。
 もちろんそこが大事なので、だから無駄なわけではない。
 それでも、どこまで行っても守る技術と犯罪はいたちごっこなのだろうな。
 ロボットが人並みの曖昧さを理解できるようになれば、あるいはかなり高度な認証ができるようにも感じられる。記憶としての限界はあるが、人間の勘みたいなものは非常に高度なセキュリティの反応を持っているように思う。但し、そこまで集中力を常時続けることは不可能なので、いかに機械がそんな能力を持てるかが鍵のように思う。
 まあそれでも、ロボットを騙す技術が作られるのかも知れないが。

投稿者 keisuke : 科学 | 22:37 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月17日

うんちく

 最近、うんちくとか、無駄な知識とか、クイズではない形で「こねた」とも言える情報を流す番組が増えているように思う。トリビアの泉とかテレ朝で夜中にやっていたうんちくの何とかいう番組などが火付けなのかも知れない。
 世の中には、「何で?」と思いつつもそれほど気にせずに、しかも知らなかったからと言って別に生活に影響を及ぼさないことがたくさんある。
 蘊蓄というのは深い知識のことであり、トリビアというのは些細なことの意味であり、一見相容れないことのようだが、些細なことまで深く知識として蓄えるからこその蘊蓄なのかも知れない。蘊は包む、畜は蓄えるだから、相当深い知識でないと蘊蓄とは言えないのだろう。

 クイズ番組というのはまさにその蘊蓄を試される番組であるが、よくこんな事まで知っているなと驚かされることもよくある。芸能人が出てくるクイズは比較的安易な問題が多く、ミリオネアなども芸能人大会のようなときの問題は、終盤近くまで、他の回よりは安易な問題が並んでいるように思える。
 知識というのは経験と努力によって蓄えられていくと思うが、経験というのは知識の豊富な人との交流なども含んでいる。同程度の知識人との交流ばかりでは知識などあまり増えることはない。
 読書というのが最も豊富な知識の源を探る方法であるとは思うが、漫画であれテレビであれ、そこから得るものは決して小さくない。子供の頃など、テレビばかり観るなとか、漫画などはそれこそ青少年の育成の阻害にさえなるように思われていたものだ。
 しかし、媒体は何であれ、何らかの情報を得られるのは同じだ。そこから得られた情報がどのようにして蓄えられ、自分自身の知識になるかと言うことが大事だ。これは技術の取得とよく似ている。
 テレビ版組や、クイズ、たわいもない会話の中、様々な場所に情報は隠れているが、それを自分のものにしていくのはなかなか骨が折れる。蘊蓄を披瀝するような番組でそれを聞いても、実はあまり覚えていないというのが現実だ。その時は「ほう」とか思っても、次の日、あるいは番組終了直後には忘れていると言うことも決して少なくはない。当然読書もそうだ。読み終わった時点で、どれほどが自分の知識になっているかははなはだ疑問だ。
 しかしその些細な積み重ねこそが、実は知識を増やしていく、少なくとも私のような凡人には最良の方法のように思える。
 知識や情報というのは、微妙な関連性をもって、自分の中で繋がっていくので、単独で覚えていた知識が、実は広範なものにといずれ変貌していく。

 子供の頃一生懸命勉強するが、その時の知識を大量に、大人になっても保持していくのはなかなか難しい。勉強したはずでも忘れ去っている。むしろ大人になって興味を持って読んだ本や事象などの方が、長く知識に残っている。用は興味なのだな、と思う。
 学生時分に、より大きな知識を習得するための秘訣はきっと、この興味なのだという気がする。そういう意味では、かつて学んだ授業の内容の多くは、自分の興味とはかけ離れた部分が大きかった。いや、勉強というだけで興味が持てなかったというのが実際かも知れない。
 子供に勉強させるのは、いかに興味を持たせるか、それがきっと鍵に違いない。

投稿者 keisuke : 日常的 | 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

お葬式で流したい曲

 標題のようなタイトルのニュースが載っていた。
<お葬式で流したい曲ベスト10/UK版>

1.ロビー・ウィリアムス「Angels」
2.フランク・シナトラ「My Way」
3.モンティ・パイソン「Always Look On The Bright Side Of Love」
4.レッド・ツェッペリン「Stairway To Heaven」
5.クィーン「Who Wants To Live Forever」
6.グリーン・デイ「Good Riddance (Time Of Your Life)」
7.R.E.M.「Everybody Knows」
8.オアシス「Live Forever」
9.ベット・ミドラー「Wind Beneath My Wings」
10.ロイヤル・スコットランド騎馬隊「Amazing Grace」


<お葬式で流したい曲ベスト10/ヨーロッパ版>

1.クィーン「The Show Must Go On」
2.レッド・ツェッペリン「Stairway To Heaven」
3.AC/DC「Highway To Hell」
4.フランク・シナトラ「My Way」
5.モーツァルト「鎮魂歌」
6.ロビー・ウィリアムス「Angels」
7.クィーン「Who Wnats To Live Forever」
8.ザ・ビートルズ「Let It Be」
9.メタリカ「Nothing Else Matters」
10.U2「With Or Without You」

 4曲だダブっているのが面白いが、それよりも、AC/DCとかメタリカとかheavy metalが入っているのがすごい。ヴェルディのレクイエムから「怒りの日」を流してくれみたいな感じだ。

 個人的には、自分の葬式自体がどうでもいいので、この曲を流して欲しいというのはないが、敢えて仮想で選ぶとしたら、やはりマーラーの「復活」かな?でもこれもあまり葬儀に相応しそうな感じはしないので、そうすると、Rainbowの「Catch the rainbow」辺りかな。どっちにしたって、天国への階段とか、マイウエイはないな。
 R.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」なんかもいいな。
 いずれにしたって、自分が生前好きだった曲と言うことになるのだろうが、その自分は棺桶の中で聴けるわけもないから、どちらかというと、喪主の好きな音楽とかでいいような気がする。
 昔から思っているし、今も思っているが、葬儀というのは所詮、生きている者が死んだ者に決別する儀式であり、あくまで、生き残った人間のために行うものである。死者の魂とか、死後の世界がないとは言わないが、あるとも思っていない。死んだことがないから解らないし、死んでしまっては証明のしようもない。「箱の中身はリンゴです」と言って、見ないであたりましたと言われても、信じられるだろうか?という世界だ。と言って、では多くの人や歴史、宗教がその存在を肯定していることも否定しきれるだけの根拠はない。箱の中身を見ないで、「この中にリンゴはない」と断言する勇気はない。

 ただそれでも、葬式で流したい曲というこのと背景にはそこで何が聴きたいか、という多分に聴く側の意志が関わっているので、もちろん、「死後も堂々と生きて欲しいからMY way」なんていう死者への手向けという部分も含めて、やはり個人の好きな曲の域は出ないように思う。
 それでも面白いのは、「My way」なんて結婚式でも歌われる歌だ。儀式というのは、それがたとえ死に関わることでも、その先の明るい何か(死者は死者として)を期待するものなのだな、と思う。

 音楽というのは不思議なもので、その場の雰囲気を有る特定の方向に向けてくれる。それがどんなに楽しくて明るい曲でも、生前故人が好んだという台詞を聞かされると、しんみりした気分になるから不思議だ。ただ言葉で聞くのではなく、その曲が相乗効果を持ってくれる。

 死そのものは、生を受けたからには誰にも等しく訪れる。だが訪れ方やその時期は全く公平でも平等でもない。死自体は不幸なことでも忌むべき事でもない。それはどんなに嫌がってもいずれは来ることだからだ。そういう意味では、有る程度の寿命と、老衰などの静かな死を迎えた場合は、お祝いをしてもいいくらいだ。
 MY wayという曲は確かに、そういう場合でもしっくり来るのかも知れない。個人的には絶対嫌だが。

投稿者 keisuke : 社会的 | 01:47 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月14日

受信料不払い増加に関して

 2月時点で56万件に増えたNHKの受信料不払いの問題がニュースに出ていた。
 ふと思ったが、受信料で運営しなくてはならない放送局が今後必要だろうか?それこそ、livedoorとフジ、ニッポン放送ではないが、様々なメディアのコンプレックスが、情報を縦横無尽に配信していくことができれば、公共放送の必要性など無くなるのではないだろ日?
 あるいは、極端なことを言えば、災害情報などの一刻を争うものだけでいいのではないだろうか。学習番組や、古典芸能、歴史などの番組はケーブルテレビのように有料契約番組にすればいいだろう。
 広く全ての家庭から集めるにしては、それほど汎用的な番組構成になっていないし、もちろん、それなりに面白い番組もないではないが、わざわざお金を払ってまで作って欲しくないというのが、単純に不正に対する抗議というよりは、NHK不要論に近い社会の反応なのではないだろうか?

 別にそのまま放送局をつぶす必要はない。そのまま民営化し、CMを流してその収入で番組を作っていけばいいだけの話だ。郵政まで民営化しようというのだから、それよりは難しくないだろう。
 必要であれば、1チャンネルを国用にシェアして、税金で番組を作ればいい。例えば選挙の時の政見放送や国会中継などだ。ただ国会中継などは、全ての小委員会も含めて、全てネットで公開してもいいとすら思う。そうすれば、別にテレビ中継の必要はない。
 選挙だって、全てネットで立候補者を紹介し、街角のポスターなど全て止め、政見放送もネット限定にすれば、選挙も大分お金がかからなくなるし、現在よりも公平性は保てるような気がする。
 地盤とか、選挙区への利益誘導という仕組みをなくすためにも、少なくとも国会議員は国全体を見るのだという意識で、全員全国区にして、訳の分からない比例代表などという、恣意的に政党が自分たちで選出した議員をなし崩しで当選させるような醜い仕組みは止めて、投票数の上位から順番に当選させればいい。
 
 選挙の話は置いておいても、NHKの国民放送局としての役割は、今やそれほど重要ではない。上記の選挙で浮くお金で、全国の至る所でインターネットに接続できる環境を作り、各家庭に最低1回線のネット環境作りでもしておいた方がいい。
 災害時にも役に立つように、ネット回線を利用した緊急事態を知らせる仕組みや、優先だけに限らない無線による緊急接続ができる仕組みなどを開発していった方がいい。
 そのために衛星が必要なら10個くらい打ち上げればいいのだ。
 NHKの受信料など、結果的にはそういった先進の技術の前には無用のお金だ。NHKがなくても報道はされる。テレビ局はNHKだけではない。
 NHKしか受信できないところがあるのであれば、そうでない環境を国や自治体が作るようにすればよい。そういう公共事業は、四国にたくさん橋を架けるよりも重要だ。
 光ファイバー網を全課程に普及させ、無料で接続できるような環境作りを、国はしていくべきだ。そのことが生む大きな利益と、様々な無駄の排除で、その分のお金は出るはずだ。

 前出の選挙などいい例で、「選挙は金がかかる」というのなら、金がかからないような工夫をすればよい。選挙権を得てから25年、この間に様々納技術革新があったが、相変わらず選挙活動は、ポスターを貼り、選挙カーで名前を連呼し、駅前であまり聞いていない演説をする。そんなことでお金がかかるのなら、さっさと止めてしまえばいい。選挙事務所もいらない。
 郵政の民営化結構、社旗保険庁の民営化も結構、ついでにNHKも解体し民営化すればいい。政治家も減らし、お金を別のところにつぎ込んでいくべきだ。

 NHKの不払い問題はとてもいいきっかけではないのか?

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月13日

宅配

 東京に住んでいると、当たり前になることが、実家に帰ったりするととても便利だということに気づく事がよくある。交通手段とか、情報や、イベントなど、当然そういうこともあるが、宅配の豊富さはなかなかのものだ。

 今現在、私の家で宅配可能な店というと、ピザが4軒、寿司が6軒、中華が3軒、それ以外の洋食や弁当などが5〜6軒ある。これは宅配専門で、通常店を構えている中華屋、そば屋、寿司屋などは含んでいない。毎日頼んでも、半月以上は違う店に注文できるほどだ。それでも1回も頼んだことがない店も多いが。
 私は一人暮らしなので、あまり注文する機会は多くないはずなのだが、それでも1ヶ月に1〜3回くらいは注文する。どうしても忙しいときや、雨の日など、他に用もなくて外出する必要がないときなどには重宝する。2人前取って昼と夜の分みたいな感じだ。

 横着とか、怠け者という声がかかりそうだが、その通り、そういう人間にとって都会は、生き馬の目を抜く、いや、シンドバッドを肥え太らそうとするどこかの食人族のごとき誘惑のるつぼなのだ。既に私はその罠にはまっている・・・・・・

 昔と違って、宅配は最近では安いと千円程度でも持ってきてくれる。なかなか過当競争で大変なのだろう。料金的にも相当リーズナブルなところもあり、しかも美味しかったりする。
 ampmはデリス便というので宅配してくれるが、なかなか使いづらいのは宅配料がかかるからだ。それにコンビニなら歩いていける距離にある。
 西友もネットスーパーというので宅配してくれて、私は月に2回くらいこれを使う。ペットボトルのお茶や水をまとめて購入するためだ。最近では米なども頼む。考えてみれば西友などは完全にネット通販だし、弁当やピザの宅配も、今ではネットを通じて注文することが多い。
 大分イメージは違うが、子供の頃に夢見ていた未来世界では、壁から料理が出てきたりという便利さがかなり楽しく思えた。相当に近づいた感が、実はないわけではない。もちろん、便利に使うためにはいずれにしても先立つものがないと行けないのだが。

投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:34 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月12日

時計

 最近の電車は、時代に即応してデジタル化が進み、山手線なのでは、車中でニュースやらCMが見られたり、英会話の勉強までできてしまう。ドアの上くらいにある液晶のビジョンでだ。そこまで行かなくても、ドアの上には次の駅の表示や、どちらのドアが開くかなど、なかなか細やかなサービスが増えてきている。
 で、前から思っているのだが、その部分に時刻表示をしてくれないだろうか?時計は誰でも持っているから必要ないと言うことなのかも知れないが、私などは普段腕時計をしないので、必要なときは携帯を開いて見ている。これが意外に面倒だ。
 だったら腕時計を自分で城と言われるかも知れないが、サービスというのはそういうものではない。自分でできることを全てその人に行わせるとしたら、世の中のサービス業は大幅に減ってしまう。
 電車内の時計は、実は昔から思っていたことだが、今では非常に実現しやすい環境になっているはずだ。ニュースやCMを流している間も、時刻表示ならそれほど邪魔にならないと思うのだが。
 まだまだそういう表示のない車両もたくさんあるが、そんなとき、車内アナウンスの声が異様に小さいときなど、そしてそれが滅多に訪れない路線だったりしたときには、ああ、ここがどの駅かが一目瞭然で判る最近の車両はありがたいと思ったりする。 新幹線などでも次の駅までの所要時間が出ていたりすると、それがないのに比べて何となく便利だ。
 何でもかんでも便利にすればいいというものではないという声でも聞こえてきそうだが、何でもかんでも便利になる分には、私はいいと思う。便利の影で何かを犠牲にするようなことは実は非常に一面的な便利なのであって、多方面から検討された便利はその限りではなく、恩恵を被る場合が多いと思う。

 何はともあれ、電車内の時計は実現して頂けるとありがたいな。

投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:28 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月11日

ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ

 フィッシャー=ディースカウの声を最初に聴いたのはいつのことだろうか?もちろんレコードを通してだが、多分、25年以上前のことだろう。場合によっては学校で聴いているかも知れないが、記憶にはない。曲はきっとシューベルトの歌曲だったりするかも知れないが、マーラーの歌曲であった可能性もある。
 抑制のきいたすこぶる知的な印象を割と最初の頃から持っていた。地声に近いピアニッシモと、「抜き」とでも表現したいような歌い方は、他のバリトンとは違うと思っていた。
 ディースカウというとオペラよりも歌曲という印象がどうしても強いし、しかもドイツリートだ。シューベルト、シューマン、マーラー、ヴォルフというのが私にとってのフィッシャー=ディースカウと言うところだ。私はマーラーからクラシックに入ったので、とりわけマーラーには重きを置きがちだが、ディースカウの場合はシューベルトとヴォルフだ。もちろん、「子供の不思議な角笛」や、フルトヴェングラーとの「さすらう若人の歌」など、マーラーの歌曲の中にあっても、特筆すべき名演奏をCDに残してはいるが、ヴォルフに関してはディースカウがいなかったら、私はこれほど好きになっていたか解らない。
 シューベルト、シューマン辺りの歌謡性の高い歌曲は普通に聴いて楽しく聴けるが、ヴォルフはその曲自体に知的(痴的)とも言える難しさを内包している。さすがに19世紀末の音楽であり、マーラーなどに比べても、非常に現代的である。マーラーとヴォルフは浅からぬ因縁のある関係だが、ヴォルフの非常に流麗なタイプの曲でも、どこか調性のあやふやさを宿しているし、長大な曲になると、メロディという切り口ではなかなか入り込めない、そして沈潜し鬱屈した雰囲気を持った曲もたくさんある。その辺りを実にディースカウは丁寧に、まじめに歌い、その雰囲気を伝えてくれる。

 メーリケ歌曲集などがよく他の歌手も録音しているが、私はゲーテの歌曲集が好きだ。特に「プロメテウス」とか「人間の限界」などという物々しい内容の、しかも時間的にも長い曲がのめり込んで聴ける。ここらの曲のディースカウは、荘重で感動的だ。
 マーラーなどで見せる諧謔的な(この辺りの表現は少々オーバーなくらいに感じるが)ものとは違って、しかもシューベルトやシューマンのように、さらっと聞き流しても聴けるのとは違って、常にまじめに向き合わされる。
 シューマンの「詩人の恋」などはディースカウよりも、ちょっと脳天気とも言えるヴンダーリッヒ版の方が好きで、そちらをよく聴くが、ヴォルフは他の歌手のを聴いても、結局はディースカウに戻る。
 一つには全集に近い内容のものが発売されているということにも依ると思うが、それは裏返してみれば、自信と愛着の表れで、ヴォルフの多くの歌曲を愛していたに違いない。

 そろそろまじめにディースカウのシューベルトを聞いてもいいかなと思っている。私にとっては「冬の旅」よりも「水車屋の娘」と「魔王」だったので、他の曲もきちんと聴いた方がいいな、という感じだ。それでも、自分の好みから言えば、ヴォルフのようにはならないだろうな。
 ヴォルフってもっと評価されてもいいと思うのだが。

投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月10日

行為の評価

 自民党のなかにしという議員が強制わいせつで現行犯逮捕され、議員を辞職するという。
 そもそも全くよろしくない犯罪だし、しかも言い訳として行っている「客引きと思った」という一言が、尚更女性の神経を逆なでしている。政治家をやるにしては不用意な行動と不用意な発言で、それこそが資質を否定していると言える。
 ただ、世間の反応というのはいつでも「鬼の首を取った」ようなマスコミの反応とオーヴァーラップしながら、妙な違和感を感じさせる。今回の件はただの犯罪だし、自分がその女性の立場だったら、当然、極めて不快だと思うから、同情の余地はない。そして政治家だからこそ、より強く糾弾されるというのもまた解らないではない。

 これは、先日もちょっと書いた、ダルビッシュの喫煙と、程度こそ違うが、なにか自分のことはさておいて感がなぜか漂う。多分それは、マスコミの論調や、攻撃姿勢で感じるのだと思う。
 そのダルビッシュもお詫び会見を開き、酒、煙草、暴力というどうもバランスの悪い例を挙げて、二度と法は犯さないようなことを言っていたように思う。酒・煙草と暴力では、犯罪のレベルも違う資質も違う。個人的な見解を述べるなら、おとなしく自宅で煙草を吸っている未成年よりも、そこかしこで構わず煙草を吸う大人の方がより犯罪的である。和やかに居酒屋で談笑する未成年より、くだを巻いて女性に抱きつく大人の方がよりタチが悪い。ましてや暴力など・・・・人を力で屈服させるというのは、最大の先進国が現在もなお他国の領土でやっていることだが、個人から国家のどのレベルであろうと、所詮は暴力に違いない。

 フジとニッポン放送のやり方は、私には正当防衛だとしても釈然としない部分はある。だが同様に、livedoorのやり口も釈然としない。堀江氏の下で働いて無くて良かったな、と個人的には思う。と言って、どう見てもフジサンケイグループも、上層部の体質は古く、そして日本的だ。日本的の全てが悪いわけではないが、結果的にドンキホーテの納入業者への圧力に公正取引委員会が排除勧告したのと似た、TOBの慣習的株集めの臭いがしている。

 何かを評価するというのは非常に難しく、ましてや批判するというのはもっと難しい。変な話、現行犯逮捕された中西議員の影で、全く逮捕されない酔っぱらいが日本には大量にいることを忘れてはならないと言うことだ。痴漢を含めたらどのくらいになるのだろう。これは婦女暴行より軽いからいいというものではない。
 ダルビッシュの影に、数え切れない未成年が現在でも飲酒や喫煙をやっているし、そもそも既に二十歳を超えた大人の中でさえ、飲酒や喫煙を未成年から経験した人間は大量にいる。
 法は法だが、意味の分かる法と意味の分からない法、あるいは時代に即していない法があるとすれば、法という物の価値はいったいどこにあるのだろう?

 私は、この世が平和になる最大の方法は各人が取り敢えず他人のことをまず考える、多を尊重するという事を、全ての人が行うことであると思っている。ひいては自分を他人が尊重すると言うことだ。「情けは人のためならず」という。
 夢物語と笑わば笑え、と言ったところだ。

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:28 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 9日

モノレール

 昨日、仕事で天王洲アイルに行った。時々行くのだが、いつも浜松町からモノレールを使う。実際の乗車時間だけを取ると、新宿で乗り換えてりんかい線経由の方が短いのだが、りんかい線を下車してから目的地までが大分遠いのでモノレールで行く。同じ天王洲アイル駅でも、モノレールとりんかい線の間は、一駅とは言わないが、大分離れている。しかもりんかい線は地下の非常に深いところを走っていて、それもあって遠い。
 この地下深いという意味では最近(と言っても何年も経つが)開業した都営大江戸線。これも深い。東京メトロの各線に比べて都営線は深いところを走っていて、概ね乗り換えが大変だ。
 駅すぱあとなどのソフトで検索すると、乗り換え時間に結構割いているのが解る。尤も、なぜか中央線新宿経由でそれぞれの路線を検索すると、丸ノ内線の場合はJR新宿駅から丸ノ内線の新宿駅まで徒歩2分で、乗車時間以外に14分かかることになっているが、都営新宿線や大江戸線に乗り換える場合は、徒歩時間が無く、乗り換えに17分となっている。この3分の差が多分より地下に潜ることで生まれていると、私には思える。丸ノ内線の場合は、改札を抜けてホームまで10〜20秒程度だが、新宿線や大江戸線は間違いなくホームまで数分かかる。
 ただ大江戸線の場合、有る程度郊外へ・・・・高島平に近づくと改札までの時間は短いと思う。東京の地下鉄はそれほど錯綜して走っていると言うことだろう。

 さて、そのモノレールだが、昨日の夕方、ちょっと遅れていた。既にドアの閉まった車両が構内にあり、並んで待つ列がこの時間にしては結構長くなっていた。止まっている車両は空いていた。やがて発車し、次の列車が到着した。その時間は多分5分おきくらいに走っているのではないだろうか。
 車内アナウンスが入り、運転手が(ワンマン運転だから)3分の遅れであることを告げた。他の鉄道会社であれば、概ねこのお詫びと理由の告知で終わるが、モノレールは違った。
「遅れを取り戻す努力をする」という宣言があった。浜松町−羽田は第2ターミナルビルまでで、快速なら17分くらい、普通で25分程度だが、確かにそのうちの3分は大きいのかも知れない。それでも、鉄道を利用して、「遅れを取り戻す」ために、多少速く走り、なおかつ「途中駅での停車も短くするための協力」を客に求められたのは初めてだ。
 それをひどいとか文句を言っているのでは全然無く、そこまで到着時刻にこだわらないといけない姿勢にびっくりしただけだ。多分、海外ではあり得ないだろう。日本のこの几帳面なダイヤというのは驚嘆に値するし、今回のように、運転手がそれを達成するために明白な努力をすることにはある意味頭が下がる。
 もちろん、その3分で飛行機に乗れない人がいる可能性がないわけではないが、さすがに飛行機は乗るまでに多少の余裕を持っている人がほとんどだろう。でも、きっとそれで苦情が来たことが過去にもあるのだろうなという推測はできる。

 いいとか悪いとかいう価値判断ではなく、すごいな、ということだけだが、物事にはエラーがつきもので、時には仕方ないと思うのだが。それよりも、事故がないことの方が遙かに重要だ。決してこれを余裕のなさとは取らないが、何か日本らしさと、日本人の気質みたいなものが見えて非常に面白かった。
 いや、私は天王洲アイル、すなわち一つめの駅で下車したので、運転手の努力がどれほど実を結んだのかは解らないが。

投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 8日

カラスとかハトとか

 しばらく前に、都がハトにえさをやらないキャンペーンを始めた。ハトが増えすぎて、駅の近くとか公園などがある近くでは、被害が相当ひどいらしい。ただ糞が汚いという以上に、乾いた糞が人体にも影響を及ぼすらしい。
 カラスは大分前からゴミをあさるし、雛が成長する時期は人を襲ったりと、被害は大きかった。私のところでも、ゴミにはネットをかぶせている。
 杉並区の一部で、青だったかのゴミ袋をカラス対策でテストしているところがあるというのもニュースで見た。カラスに見えないのだそうだ。
 カラスが利口だとか、猿は利口だとか、鯨は知能が有るだとか、人は多くの場合、脳の大きさや能力で生物を判断する。カラスを処分したり、猿を薬殺したりというのは、よっぽど困ったとき以外にはやらない。ハトも例外ではなく、増えすぎたものは餌をやらずに自然にヘルのを待つというのが方針だ。
 
 私はよく思うのだが、この自然という切り口は果たして自然なのだろうか?確かに自然と人工という言葉が対であるなら、人が関わらないものを自然と呼ぶのもいいかもしれないが、そもそも、例えば上野公園ではとが増えたと言うことを考えてみて、それが人が餌をやったせいだとしても、あまりそれが人工的には思えない。たまたま人の手が関与しているだけで、自然の成り行きのように見える。
 前にも書いたが、地球上で人に進化した生物は、やはり自然の成り行きなので、その結果文明を生んだ。昔のSFなどのように、このまま核戦争か何かで人が滅んでも、それこそ自然の成り行きというものだ。個人個人にとっては違うが、大局的に見ると、悠久の流れみたいなものがそこに見える。

 諸行は無常で終わりのないものはない。人類がどんなにがんばったって、地球が無くなれば、この星にはいられないし、そこまで長大な未来を見なくても、この先何千年もつのか解りもしない。
 それでも人の一生は短いので、カラスやハトの被害が当面の解決すべき出来事であり、明日の食事が大切だ。一生を金儲けやセックスや、その他諸々の享楽や欲望のために生きるのも、人様のために銃弾の盾となって息絶える諜報機関の人間も実はそれほど違いがない。
 それであれば、後者の行き方を尊ぶ世界であって欲しいし、自らも命を張るかどうかは別にして、そうありたいと思う。
 
 カラスやハトの被害を、殺さずに自然の流れに乗せようというのは、いわば、力で世界をどうこうしようと言うのとは全く違った行き方である。身近な、こんな些細なことの中に、実は政治と宗教、様々な社会の進むべき道が見えてこないだろうか?

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:31 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 7日

4大文明

 メソポタミア、エジプト、黄河、インダスという世界の4大文明は歴史の最初で習った。「ナイルの賜」とか、チグリス・ユーフラテスとか、懐かしい気がする。
 しかしそれらの、年中洪水を起こすような川の畔で、どうして人類の最も古い文明が起こったのだろうか?
 川があって農耕に適している地域は他にもたくさんあるだろうし、実際人が住むに適していて、気候がそこそこで、等といういくつかの条件を加えていっても、世界中に候補はまだたくさんあるだろう。
 変な話、人の大きさと地球の大きさを考えれば、日本の中で、濃尾平野だって、信濃だって、起こる可能性があったかも知れない。尤も、日本はよっぽど昔でなければ、大陸と海で隔てられていたから、人的交流という点では他の地域より少なかったろうし、外敵も少なかっただろう。

 私は、農耕とか川とかよりも、外敵などによる緊張感が、一番大きな理由のような気がしている。民族的な集団が、より大きな規模でぶつかりながら、頼りも生き残るという、サバイバルな条件が、文明を起こす最も大きな原動力で、農耕ができたなどというのは二の次のような気がして仕方がない。
 現代に及ぶ5千年の文明の中で、人類が発展してきたのは争いと、多をけ落とすための、涙ぐましいほどのエゴイスティックな努力こそが、最大の理由だ。
 
 よく戦争が文明を発達させてきたと言われる。これは事実だが、それ以上に、戦争でなくても人は、競うというレベルから殺し合うというレベルへの切れ目のない諍いの歴史を通じて発展してきたのだ。ことさらな平和は文明を停滞させてきているように思える。と同時に、過度な争いもまた文明の発達を阻害する。
 メソポタミアの地は紀元前3千年以上前に文明を築きながら、現代では紛争のるつぼとなっている。単純に宗教が問題なら、ヨーロッパだって暗黒時代を通ってきている。もちろん、キリスト教徒ユダヤ教、イスラム教という微妙に共通する素地を持った宗教は、あの地域に西洋のような合理的な文明を発達させるための「割り切り」のようなものが生み出される余地がなかったと言えばそれまでだ。

 だが、ふと見ると4大文明が生まれた四つの地域は、現代では文明の近代化では遅かった地域ばかりだ。これは何か意味があるのだろうか?伝統が文明化を邪魔する等という短絡的な表現は多分意味を持たないが、でも、そういった何かが有るような気が、私は少しだけしている。

 革新とかエポックメイクとかは、言ってみれば伝統の打破と表裏一体で、それが必ずしもいい物を生み出すという保障はないし、人類の歴史をそれで括るのは必ずしも正しい見方ではないのかも知れないが、古くて昔から連綿と続く何かにしがみつくというのは、一面、新規なものを否定していくということで、それは長い歴史をたどってみると、結果的に時代の中で取り残されることになる。

 日本が経済大国になった道をブラジル、ロシア、インド、中国等が追いかけてきて、追い抜いていくのもそう遠くないらしい。短期でもそうなのだ、文明も長い歴史の中では移ろいゆくのだろう。オリエントの神話の本を読みながら、ふと思った。

投稿者 keisuke_yui : 歴史 | 22:02 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年3月 5日

筆記具

 先日筆記具のアンケートに答えた。特定のメーカーの認知度とかそんな内容のようだった。

 その時ふと思ったが、最近はパソコンで文章を打つ方が多く、筆記具を使うことが非常に少なくなったからなのか、筆記具に対する思い入れが以前ほど無いことに気づいた。
 中学に入学するとき、「中一時代」と「中一コース」という学年誌があり、私は中一時代を取っていたが、最初に契約するともらえるのが万年筆だった。当然質のいい物ではないが、今思い起こすと結構うれしかったのを思い出す。
 今では書き味が良くて安ければ、ボールペンが一番いい。水性インクやゲルインクなどは、昔のボールペンとは全然違う。だが、メーカーは意識しないな。たまたま今一番近くにあるのは三菱uniballのSignoというノック式のボールペンだ。これはなかなか書きやすい。
 一時期は換えインク式の水性ボールペンを使っていたが、インクの減りが早いような気がして止めた。めんどくさいからだ。替えるのが。

 ところで、筆記具というと鉛筆だが、とんと使っていない。シャープペンが出て以来、画を描くわけでもないのであまり使わない。画を描くわけでもないと書いたが、昔はイラストの勉強などをしたこともある。そのせいで、一時期ファーバーカステルの色鉛筆を集めていた。今でも手を伸ばせば50色くらいがすぐそこにある。
 それを見ると画が描きたいなとも思うが、あれもやりたいこれもやりたいと思いながら、なかなか手に付かないのが現状だ。
 そういえば、小説を書くとこの打ち出のこづちで大言を吐いてから3ヶ月くらい経つ。そろそろ本当にやらなければ。せっかくのリハビリが無駄になってしまうから・・・

 文章と筆記具という括りで言えば、小説を書くためのツールとしてのパソコンは、まさに筆記具でもある。形はどうあれ、このキーボードからプリンタある今出力先としてのモニタは、私の最強の筆記具でもあるのだ。

 友人が言っていた。有言不実行よりは無言実行、うん、その方がかっこいいな。

投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 4日

株式会社という仕組み

 昔からちょっとした疑問に思っていたのだが、会社というのは、例えば大きな会社が出資して作ったりするのは別にして、結構、個人や少数のグループが何らかの思いをもって立ち上げることが多いことだろう。会社そのものに対する思い入れは別にして、立ち上げに関わった人間は、それなりにその会社に愛着があることだろう。
 今では株式会社も、資本金のない人でも作れるようになった。株式会社は最初から「企業」という側面を持ち、他の会社とはちょっと違っている。いや、この言い方は変だが、つまり、あまり個人の意志とか、重いとかとは別な次元で株式会社というのは組織されると言うことだ。
 例えば、立ち上げに必要な人間の数や、役員の任期等もそうだ。特定の個人がこんな会社にしたいということで社長になると言うのとは少し違う気がする。もちろん代表取締役はそれだけの権限を持ってはいるが、ここでものをいうのは株主だ。
 つまり、仕事をする主体ではなく、そこに出資している人たちが力を持っているのだ。多くの場合、会社社長などは大株主だったりするのだろう。結果的に力があるわけだが、でもそれは株主として力を持つのだ。

 今回のフジとlivedoorの争いを見ながら、事業というのは、つくずく実利的であるのだな、と思った。
 M&A等というと聞こえはいいが、livedoorがやろうとしているのは日本放送の乗っ取りであり、かつての日本企業がバブル時代にアメリカの大手企業を買ったのと私などの目には同じに映る。
 この2者の攻防は、現在のところ、若干サンケイに分があるような気がするが、単純に私がサンケイグループの社員であればと想像すると、難しいことは解らないが、いずれにしても、金に物を言わせて入り込んでくる企業に、いい感情は持たないはずだ。日本放送の社員が、こぞってlivedoor参加にはいるのを嫌がっているというのはうなずける。

 私は堀江さんという人が好きでも嫌いでもないが、すごいとは思うし、サンケイグループとlivedoorやそれ以外でも新進のIT業界とコラボレートすることは、決して悪いことだとは思わない。
 事は、インターネットが勝つかテレビが勝つかなどという話ではないし、現に世の中の様々な場所でメディアミックスは当たり前のことだ。
 今日のニュースで楽天がイーグルスの年間インターネット放送を10万円で売り出したそうだが、巨人ファンがほとんどの中継をただで見られるのとは違って、「なぜ有料なのか」という気持ちに楽天ファンがなるだろう事は予想が付く。
 でも、このような形で、ネットはテレビを浸食し、テレビはネットを利用しながら新たな道を切り開いていく。デジタル化はもう始まっているし、21世紀に生まれた子供は、モノクロテレビを知らない今の若い人たちと同じに、地上波のアナログ放送を知らないと言うことになるだろう。

 さて、話がそれたが、そんな会社間の争いの中で、起業者はどう思っているのだろう。別に、理想とか夢とか、そんなお話しではなく、「自分の会社が・・・」という気持ちは少なからず、現世であれあの世であれ、持つのではないだろうか。
 だがそもそも、最初に書いたように、株式会社というのはそういうものだし、そうやって設立されるのだ。であれば、本来、株式会社や有限会社、合資会社など、これは会社のランクであってはいけないと思うのだが、なぜか有限会社よりも株式会社の方が安心というのが世の中の感情だ。

 もちろん、会社という物自体が経済の中の道具、言ってみれば道路を走る車のようなものだから、要は目的地に着ければいいので、軽だろうがスポーツカーだろうが、コンボイだろうが関係ないことになる。
 取り敢えず私もママチャリで、高速道路脇の細道を、息を切らせて走っている口だが、チャリンコにはチャリンコの良さもまたある。だがそれでも、まずは高速に乗りたい気持ちになるのもまた真実だ。

投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 23:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 3日

メール便とか

 メール便は、最近ではコンビニでも扱っているので、一般の人も利用できるようになった。ものによっては郵便よりも安い。
 元々DMやカタログなどを企業が大量に発送し、それをポスティングするシステムであるから、個人的な用途には馴染まない性格のものではある。しかしこれはそもそも、「親書」という宅配便が扱えないもの以外を宅配便業者が扱うためのシステムだ。
 だがなぜ国は、親書−手紙を郵政公社だけの専有にしているのだろう?裏を返せば、なぜ郵政公社のみが、安心して手紙を届けるという保障を、国が認めているのだろう。年賀状をまとめて捨てたりしているのは、その郵政公社の雇ったアルバイトだったりする。
 ところが面白いのは、このメール便、ほぼどこの業者でも厚さ2センチ以内という制限が付く。この共通した仕様は、当然の事ながら法的規制がそこにあることを表しているのだと思う。その辺りを調べたいと思って、「メール便」とか「規制」とか、「法律」とかのキーワードで検索すると、「特定商取引法による表示」という、各ネットショップのページがだーっと並ぶ。

 ちょっと話がずれるが、最近のネットは知りたいことを調べようとしたときに、Amazonや楽天などのショップのページが大量に並ぶ。別に買い物がしたい訳じゃない。Yahoo!もGoogleも、検索結果から「ショップを除く」というオプションを作って欲しい。煩わしくて仕方がない。ユーザビリティというのは目的に沿った検索ができるかであって、SEOなどによって商売する側が意図的に上位を狙うような表示方法ではないはずだ。はっきり言って、インターネットの世界は非常にエコノミック・アニマル(懐かしい表現だ)化している。検索エンジンが1日も早く、and検索だけではなく、not検索を標準で、しかも上記にあるように「ショップは除く」「企業は除く」「アダルトサイトは除く」などのオプションを設けて欲しいものだ。

 さてメール便。何度考えても、手紙を宅配業者が送ってはならないという決まりの意味が解らない。仮に郵便局の方が安全だとしても、どこを使って送るかは、利用者が決めることができていいだろう。現にインターネットメールなど、郵便局は関与していないし。
 また、どのような大きさの荷物を送るかなど、国が規制すべきではないだろう。何を送るかは問題がたくさんあるが、メール便で2センチを超えても送りたいものはたくさんある。別に、郵便局がいらないなんて思っていないが、選べてもいいだろうし、郵便事業に関する限り、一般の人の認識は、手紙や荷物を送るサービスとしか考えていない。

 郵政民営化がいつ実現するのか知らないが、その時でも親書は郵政株式会社が握るのであれば、民営化などではない。メール便は取りに来てくれる。
 郵政株式会社が、税金をまともに払い、今のがんがんやっている民間並みのサービス化が維持できるのであればいいが、半分以上の株を保有する国が税金をつぎ込んだりするのであれば、あまり意味はない。

 世の中が良くなるのなら何でも賛成だが、現状の小さな不具合にもどんどんメスを入れてくれ、といった感じだ。
 

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 2日

女性からのお誘いメール

 正確には「女性からのお誘いを装ったSPAMメール」だが、異様に多い。
 三分の一は、どこかのサイトにリンクが張ってあり、明らかにアダルトサイトか出会い系かと、見る前から分かるもの。もう三分の一は、丁寧な口調の、割り切った交際サイトのご案内。そして残りの三分の一は、あたかも知り合いであるかのような口調のメール。
 いずれにしても、タイトルは非常に親しげで、あたかも知り合いからのメールであるかのようだ。
 私の場合、ドメインを複数利用したり、一つのドメインで複数のアカウントを使い分けたりしているせいもあり、同じタイトルで同じ内容のものが、複数のアカウントに非常に近いタイミングで届くので一目瞭然という場合が結構多く、ゴミ箱に入れたものをタイトルでソートしたりすると、面白いように、同じ女性名の差出人で、同じタイトルのメールが並んだりする。
 この3番目のメールはいったい何が目的なのか、たとえ騙すつもりでも、どうやって騙すつもりなのか、実は気になっている。一番多い差出人はYahoo!メール、MSNメールなどのフリーメールアカウントで、来るのだが、よく見ると、差出人はプロバイダのアドレスで、返信先がフリーメールになっていたりする。
 確かにただ返信とすれば、複数の有効なメールアドレスが集められるので、集めたメールアドレスに、集中的に広告なり、脅迫なり、解らないが犯罪的なメールを送りつけることで、そこそこの利益を上げられるのかも知れない。
 大半の人は無視するだろうが、

「前もメールしたんですけど覚えてますか?メールなかなかくれないですね。ちょっとさみしいけどたまにはいいかなってメールしました。
こっち↓からアクセスできるので待ってます。」
こんな内容が、ぽつっとたまに来たりすれば、「誰だっけ?」とまじめに悩む人もいるかも知れない。但し上に引用したメールは、その後にPHP(出版社じゃない)プログラムへのリンクが貼り付けてあるので、携帯メール同様、怪しさは普通の人でも解るかも知れない。

しかし、これはどうだ?

「まぁ聞かないけどネd(´∀`*)
身も心も癒される良い旅にしてーーー♪
で…もう着いたの?」

全く意味不明だ。ちょっとだけ旅情は誘うが。

 以前にもSPAMの記事で触れたが、このところ、上記のようなもの、メールマガジンや、海外からのも含めて、いらないメールが日に500件を超える。まとめて消しながら、1週間に一度くらい、必要なメールを削除している。だからゴミ箱に入れた後で、ソートして、必要なメールを毎週探るという非常に不毛な仕事が必要になっている。
 送りつけられたメールでも、たまには役に立つものもあるはずだが、結果的にそれを見ることはまず無い。

 どうにかならないものだろうか?

 コンピュータというのは人間にできない優れた能力をたくさん持っているが、例えばこのメールを判別するような、いるものといらないものを分別するような能力は持ち合わせていない。AI(artificial intelligence)という分野でも、人が持つこういう能力は・・・・感情とか情緒などと言った高尚な事ではなく、論理的判断でありながら、その時のその人が於かれている状況や、考え方、今後の生活方針など、様々な物を加味した上での判断というのは難しいだろう。
 しかし、遠くない将来に、これに近い能力を持ったマシンが出てくるだろうか?言ってみれば、多くのデスクワークを、機会が自分で判断して出力すると言うことだが、経理や総務などという仕事は、意外に早く機会が変わる時代も来るかも知れない。

 そんなとき、機械は上記のようなメールをどう判断できるのだろう?非常に興味のあるテーマだ。

投稿者 keisuke_yui : インターネット・PC | 23:18 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 1日

万物理論

「万物理論」という小説を読んでいる。グレッグ・イーガンという作家の本で、結構分厚い。まだ読み終わったわけではないが、ここに出ている「人間宇宙論」というのがちょっと面白いので、読了前に書く気になった。
 相変わらず、外出先でしか読まないので、非常に時間がかかっている。こういう本は、ある程度一気に読んだ方がいいのかなと思うが、小説そのものはそれほど上手いとは思えないが、これだけのハードSFはなかなか読み応えがある。

 ここに出てくる「人間宇宙論」というのは、現在の「人間原理」の延長版のようなもの
だ。人間原理は、現在の宇宙を人間の存在そのものにその存在意義を帰結させるようなものであると思う。小説ではAnthrocosmorogyという言葉が使われているが、人間原理はanthropic principleと言い、strong とweekに分かれる。人がいて、人が生きて生きやすいように宇宙が作られたと考えるのがstrongで、偶然そうなったというのがweekだ。
 小説内の人間宇宙論は(これから読む方はいかねたバレ少し)、万物理論−現在追求されている統一場理論をさらに一歩進めた、宇宙の根幹を説明できる原理−を解明する、ある特定の人物により、ビッグバンから現在、そして未来までの全ての宇宙ができあがっているという、ちょっと説明しただけではよく分からない内容だ。
 
 そもそも宇宙の成り立ちを人間的立場から説明しようとするこれらの理論(小説はより架空の理論だが、それほど現実の人間原理と乖離があるようには思えない。どちらも実験的証明は難しいから)は、宇宙論を考える科学者の畏怖みたいなものを感じざるを得ない。
 もし仮に、何かの力が少し強かったら、生命は誕生していなかったという理屈で、人間原理を提唱するのなら、sれは人間原理というよりも、運命論のような気がする。尤も、そういう言い方をするなら、実験で証明できない多くの宇宙論は、まさに運命論的であり、いみじくも小説の中で万物理論の提唱者の一人、ヴァイオレット・モサラはその考え方に反論している(但しモサラは人間宇宙論者ではないが)。

 例えば宇宙の中心に地球があると考えた中世の人々や、相当時代が下っても、太陽系が銀河の端にあるとは考えられていなかったり、銀河系すら全く特色のない大宇宙の小さな一粒の小宇宙になったり、宇宙論の歴史は、常に人間中心主義をその高みから引き下ろしてきた。
 人間原理のような、証明が極めて困難、あるいは不可能な理論は、どうして提唱され、賛同され、研究されているのだろうか?こういう異端的なものの考え方に、常にフレッド・ホイルが噛んでいるというのも面白いが、小説「10月1日では遅すぎる」などで見せたホイルの冴えを思い起こすと、そもそも現代の宇宙論はSFと表裏一体の、というか境界線の曖昧な分野であるような気がして仕方がない。

 数学が導き出す現象の説明としての宇宙論は、あるのかどうか解らない宇宙ひもや、多次元といった概念や、虚数時間といった、最早人間が感覚的には想像すらできない分野に及んでいる。
 返す返すも、これらの議論の中にいられない自分が悔しい。戻れることなら10代にもどり、数学と物理の勉強を徹底的にやり直したいとすら思う。
 この世の解明されないものの追求や、答えのない問を一生続けて考えることの有意義を、これらの科学は教えてくれ、しかも人生の意義は、富や快楽、愛など、様々に身近なものにだけあるのではないことを改めて認識させてくれる。

 人の脳の奥、心の奥に潜む何かが、追求しないではいられない衝動を支えているに違いない。その衝動こそが、人間原理を生むのであり、「万物理論」でそれをSFたらしめている「一人の人間による宇宙創生」というテーマを生むのである。
 ああ、面白い。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:40 | コメント (0) | トラックバック (0)