2005年2月27日

市町村合併

 愛知県の美浜町と南知多町が、新市名と合併の是非を問うて行った住民投票で、新市名がどうのいう前に、合併そのものに住民がNoを突きつけた。まさに両行政府にしてみれば、青天の霹靂のような結果であろう。

 そもそもこの合併反対の大きな原因を作ったのは、「南セントレア市」という新しい市名だ。両町は、合併後の市名を公募から選ぶとしたが、その候補にない「南セントレア」で決定したために、批判が続出した。
 この程度のことを予測できないところが、実は甘いのではなく、行政の不審を買う最も大きな原因、「おれたちゃ、司ってんだぜ」なんだと思う。これは一見、腰低くしながら、結果的に住民を見ないことで、態度はまさに横暴なのだ。
 公務員をよく公僕というが、「しもべ」とまでへりくだる必要はないにしても、少なくとも、住民全てが「お客様」であるという視点で、行政サービスという商売をしているのだという認識を、政治家も含めて持つべきだ。
 商売は、お客に見切られたら、収入を断たれるが、国家から市町村まで、税金は有無を言わせず取る。これを搾取と言われないためには、しっかりとした顧客主義で、いかに住民の需要を読み取っていくかが必要だ。

 あたかも店長がその会社の社長の顔色をうかがうように、地方の政治家や自治体が、国や総務省の顔色ばかりをうかがっているようでは、そこの行政は住民のためになるとは言えない。補助金などをえさにぶら下げて、合併をやたら進めている国もどうかと思う。合併は、合併によるメリットが、それによるディメリットよりも大きいと判断ができる場合にすればいいので、猫も杓子も合併し、例えば、さいたま市のように合併して政令指定都市になったという理由で、議員の給料を上げるなどと言うことがあるとすれば、合併は地域の住民のためではなく、ただそこで仕事をする政治家のためだと言われてもやむを得ない。この例など、そんなことをしたら、議会が批判の的になることなど、火を見るより明らかなことで、逆に問うてみたらいいのだ。自分が議員ではなく、一市民だとして、仮に同じ事を議会が行ったら、それに賛成するかどうか。公の場でどう思うかをいうのではなく、自分自身の心にだけ問えばいい。

 確かに、いい自治体もあるだろう。それは、そこに住む全ての住民が、誰彼無く満足する政治を行うことはまず無理だ。利害関係が反する場合も多々あるはずだから。だが、まず守られるべきは、弱者からであり、一般市民であり、次に企業であり、最後に自治体だ。自治体無くして行政もない、企業無くして一般市民の生活もない、というのは一見正論にも見えるが、そうではない。集落があり、村があり、市や県、国があるのは、そもそもこの世の中で、ただ乱雑に人が自由気ままに生きていては、逆に不経済でもあり、発展もないから、まとめ役が出、やがてそれが政治に発展してきたのだ。
 ところが人類は何度も、頭に人を頂くと、それはリンカーンではないことの方が多いのだ。

 さて、南セントレアという市名に関しては、客観的に見れば、それほど悪い市名ではない。先頃開港した中部国際空港がすぐ近くにあり、その愛称がセントレアだから、それに関連した地名であれば、市の知名度も上がる可能性はある。
 議会の議事録を見ると、セントレアの登録商標がどうのという件りがあるが、そもそもそんなことが問題なのではなく、公募になかった市名がなぜか浮上し、それが結果的に市名として決議されたことにあるのだ。しかも、今回の住民投票にはまんまと「南セントレア」も候補に挙がって、住民の気持ちを逆なでしている。あきらめが悪いというか、南セントレアにしたかったのなら、そもそもやり口が逆なのだ。
 今回住民投票に出されたものを議会側から、住民投票で決めるようにし向ければ良かったのだ。案外南セントレアに決まったかも知れない。
 一度住民がその手法を含めて違和感を持った名前になるわけがない。

 例えば、セントレアのある常滑市は、中部とか東海に住んでいるのでなければ、最近の若者は「じょうかつし」とでも読み、「とこなめ」と読めない人の方が実は多いかも知れないという予測は簡単にできるが、「南セントレア」を「なんせんとれあ」と読むとは到底思えないので、単純に覚えやすいという事や、中部国際空港は、それなりに利用客も増えるあろうから、「ああ、あそこの南ね」みたいなイメージで解りやすいというメリットもあるだろう。
 知多町だって、知多半島がどこにあるか解らない人の方がきっと全国には多い。少なくとも、20代以下だったら、絶対多いはずだ。

 先日、「笑っていいとも」で、ガレッジセールのゴリが「取手市」という答えに(真ん中にてという感じが入る3文字の言葉という問題)、そんな市はないだろうみたいな反応をしていた。ことほど左様に、地理というのは意外に知らない場合が多い。
 都道府県を全て言えと言われても、言えない人も多いのだ。そういう意味では、南セントレアという名前は、今回とは別な意味で全国区になりうる可能性があった。

 いや、それでも、そもそも合併が白紙に戻ってしまったのでは仕方がない。
 住民の力が行政を決めることもあるのだ。
 日本の政治そのものも、国民を見ているようには到底思えないので、この小さな結果を敷衍して、一国の総理にも、政治と行政のあり方について、改めて考えて欲しい気がする。僭越ではあるが。
 
 

投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月26日

H2ロケット

 今日の夕方、運輸なんたらいう衛生を積載したH2ロケットが種子島から打ち上げられた。無事成功したらしい。1年半ぶりの打ち上げで、まずは良かった。
 しかし、ロケット打ち上げの成功率は、欧米や中国の90%以上という成功率より、遙かに低いという。70%台だそうだ。
 よく言われるのは予算の少なさだ。確かに、欧米に比べると、宇宙開発にかける予算は桁違いに低い。GNPなどを考えると、その予算費はとてつもなく低いということになるのだろう。
 日本人はどちらかというと、目先の便利さや、政治家に利益を供与できるような公共事業などにずっとお金をかけてきた。結果が今の宇宙開発事業団なのだと思う。
 もちろん、欧米の宇宙開発は、単純に科学的な開発という側面ばかりでなく、軍事的な側面も大きいから、軍事的な予算が極めて少ない日本は、それと比例するように宇宙開発予算も少ないというのは、ある程度理由は分かる。

 しかしそもそも、宇宙開発が軍事的な様相を持つこと自体が、情けない。
 科学は、戦争と技術革新を縄を縒るようにして進歩してきた。それは否めない事実だ。E=mc2という有名な公式が核爆弾を導き出すというのと同じに、大陸間弾道を可能にする技術と同じ分野で、人は月に足跡を印した。
 だがどうしても、あるいは各国同じなのかも知れないが、日本は国家とその公的な仕事に携わる個人に必要以上にお金が流れてきたように思えて仕方がない。これは政治家もそうだし行政もそうだ。国家ばかりではない。地方の自治もそうだ。
 
 経済成長の裏には、ある意味、無駄なことにはお金を使わないできた日本という国の特性がある。人工衛星を打ち上げるのは今となってはかなり重要なことだが、人を月に運んだところで、それがビジネスにならなければ、それほど意味はない。極端なことを言えばそういうことだ。
 宇宙へ人を運ぶことが、意味のあることなのか無意味なことなのかは、恐らく運んでみないと判らない。
 アメリカが月への飛行を止め、またシャトルの飛行も一時期減った。
 21世紀になって、民間が宇宙に人を飛ばそうとしている。しかし日本は、まだ国家としても有人飛行を行ってはいない。ある意味、そのことも民間にさせるのが日本らしさかも知れない。
 そういう意味では、livedoorの堀江氏などは、日本という国家が望む最も有望なビジョンを持った事業家なのかも知れない。彼以外の企業のトップの口から、ロケットを飛ばしたいというのを、私は聞いたことがない。

 経済的な企業人ではない、別個のビジョンを持った企業人が、これからの時代を作っていくのではないだろうか。そして、やがて、地球人が宇宙へ行くというコンセプトが・・・・アメリカ人がとか、中国人がとかではなく・・・・一般的になる時代に、私は生きているだろうか?・・・・無理っぽいな。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月25日

CDの価格

 久々に輸入盤屋でCDを購入した。
 モーツァルトの宗教音楽集ミサ曲13曲が5枚のCDに収まっている。5枚で1,985円だった。モーツァルトのレクイエム以外の宗教音楽は、あまり聴いたことがなかったので、まとめて聴けるように買った。
 同じに5枚で1,985円のリストの管弦楽曲集も買った。昔は「前奏曲」や「マゼッパ」など、結構好きで聴いていたが、最近は、とんと聴かなくなった。タイトルを見て、つい手が出た。私はリストの「ファウスト交響曲」が好きなので、それも一緒に入っているのはうれしい。それと、前けら聴きたいと思いながら聴いたことの無かった「ダンテ交響曲」も入っている。
「ファウスト交響曲」は、昔、バーンスタインの演奏で、レコード2枚組で出ていたものを初めて聴き、一緒に入っていたボイトの歌劇「メフィストーフェレ」からのプロローグの方がより面白かったのだが、それでも、よく聴いたものだった。
 たまたまタワーレコードのポイントが貯まったので、このリストは、もう一つのバッハとともに、購入というより、ほとんど頂いてきた。
 バッハも宗教曲集で、ヨハネとマタイの両受難曲、クリスマスオラトリオ、そしてミサ曲ロ短調が入った箱で、こちらはなんと、10枚組で1,689円だった。税込なので、1枚単価にすると160円ちょっとと言うことになる。これって、下手をすると、1枚で売っている生のCD-Rの価格と大差ないのではないか?という価格だ。
 確かに録音は古いが、初めてどんなものか聴くにはちょうどいい。何しろ1曲1曲がオペラ並みに長いから。古いと言っても、ヨハネ受難曲が50年というだけで、残りは58〜59年だ。ヨハネ受難曲は既に持っているので、コレクションが1種類増えたと思えばいいわけだ。
 実をいうと、私はバッハはほとんど聴かない。他の作曲家に比べたら、非常に少ない。むしろ、ラモーとか、パーセルの方がバロックの中では聴く方だ。
 何となく苦手なのだ。しかし、聴いてみたいという気はある。そこで、こういう安価なCDは非常にお役立ちだ。

 国内盤が出ると、必ずある程度の解説が付き、歌詞対訳なんかも付いたりして、恐らくこの程度のCDでも、5,000円以上にはなるだろう。それでも、1枚単価500円で超廉価盤という感じだが、1枚160円には敵わないだろう。
 単価で言えば、もっと安いものもある。
 ここでいつも思うが、どうして同じCDが輸入盤と国内盤と並んでいると国内盤の方が高いのだろう?いや、一見当たり前であるように思えるが、本当にそうか?
 確かに輸入して、帯を付けたり解説を入れたりして高くなる理由が、あることはある。
 だが、例えば1枚2,500円の国内盤が輸入盤だと、1,700〜1,800円くらいで売られていたりする。約7掛けだ。現在ではこれば、レコード店の仕入価格よりも安いはずだ。
 つまり、仮にAというメーカーの商品がBという国内メーカーから出ていたとしよう。これがCという販売店の店頭に並ぶ。
 そうすると、AがBに500円で輸出していたとして、シッピング等で、700円くらいの価格になったとしよう。ここでBは、再加工して、解説を付けたりして、Cに対して1,800円くらいで販売し、店頭に2,500円で並ぶ。・・・・あくまで仮定だ。
 実質は、AからBへは限りなくマスターに近い音源が行っているのかも知れない。
 さて、では輸入盤店はどうかというと、商品を仕入れるわけで、原盤の単価が500円の商品であれば、単純に倍と仮定して1,000円で仕入れられたとしよう。こちらもシッピングは必要だが、1枚1枚運ぶわけで、こちらの方が経費は高そうだ。そこで、1,400円で国内に入ってきたとしよう。それが1,800円で店頭に並ぶ。
 さて、販売価格はここで700円違う。それぞれショップの利益は輸入盤店が400円に対して国内盤は700円。
 これはあくまで仮定としての話なので、現実がどうなのかは知らない。ただ、いかにも国内盤は、中間マージンで膨れあがっているという予測がつく。

 もちろん、歌詞カードを見ながら音楽を聴く人や、解説を世みたい人にとってはありがたいのかも知れないが、それでも価格差は歴然としており、さらにいうなら、今回私が購入したほどの破格の商品は、国内盤ではまず無い。一部、クラシックであればNAXOSとかのレーベルが安いことがあるが、それでもせいぜい1枚800円と言うところだろう。メジャーメーカーの商品は1,000円が限界だろう。その録音がどんなに古くてもだ。特にクラシックの著作権は、少なくとも作曲に関する限り、非常に多くのものが切れているので、著作権として発生するのはいわゆる著作隣接権、演奏に携わった人への支払いだけのはずだ。

 もう一つ、国内のCDは、それの録音が古かろうが、発売が2年以内なら、「再販」という制度で守られていて、市場価格は安くならないと言うことだ。そこが輸入盤と大分事情が違う。輸入盤の場合は、時には赤字でも売ることがあるだろう。
 これは国内盤であっても、DVDなどは発売から時間が経つことで、安売りに回るものもあると言うことを見ていれば判る。恐らく秋葉原当たりでは、DVDの賞味期限切れは、仕入れ値を割っているケースも多いはずだ。

 現在、著作権にまつわる商売というのは、音楽ばかりでなく、ソフトウエアや書籍、コミックなど様々な分野で、非常に大きな転回点に来ていると思える。
 レコード店を例に取れば、例えば地方の小さなレコードショップでも、都会の大型店でも同じ価格で買えるということが、競争力を小さな店にも持たせるという錯覚の中で育ってきた文化だ。これは恐らく書店でも同じだろう。
 しかし現在、インターネットで簡単に購入できるし、ダウンロードでコンテンツのみを購入することすら可能になってきている。最早、再販制度などという温床の元で、消費者にとっては独禁法違反以外の何物でもない仕組みを甘受していくのは、だんだんと時代遅れになっているに違いない。

 もちろんそこにはいいことばかりはない。
 だが、世の中どんな分野のどんな物事でも、万事いいことずくめで、関与する全員が利益を享受するような、そんな仕組みなどあるだろうか?ありはしない。だからそこ、商売のシステムは、それが消費者にとって以下に利益を生むかという点に立脚して、その上で以下に利益を販売側が確保していくかという点が競争力を生むのだ。
 当然大きな会社が、基本的には有利であることはどんな業界でも一緒だ。
 しかし実は、ソフトウエアだからこそ持つ、中小の利点というのもあることは、ずっと以前から言われてきた。
 まさにこのCDの価格は、大手だからこそ展開できる金額には違いない。
 しかし、業界がこぞって業界自体を保護するために競争力を阻害していくのは、実はエゴイスティックな論理ではないだろうか?淘汰されるものはいずれ淘汰される。
 その中で生き残っていく、それが自然界でも人間社会でも、仕方のない現実なのだろう。だからこそ、共産主義や社会主義は結果的に瓦解していくのだ。

 なべてこの世はアンバランスなのである。

 

投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:22 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月23日

SPAM トラックバック

 このところ、オンラインポーカーのテキサスなんちゃらいうサイトからのトラックバックが、がんがん送られてくる。腹立たしい。
 順次消しているが、面倒くさい。

 実際、メールでも大量のSPAMが来る。
 SPAMを調べたら、モンティ・パイソンの歌詞から来ているなどとあった。「SPAM,SPAM」と連呼するらしい。そこから、こういう無作為にやたらと送ってくるメールをSPAMと言うようだ。
 例えばこの「texas holdem」というろくでもないサイトは、ろくでもない内容のテキストだけのサイトだが、読む気もしない。・・・・英語だし。

 あるいは、ウイルスなのかなとも思う。気づかないうちにメールを出すウイルスはよく知られているが、その、投稿ヴァージョンではなかろうか?という気がする。
 
 このブログは、MovableTypeというのを使っているが、ヴァージョンアップすれば防げるようだ。ヴァージョン・アップするのはいいが、なかなか時間がない。

 いやいや、今日のエントリーはただの愚痴であった。本当に日記だなこれじゃ。まあ、ご勘弁。

投稿者 keisuke_yui : インターネット・PC | 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月22日

通信料金の仕組み

 通信料金というのは、いったい何を基準にして決まるのだろう?
 例えば電話。
 マイラインの誕生後、市内通話はだいたい3分7円から9円の間くらいだ。昔のNTT時代は3分10円という時代が長かった。携帯は1分20円前後だろうか?国際電話になると、1分50円くらいから500円近くかかるところもある。
 さて、この料金差はどこで発生するのだろうか?

 既に国内は電線が敷設され、海外とも海底などでケーブルが繋がっている。メンテナンスはかかるだろうが、これまでかかった投資を回収しながら利益を上げていくとしても、1分3円と500円の差は170倍近い。

 さて、ネット電話というのがある。インターネット回線は、例えば、世界中どこのサイトを閲覧しても同料金だ。最近では1ヶ月つなぎ放題のADSLでは、安いものは2千円しないのではないか。光でも月にどんなに高くても1万円、1日2時間インターネットをするとして、1ヶ月60時間3,600分。光で3円弱。1日6時間使えば1分1円を切る。
 私は24時間繋ぎっぱなしなので、計算すると13〜14銭/分だ。
 早晩、全ての通信はこの方式に変わるだろう。携帯も、最寄りの中継所から、ネットに入ってしまえばいいように思うのだが。

 そういえば、パケット代というやり方で携帯はネットを利用する。ドコモでは1パケット0.3円だという。これがくせ者で、例えば着メロや、着うたなど最近流行のデータは、場合によってメガ単位でかかるものもある。0.3円の上限は5キロバイトだそうなので、仮に1メガのデータをやりとりしたとすると、1MB≒1,000KBで計算すると、60円かかる。実際には、メールや添付ファイル、着メロ程度であれば、大きくても数十キロだろうから、数円というオーダーのはずなのだが、意外にかかるのだこれが。

 最近では定額制がはやり、かつてのダイアルアップ時代のインターネットを思い起こさせる。
 通信というものは、これからの時代、全世界を相手に、いつでも自由に繋がることが要求されるようになっていくだろう。であれば、通信料金の本当の改革こそが、世界を縮めていくことになるし、それは、お金を気にしないで、ダウンロードや通話が、いつでも楽しめるという風にならないとだめだろう。

 まだ少し時間がかかりそうだ。

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:38 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月21日

ダルビッシュの喫煙

 日ハムのダルビッシュ有が喫煙しているところを写真週刊誌に撮影されて、チーム練習から外され、さらに高校も停学になった。

 まあ、どっちでもいいと言ったらいい話だが、そもそもこの喫煙という問題、以前にも書いたが、私的には釈然としない。一度全国の教師、野球関係者、いや大人全てに、「あなたが最初に煙草を吸ったのはいつですか?」と尋ねてみたい。
 喫煙と飲酒は二十歳から、というのを定めた法律をちょっと調べると、少年法にある。

次に掲げる成人の事件については、公訴は、家庭裁判所にこれを提起しなければならない。
一 未成年者喫煙禁止法(明治三十三年法律第三十三号)の罪
二 未成年者飲酒禁止法(大正十一年法律第二十号)の罪

 概して法律は古いものが多いし、ことさら、変える必要もない、という類の法律という認識だろう。細かい内容は知らないが、屠蘇は罪にならないのかとか、親が一緒にいればいいのかとか、気になる。
 私も酒に関しては18から飲んでいるが、健全な方だろう。居間ではたまにしか飲まないし。だが、当時法律違反であることには違いない。現在では、年齢認証のある居酒屋もあるらしい。

 酒に関して言えば、どうも単純に年齢で切るのはどうかと思う。造り酒屋の息子が二十歳まで酒を飲まないとも思えないし、レストランでワインぐらい飲んでもいいように思える。酒の害というのが酔っぱらって、例えば暴力沙汰を起こすとか、気が大きくなって良からぬ事をするとかであれば、年齢の問題ではない。恐らく身体に対する影響だとしても、大正11年と今では、若者の身体も違うだろう。

 煙草はと言えば、そもそも身体の害なんて関係ない。悪いのは子供ばかりでなく大人も一緒だ。JTの広告にも、はっきりそう書いてある。こんな世の中で、煙草を手放せないのは、こんな世の中になる前に煙草の味を覚えてしまった人か、自分にとっての損得が冷静に必ずしも判断できない思春期の青少年である。
 これを吸うと癌になりますと箱に書いてある煙草は平気で、他の環境問題や、食生活に厳しい人もたくさんいるに違いない。
 煙草はかように依存性の高い薬物であることは言を待たない。
 
 ほとんどの人は、覚醒剤や麻薬には手を染めない。最初から悪いと解っているからだ。依存性も高く、幻覚を起こしたり、様々に生活に影響を及ぼす。とっても気持ちいからと言われても、やる人は少ない。法律で禁じられていなければでも、それなりにやる人は増えるだろう。
 つまりそれが煙草だ。
 煙草の効用と言うこともよく言われる。確かに煙草を吸う人にとっては、リラックスのための最大のツールでもあり得ると言うことだ。
 
 だが、リラックスのために必要だからと言って、何事も許されているわけではない。社会が、禁煙という方向に進んでいる以上、喫煙者の肩身が狭くなるのもやむを得ないことと言えよう。
 何年後かは解らないが、「今時煙草吸ってるの?」みたいな会話が街でされることもあるかも知れない。
 ダルビッシュが煙草を吸った。未成年のくせに。この論調は非常に嫌いだ。私に言わせれば、学校の先生、高野連の方々、野球関係者、あなたがのうちで、煙草を吸ったことのない者が、最初にダルビッシュに石を投げなさい、といった感じだ。
 百歩譲っても、世間のほとんどの人が、未成年のうちに煙草を吸ったことはなく、ごく限られた人間だけがそうであるような、マスコミの報道や発言も、正直言って、あきれる。

 少なくともダルビッシュに対し、「おまえは野球選手だろう、煙草を吸わない方が、きっと長い野球生活、絶対いいぞ」ならともかく、「未成年なのだから・・・・」二十歳を過ぎたら大いに吸えと言わんばかりのこの論調が、的はずれな文化であることを、世の中が認めてくれたらな、と思う。

投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 23:11 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月20日

ディオ2

 ロニー・ジェイムス・ディオの2回目。(1回目
 先日、新しいアルバムが先日発売になった。

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 相変わらずのおどろおどろしいというか、買うのがちょっと恥ずかしいというか、妖しいジャケットだ。あくまで悪魔とか、そんな世界にこだわっているようだ。ライナーの裏表紙で、おなじみの「影絵の狐」みたいな指をした本人が写っている。
 対訳を見てみると、これまた相変わらず、神話的というか、イメージ的な歌詞が延々と続く。「あなたが好きよあっは〜ん」みたいな歌詞は欠片もない。

 ディオは、ロックンロールバンドELFがそのままリッチー・ブラックモアを迎えた形でリッチー・ブラックモアズ・レインボーというバンドになる。70年代の半ばのことだ。
 レインボー(何となくレインボウの方が好きなのだが、日本語表記はこのバンドに限っては、レインボーなのでそう書くが)は、曲調はやはりリッチーの手になるので、ディープパープルだが、ロッド・エヴァンス、イアン・ギランやデヴィッド・カヴァーデールなどとは一線を画すロニーの歌詞は、基本的にラブ・バラードはない。
 レインボーの最初のアルバムに入っている曲も、当時はタイトルが日本語にされていたので解りやすいが、「銀嶺の覇者」「自画像」「黒い羊」「虹をつかもう」「蛇つかい」「王様の神殿」「もしもロックが嫌いなら」「16世紀のグリーンスリーブス」「スティル・アイム・サッド」という10曲だが、最後の「スティル・アイム・サッド」は元々ヤードバーズの曲だし、このアルバムでは完全なインスト曲になっている。
 タイトルだけ見ても、リアルなラブソングはない。「虹をつかもう(Catch The Rainbow)」は多少その気があるが、非常に夢想的な内容だ。

 実はELFのアルバムでもロニーがこういう曲を書いていたかというとそうでもない。だから、レインボーはリッチーとロニーによる、中世へのオマージュ的なコンセプト・バンドだったんだと思う。ロニーが参加した3枚のスタジオ録音は、上記のアルバムで始まり、セカンドでは「タロット・ウーマン」とか「スターゲイザー」のような曲(後者は魔術師にたぶらかされて塔を建てる労働者の歌だ)、サードではアルバムタイトルそのものが「バビロンの城門(The Gates of Babylon)」で、最近でもよくテレビのBGMで使われる派手なイントロの曲は「キル・ザ・キング(Kill The King)」だ。

 ただどちらかというと、現在の二人の状況を見ていると、吟遊詩人を気取ってブラックモアズナイトというデュオ(若い奥さんと二人で)を組んで、中世フォークロア的な世界を追い続けるリッチーと、完全にメタルと悪魔的世界にどっぷりのロニーとでは、大分隔たりがあるし、「ああそうか」この二人が組むとこんな中間的世界ができあがっていたのもうなずける、といった感じだ。

 レインボーを脱退したロニーが加入したのが、オジー・オズボーンの抜けた後のブラック・サバスだった。レインボー的と言われる「ヘヴン・アンド・ヘル(Heaven and Hell)」、サバス色が濃くなった「モブ・ルールズ(The Mob Rules)」とライブを出して、一旦離れるが、後にもう一枚参加することになる。「デヒューマナイザー(Dehumanizer)」という、どちらかと言えば、ファンからもあまりいい評価は得られなかったアルバムだ。
 非常に機械的で、アタックの強い、現在のディオを予測させる内容になっている。個人的には実は結構好きだ。もちろん、先の2枚、あるいはサバスであれば、オジーのいないサバスなんてサバスじゃないという向きは多いに違いない。
 オジーという人は、テレビで自宅をドラマのように公開してしまうような奇矯な人でもあるので、やはりサバス・ワールドに与えていた影響は大きいと思う。
 しかし、独特の重いリフとサウンドは、トニー・アイオミ、ギーザー・バトラー、ロニー・ジェイムス・ディオの3人ならではの音だと思う。

 バンドとしてのディオは、このブラック・サバスの最初の3枚のアルバムと、「デヒューマナイザー」の間にスタートする。レインボー−「ヘブン・アンド・ヘル」と来た流れの先にあるようなファースト・アルバム「ホーリー・ダイバー(Holy Diver)」は、サバスを辞めたロニーが、レインボー的ではない、どちらかというと黒魔術的な音楽世界に足を踏み入れた、最初の1枚だ。本来は、サバスこそがそれに当たる感じもするが、かなりレインボーを引きずっており、アルバム的には楽しいが、サバスの2枚はディオの世界観ではない。
 私は英語が堪能ではないので、この「Holy Diver」というタイトルの意味が正確に摑めていない。ジャケットには、悪魔だかなんだか解らないが、そんなようなものから逃げている牧師か神父が湖で溺れかけているような絵が描かれていた。
 歌詞を聴いていると、真夜中の海に飛び込んで逃げろ逃げろ見たいに聞こえる。

 まあ、ディオそしてロニー・ジェイムス・ディオはこのアルバムを境に、人生をこの路線にかけているとしか思えないほど突き進んでいる。彼が多分、30代の半ばから後半にかけてではないかと思う。

 実は「ルック・アップ・ザ・ウルブス(Lock up the Wolves)」辺りから後は、比較的何を聴いても同じ・・・・というイメージがある。実は今回もそうだった。だが、ディオが頑なにこの道を追い求めるように、レインボーで、私にロックを聴くきっかけを与えてくれた彼の声は、私にとっては何にも代え難く、少しくらい曲がつまらなくっても買い続けるのだ。
 確かに彼の声が、「ア・ライト・イン・ザ・ブラック」を歌っていなかったら、私は今でも「ハードロックは騒々しい」と思っていたに違いない。世の中にはこういう勝手な一期一会というものがあるのだ。
 

投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 22:21 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月19日

回送電車

 回送電車はどうして走っているのだろう。確かに、我々の知らない理由で、走らせなければならない場合もあることは想像がつく。
 だがそれにしても、普通の線路を普通の顔をして走っている回送電車を見ると、しかも普通に駅でしばらく停車をしているのを見ると、おいおい、ドアを開けて乗せてくれよ。と言いたくなる。特に忙しいときなどは尚更だ。

 前に説明責任という話をどこかで書いたと記憶しているが、そこまでではなくとも、もやもやした気分をどうにかするためだけにでも、取り敢えずどうして回送電車は回送なのかを、ホームページでも駅の広告でもいいから説明して欲しいものだ。
 
 これは多分だが、中央線の快速は、土日と祝日は高円寺、阿佐谷、西荻窪に停車しない。毎日停車しないのなら、それはそれで大久保や東中野のように、諦めもつくだろう。私が利用する荻窪は、なぜか停車する。これは何となく、通勤快速という電車の停車駅と似ているので、そういうことかも知れない。
 新宿に近いというなら、西荻は荻窪よりも遠い。

 同じような理由で、特快はなぜ吉祥寺ではなく見たかに停車するのか?これも疑問だ。単純に駅が広くてホームの数が多いからとは言い難い。もちろん、そういう理由から、総武線の快速の終点が三鷹であり、それとの乗り継ぎがあるということで三鷹なのかも知れない。
 しかし乗降客は圧倒的に、吉祥寺が多いはずだ。街もずっと大きい。

 さて、中央線の疑問ついでだが、なぜ中央線と総武線の各駅停車は、お茶の水だけが同じホームで乗り換えができるようになっているのだろう?三鷹は始発駅と言うこともあり、一つのホームを総武線のみが利用しているから、意味も分かる。しかし、吉祥寺からお茶の水までの快速停車駅、「吉祥寺」「西荻窪」「荻窪」「阿佐谷」「高円寺」「中野」「新宿」「四谷」は、全て一つのホームを中央線、総武線のそれぞれの上り下りが使用している。
 例えば、三鷹から水道橋へ行きたい人は、四谷で快速を降り、階段を上り下りして、総武線ホームに行って乗り換えなくてはならない。運動不足解消のために素晴らしい階段の運動、なんていう問題じゃない。上り電車に乗っていた人が、下りに乗り換える例もない訳じゃない。だが希だ。
 
 非常に合理的とは言いがたい。
 新宿駅などは、上りの総武線の反対側ホームは内回りの山手線だ。もちろん、東中野から渋谷へ行く人は便利だが、それ以上じゃない。
 中央線のホームは下りが10番線。この反対ホームである11番線も下り電車が時折利用している。新宿折り返しの特快とか、中央ライナーという、国分寺だか立川までノンストップの列車だ。
 どちらも下りだからまとめているというかも知れないが、非常に利用頻度は低い。まして、夜など、ライナー待ちの乗客と、快速待ちの乗客でホームがごった返し、大変なことになっていることもある。ホームが満員電車のようだ。

 最近新宿駅は改装をして、快速上りのホームなどが変わった。
 しかしそれ以外はずっと昔から同じだ。

 地下鉄をどこから入れるかなどという疑問で一世を風靡した春日三球だが、実際に考えてみると、地下鉄をどこから入れたかなどはたいした疑問じゃない。そんなことよりも、回送電車がなぜあんなにたくさん存在するのかとか、なぜも少し乗り換えのしやすい駅になっていないのかとか、そちらの方が大変疑問だ。
 もちろんそれでも眠れるが。

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月18日

テレビで集団強盗告白

 日テレの「カミングダウト」なる番組で、集団で窃盗をしていたと告白したことが問題になっている。本当ならば(本当だと番組で認めているわけだが)、ただの犯罪である。
 ニュースでは、未成年だからか名前は伏せてある。しかし、そもそも芸能人で、しかもテレビで発言した内容に対して、今更名前を伏せるのはどうなのだろう。ここでも敢えて名前は書かないが(そんなことが趣旨ではないので)、あまり意味のあることだとは思えない。
 事務所は小学生の頃だと言っているようだが、実際に番組の録画を見ると、とうていそうとは思えない。ついこの間のことのような話しぶりだ。
 番組では、店へのお詫びと、万引きは犯罪である胸がテロップで流れたようだが、問題は、若気の至りで行った犯罪故、そしてたかが万引きであるから、というような、非常に軽い気持ちがスタッフに見えることだ。
 そもそも話の内容を聞けば、万引きですらなく、普通かそれ以上の窃盗である。万引きというのは店内で店員の目を盗んで商品を盗む行為だが、倉庫に忍び込んで段ボールごと盗むのは「万引き」ではないだろう。
 尤も、私個人としては、窃盗であるか万引きであるかで罪の軽重を問うべきではないと思っている。

 かつてレコード店で10年ほど勤めた経験があり、万引きの悔しさは骨の髄までしみて解っている。取られれば悔しいし、万引き防止装置の誤動作などで、丁重に問いかけてみても、思い切り切れられたりすると、立つ瀬がない。たとえ何年経とうが、当の犯人が、思い出話のように笑って済まされることではない。
 そして社会の認識も、「いい年して万引き」とか、「恥ずかしい」とか、「万引きくらいならともかく」とか、異様に甘い。それは確かに、殺人と万引きのどちらが重いかと問われれば、そもそも質問の意図そのものに間違いがあると言わざるを得ない。だが、万引きとスリ、窃盗はどのように違うかといった問題は、そもそも当に値しない。なぜならそれは一つの犯罪だからだ。
 そういう意味では今回の件も、私は「万引きではなく窃盗」と書いたが、それは世間的な罪名の認知という意味であって、罪の重さには代わりはない。
 まして、罪の意識も余り無く、テレビでそれを暴露して笑いのネタにするなどは論外だ。

 それが原因かどうかは別として、その会社は倒産したという。
 それがどんなタレントであろうが、倒産の事実にかかわらず、自らしたことを、もっと重く捉えるべきだ。そして周りも、そのことを聞いた時点で、そのことを知らしめるべきだし、そのような認識であって欲しい。

 多く人は、被害者の立場に立ってみないとなかなか事の本質が見えてこないことがある。まさにこれはそういう一件であるし、殺人事件の被害者の集まりなどが、国や行政、司法相手にいくら訴えたところで、なかなか解ってもらえない事実の一端がここにはある。
 憂うべき事ではあるが。

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 21:56 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月16日

地震

 今朝早くに地震があった。私はまだ起きていた。・・・もうではない。びっくりした。
 いつになく大きな地震で、初めて棚から物が落ちてきた。確かに乱雑に乗せていたし、落ちてきたのは空箱だったりしたが、記憶にあるうちでは、棚から物が落ちる地震というのは覚えがない。

 テレビをすぐ付けた。NHKは地震速報を流していたが、他のチャンネルはスポーツニュースなどをのんびりやっていた。その程度の地震ではあった。ただ、震源に近いところでは、そうでもなかったようだ。
 震度3。それが画面に出た数字だった。
 おいおい、これで震度3かよ。じゃあ、この間の震度6っていう新潟の地震はどれくらい揺れるんだ?というのが最初の感想だった。
 しかし、体感する震度3は、これまでもあったはずだが、昨日のはでかかった。それでも3だ。震度4でも結構怖いな。

 東海や、関東当たりに地震がくるくると言われていたのは、私が子供の頃からだ。「地震列島」や、「日本沈没」という映画は70年代の作品だ。その後、大きな地震は起きていない。
 阪神・淡路大震災を始め、十勝沖や宮城沖、鳥取、今度の新潟など、関東以外では、この数十年間に大きな地震がいくつも起きている。そもそも日本は、火山列島であり、太平洋プレートが沈み込む、まさにその場所に位置している。
 世界的に見れば、トルコなどは年中大きな地震が起きている気がするし、元々地球は活発に動いているから、本当に大きな地震がいつ起きても不思議ではないのだ。

 地震はまさに唐突で、その唐突さも恐ろしさの一つだ。昨日はまさにそれを実感した。「あ、地震だ」と思うのはさほどではない。そこから徐々に揺れが大きくなり、あれれ・・・と思っていると、隣の部屋から物が落ちた音がした。震度6とか7が来たら死んじゃいそうだと本気で思った。

 と言って、何ができるわけでも、何をするわけでもない。
 なんかこういう、大自然の不思議の上に生きているのだな、という実感があった地震だった。

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:10 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月15日

パソコンの電源

 ノートパソコンは、結構持ち運びに便利な軽いものがたくさん出ている。14型のモニタでも、2キロを切るくらいの物がある。
 3キロというと、たかが1キロでもかなり重い。
 欲を言えば1キロ程度が理想だが、そうなると12インチ程度になるのだろう。大きくても。

 さて、そこらにちょっと出かける場合はいいのだが、旅に出ようとすると、実は困るのが電源だ。この電源のコードとコードの間に付いている黒いやつ。ACアダプター?だいたいでかいのが付いています。
 これがどうにかならない物でしょうか?これはパソコンの重量に含まれていません。逆に、これを含んだ重さを表示してもらえるとありがたいですね。
 ノートパソコンの場合、特に14インチ以下、B5と呼ばれるサイズ以下のものは、モバイルが基本です。家だけでのんびりという使い方は少ないと思いますし、であれば、重さは重要なキーポイントです。本体だけで、何キログラム、ほら軽いでしょう。と言われても、実は付属して必要なものが別の重さを持っているのであれば、それを含めた重さが知りたいのは人情です。実際にかかる荷重ですから。
 
 本当はこの黒いやつが無くなってくれればいいのですが、そうもいかないようです。海外で利用するとなると、さらにコンセント部分も別のものが必要になります。グローバルグローバルと言ったって、世界が本当にグローバルスタンダードになるのは何百年先でしょうか?あるいは永遠に来ないかな?
 昔SFで、よく地球政府なんていうのがありました。今の世界を見ていると、到底予測できません。
 このパソコンの黒いのが無くなることの科学的発展の方が、核弾頭を作る技術よりずっと重要だと思うのは私だけでしょうか?

 人類って、後1万年くらいたって次の進化でもしない限り、きっと学ぶことは少ない種なのでしょうね。
 

投稿者 keisuke_yui : インターネット・PC | 23:48 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月14日

オン・デマンド

 私が加入しているケーブルテレビでは、デジタルサービスに加入すると、「オン・デマンド」サービスが受けられる。これは、映画などのコンテンツを、見たいときに見たいものを購入してみることができるサービスだ。
 光ケーブルを利用したネットサービス会社でも同じようなサービスが始まっている。
 簡単に言うと、自宅にいながらソフトのレンタルができるというようなサービスだ。
 人間がますます無精になるサービスだと見る向きもあるかも知れない。しかし、やがては、エンターテインメントの多くが、回線を通じて自宅で手に入る時代はそこまで来ているという感を強くする。現在は、ケーブルであれば、数十MB、光なら100MB/SECのサービスだが、ギガバイトやテラバイトのサービスも、そう遠くない時期に実現するに違いない。

 さて、このオン・デマンドサービスだが、私自身は加入しているわけではない。デジタルサービスに加入しても、今以上にチャンネルが増えたとして、見るかどうかとなると疑問だからだ。
 また、購入したからと言って、その日に見るかというと、私の場合は至って疑問で、例えばレンタルビデオであれば、録画してコレクションにして後で見る事が意外と多い。そうなると、借りたはいいけど見ないで返すレンタルビデオみたいに無駄なことになりかねない。なぜなら、コピーできないからだ。
 著作権の問題は重要だが、こういう部分はどうも判然としない。そもそもレンタルビデオで、1本300円から500円で見られるものが、市販では1000円から5000円くらいするわけで、最大10倍近い価格差がある。これは、レンタルが、見たら返すという前提で、もう1回見たかったら、もう1回借りると言うことを前提としている。そういう人も多いだろう。
 しかし、しっかり録画しておく人もいる。多くのビデオがそうだった。DVDになって、私はほとんどレンタルを利用していないので何とも言えないが、デジタルだから録画ができないというのは、釈然としない。
 コンテンツビジネスというのは、コンテンツを売るという視点に立てば、レンタルとパッケージの価格差は、基本的にパッケージの有無であるべきで、賞味期限みたいな考え方は私は好きになれない。

 インターネットでダウンロードして曲を買うことが可能だが、その多くはSonyのAtracという圧縮技術で圧縮されたもので、CDに書き込みができない。どうも技術の押し売りや、作った側のルールに従え的な押しつけがましさを感じて、愉快ではない。
 録音装置を売っているのもSonyならコンテンツを録音できないようにしているのもSonyだみたいな図式である。この根底には、性悪説がある。ダウンロードしたやつは、勝手に回りにばらまくということだ。
 ある意味これは真実だが、レコードやテープの時代は、これで上手くやってこれた。
 あたかも、テレビの自主規制みたいな物で、昔は放映できたが今は許されないみたいな、人間が偏狭で猜疑的になっていく時代の流れみたいな物まで見えてくる。

 さて、このオン・デマンドサービスだが、一見便利なようだが、まだまだ成熟しているわけではないので、コンテンツの数は異様に少ない。最低でも、1000以上のタイトルが並んでいてくれないと魅力的ではない。また、昔から見たことのある角川映画みたいなものが相変わらずラインナップの初期の多くを占めていると、それだけで食傷だ。これらの映画が悪いわけではないが、一目して契約の順番みたいなものが透けて見えてくる。

 まあ、こういう文句は今多からこそどんどん言って、それが文化の発展に寄与するのだ。そうでなければ下らない愚痴にしかならない。
 だが、実は下らない愚痴にこそ、消費者の求めるニーズがあったりする。そうやって世の中は動いていく。ある時代を境に、資本が世の中を動かすのではなく、消費者ニーズが資本を動かすようになった。飽食という言葉は言われて久しいし、実は不景気になると消えていく言葉だが、それでも今の不景気は飽食の上に成り立っている不景気だ。
 オン・デマンドなる需要が供給を決めるシステムは、まさにこの飽食の中にこそ上手くはまるビジネスのような気がする。

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:09 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月13日

バレンタイン

 明日はバレンタインデーだ。英語では「St. Valentine's day」なので、通常の日本語表記ならヴァレンタインデーとなるのだろうが、街中で多く見かけるのは「バ」だ。
 「聖」というくらいだから、語源となったバレンタインこと、ウァレンティノスは、聖者だ。ローマの司祭らしい。この人が処刑されたのが紀元270年の2月14日だから、明日が記念日なのだ。
 この人は、後ろ髪を引かれないよう、兵士に結婚を禁じたローマ皇帝クラウディウスに反対して処刑されたらしい。結婚さえしなければ、喜んで戦争に行くと考える皇帝だから、実は強い皇帝で「ゴーティクス」と呼ばれている。これはゴート人征服者の意味だ。当時の皇帝としてはそれほど悪い皇帝ではなく、きっちりローマのために戦い、ドナウ川流域のゴート人を押さえ、そのいい気の秩序回復にもがんばったらしい。コンスタンティヌスがクラウディウスの後裔を名乗っていたということもあって、著名になったと、辞典にはある。
 ところが面白いことに(interestingという意味で)、このクラウディウス自身も、疫病で270年に死んでいる。別にヴァレンティノスに祟られたわけでもないだろうが、不思議なことである。今と違って、皇帝に反対したくらいで殺されてしまう時代だから、ヴァレンティノスという人も、根っからの正義漢、聖職者だったのだろう。

 このクラウディウスという名前の皇帝は、実はもう1人いる。こちらの方がもっと有名だが、これより前、紀元直後、カリグラの後、ネロの前の皇帝だ。映画もあるので、カリグラよりもカリギュラの方が通りがいいと思うが、実は辞書などでは、「カリギュラ」ではあまり出てこない。
「カリギュラ」という映画は見ていないが、「やらしい」というイメージがある。ネットで検索すると「ヘア解禁版」なんて載っているから、推して知るべしと言うところだ。AVではないが、AVもどきの人生を送った皇帝なんだろう事は想像が付く。この人が第3代のローマ皇帝。そして、第4代がカリグラの治世を改めていい政治を行ったクラウディウスだ。英語で<Claudian>というと、ティベリウスからネロまでの時代を指すのだそうだ。初期ローマ時代ということだろう。
 このクラウディウスは2番目の奥さんに毒殺される。この奥さんが「小アグリッピナ」と、頭に小さいという時を付けられてしまうアグリッピナで、連れ子こそがネロに他ならない。ネロが暴君であることは有名だが、つまり、クラウディウスはカリグラとネロというひどい皇帝に間に、短期間いた名君だったということらしい。

 まあ、この1世と2世の間にどんな関係があるか解らないが、皇帝としてはどちらも、そこそこな皇帝だったようだ。ヴァレンティノスが処刑されたのはつまり、「国を弱くする献策」というような意味合いなのかも知れない。
 そのヴァレンティノス、つまりバレンタインが闘ったのは兵士の結婚だったが、その後、この季節に小鳥が発情することと関連して、親子が愛の教訓と感謝を書いたカードを交換する火となったのだそうだ。女性が男性に愛を告白するようになったのは、20世紀に入ってからだという。一方的に女が男でない地方もあるようだが、多くは女性が男性に愛を告白したりプレゼントしたりという風習のようだ。

 日本でチョコレートを渡すようになったのが、チョコレートメーカーの仕掛けであることは知られているし、考えてみれば当たり前のようなことだが、実は、昭和11年と27年に「モロゾフ」が仕掛けて失敗したらしい。モロゾフは関西の会社なので、関西でしようとしたのか?
 その後、昭和33年にメリー・チョコレートがヨーロッパからの移入という形で新宿伊勢丹で始めたのが現在の流行の最初である。
 だから、バレンタインにはメリー・チョコレートを送るのが本当なのかも知れない。モロゾフは悔しいだろう。
 いずれにしても、その風習が始まって47年目という事になるわけだ。半世紀近くが立つ。3月14日にはホワイトデーなどというのもできている。こちらは菓子組合の創設なので、完全に菓子業界に踊らされているわけだ。
 女の子から男に送る日だけがあるのは不公平だという女の子の声も後押ししているのかも知れないが、レディーファーストという言葉を持ち出すまでもなく、日頃から男の方が贈り物をしたり、驕ったりが(どちらかというと)当たり前の世の中なのだから、行事としては片方だけで十分だと思うのだが・・・・

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 12:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

お茶

 お茶と一口に言っても、日本茶から紅茶、中国茶を始め世界各国とまでは言わないが、かなりたくさんの種類のお茶があるだろう。
 昔(相当昔かな?)と違って、今ではペットボトルで手軽にお茶が飲める。今現在も、私の手元には「お〜いお茶」の2リットルのボトルがある。緑茶ばかりでなく、紅茶やウーロン茶を始め、数多くの健康茶もある。
 お茶は元々植物なのは当たり前だが、百科事典で調べると、「ビルマ(ミャンマー)のイラワディ川の源流地帯」あるいはもっと遡って、「下部チベット山系」らしい。
 日本茶はそれらの茶が徐々に伝播してきたものと「野生茶(ヤマチャ)」という日本の固有種の配合によるらしい。

 葉っぱをお湯に浸してその汁を飲むと美味しいと最初に思った人は、なかなかすごい。他の葉っぱではなくお茶なのだ。そして美味しい。元々が薬用だったと聞くと納得できそうだ。

 お茶はたくさんあるようで、大別すると参加の具合で3種類になるらしい。発酵させない緑茶、半分発酵させたウーロン茶のようなもの、そして紅茶。酸化させることで、独特の香りが出るらしい。
 あとは、そこからの工程や、どの葉を使うかなどによって分かれるらしい。紅茶などは産地なのかな。

 個人的には緑茶、それも煎茶が一番好きだ。本当はきちんと茶葉を急須に入れてお湯で淹れるのが一番美味しいが、めんどくさいので「お〜いお茶」になる。
 ペットボトルでも最近は、「まろ茶」「生茶」「伊右衛門」「旨茶」などのいわゆるお茶に、ヘルシアとか、カテキンとか、カテキン濃度を高めたり、身体にいい成分を加えた濃い緑茶や、「十六茶」「爽健美茶」のような、私個人としてはお茶じゃないだろう!といいたいようなものまで、非常にたくさんある。
 もちろん全部飲んだことはないが、いくつか試してみて、なぜか私の好みに合うのは「お〜いお茶」だ。

 前出のカテキンなどの効能で、お茶は身体にもいいらしいが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしというのは、茶でも例外ではないだろう。コーヒーの飲み過ぎは良くないという話と同じだと思うが、コーヒーとお茶の併用なら大丈夫なのだろうか?
 カフェインがいけないのだとしたら、コーヒーを控えても、お茶をその分飲んでいれば同じだというような気がする。紅茶に変えても一緒だ。

 ただ、同じお茶でも緑茶が日本人に会うのはよく分かる。紅茶でお茶漬けは食べたくないから、日本人の食生活には緑茶が合っているに違いない。ただ逆な考え方をすれば、あるいは紅茶茶漬けは食べたことがないが、美味しいかも知れない。同様に、烏龍茶づけ、ジャスミン茶漬けとか・・・・試す勇気がないな。

 たまに実家に帰ると美味しいお茶が飲める。お茶も家庭の味というのがあるのかな?なんてふと思ってしまうが、実は大きな理由は、どこの店で購入したかとか、どの程度のお茶かと言うことなのだろう。

 お茶というのは、「喫する」と言うが、喫茶店というのはそうすると、お茶を飲む場所なのだろう。コーヒー紅茶は有料だが、お茶は特定のお店に行かない限り無料だ。日本料理店に行けば、ただで茶が出るが、レストランでただで紅茶を出す店はない。中国料理店では烏龍茶やジャスミン茶をただで出すことが多いので、そう考えると、レストランでは、紅茶を無料で出すべきだと思うのだが・・・・違うかな?
 尤も、お茶−茶道ということになると、またこれは違って、芸術の一分野みたいなところもある。戦国時代、茶器が一国にも値する等と言われたくらい「茶」というのは特殊な精神世界を伴ったものなのだろう。
 でも、お茶はリラックスして、適当に飲むのが一番だ。
「結構なお点前」のお茶は、旅先の思い出程度で十分だ。

 茶を飲む、あるいは茶を喫する、気持ちが安らぐではないか。

投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 00:39 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月11日

ELO

 ELOといったってエロじゃない。Electric Light Orchestraの略だ。
 最初に私がELOに出会ったのは中学生の頃、テレビであった。ソウル・トレインと同じくらいの時間帯にやっていたアメリカの音楽番組で、「ラレドの嵐」を聞いたのが初めてだった。同じ時に、ビージーズの「ブロードウエイの夜」をやっていて、なぜかこの2曲がすごく好きになった。

 ELOはジェフ・リンというリーダーが率いるロック・グループだが、エレクトリック・ヴァイオリンやチェロといった、弦楽器を演奏するメンバーがいて、クラシカルな編曲を得意とするバンドだった。曲もほとんどジェフが書いていると思う。
 彼は元々moveというバンドにいて、それがELOの母体となっているはずだ。
 私が最初に聞いた「ラレドの荒し(Laredo Tornado)」は5枚目のアルバム「エルドラド(El Dorado)」に入っている曲だが、彼らが有名になったのは、最初はチャック・ベリーのカバー「ロール・オーバー・ベートーヴェン(ROLL Over Beethoven)」だと思う。その後は「A New World Record」「Out of the Blue」「Discovery」そして何より、オリビア・ニュートン=ジョンとの「ザナドゥ(Xanadu)」で売れたと思う。この3枚のアルバムはミリオン・セラー級だったはずだ。
 非常にポップで、私としては珍しい。多分ストリングスセクションのアレンジなどが好きだったのだろう。
 どちらかというと私は初期の頃の方が好きで、ELOの音楽はよくビートルズ風とか言われるのだが、私にはよく分からない。ジェフがビートルズ・マニアなのはよく知られた話だが、であれば、そういう側面はあるかも知れない。だが、私はビートルズをほとんど聴かないので、よく分からない。・・・・「ロール・オーバー・ベートーヴェン」も、ジョン・レノンが歌っているはずだが。

 実は、売れてからのELOは余りよく知らない。「Face The Music」だったかな?その辺りまでが聴いていた最後だ。「Evil Woman」なんていう曲は代表曲だと思うが、日本タイトルのクレジットが、昔は「悪い女」とか、よく覚えていないが日本語で付いていたようなかすかな記憶はあるが、その後は「エビル・ウーマン」だった。聴いていれば、「イーヴル・ウーマン」と発音しているのだから、いいかげんなものだ。
 だが、この曲は好きだ。私は、これぞELOだと思っている。アルバムとしては「エルドラド」がコンセプト・アルバムとしてもまとまりがあっていいが。

 実はCDになってから、最初の2枚のアルバムは持っていない。今度輸入盤やさんでも探してみようかな。

投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月10日

サッカー 北朝鮮戦

 昨日、サッカーのに本体北朝鮮が放映された。
 瞬間最大視聴率は50%を超えたという。単純に2軒に1軒が、少なくとも一度はチャンネルを合わせたと言うことだ。すごいな。
 まあ、私もその1人ではあるので、視聴率の計算とは無関係だが、何となく、視聴率の計算も、それほど間違ってはいないのかな、という気がしないでもない。だが、よく言われることだが、知り合いでも何でも、視聴率のリサーチに参加しているという話を聞いたことがない。まるで宝くじの一等のような感じだ。

 視聴率の話はいいとして、その瞬間最大と同様に、私も全部見たわけではない。最初見始めたのが、開始20分くらいだったのかな?1−0で日本が勝っていた。しばらく見ていると、どうも雲行きが怪しそうなので、一旦テレビを消して別のことをやっていた。再び付けた直後、同点にされた。
 野球でもそうだが、自分で見ていると負ける、というときがある。こんな事は全く意味がないとは知っているが、何となく雰囲気があって、また消した。
 偶然とか必然というのは、所詮は確率の問題で、サイコロを6回振ったら、均等に1から6までの目が出るのが確率ではない。単純に1回振った場合に1から6が出る確率は6分の1ずつである(厳密に言うと違うらしいが・・・トリビアの泉でやっていた)。
 それでも、1が6回続けて出ることだってあり得る。だが、1が6回続けて出たりすると、そこに何かありそうだという無形の不思議を見たがるのが人間の常だ。イタリアの宝くじで「53」が出ないために自殺者まで出たというのは、まだ最近のニュースだ。ようやく出たらしいが。これだって、「53」という数字に不可思議な何かを感じている人は多くいたはずだ。
 13が不吉だったり、666が悪魔の数字だったり(余談だが、「ドラゴンボールZ」のアニメのエンディングで、孫悟飯とビーデルが乗っている車の脇に「666」という番号が付いている。こういうしゃれが私は大好きだ。・・・ビーデルの父親はサタンだ)、とかく数字に限らず、験担ぎや、ジンクス等というのは多かれ少なかれ、誰にでもあることだろう。

 というわけで、次にテレビを付けたのは、ちょうど試合が終わった直後で、アナウンサーが「2−1で日本が勝った」事を伝えている瞬間だった。時間を計ったわけではないし、ロスタイムもあるわけで、最後のゴールの瞬間は見られなかったが、日本人の私としてはいい結果と言うことになる。
 先日書いた、「郷愁」という気持ちはなくても、「同胞意識」というのは何となくあるもので、日本が勝てばうれしいというのは素直な感想だ。

 北朝鮮チームのサッカーというのはほとんど知らないが、今回の試合を部分的に見た素人の見方という前置きをして、どうも今回の日本チームはちぐはぐな感じを受けた。単純に攻め込まれていることが結構多かった(私が見ている時間帯は)のでそう見えるのかも知れないが、そんな印象だった。
 サッカーに関しては、私は完全にその他大勢のファンのしかも大分上っ面なファンなので、「なんとなく」でしかものが言えないが、昨日の試合を評して「白熱」という風にはあまり見えなかった。結果から言えば白熱だが、シュートとしてかっこよかったのは北朝鮮のゴールだったな。
 ただ不思議に思うのは、日本という国は何でもそこそこやる国だなと思う。純粋に体力勝負の、短距離走や、ハイジャンプなど、身体的な技術以前の優劣が物を言う競技は、どうしても外国の選手が強いことが多いが、技術を活かす競技では、意外にいいところまで行くような気がする。
 サッカーなんて、日本で盛んになったのはついこの間のことのような気がする。「巨人の星」は誰でも知っているが、「赤き血のイレブン」はあまり知られていないみたいな比較が、意外に野球とサッカーのJリーグ以前を象徴しているように思う。
 そのサッカーが、とっても強いわけではないが、前回のワールドカップでもそこそこの試合をしていたりする。なかなかすごいことだ。

 ま、どちらにせよ、昨日の試合を勝ったことは良かった。次の試合が、同じ視聴率を取れるとは思えないが、是非試合はがんばって欲しいものだと思う次第。

投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 22:53 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 9日

小泉純一郎

 国会中継の小泉首相の答弁を聞いていてよく思うことだが、何とも歯痒いと同時に、いかんよなあ、あの態度はと感じてしまう。
 世の中ではよく説明責任という言葉を最近使う。企業なのではアカウンタビリティなどと横文字を使ったりする。

 政治家の多くはその説明責任を果たす義務があると思うし、それができていない人は多い。これは国民を患者と見たインフォームド・コンセントのようなもので、単純に「私は説明した、あと何せいとうのだ?」というのは全くもって説明責任を果たしたことにはならない。相手が理解して納得できるように説明して初めて責任を果たしたことになるのであって、小泉首相のように「どこまで説明しても不十分と言われるのだから仕方がない」というような開き直りは、あたかも自分にその能力がないことを露呈しているようなものであって、もしそうであれば、首相たるに足りない人物と言わねばならない。

 ところがこれは、問題が別のところにある。彼に能力がないのではなく、作為的にそのような手法を取っているだけだと言うことである。これはあたかも、悪さをして叱られた高校生が、適当にごまかしたり、「俺はきちんと説明してるだろ」を容認するのと同じ事だ。
 妙に、郵政民営化だけに饒舌で、他のことになると、「いろいろ」だとか「〜できるようにがんばって欲しい」だとか言う発言が多すぎる。
 私は個人的に郵政民営化は賛成だ。なぜかと言えば、せめてそのくらいやらなかったら、小泉が期待されて首相になり、明確な形としてなったことは何なのだ?増税だけか?というお話しになってしまうし、民営化のメリットとかディメリットとかいう話は私はやってみなければ解らないという立場だからだ。
 荒井議員が言うように。ディメリットだらけのはずはないし、小泉首相が言うようにメリットだけのはずもない。いずれにしたところで、国家規模で何かが変わらなければ、この国は永遠に変化しない。
 旧態依然とした自民党政治が続くのなら(実は現在の民主党なら、自民党政治とそれほど大きく変わるようには思えないが)、単純に世の中が良くなるとは思えないし、国家とか政治が、そもそも何のためにあるのかと言うことを問い直すような世の中にならなければ、やはり同じだという気がする。

 小泉純一郎のいいとlころは、こと郵政民営化に関しては頑ななところだ。自民党全員を敵に回してもやろうとする気概は買いたい。郵政族と言われる議員や、民営化反対の議員には、普通に考えても、利権や既存の何かを壊したくないという、国民を必ずしも向いていない背景を感じる。
 では小泉がそうかというと、実はそうでもない。ただ、変革が必要なときに、しっかりした変革を行わないで、中途半端な変化だけをあてがうと、事はより深刻になり、うまくいかないというのはよくあることだ。
 私も以前会社で経験した。

 やるなら徹底して、しっかりした変革を加えることだ。
 郵政民営化が可能なら、失敗した場合に国有化をすればいいのであって、やってみる前からああだのこうだの言うから、「族議員」というのは・・・と思われてしまうのだ。
 道路公団だって、社会保険庁だって、どんどん民間のエネルギーを入れればいい。少なくとも、「公務員は」とか「行政は」と言われない国家体制を作って頂きたい。そのためには、国民自身が大きく何かを買えていかねばならないのだろう。それがなんなのかが問題だが。

投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 22:58 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 8日

受験

 受験シーズンです。
 受験と縁を切ってから、30年近い年月が経ちます。独身なので、子供の受験とも無縁です。大学受験の後、試験らしい試験はほとんど受けていません。前の会社で「販売士」という、あまり意味の分からない資格を取れと言われたときくらいです。
 そもそも資格ということには非常に無頓着で、取ろうと思ったことがありません。これまた前の会社で、衛生管理責任者というのと、防火管理何とか言うのを取りましたが、無試験です。
 Youcanという通信講座のCMをよく見かけます。資格や特技なんかを通信教育で勉強するものです。
 通信教育は中高生の頃、進研ゼミとイラスト、会社でなぜか翻訳と、先に書いた販売士を勉強したくらいです。翻訳は、SFを原書で読みたかったからですが、身に付きませんでした。

 勉強とは勉めて強いると書きます。勉強を漢字辞典で調べると第一義に「困難なことをむりにがんばってやること」とあります。ある意味努力と同義ですね。私にとっては尤も苦手なことです。努力と、継続。この受験にとって尤も大切なことが、私は嫌いです。
 のんびりのほほんと生きる。これが信条ですから。

 尤も、口でそう言っても、一生懸命やるときはやらないといけないのは、人間当たり前のことです。
 受験勉強は今でも嫌ですが、小学校から大学まで、17年間(浪人してるので)、もう少し勉強しておけば良かったな、あるいは、その頃覚えた知識を忘れないでいたら良かったな、と思うことは、社会に出てずっと感じていることです。
 国語、算数(数学)、理科、社会ばかりでなく、音楽や美術などもそうです。大人になってからはなかなかできません。
 国語や、政治経済などと言った教科は、実は大人になってからでも、自然に身に付くような気がしますが、他の教科は、勉めて自らに強いないとどうしようもありません。ましてや数学や科学は、既に頭に入ってこない部分も多いです。微積ももうちょっとまじめにやっておくんだったなあ、なんて思っています。当時は、社会に出て何の役に立つんだ?と思っていましたから。
 
 しかし、「役に立つ」とは、収入の元になる仕事に直結しているということではないのだということを、当時は誰も教えてくれなかったような気がします。
 もし仮に、30になって、急に数学に目覚めたらどうする?それから勉強しても遅いぞ。こんな台詞の方が、受験勉強としてよりも、直接心に響いたかも知れない。
 尤も、私は数学は決して嫌いではなかったので、英語などよりは楽しかった記憶があります。人間、自分ができない者は嫌いになりますから。

 受験というのが、高校や大学に受かるためのツールである間は、やはり多くの学生は楽しく勉強できないでしょう。何かこう、趣味を生かすための勉強であれば、楽しかったに違いない・・・・そう思ったりします。
 楽典は嫌いでも、みんな必死になってギターを弾けるようになったり、コードを覚えたりする、っていうのと似ているな。

 きっと受験生は、もちろんそれを楽しんでいる人もいるのだろうけど、辛い人の方が多いでしょうから、がんばれと言うよりは、いずれ大人になったときに、今の知識は、日常を楽しくする役に立つんだぜ、絶対。そう言って上げたい気がします。

投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:54 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 7日

薬のCM

 薬のCMというのはたくさんある。
 以前から気になっているのだが、多くのCMで、最後に「ピンポン」とか「ポンピン」とかいう。あれは何なのだろう?
 特定の製薬会社だけがやっているのなら、その製薬会社なりの何かと言うことになるだろうが、複数の製薬会社の薬で言っている。
 もちろん統計を取ったり、調べたりしているわけではないので、どれくらいの薬で言っているのかは知らない。あるいは勘違いかも知れない。だが、印象では明らかに違う薬のコマーシャルでも、違う芸能人が「ピンポン」と言ったり、その音を流したりしている。
 いったいあれにどんな意味があるのだろうか?

 かぜ薬の時だけとか、胃薬の時だけかも、解らない。
 CMというのは待っていてもなかなかそのCMをやらないものだ。たまたま見る機会が多い。恐らく、1週間、朝からずっとテレビを見ていれば、相当数のCMを見ることはできるだろうが、CM評論家でもないので、そんなことはしたくはない。
 ただ、時折目にするCMで気になるのだ。

 いつ頃からそれが始まったのだろう?
 なぜ、同じフレーズで言われるのだろう?
 注意を喚起するという意味では、少なくとも私みたいのがいるから、成功はしている。但し、どの薬かよく覚えていないと言うことになれば、その成功もどれほど意味があるのか・・・・
 ただそれだけのことなのだが、気になる・・・・

投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:16 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 6日

ごくせん

 日テレでもやっているが、どちらかというとマンガの方だ。
 何の気無しにマンガ喫茶で手に取った。実を言うとマンガ喫茶もほとんど行ったことがない。たまたまつきあいで行った。
 前にテレビドラマでやっていたし、確かアニメもあったと思うので、見たことはなかったが、タイトルは知っていた。だから何の気無しにてに取ったのではないかと思う。主人公らしき強い女が出ていた。ぱらぱらっとめくった中にたまたまあったそのシーンだけで読み始めた。
 
 やはり根本的に、こういうマンガが好きなのだ。主人公は強くなくては。この圧倒的な強さこそが、私がマンガに求めているものなのだ、改めて実感した。面白かった。一気に8冊か9冊あった既刊分を読んでしまった。
 ついでに最近ドラマも始まったので、見ようと思いつつ、第1回を途中から見ただけで、いつでも忘れる。気が付くと日曜日だ。放送は土曜日なのに。第1回も強かった。
 意外に仲間由紀恵はいけている。「TRICK」でもそうだったが、彼女はコメディーがいい。・・・というより、シリアスなドラマに出ている彼女を見たことがないから、比較ができない。ずいぶん昔、映画に出ていたのを(高校生役で)見たことがあったが、どんな話かも忘れた。

 この、やくざの娘で、誰よりも強い高校の女先生という設定は、それだけで楽しい。ワルの高校生の誰よりも強い。街のちんぴらよりも強い。ちょっとしたやくざよりも強い。しかもやくざとは言ったって、気のいいテキ屋のあんちゃんという感じで、やくざらしくない。マンガでは、顧問弁護士の男に惚れていたが、テレビではどうなのだろう?

 実は、何に連載されているのかも解らないので、単行本を見るしかないのだが、何巻まで出ているのかも知らない。まあ、縁があればそのうち読めるだろうと思っている。
 しかし、久しぶりに、また読みたいと思うマンガが見つかった。
 マンガというのはちょっと読むのにとてもいい。小説は「ちょっと」読むには面倒だ。

 テレビはマンガのようにのほほんとしていない点が若干不満だが、それでも1回見た限りではなかなか面白かった。やはりテレビだと、かつての青春ドラマみたいな臭いがどこかにある。やむを得ないが、優しい校長に、憎たらしい教頭、腰巾着の先生、そして破天荒な主人公、ワルだが人のいい生徒達、日テレはまさに独壇場の設定に違いない。村野武則や中村雅俊、古くは竜雷太や浜畑研吉、夏木陽介と言った先生達は、ヤンクミとは違った、普通の先生だが、その他の設定は、テレビではまさに「××青春!」な感じだ。
 どちらが面白いかと言えば、コメディな分、「ごくせん」かな。少なくとも「青春物」じゃないし、「学園物」でもない。反町隆史が出ていた「G.T.O」などよりも、楽しいな。

 ・・・・来週こそ見るぞ!

投稿者 keisuke_yui : まんが | 23:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 5日

旅と三宅島

 三宅島に行ったことがあるわけではない。
 先日、ようやく三宅に帰ることができた人のニュースを見ながらふと思った雑感である。

 私は旅が好きだ。知らない土地を訪れるのは「何が」楽しいのか解らないが、楽しい。前にも書いた「旅の楽しみ」という意味では、料理や温泉やと言うこともその一つなのだろうが、それとは全く違う、単純に「いい気分」だからだと思う。
 私は実家が埼玉県だが、いわゆる郷愁というのはない。電車で1時間半だから、「ふるさと」気分もないのかな?とも思うが、北海道だって飛行機ならそんなものだ。
 私が思ったのは、あの噴煙が吹き上げる三宅島に帰りたくて仕方がない人たちの事だ。それを否定しようって言うのではない。ただ、その中のお年寄りの1人が「自分の生まれ育った土地に帰りたいのは当たり前」といったようなことを言っていたので、ふと、「当たり前かな?」と疑問に思っただけだ。
 もちろんそういう人がいるのは不思議じゃないし、たくさんいるだろう。生まれてこの方50年も60年もそこに住んでいたのなら、愛着もわくのだろう。
 だが私にはその感覚が実感できない。

 私が今住んでいるのは東京の杉並だが、仕事と便利だから住んでいる。書いたように、生まれ育った土地にも別段愛着はない。尤も、私は生まれてから数回引っ越しをしているので、そう言うこともあるかも知れないが、それでも同じ市内だ。
 要は、個人差だと言ってしまえばそれまでなのだが、土地が人間をそこまで縛り付ける「何か」とはどんな物なのだろうな?と不思議に思ったのだ。
 例えば、私はほとんど外国語はできないから、外国で暮らせと言われれば、できれば日本で・・・・と思うが、これで英語でもフランス語でもドイツ語でもできれば、何も日本だけが暮らすのにいいとは限らないので、いろんなところに行きたいと思うだろう。

 それでも故郷は日本だろう、というかも知れない。確かに、故国という意味では日本だ。それは国籍がそこにあるからだ。だが、「ふるさと」と言葉で書くような感情を込めた「故郷」という意味合いはない。親兄弟が住んでいるという意味では、肉親に対する思いはあるから、そこへは帰るが、それは全く土地とは無関係だ。
 田舎と言い表せるほど地方であれば、あるいはそういう感覚も持ち合わせたのかも知れない。もちろん、私の実家は「都会でない」という意味では田舎だが、「田舎へ帰る」という字義から得られる田舎という概念とは無縁だ。実家へ帰ることを「帰郷」とは言わない。

 これは先ほど書いた「距離感の喪失」に原因はあるかも知れないし、視点のグローバル化(というと言い方はかっこいいが)と言うことかも知れない。
 昔のアニメというか怪獣もののドラマに「シルバー仮面」というのがあった。その主題歌は「故郷は地球」というものだった。つまり、宇宙規模で考えると、我々の故郷は地球なのだ。それをミクロ化していくことで、日本が故郷になり、××県が故郷になり、○○市が故郷になり、同じ意味で三宅は彼らの故郷なのだと思う。
 だとすると単純にこれは視点の違いであり、冷静に考えれば、年中有毒ガスの警報が出る地域に住むという選択をすることの意味が、経済的なことを除けば、私には理解できない・・・・いや実は理解できるのでこの表現は正しくないが。
 ただ、三宅でなければ東京都という選択であれば、暮らしづらいだろうなというのは解る。そう、慣れていない土地での生活は暮らしがしづらいのだ。

 旅が楽しいのは、その土地に一時的に訪れるからだ。その土地の風習や、町内での決まり事があっても、それに縛られることはなく、外からその「変わった」部分を眺めることができる。そこに飛び込んで、住むとなると、必ずしも楽ではない。
 多分、三宅に帰る人たちは、それ以外のところで生活する方が「楽ではない」のだろうな、と思う。
 旅とは面白い物で、そこに住んだら、慣れ親しむまでに時間がかかって大変かも知れないのに、ちょっとの間滞在することが、むしろ日々の疲れを癒してくれたりするのだ。旅の効用は、短期間の非日常、だとしても、それほど極端な変化ではない非日常を経験することの面白さなのだと思う。

投稿者 keisuke_yui : | 22:05 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 4日

ニーベルングの指輪-1

 恐らく、私が初めてきちんと聴いたオペラ(この場合は正確には楽劇かも知れないが)が、「ラインの黄金」だ。これは、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」の序夜と呼ばれるものだ、
 ニーベルングの指輪は、「ラインの黄金」を始めとして「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の4作の楽劇からなる壮大な音楽劇だ。それぞれの作品が、通常のオペラ作品や、それ以上の長さを持ち、全てを演奏するには15時間前後かかる。
 映画「地獄の黙示録」で有名になったワルキューレの騎行は、この「ワルキューレ」の第3幕への前奏曲だ。
 私が最初にこのレコードを手にしたのは、大学生の時、3万円のショルティとウィーン・フィルによる、今となっては歴史的な名盤でのことだ。確か、ライトモティーフ集というのが付いて、全部で19枚組くらいだったと記憶している。1枚当たり1500円だったので、大学生でも買えたのだろう。
 これにははまった。
 CDでも買い直しているので、確かに好きなのだが、今歌っている歌手を見ると、ニルソン、ヴィントガッセン、ホッター、フラグスタート・・・なんだかすごい。ルチア・ポップがむちゃくちゃ若い。録音は1958年から65年だ。・・・おいおい生まれる前かい。
 ライブではなくスタジオ録音で、決して音も悪くない。

 ワーグナーの作品の多くは楽劇と歌劇で、交響作品や歌曲は数少ない。オペラではなくムジークドラマと呼ばれるが、ワーグナー自身はそう言ってはいなかったようだ。と言って、オペラとも呼んでいなかったらしい。Gesamtkunstwerkという風に言っていたという。まあ、総合芸術って言うことのようだ。
 オペラ自体が、ある意味総合芸術としての側面を持っているのでどう違うのかという話になると、アリアがないとか、音楽が止まらないとか、つまりは渾然一体となった全体的作品というようなことではないだろうか。ライトモティーフ(示導動機)というのもあるが、ワーグナーほど凝っていなくても、多くのオペラや、交響曲でも似たようなことをやっている作曲家はたくさんいるので、これはどうなのだろう?

 いずれにしても、最初の聴くオペラとしては重いし長い。モーツァルトの音楽などとは正反対な気がする。荘厳と言うより重厚で、「ラインの黄金」の冒頭から、何か壮大なドラマが始まるぜい!とでも言わんかのような音作りだ。私はこの、ライン川の流れの中から、ラインの乙女たちが出てくるところは、非常に好きだ。
 私はLDとDVDで、レヴァインとメトの盤を持っているが、いわゆるこういうオーソドックスな演出が一番好きだ。神様が背広着ていたり、ジークフリートの胸に大きな「S」マークが付いていたりする演出は、たくさん観ている人には新規でいいのかも知れないが、神話世界は神話世界らしい演出で観たい。

 しかし、聴けば聴くほどのこの曲はかっこいいし、ジークフリートを歌う歌手が「ヘルデンテノール」と呼ばれるのもよく分かる気がする。もちろんジークフリートが英雄だからだが、英雄はワーグナーのオペラの専売特許ではあるまい。
 しかし、ジークフリートのような純粋無垢な「英雄」というのはなかなか希有なキャラクターでもあるような気がする。
「ラインの黄金」は、借金をして城を建てたヴォータンが、ラインの黄金を盗んで指輪を作ったアルベリヒから指輪を盗んで、城を建てた代金に巨人に渡すというお話しだが、この指輪は「指輪物語」ではないが、世界征服のできる指輪でありながら、アルベリヒの呪いで、最終的には神々を没落に導く指輪だ。
「ラインの黄金」の最後で、指輪で代金を払い、人質になっていた義理の妹を救い出して、悠然とワルハラに入場するときの音楽「虹の架け橋」から、ラインの乙女たちが黄金を盗まれたのを嘆き悲しむ歌の部分が一番好きだ。他をすっ飛ばしてもここだけを聴く価値がある。しかも歌付きで。ここはオーケストラ編曲では味わいがない。

「ワルキューレ」以降はまたいずれ。

投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 3日

時間

 時間というのは何だろう?
 広辞苑を引くと「時の流れの2点間(の長さ)。時の長さ。」と第一義に書いてある。では、時とは何か?を引くと「月日のうつり。とき。「時間・同時」」と書いてある。循環参照だ。Excelでよく出るエラーだ。
 恐らく時間とは、言葉にできない、昔から今、そして未来という軸で人間が感じ取れる何かなのだ。
 よく、家に閉じこもりっきりになっていたりすると、時間感覚がなくなるという事を言ったりするが、これは「今が何時か解らなくなる」という意味で、時間の経過が解らないわけではない。
 この文章を書き始めてからこの行まで、明らかに「時間」として定義されている何かが経過した。

 この世の不思議は、どこまで続くか解らない空間とどこから来てどこまで行くのか解らない時間という似て非なるものが支配している。アインシュタインはこの世の中の定義を空間+時間の四次元であるとした。そもそも次元というのが数学用語で、我々が「四次元」という言葉から受ける印象とは大分違っていると思う。
 かつて四次元空間というと、空間を形成する我々の三次元宇宙とは違った(例えばヤプール人の住む)空間というイメージがあった、多分にこれは、マンガやSF、映画といった創作を見た印象から来ている。アインシュタインが四次元と言ったのはそれよりずっと昔のことだ。
 次元というのは1,2,3と、それぞれがそれぞれのベクトルと直交するようにできている。我々がいる空間は三つの直交するベクトル以上のものを表現することができない。つまり、四次元目の時間が残りの三つに直交しているとしても、我々にはそれを見ることも、頭で理解することも難しい。
 実際最近の宇宙論では10次元なんていうよく分からないものが定義されているし、しかもその中の6次元は畳まれているなんていう表現を使う。

 いずれにせよ、時間というのはそう言った宇宙論や物理学上の定義では、この世を形成する空間と同次元で捉えられる物らしい。
 時間は悠久の昔から悠久の未来に向けて、同じように流れているように感じる。というより、計って初めて時間みたいな感じもする。しかし、空間を移動する速度によって、時間の経過に差が出るとしたら、果たして時間というのは、単純に我々が感じている「何かの経過」という目に捉えられない「こと」であるのだろうか?
 光速に近い宇宙船が開発されて、宇宙を飛べば、いわゆる「ウラシマ効果」と日本では呼ばれている時間の遅れの現象が、宇宙船内では事実上発生するらしい。
 となれば当然時間の進みは一様ではないし、我々が日々感じている「時の経過」は、一つの物理的な量であることになる。

 非常に不思議だ。
 我々はこの世に生まれ、死ぬまで、誰もが同じ時間経過で(その長短は別として)、この世を生きている。誰々が同じ時間内に余計に時間を過ごすなどと言うことはない(そういう意味では、宇宙船の中でも、人の感覚には時の経過は同じなので、得するわけではない)。
 自分の知らない過去を、自分で知ることができないように、遙かな未来を体験することもできない。しかしそのどちらにも人や物は存在し、同じように時間を過ごしている。
 この世に人が生き、様々なことができても、時間を左右することはできない。この世のあまりに多くの不思議の前には、人が関わることの多くはなんと少なく、単純なのだろうか、そんな思いに駆られる。

投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:06 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 2日

ポータブル・オーディオ

 ポータブル・オーディオと言えば、かつてのウォークマンがカセットを代表していたように、i-Podが現在では主流のような勢いだ。
 i-Podは、5GB、20GB程度のハードディスクプレイヤーで売れたわけだが、先日i-Pod Shuffle というメモリタイプの安価なヴァージョンを出したせいで、そちらが売れているらしい。尤も現在店頭ではどこも売り切れだと言うことだが。
 i-Podは、4GBタイプで3万円程度、20GBが4万円、60GBだと7万円する。
 i-Pod Shuffle は512MBが1万円、1GBだと1万7千円。
 単純に最も高い60GBタイプで計算すると、1GBあたり、千円ちょっとの勘定になる。メモリタイプは17倍の単価という計算だ。
 Creativeという会社から出ている60GBタイプは5万円くらいなので、20倍くらいということになる。
 ただ、メモリタイプはこれまで128MBとか256MBのタイプが多く、1GBというと、それの4倍から8倍の容量を確保されているわけで、1GBタイプの中では、i-Pod Shuffleは安価な方だ。
 しかし、これまでも1GBタイプがなかったわけではないのに、 i-Pod Shuffle のせいで、ハードディスクタイプからメモリタイプに主流が移行すると言ったような記事を読むと、日本人のブランド志向というのは、決してヴィトンやグッチばかりではないのだな、というのを実感する。
 パソコンにおけるMacintoshの神話みたいなものは、一時期崩壊しかけたような感もあったが、かつてWindowsがまだ3.1とか95だった頃は、グラフィックと言えばMacというのが普通だった。いまだにクリエイティブな仕事を手がけるデザイナーの多くがMacを使っているのも事実だし、多くの印刷業者がMac+Adobeというフォーマットを基本にしているのも現実だ。
 Adobeのソフトは、RGBではなく、CMYKという印刷屋で使う4色分解が基本の用だが、モニタを最初の出力先とするPCの現場であれば、RGBの方が理にかなっていると思うのだが。

 まあ、それはいいとして、このi-Pod Shuffle が、拡大化するポータブルオーディオの容量を縮小化に(現実的にはそう単純な物ではないと思うが、市場原理というのは恐ろしいもので)転じてしまうとしたら、寂しいことだ。
 かつてカセットテープの最長のものは120分だった。MDは最近のロングプレイになるまでは74分という、CDに単純に合わせたような中途半端な録音時間だった。
 CDの収録時間が、カラヤンの第九によっているという話は有名だが、本当にカラヤンがそう言ったかどうかは別にして、もしそんな基準で作ったとしたら、奇妙な話だ。技術的な問題であればまた別だが。
 MP3というフォーマットが確立され、デジタルオーディオの主流になりえたのは、一時期のダウンロードサイトの乱立による。著作権者やその保護団体は目の敵にしていたこれらのサイトがなければ、今のMP3はなかっただろう。これはあたかも、ビデオテープの普及にAV(アダルトの方だ)と裏ビデオが多大な貢献をしたのと似ている。
 MP3はCDの音楽を約10分の1に圧縮し、単純に言えば、CD1枚にCD10枚分を収録できる形式だ。パソコンで使う単位に直せば、MP31分当たり1MBを必要とする。つまり、パソコンの容量拡大も、このMP3普及の大きな推進役だったと言うことだ。
 ほんの数年前まで、GB(ギガバイト)という単位は、目にすることもほとんど無かった。10年前であれば、パソコンの記録装置は数百MBのフロッピーしかなかったのだから。
 それが、数百MBのハードディスクの次には簡単に4GBくらいに増え、今ではハードディスクプレイヤーでさえ、600GBなんていうハードディスクを搭載している。
 1分1MBと言うことは、1GBで約1,000分、つまり、めいっぱい収録されたCDが13枚半録音できるということだ。現状最も大きい60GBのハードディスク型ポータブル・プレイヤーであれば、800枚以上のCDが収録できる。現実にはCDの多くは50分前後の収録が多いし、昔のレコードをCD化したものだと、30分くらいのも少なくはない。そう考えると、場合によっては、1500枚のCDが収録できることになる。

 もちろんこれでも十分でないという人もいるかも知れないが、問題は1500枚のCDをMP3にしてハードディスクに入れる作業の方だろう。相当な手間だ。
 そう考えると、10枚程度のCDを収録できれば十分だと考える人が多くいてもうなずける。メモリタイプの方が、恐らくハードディスクタイプよりも、より振動に強そうだという予測も立つ。サイズも小さい。今後は携帯への組み込みもどんどん進むだろう。

 音楽はダウンロードで購入するケースも増えていくだろう。「物として形がないと」というようなリサーチ結果が出ていて、CDやDVDといったパッケージメディアはそれほど減らないなんて言っているのは、おそらくは世代間の単純な格差だ。
 ジャケットも、歌詞も、ライナーも、あらゆる物がダウンロードでき、パソコンとポータブルな部分との使い分けが簡単にできるような世代の若者には、パッケージなんて無用の長物である時代がすぐそこにあると思う。
 むしろ紙に印刷しない分、動きや、リアルタイムの歌詞対訳など、様々な有用な利用方法が出てくるに違いない。場合によってはクラシックなどの場合、楽譜のダウンロードや、関連情報も多岐多様なサイトとの連携が取られるようになるだろう。
 本だって、ダウンロードで手にはいるようになるだろうし、様々な意味で、メディアの観念は10年20年のスパンで、辞書の意味が書き換えられていくに違いない。

 ポータブルオーディオの持つ可能性というのは、一つに音楽に限らず、様々な情報とメディアのツールとして(電話なども含めて)、極めて重要な物になっていくはずなのだ。

投稿者 keisuke_yui : インターネット・PC | 23:10 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 1日

SFマガジン

 SFマガジンは早川書房が刊行している、恐らく現在では、唯一のSF専門雑誌だ。もちろん、調べたわけではないので間違っているかも知れないが。ずいぶん昔は「奇想天外」とか、「SFアドベンチャー」なんていう本も出ていた気がする。
 実を言うと、数冊の例外を除いて、SFマガジンは約30年近く買っていない。例外というのは「ペリーローダン」特集を除いてと言うことだ。
 1959年の刊行なので、歴史は私の年齢と一緒だ。私が初めて買ったのは、1971年の終わりか72年の初めだったと記憶している。毎月楽しみだった。
 一つには手塚治虫の「鳥人大系」と、平井一正+石森章太郎の「新幻魔大戦」という二つのマンガであり、何より、SFに関する情報を、中学・高校という年代の私にたくさん教えてくれた。
 当時連載していて記憶にある作品というと、半村良の「産霊山秘録」、内容もタイトルも忘れたが、田中光二の小説も面白かった記憶がある。また、「日本沈没」とか、「ゴエモンのなんとか・・・」いうような、個人的にはあまり好みではない小説でしか知らなかったような小松左京の「結晶星団」なんていうのも印象深い。
 しかしなんと言っても、海外の短編の宝庫だった。ラリイ・ニーヴンの「無常の月」を読んだときの感動は今でも忘れない。
 E.E.スミスの「渦動破壊者」も確かSFマガジンだった。
 実はあまり覚えていない。いつまで買っていたのかも記憶にない。
 ふと思い出した。山野浩一の「メシメリ街道」が好きだった。

 しかし、この青年期に読んだSFマガジンという雑誌が、私に及ぼした影響は大きい。今では、SFというジャンルは、非常に漠としていて、SF映画、SFマンガといった小説文や以外の方がメジャーなように感じる。
 最近のSFを読むと、やむを得ないがパソコンが全く世界を変えてしまったようにさえ感じる。コンピュータがHALだった時代とはSFそのものが様変わりしているように感じる。
 20世紀が生んだSFというジャンルは、科学の進歩とともに、非常にハードなSF(ヒューゴー・ガーンズバックが提唱したscientific fiction)から、スペースオペラや、ニューウエーブをフィルターに、サイバー・パンクを通り抜けて、再びScientific・Fictionになったような気がする。
 今でも50年代、60年代のアメリカやイギリスの作品が非常に面白く感じるのは、現代のものよりもセンス・オブ・ワンダーと荒唐無稽さが溢れていたからなのだという気がしてならない。
 例えば昭和30年代40年代のアニメやマンガと現代のマンガの大きな違いはリアリズムだと思う。もちろん、非現実的な設定や内容はたくさんあるが、作品の中にリアルな世界を構築していくことがどちらかというと求められている感じがある。
 これはSFでも同じで、単純に「光より速い」乗り物を出すことはなかなか難しかったりする。現在の科学から導き出されない非現実的なテクノロジーや、理論を書こうとすれば、それなりの裏付けや、理屈を必要とする。
 それが小説を必ず面白くするわけではない。

 私がローダンを続けて読める理由の一つは、恐らくその荒唐無稽を、40年間続けているところなのかも知れない。今のSF作家には「グッキー」は書けないだろうな、と言うところだ。
 久しぶりにSFマガジンを買ってみようかな。・・・・がっかりするかも知れないし、新たな目を開かせてくれるかも知れないからな。

投稿者 keisuke_yui : SF | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)