2005年1月31日
議員年金
国会議員の年金の「国会議員互助年金制度見直しに関する答申」というのが出た。あきれ果てて物も言えない。
そもそも、年金は「国民年金」「厚生年金」「共済年金」などいくつかあり、昨年くらいまで国民が知っているのは、前記の順序でもらえる額が高くなっていく程度のことだ。社会保険制度の見直しに、社会保険庁と関連団体のあきれた年金の使い方のおかげで、多くの国民がそれに興味を持ち、「おかしいぞ」と思い始めた。しかも「議員年金」というお手盛り(最近この表現をよく見かける)の制度があるという。
そもそも、国会議員自らの制度を国会で決めるというのは、いかがなものか。「まず隗より始めよ」という中国の郭隗の言葉があるが、社会保険制度など、国民の負担をまず重くしてから、批判が出たので渋々手を付けた格好だ。しかも、議員年金には国会議員だけでなく、地方議員にまでその制度はあり、それぞれ規定年数以上在籍すれば、その全てを手にすることができるという。
国会議員の言い訳はこうだ。曰く「退職金制度の代わりだ」、曰く「無くしてしまったら金持ちしか議員ができなくなってしまう」。
退職金の代わりなら、退職金にすれば良かったので、できるだけ長く、生きている間は恩恵を被りたいとするエゴ以外の何物でもない。無くしてしまったら金持ちしか国会議員をやらなくなる?それはそう言っているあんたらだけだ。金がないなら無いなりでもできる政治を考えることが、あんたらに与えられた責務だ。また、金持ちがやる政治と、金持ちになりたいから政治家になる人間が行う政治など、五十歩百歩だ。当然後者が五十歩だ。金持ちが悪人とは限らない。そもそも、金持ちなのだから、むしろ国民のための政治を無私で行う可能性だってある。しかし、金持ちになりたい政治家は、目的がそもそもそこになるのだから、いい政治など行うはずはない。
そもそも、選挙カー1台に1千万円かかると国会で豪語する総理大臣や、1億円をもらっても忘れてしまう元総理大臣がいる政党に何を期待するのか!という見方もあるかも知れない。確かにその通りだ。根本的に何かが狂っている。
今回の答申で、保険料の7割アップ、年金3割ダウンと加入年数が2年延びて12年になると言うことらしい。参議院議員なら2期、衆議院なら3期と、まことに解りやすい区切りだ。これまでの10年の方がよっぽど分かりづらかった(おっと、これは皮肉だ)。
あたかも官庁の職員宿舎が都内の中心で3LDK2万円だったのを、世間の批判に耐えかねて2割アップしましたみたいな改変だ。3LDKだったら1000%アップだろう。何考えてんだか。
そもそも、自分たちで掛け金を出し、その掛け金の範囲でやるなら、国民も文句は言わない(もちろん、そのぶん給料を上げるなんて馬鹿な真似は別だ)。7割が税金だ。あんた達が国家に対して何かをしたと自慢げに思っているほど、国民は評価していない。むしろ逆だ。国会議員なんて、いいことすれば当たり前に思われ、下手なことをすると年中やり玉に挙げられる。
田中角栄はあるいは傑出した政治家だったかも知れないが、所詮はロッキード事件で捕まった元総理大臣に過ぎない。それでいいのだ。政治家を志したのなら、そういう職種に就いたのだと思えばいい。損な役回りでも(実際にそんなにそんだとは思えないが)、国民のために働く、それでいいじゃないか。
国民はあなた達の議員年金を支払うために税金を払っている訳じゃない。まず、同じ負担で構わないから、国民にも毎月10万円負担させろ。10年払ったら、同じ額の年金をよこせ。それで初めて公平感が出るというものだ。これは数学だ。
でなければ、さっさとそんな制度は止めてしまえ。
政治には金がかかるという前に、一度でも金のかからない政治を真剣に考えたことがあるのだろうか?選挙のたびにポスターをそこら中に貼るのが選挙運動なら、何の意味もない。ポスターはその議員の能力や人柄など語りはしないからだ。
いっそのこと政府を二つ作り、競わせてはどうだろう?いい方に税金を払うっていうのは。・・・ウソだけど。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 23:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月30日
ディオ−1
ディオと言えば、私にとっては<ロニー・ジェイムス・ディオ>ELF、レインボー、ブラック・サバス、ディオというバンドに在籍し、ボーカルを担当していたディオその人のことだ。1948年生まれと言うことなので、現在56才。
メジャー・デビューはELFらしいので1970年。ファーストアルバムは72年の「ELF」。ロニーが妖精というより悪魔にコスプレしたジャケットだ。クレジットにはRonald Padavona とある。本名だ。そして、Bass & Vocal。セカンドアルバムの「LA59」からは、ロニー・ジェイムス・ディオとなる。この辺りまではロックンロールバンドで、妙に彼のヴォーカルだがハードな印象を与える。ただ、このセカンドの方はいいアルバムだと思うが。非常にポップで聴きやすい。恐らく曲にはキーボードを担当していたミッキー・リー・ソウルの影響が強いと思うが、こんなアルバム、知ってる人はよっぽどのロニーファン以外にはいないだろうな。レコードは国内でも発売になったことがあるので、ファーストよりは知られているかも知れない。
サードアルバムは75年の「trying To Burn The Sun」−太陽を燃やそうって、エンゲルベルト・フンパーディンクの全然原タイトルとは違う有名曲みたいなタイトルだが(ちなみにこのエンゲルベルト・フンパーディンクって、クラシック聴く人は、「ヘンゼルとグレーテル」っていう有名なオペラを書いた人だと思ってしまうことがある。こちらは、エンゲルベルト・フンパーディング・・・最後が濁るのだ)。
このサードアルバムは、リッチーブラックモアが参加したとかしないとか、真偽の程は知らないが、確かにリッチーっぽいギターも入っていることは入っている。その上、それまでのロックンロールなELFとは一線を画すような曲調にもなっている。
同時に、この後発表される「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」というアルバムにはELFっぽい「Black Sheep Of The Familiy」なんていう曲も入っているので、ELFからレインボーへの移行みたいなものがこのサードからレインボー・ファーストにかけては見られるので面白い。
このころはまだ、最近のディオみたいなおどろおどろしい歌い方はしていないが、時々リキの入ったコブシみたいなものは既にある。どこかのディオの紹介サイトで、メタル界のサブちゃんみたいな書き方をしていたが、ある意味、言い得て妙という気もしないではない。
ディオのボーカルの魅力は、裏返すと、嫌いな人にはそここそが一番嫌な、からみつくようなコブシ回しにこそあるので、いわば諸刃の剣のような感じだ。例えば、ロバート・プラントとか、ジョン・アンダーソンとか、グレッグ・レイクとか、ロブ・ハルフォードでもいいんだが、ロニー的な歌手というのは欧米にはあまり多くない。ハイトーンでシャウトするみたいな表現に合うのは、例えばイアン・ギランでさえ、それほど演歌っぽくない。
ディオはあの声で、高い音を出す。さすがトランペットで鍛えただけのことはあるが、だがストレートに高いところへ来るのではなく、ロニーならではの、独特な節回しがあるのだ。
だからこそ、オジー・オズボーンの後のブラック・サバスで、そこそこオリジナリティーの高い(レインボー的という言い方もあるだろうが)ボーカルを維持できたのだと思う。オジーの声はやはり、ヨーロッパぽいから。その点、ロニーのボーカルは土着の臭いがする。
リッチー・ブラックモアが、ギラン、デヴィッド・カヴァーデールと来て、どうしてロニーだったのか、実は理解に苦しむところがないわけではない。もちろん、歌は上手いし、声量はあるし、音楽的な趣味も近い物があったことは伺えるが、だとしても、リッチーがバロックを好きなほど、ロニーは好きじゃない気がする。
中世的な物への憧れというのは、例えば日本で言えば、戦国時代かぶれみたいな物で、ユーライア・ヒープにしてもウイッシュ・ボーン・アッシュにしても、多くのバンド、特にプログレでは、そういう傾向がある。
レインボーのファーストに入っている「Temple Of The King」やサードの「Kill The King」はもとより、「Gates Of Babylon」「Staegazer」なんていう曲も、実際は中世のお話しではないが、彼らの頭の中には非常に中世的な世界があったであろう事は想像に難くない。
バッハの音楽というのは中世の音楽ではもとより無く、近世の作曲家だ。
別にその辺りを明確にする必要は全くないが、バッハが大好きと公言してはばからないリッチーが、バンドで演奏したのは第九であって、ブランデンブルク協奏曲じゃないし、彼はクラシックナイズされていたディープ・パープルの音楽をハードロックに変えてしまった人だから、むしろそういう意味では、ロニーをハードロックに引きずり込んだら「売れる」に違いないと踏んだのではないか?
そんな気さえしている。
レインボーに関しては以前に書いたので、あまり書くつもりはないが、ロニー・ジェイムス・ディオの音楽は、結局のところ、このレインボーが大きな転回点になっていることは間違いない。
私は個人的にはロニーのファンなので、何でも好きなのだが、メタル・ロニーよりもむしろ、むしろロックンロール・ロニーの方が好きなんだなあ。
さて、レインボー以降のロニーについてはまたいずれ。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:09 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月29日
振り込め詐欺
オレオレ詐欺が振り込め詐欺になって、あの手この手で被害が拡大している。
最近では、コールバックというのを利用して、着信番号の偽装までするそうだ。
いずれにしても、由々しい時代だ。
ところで、振り込め詐欺などの罪って、どのくらいなのだろうか?刑法を見ると、10年以下と書いてある。しかし思うのだが、こういった組織的で悪意に満ちた犯罪に、10年は軽くないか?しかも「以下」だ。だがどう考えても、「金をだまし取ろう」という目的は明確だし、しかもターゲットは年寄りが多かったりする。30年くらいの罪にしておけば、多少は減るんじゃないだろうか?この種の犯罪は、どうがんばったって、「出来心」のはずはないし、最近流行の偽札と同じくらい罪を重くしてもいいと思うのだが。通貨の偽造は3年以上無期まであるのに、人を騙して金を巻き上げる組織犯罪が10年以下というのは、どうも解せない。
それともう一つ思うのは、人の感情というか、世の常というか、「示談」という言葉の裏に潜む、「金で解決」ということに対する世人の意識の低さだ。
お金をだまし取られた人たちの多くは、そんなことをどれほど考えているか知れないが、例えば「息子さんが事故を起こした。示談で住むから金を振り込め」といった内容だとすれば、交通事故も金で解決できる事の裏返しでしかない。しかもそれを、警察なりの公共機関が、後押ししていることになる。
政治家が起訴されても、大枚の金を払って保釈される。これはもちろん、刑の確定前は「被告」「被疑者」であるから、意味は分かるが、だが金のあるやつは保釈が可能で金のない者は保釈などできないという不公正な前提に立った制度に他ならない。どうも釈然としない。
もちろん、示談で解決する事故もたくさんあるだろう。だが、示談であると言うことは司法は不介入だし、警察も関与しないから示談なのだろう。それにしたって、いきなり振り込めなんていうケースが、それが詐欺でないとしたら、あり得るのだろうか?
最近増えているという誘拐や拉致というケースでは、これだけ不穏な世の中では、「信じない」という方が難しい。仮に本当だったらと考える親や親戚の気持ちはよく分かる。だからこそ、検挙された犯人には厳罰が相応しい。
医療ミスの隠蔽なんていうケースもあるようだが、半分は同情するが、残りの半分は同情しがたい。医療ミスの隠蔽に金を使うということに、たとえ自分の子供であったとしても、罪の意識を覚えろよという話だからだ。
まあ、大枚を出したって子供を医大に入れて跡を継がせたい医療関係者はなかなかいなくならないようなので、馬の耳に念仏なのかも知れないが。
年間の被害が数百億円単位だ。どんどん検挙して、どんどん刑務所に入れて欲しいものだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月28日
ディアボロス/悪魔の扉
「ディアボロス」は、アル・パチーノとキアヌ・リーブスが共演した映画だ。まだそんなに古くない。
負けない弁護士のキアヌが、裁判中に見た一場の夢のような体裁を取った映画。キアヌ・リーブスというと、「スピード」や「マトリックス」といった派手なアクション映画が有名だが、どちらかというと彼の顔は、こういう役に上手くはまっている典型のような気がする。
あの端整な顔立ちは、辣腕の若手弁護士にぴったりだし、ちょっと精神的に弱そうな雰囲気も、この映画にはいい感じだ。何よりアル・パチーノがすごいから、どうしたってそっちの方が目立ってしまうのだが、悪魔らしさが非常にいやみなく出ていてさすがと思ってしまう。
キアヌをニューヨークの一流弁護士事務所のスターに育てようとしたのは、父親たる悪魔のアル・パチーノだったというストーリー自体は、いかにもの感はあるが、最初私はタイトルも気にせず、しかも前情報無しで見たので、それほどホラーという感覚無しに、実は「弁護士物」みたいな感覚で見ていた。そうやってみると、このストーリーは意外によくできていて、恐怖の内に精神を病んでいくキアヌの妻(シャーリーズ・セロン・・・なかなかかわいい)も迫真だし、自らの弟を誘惑する魔女(ジュディス・アイヴィー)も、なかなかエロチックだ。
最終的な落としどころが、「一場の夢」的なところは、賛否あるのだろうが、であればこそ、最後の「虚栄心は人を惑わす」というアル・パチーノの台詞と、ストーンズの「黒くぬれ!」が生きているのだ。
アル・パチーノとロバート・デ・ニーロという俳優が、私の中では昔からごっちゃになっていて(と言って、違いが分からないとかそういうのではないが)、雰囲気とか、性格俳優的なうまさに何か共通するものを感じる。デ・ニーロはやはり「タクシー・ドライバー」が私には原点だが、アル・パチーノにはない。「ゴッドファーザー」みたいな映画があまり好きではないので(そう言えばデ・ニーロも出ていたのかな?)、アル・パチーノとの最初の出会いは、榊原郁恵の歌だったりしてしまうかも知れない。
いずれにしても、この悪魔的な表情が板に付いているアル・パチーノと、まじめな青年キアヌ・リーブスの対称が非常に面白いし、私はこの映画はホラーと言うよりはSF的だと思っている。・・・・怖くないから。
怖さよりも、人間の内面に潜む虚栄や欲望と、それを抑えようとする心の葛藤をコミカル(アニメ的という意味)に描こうとした作品であると思っている。
私の中ではかなり高評価の映画。
投稿者 keisuke_yui : 映画 | 23:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
NHKの海老沢・・・・元会長
度重なる不祥事と、それに伴う受信料不払いの拡大で、NHKの海老沢氏が会長を辞任した。引責辞任という形だが、それもやむを得まい。
NHKは受信料で経営される公共放送であり、いわば特殊法人だ。株主は受信料を払っている国民で、国民の多くが会長にNoを突きつけたわけだから、辞任して当然だ。
ところが、その舌の根も乾かぬうちに顧問に就任したという。NHKの経営広報部は「顧問は役員ではないため、実質的な権限はない。通常は役員が辞めると自動的に就任しており、今回も同様に委嘱した。アドバイザー的な身分であるため発表しなかった(読売新聞)」と言っているそうだ。
NHKという団体は、海老沢氏がなぜ辞任したと考えているのだろうか?なぜ受信料の不払いが、どんどん増えていると思っているのだろうか?
その辺りの感覚が、社会保険庁や、官庁、道路公団等と似ている。いわば他人事だ。
幾つものNHKの不祥事が海老沢氏個人の辞任でけりが付くわけでもなく、NHKの経営体質そのものが変革を求められている。NHKというのは実際問題、無くてはならない放送局だし、40%を切ったと言ったって、裏を返せばまだそれだけの人が観ている紅白歌合戦は、K-1やprideよりも放送の価値としては高いと言うことになる。というより、視聴率がどうあれ、スポンサーなど付きそうにないが、文化的に水準が高かったり、少数の視聴者のためであっても有意義な番組は作る続けるべきであり、何より報道は、信頼性の高いNHKならではの放送を続けていくべきだ。
妙に視聴者に阿り、視聴率の高いプロデューサーなどが幅をきかせることができるような風土こそを、NHKは変えていかなくてはならない。つまらんNHKでいい。但し役に立つNHKでいて欲しい。
NHKスペシャルなんて結構好きだ。芸能人なんて出てこなくたっていい。
そして、そう言ったきまじめな姿勢こそが、国民に対してNHKが思い出すべき組織としての姿勢ではないだろうか。
引責辞任した会長を、翌日顧問に頂くような組織に、いったい何が期待できるだろうか?組織の刷新をこそ目指すべきである。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 00:38 | コメント (0) | トラックバック (1)
2005年1月26日
ツタンカーメン
ツタンカーメンと言えば、エジプトの最も有名なミイラだ(変な表現だが)。10才で即位し、18才で死んでいるのだから、何かをすると言うことの方が困難だが、イギリスのハワード・カーターという考古学者が、ほとんど盗掘されていない墓を発見し、なおかつその後の発掘に関わった人々の不思議な死で、「ファラオの呪い」として有名になった。
現在、そのツタンカーメンのミイラがCTスキャンにかけられ、分析されているという。約3350年前の死体に対するCTスキャンというのがすごい。先日テレビで、そのシーンを放映していた。
分析に当たった博士は「カーターが無理矢理仮面を剥がそうとしたからミイラが痛んだ!」みたいなことを言っていたが、カーターが見つけなければ、いまだにツタンカーメンの王墓は見つかっていなかったかも知れないことを考えると、ほとんど八つ当たりに近い。
放送で見たミイラは、確かに人の形をしているが、人型をした黒い固まりに過ぎなかった。魂が永久不滅だとしたら、この抜け殻は必要ないし、むしろ、魂があるとしたら、このミイラにこそ宿ってしまいそうな気がした。
この分析を担当した学者も『ファラオの呪い』はあると信じていると言っていた。現にミイラを運び出すときにいくつかの問題が発生したらしい。
この世に、呪いだの祟りだのという、ホラー小説には欠かせないテーマが本当に存在するのか否かは、普通に生活していては解らないし、何かが起きても『偶然』という言葉はいとも簡単にそれらを否定してくれる。
しかした例えばツタンカーメンの関連書籍などを読んでみると、確かに発掘に関わった多くの人が、奇妙な病気や事故でなくなっているのも事実だ。偶然にしては頻度が高すぎる。と言って、ではカーターは、と言えば、65才まで生きている。これを早いと言えば、そうかも知れないが、発掘からは15年以上経っているし、全員が不思議な死に方をしているわけではない。
何でもそうだが、例えば細木数子の占いが100%当たるのかというとそう言うわけではない。でも、もしかすると、普通よりも確度が高いのかも知れない。氏の六星占術は、人間を六つに分類して「水星人」「金星人」「火星人」「木星人」「土星人」「天王星人」の性格や、運勢を判断するものらしいが、昔から八卦見と言うのは当たるも八卦当たらぬも八卦という一六進法で50%を言ってしまう性質を備えている。
つまり、何も考えなくても半分当たる可能性があると言うことなのだ。半分当たれば、それはそれで傾聴に値する。少なくとも、災難に関する物であれば、避けて通るにしくはない。外れるかもしれないけど、50%は当たる。
まあ、ファラオの呪いが、果たしてこれとどうクロスしてくるのかと言うことだが、確率から言うと、多分こっちの方が率が高いと言うことくらいだ。墓の前に「暴くと呪うぞ」と書いてあったからそう言うことになったというのが、ある意味真相に近いらしい。
ことほど左様に、眼に見えない何かというのは当てにならない。
だが、では否定できるかというと、否定すべき根拠がない。「非科学的」という言葉もまた、現代の科学を過信して、あらゆる事が現代科学の前には白日の下に晒されているかのような誤解の上に成り立っている、あまり意味のない言葉だ。
否定できない最大の理由は、否定するほど明白ではないからだ。
だが諸君、場合によっては予言も成就する。当たるも八卦なのだ。
部屋にいても「明日雨になる」と言えば、時には雨になることもある。
占いとか予言、信じるに値しない物がほとんどだろう。ノストラダムスだって外した(尤もこれは解釈が間違っていたという見方もあるようだが)。だが、君子危うきに近寄らずだ。
これを読んでる人、いつかあなたも死にます。この予言だけは外れることはない。
投稿者 keisuke_yui : 歴史 | 23:12 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月24日
マクドナルド
別にマクドナルドについて書きたいわけではない。
実は先日からかぜをひいて、一向に良くならない。朝方は熱っぽいし、咳も出る。ということで、今日は病院へ行った。結構混んでいた。
薬をたくさんもらって、帰途、めんどくさいので久々にマックでも食べようと、帰りがけに寄った。
なんと言うことはないが、注文時に軽く咳き込んだ。ほんのちょっとだ。手には病院の薬をそのまま持っていた。
マックの女の子が、お金を払って、「ありがとうございます」の時に一言、「お大事に」といった。なんだか非常にいい気持ちになれた。
マクドナルドのマニュアルに書いてあるとも思えないので、その子がとっさに行った言葉だろう。すぐに次の人に対応していたし。
人間というのは、ほんの些細なことで怒る。つまらないことで悩む。同時に、こんなさりげない一言で、いい気持ちになれるのだ。なにか、とても大切なことに気づいたような気持ちになった。
いや、本当にそれだけなんだが。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月23日
ドラゴンボール・・・Z
今更、「ドラゴンボール」を見ている。
私が「ドラゴンボール」を最初に見たのは、1984年、連載開始から、ほぼ9〜10年間にわたって、少年ジャンプで読んでいた。たまたま、職場がそういう環境にあったからで、そうでもなければ、マンガ雑誌は普段ほとんど読まないので、ドラゴンボールを知ることもなかっただろう。転勤になるまで、毎週読んでいた。と言うことは途中までしか読んでいなかったと言うことだが。
アニメなど尚更知らなかったが、最近、アニメ専門チャンネルの「ドラゴンボールZ」だけを見ている。なぜ、「Z」なのか知らないが、そういうタイトルだ。
昨年、単行本を読んでしまったのがきっかけだ。面白い。
連載当時はそれほど面白いと思っていたかどうかは覚えていないが、よく描けている。
このエントリーを書くに当たって、ちょっとインターネットで調べてみたら、「アニメ」と「ゲーム」に関するサイトはたくさんあるが、オリジナルのコミックに関するところは非常に少ないことが判った。・・・・というか、オリジナルに偏ったところはまず無いかな。
アニメを見ていて思うことは、何という長さだろうと言うことか。本であれば数ページが、もののみごとに数話分に分かれていたりする。しかも、アニメのオリジナルの挿話があるので、すごく長い。始まるまでのあらすじの紹介も長いし(八奈見乗児氏のナレーションは、あ、伴宙太だと思うが)、コミックのスピード感はアニメにはない。
私の場合、コミックが非常に合っていたとみえて、アニメのオリジナルストーリー部分は余分以外の何とも感じない。あそこまで原作に忠実に会話などをトレースしているのにもったいないな、と思ったりする。
現在は、魔神ブウという敵が最後の変身をした後なので、もう最後の最後と言うところだが、きっと余分な話を挟んで、大分かかるのだろうな、と思う。
何度か書いたが、私は「横山光輝の世界」等というホームページを作っているが、マンガには非常に疎い。もちろん、知らない人よりは知っている。うちの母親よりも知っている。しかし、横山光輝作品を除くと、極端に寡読(という言葉があるかどうか知らないが)になる。
先ほど書いたほぼ10年間は、1週間に10誌ほどのマンガを読んでいたので、実は読んでいないわけではない。「ゴルゴ13」だって、「こちら葛飾区・・・」だって、「美味しんぼ」だって読んでいた。でも今は読んでいない。
当時読んでいた作品で、単行本を買ったのは、「傷追い人」「北斗の拳」「カムイ外伝」・・・くらいかな?それ以外で単行本として持っているのは、「鉄腕アトム」「火の鳥」「ブッダ」「ブラックジャック」他、手塚作品が後数点、「バイオレンスジャック(2度読む気はしない)」「デビルマン」「巨人の星(新旧)」「俺の空」「硬派銀次郎」「エイトマン」「夕焼け番長」「ズウ」「人間交差点(数冊)」これで全てだ。・・・「勝手にシロクマ」って言うのがあったな。
いずれにしても、半分以上は本当に子供の頃に読んだ作品だ。
先ほど書いた10年の後は、いわゆるマンガ雑誌をほとんど読んだことがない。だから、いまだに「山口六平太」や「美味しんぼ」が連載されていると聞くと、ただ単に驚いてしまう。みんな「ゴルゴ」や「こち亀」になっていくのかな?という感じだ。
さて、そんな私が、昨年、ひょんな事から「ドラゴンボール」を読み始め、はまってしまった。ああ、こんなものは子供の読むマンガだ、と思いながら、楽しい。
まあ、考えてみれば、「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」と、「ドラゴンボール」の荒唐無稽さに違いがあるとは思えないので、仕方ないなと思う。将軍が年がら年中市中をぶらぶらしていたり、水戸藩の一家臣が、どこへ行っても剣術ナンバーワンだったり、飛び猿(古いか?)なんていうのは、大砲でもやられない人間だったような記憶がある。
そういう意味では、「ドラゴンボール」は、西遊記を底辺に置き、作中で妙なリアリティーを作っているので、決していい加減な作品ではないし、1億部強を売った作品だけのことはある。・・・・何という印税の額になるのだろう!
また、ネーミングや、ギャグのセンスは、今では古い部分もあるだろうが、非常に好ましい。アニメのもう一つの問題は、恐らくこの鳥山明のウイッティなギャグを表現できていないところだろう。「Z」しか知らないが(しかも途中から)、どうもまじめすぎていけない。
まあそれでも、「横山光輝」ファンとしては、責めてあのくらい原作に即したアニメを作ってくれれば、幸せだな、と思う。
投稿者 keisuke_yui : まんが | 23:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月22日
ダルタニアン物語
ダルタニアンと言えば当然、アレクサンドル・デュマの「三銃士」の主人公だが、「三銃士」には続編がある。「二十年後」と「ブラジュロンヌ子爵」だ。
私はこの一連の長い小説が大好きだ。しばらく前に、復刊ドットコムのおかげで復刊も実現した。訳は昔の講談社文庫版の鈴木力衛氏のものだ。私は実は、この講談社文庫版の1,2巻を持っていない。「友を選ばば三銃士」「妖婦ミレディーの秘密」の2冊だ。なぜかと言えば、「三銃士」の上下巻がこれに当たるので、岩波文庫版を愛読していた私は、必要がないと思ったからだ、これは1970年代の中頃のことだ。手元の奥付を見ると、昭和50年第一刷となっているので、75年という事か。
ながいもので1冊600ページ以上、全11巻という長大な話なので、この後重版されたのかどうか知らないが、ずっと絶版だった。
物語はガスコーニュの田舎から銃士になりたくてパリに出てきたダルタニャンの一生の物語だ。「三銃士」は映画にもなり、アニメにもなっているようなので、今更話の筋を書いたところで、ネタバレにもならないだろうが、アトス、ポルトス、アラミスのいわゆる三銃士と出会い、友として当時のフランスの宰相リシュリューと戦うわけだが、デュマという人は、「モンテクリスト伯」でもそうだが、筆が乗ると止まらないらしく、非常に軽快でよどみない文章を書く。長編だが短い。
「三銃士」には王妃アンヌ・ドートリッシュとイギリスのバッキンガム公爵との恋愛に端を発した、ダルタニアンと三銃士の活躍や、ミレディーという妖艶な美(悪)女との恋愛と凄惨な結末、ロシュフォールという、後にダルタニアンとは友となる男との争いなども見逃せない。
「20年後」は、文字通り、三銃士から20年後の話だ。銃士隊の副隊長となったダルタニアンと、三銃士の面々は、友でありながら敵対する関係にある。この話はクロムウェルなども登場し、波瀾万丈で面白い。
最後の「ブラジュロンヌ子爵」、このブラジュロンヌというのはアトスの息子だ。全11巻の内の6巻を費やす、異常に長い物語で、しかも半分くらいが宮廷の恋愛絵巻で、実は途中は退屈する。
ブラジュロンヌ子爵の恋人で、ルイ14世の元に行ってしまうラ・ヴァリエールというのは実在するルイの寵姫だが、ディカプリオが出演した「仮面の男」の原作は、まさにこの10巻の辺りの物語だ。映画ではバスチーユでダルタニアンは死んでしまうが、デュマの物語では、かなり大団円を迎えての死と言うことになる。
私は「仮面の男」の改編は、あれはあれで好きだ。素晴らしきかっこいいダルタニアンが描き切れているし、ルイが実はダルタニアンの子供だというのも面白かった。
実際には、ルイはマザランの子供だとか、フーケの子供だとか、いろいろあるらしいし、鉄仮面を付けた男も、様々な説があるようだ。ルイ14世の双子の弟と言うことはないようだが。
この長大な物語を、あれだけ矍鑠とした筆致で、一気呵成に書いたような感のあるデュマという人は、いったいどんな人だったのだろうか。息子のデュマもアレクサンドルというヨーロッパ人にありがちな同じ名前が付けられていて、日本では大デュマとか小デュマとか言われるが、息子の方もヴェルディで有名な「椿姫」を書いている。尤も、私生児だからかどうかは知らないが、親父のデュマのようなエンターテインメントに徹した歴史物語よりも、「問題作」が多いらしい。
日本では、「三銃士」と「モンテクリスト伯」で有名だが、最近では「王妃マルゴ」が出たり、昔から東京創元社では「黒いチューリップ」が発刊されている。
実は私は、「モンテクリスト伯」が一番だと密かに思っているが、ダルタニアンファンには納得いかないかも知れない。しかし、錯綜した物語の作り方や、オチ(というと軽薄だが)という点では、歴史に根ざし、なおかつ明るく自由奔放さに満ちた「三銃士」よりも、鬱屈しながらも、そのテーマに「待て、そして希望を持て」という一言を置かないではいられなかったデュマらしさが、鬱屈しているからこそ小説の味として出ているように思える。
ある意味、ダルタニアン物語は、絶対王政時のフランスという、非常に今となっては魅力的な時代を、例えば日本の「太閤記」や中国の「三国志」などと同じ視線で読める小説である気がする。
しばらく前に読み返したのだが、現在人に6巻を貸していて戻ってこない。きっとこれを読んでる人物なので、続きを貸すから早く読みなさい、という一言で締めくくろう。
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 23:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月21日
風邪
風邪をひいた。流行っているらしい。
風邪を辞書で引くと、「感冒」とある。風邪は(ふうじゃ)と読み、「邪気を含んだ風の意で、古来、その風が通過する部位、すなわち呼吸器系疾患の総称として使われてきた。」ということだそうだ。
まあ、言ってみると非常に曖昧な病気らしいが、確かに症状は時によっても、人によっても違う。数年前から、今年の風邪はお腹に来るなんていう事が言われたが、確かにその頃はお腹の調子が悪くて病院に行くと「かぜ」と言われた。しかし、今年、ノロウイルスという聞き慣れないウイルスで、お年寄りが何人か亡くなっているが、そのせいだったかもしれない等と言っている医師もいる。
かぜを引くとかぜ薬を飲む。テレビで、「あなたは喉のかぜ?、鼻のかぜ」なんていうCMをやっているが、取り敢えず総合感冒薬という便利な薬がある。
病は気からというが、実際、暖かく寝て、栄養を摂ることでかぜは治る。薬よりもむしろ、自分の身体が治すのかも知れない。あるいは病気の多くはそうだ。薬がきっかけでしかない場合も多いに違いない。
といって「えいやっ!」と、気合いで直るわけもないから、取り敢えず薬を飲み、暖かくして寝る。これが一番のようだ。
ということで、おやすみなさい。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:12 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月20日
殺人事件
ちょっと忙しくて、ちょっとだけニュースなどから離れていた。
テレビのニュースを見た時、どれがどの殺人事件か判らなかった。最近て、こんなに殺人事件が多いのか?そんな印象を持った。もちろん今日起きた事件ばかりではなく、犯人が逮捕されたものや、まだ殺人と断定されていないものなど、いろいろだ。
あたかもニュースが2時間ドラマの連続紹介をしているようだった。
昔からこうだったわけでは絶対にない。
人の命の重さなど、人類がこの世に誕生し、そこそこの文明的な生活が出いてからは、さほど変わっているわけではない。自分を中心に、そこから順次軽くなっていくのだ。だとしても、人の命を否定するようになるのは、かなりのものだと言わねばならない。
戦争はたくさんの人を殺し、少なくとも戦いを起こしている側には大義名分がある、という理屈がある。だがこれは、多くの場合、個人が個人を殺す場合にも同じ事が言える。意味もなく人を殺すというのはそれほど多いわけではない。
正当防衛や限られた復讐(いかにテレビのミステリではこの、世の中では数少ない復讐劇が多いことか・・・これは作家の良心かも知れないが)を除けば、非常に利己的な犯罪がほとんどだ。多くは金のためだし、その場の怒りや、快楽のためなど、酌量の余地はあまり無い。
個人的には、多くの戦争はこの部類だと思っている。
第二次世界大戦という世界を巻き込んだ戦争が終わっても、世界は毎日どこかで戦っていた。今でもそうだ。
そんな人類が、個人のレベルでも、やはり同じように振る舞う。
悲しいことだ。
100円のために殺されても、100億円のために殺されても、空から爆弾が降ってきても、個人の死は個人の死だ。病気であれ事故であれ、当然やむを得ない死というのはある。しかしそれを除いた死は、「事故」というカテゴリーに無理矢理押し込めてしまってはいけない。
人の死がこうたくさん転がっていても、世界の人口は増えている。寿命が延びて自然死が減った分を何かで補おうとしているかのようだ。
人類という主が、防衛的に数を無意識で減らそうとしているようにも見える。
いずれにしても、こんなに多くの殺人事件がある世の中は、どうしたら無くなるのか、真剣に考えた方がいい時代なのだと思う。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 22:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月19日
ルル
新聞に新国立劇場で上演予定のベルクのオペラ「ルル」が、全3幕完成版から、全2幕版に変更になったという記事が載っていた。全3幕を披露するには歌手の水準が低いという理由からだそうだ。私は今までこういう例は聞いたことがない(あるとは思うが)。
「ルル」の前に、そもそもベルクという作曲家は、シェーンベルク、ウェーベルンと共に新ウィーン楽派の一人で、12音技法を駆使した音楽を作った。12音技法とは、ドからシまでの12音を一つの音列として、これの組合せによる変装で音楽を作るものだが、いろいろ決まりがあるらしい。考えてみれば、ドレミファソラシドという学校で習う音階は、ドからシまでの7音で構成されている。音階というのは当然違う周波数の音なのだろうが、5つの全音と2つの半音という組合せが、どうして調和が取れて聞こえるのだろう?中途半端な感じだ。
半音ずつ上がっていく12音を同じように扱って音楽を作ろうという、純粋に論理的な試みは、面白いと思う。しかしその結果、調性はなくなり、ピアノの黒鍵と白鍵を順番に叩いた時の不気味な音列ができあがる。
そんな仕組みで音楽を造りあげていたベルクという人は、そんなルールの下で、実にロマンティックな音楽を書く人で、ヴァイオリン協奏曲などは名曲だと思う。
そんなベルクには「ヴォツェック」と「ルル」というオペラがある。当然、12音技法で書かれている。メロディーがないというと語弊があるが、いわゆる馴染んだイメージでの調性を持ったメロディーはない。当然歌手の技量は尋常でないものを要求されるだろう。
実は私は、一昨年の11月に日生劇場の開場40周年記念で行われた二期会と東フィルによる日本での「ルル」3幕版初演を観た。ルルに天羽明惠、シェーン博士と切り裂きジャックに大島幾雄、ゲイシュビッツに小山由美という配役だった。
これは非常に良かった。元々ベルクの音楽は好きだが、「ルル」は、その一部を管弦楽組曲にしたものをCDで聞いたことはあったが、本物は初めてだった。
ストーリーも大時代的なオペラと違い、現代劇であり、非常に腥い感じがするオペラだった。もちろん最後がジャックによる刺殺で幕を下ろすという理由にもよるかも知れないが、12音技法で書かれた音楽というのは、私は絶対そうだと思うのだが、明るい音楽にはなりえない。その殺伐とした音列が、なぜか時折異様に艶めかしく聞こえたと思うと、容赦なくそれが切り裂かれるといった感じで、とてもスリリングだった。
こういう音楽を聴くと、自分が音楽の勉強をろくにしていないことが腹立たしくなる。もっと何かが判っていたら、もっと面白く観れるのになあ、と言うことだ。
シェーン博士をやっていた大島さんという人は、85年の「ヴォツェック」の初演も、まさにタイトルロールでやっているそうなので、日本では、ベルクのエキスパートと言ってもいいのだろう(っていったって、ベルクのオペラはこの2曲しかないが)。
まあ、そんなオペラが、1年半で、再び演目に上がると言うこと自体がすごいと思うが、どうで未完なので、無理して3幕版でやらなくてもいいのだろうが、やはり話の筋が大分違うので、今回の3幕版から2幕版への変更というのはかなり思い切った決断なのではないだろうか。
歌手の上手い下手は、所詮、私は一介の観客に過ぎないので、結果と、その時の気分でしか判断できないが、「ルル」というオペラは、現代音楽の多くが持つ、「覚えづらさ」と、「表現のしにくさ」を内包しながら、実は非常によくできたオペラなので(例えばライトモティーフと言われても、1回しか聴いたことがないと、全く判らなかったりするが)、多分歌手にとっては、必要以上に難物なんだろうな、という予想はつく。
日生の「ルル」、たまたまだが、観ることができたと言うことを感謝したい。そんな風に思った。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:49 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月18日
ツァラトゥストラはかく語りき
「ツァラトゥストラ」は、前にも書いたが、私が最も古くから聴いているクラシックの一つだ。もちろんR.シュトラウスの交響詩だ。ニーチェの作品のことではない。
この作品は冒頭のファンファーレのような部分があまりに有名だが、わずか1分半だ。この後に30分以上の曲が残っているわけだ。
私自身、映画「2001年宇宙の旅」のおかげでこれを聴くようになったのだが、確かに最初のうちは、冒頭しか聴かなかった。そこしか面白くないとも思っていた。だが、案に相違して、後半が素晴らしくいい。それに気づくのにはそれほど時間もかからなかった。
この作品はニーチェの原作に合わせて、部分分でタイトルが付いている。序奏に続いて、「後の世の人びとについて」「大いなる憧れについて」「歓喜と情熱について」「埋葬の歌」「科学について」「病から回復に向かう者」「舞踏の歌」「さすらい人の夜の歌」の順番で演奏される。但し、楽章に分かれているわけではないので、全体は切れ目無く演奏されるが、それぞれがテーマを持って作られているわけだ。
交響詩というのは名称としてはリストが創始者だが、一般的な理解で言えば、複数楽章に分かれていない、標題付き交響楽だろう。例えば、幻想交響曲は交響曲だが、リストの「前奏曲」とか「マゼッパ」とか、「タッソー」なんていうのは単楽章で、いわゆる交響曲の体裁を為していない。そして、内容がタイトルに左右されているから、交響詩という名前を思いついたのだろう。
そもそも交響曲も、現代音楽まで含めれば、「作曲家が交響曲という名前を付けたから」交響曲なのではないかと思えてくる。第1楽章がソナタ形式で、急・緩・メヌエット、またはスケルツォ・急という、学校で習うような形式でできていない交響曲も多数ある。ショスタコーヴィッチの交響曲2番や3番などは、交響詩ではないのか?サン=サーンスの交響曲第3番はオルガン協奏曲ではないのか?とか、そもそもソナタ形式って何?とか。
物事は何でもそうだが、現代に到るまでに、非常に形式美を大切にした時代があり、そうした人たちがいる。もちろんそれを否定はしないが、同時にそう言った形式は、完成されれば、今度は破壊されていく運命にあるのだ。
提示部−展開部−再現部というオーソドックスなソナタ形式の、安定した音楽は、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンなどを聴くとそのまとまった良さはよく分かる。
だが、あれもこれもそうだったら面白くないと考える人もいるし、思い立った楽想がそれには当てはまらない人もいるに違いない。実は、音楽の多くはかなり疑似ソナタ形式で、ポップスだってその例に漏れない。
ビートルズのイエスタデイという曲があるが、まさにこれなんてそのままだ(私はほとんどビートルズを聴かないが)。主題の2回繰り返しなんていうのもポップスでは常套手段だ。
交響曲の第1楽章も当然それがある。
さて、そういう意味では交響詩というのは実に自由な形式で曲が書かれている。行ってみれば、かつて序曲なんていう名前で呼ばれていた曲で、実はオペラの序曲でも何でもない楽曲は、名前がなかっただけで交響詩と言ってもいいくらいなのだろう。但し、古いものはこれもソナタ形式で書かれているらしい。
音楽の主題というのは調性音楽ばかりでなく、1曲全体のイメージを決める物で、多くの場合、何らかの拘束力を持つ。先日購入したペンデレツキの「聖ルカ伝によるイエス・キリストの受難と死」という曲では、確かどこかの楽章で、B-A-C-Hという音列を12音技法で変奏していると、解説に書いてあった。いかにもという感じだが、そういうものなのだろう。
当然、「ツァラトゥストラ」も全体を支配しているイメージはあるし、私は音楽の勉強をほとんどしていないので(学校の時は大嫌いだったので)、後からちょびちょびとかじったにわか知識で、どの旋律がどう変奏されてという話になってくると、何となく聴いて判るのはブラームスまでだ。正直、R.シュトラウスはよく分からない。
ただ、全体を通じて流れるイメージみたいなものが、いくつかの旋律で支配されているのや、それぞれが関係調とかよく分からないがそう言った関連を持ってなっているのも判るような気がする。
だから、ソナタ形式かどうかという問題は、実は音楽が持つ根本的な問題、メロディーの親和性みたいなものが1曲の中では重要な鍵だと言うことだろう。これはもう、人間がそもそも感覚的に持っているものなのだと思う。
「ツァラトゥストラ」は、私にとっては、非常に美しく、自分にフィットする音楽なのだ。「ドン・ファン」や「ティル」よりも。「英雄の生涯」よりも好きだ。
この交響詩というジャンルは、昔から好きなのでシュトラウスばかりでなく、リストや、ドヴォルザーク、ドビュッシー等々よく聴いてきた。ドビュッシーの海なんて交響詩と名前が付いているが、3つに分かれているし、そうなると単楽章の・・・なんていう定義もおかしな物になってくる。
要するに、私の理解だが、作曲家がどんな名前を付けるかで決まる。それしかないな。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 00:45 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月16日
源義経
NHKの大河で「義経」が始まった。
NHKの大河は、戦国時代と鎌倉時代は何となく視聴率が取れていそうな気がする。だからこそ、信長、秀吉、家康、義経という武将(が登場する)物語は、非常に多いのだと思う。
データベースで秀吉が出てきた大河ドラマというのがあったが、「太閤記('65)」「天と地と('69)」「春の坂道('71)」「国盗り物語('73)」「黄金の日日('78)」「 おんな太閤記('81)」「徳川家康('83)」「独眼竜政宗('87)」「武田信玄('88)」「春日局('89)」「信長('92)」「琉球の風('93)」「秀吉('96)」「毛利元就('97)」「葵 徳川三代('00)」「利家とまつ('02)」とある。家康にまで幅を広げると、当然もっと多い。「宮本武蔵」なんかも入るはずだ。
同様に義経は「源義経('66)」「新・平家物語('72)」「草燃える('79)」「炎立つ('93)」「義経('05)」
両方足すと、大河全体のほぼ半分になる。驚異的なことだ。
私は大河ドラマをそれほど昔から一生懸命観てきた方ではないので、実はよく知らず、「真田太平記」なども大河ドラマだと思っていた。もちろん、内容は大河ドラマだが、あれは、水曜時代劇というやつだそうだ(当然これにも秀吉は出ている)。
もちろん、秀吉は出ていても、ほんの脇役という作品は少なくない。それよりも、明らかに秀吉が主役のものだけでも3本ある(「おんな太閤記は」ねねだが、これも入れて)。見方によれば、「利家とまつ」も、相当に出番は多い。
この偏り方は尋常ではないが、それだけ日本人が戦国時代好きと言うことだろう。平家と源氏の争いも、結局は戦国時代的だ。しかも、信長、秀吉、義経というのはかなりヒロイックだ。自ずと活劇的で面白い。
清盛を主人公に置くより、義経を置いた方が当然かっこいい。判官贔屓と言うことだけではなく、義経が持つ強さは、信長や秀吉に通じるものだ。そういう意味では、頼朝は家康的で、動の面白味に欠ける。
大河の「徳川家康」は、山岡荘八の長い作品をドラマ化した物だが、当然仏様のような家康像ができあがっている。だが、多くの場合家康は、それほど良い描き方をされない。同様に、頼朝もまた、鎌倉幕府を開いた将軍だが、弟・義経を死に追いやった男として、描かれることが多い。「忠臣蔵」と同じくらい、片方よりだ。もちろん、家康や頼朝が吉良上野介のように描かれるということではない。ただ、実際の上野介は名君であったらしいし、家康や頼朝だって、きっと優れた武将であったに違いない。
血腥いローマ皇帝のようではなかったはずだ。
今回のドラマでは頼朝は中井喜一がやるらしい。そう言えば、「武田信玄」は中井だった。
今回は宮尾登美子の原作のようなので、村上元三のものや、吉川英治の「新・平家」とは違った作品になる感じはする。
取り敢えず楽しみだ。
「新撰組」は「新撰組」というだけで興味が全くなかったのだが、今回は観てみようと思う。
投稿者 keisuke_yui : 歴史 | 23:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月15日
タイタン
私が「タイタン」と書くと、マーラーの交響曲第1番をテーマにして書くような感じだが、今回は、土星の衛星だ。
土星は太陽系で2番目に大きい惑星で、衛星が現在判っているだけでも33個あるらしい。子供の頃本で読んだ時には一桁だったような気がする。数十年で3倍以上に増えている。たいしたものだ。
タイタンは中でも最も大きいから、誰が発見しなくても、肉眼で見えていた最も遠い太陽系の惑星だ。これより外の海王星や冥王星は、肉眼では見えないので、望遠鏡ができるまでは、太陽系の惑星は6つだったことになる。
英語名はサターン。「サタン」じゃない。農耕神で、ジュピターのお父さんだ。ローマではユピテル(昔こんな名前のレコード会社があった)。ギリシャのゼウスと思っていたが、今回調べてみると、確かにそうなのだが、ユピテルそのものは、ギリシャ神話とどうかする以前から神話の主神だったらしい。
で、サターンはギリシャ神話のクロノスと言うことになったようだ。私などはクロノスと言われた方が分かりやすい。クロノスは巨人族、つまりティ−タン>タイタンと言うことだ。クロノスは自分の子供を全部飲み込んでしまうような神様で、農耕神というにはほど遠い。単に主神のおとっつぁんということで、クロノス=サターン(サトゥルヌス)と言うことになったのだろう。
でも土星の衛星にはクロノスがらみの名前が多い。
タイタンを始めとして、そのタイタン族の名前が順番に付いていたりする。
ミマス,エンケラドゥス,テティス,ディオネ,レア,タイタン,ヒペリオン,イアペトゥスという最初の頃に名前が付いているものは全て巨人族の名前だ。
タイタンと言えば「タイタンの妖女」(カート・ヴォネガットJr)だが、太古の地球に環境が似ていそうだということでSFにもよく取り上げられている。実際にどうなのか判らないが、少なくとも地球より寒そうなので、住むには適していそうもない。
今回探査に向かった「ホイヘンス」は、土星の輪っかやタイタンなどを望遠鏡で発見したその人の名前で、350年かけて、ホイヘンスは自分で見つけた土星の衛星に着陸したことになる。なんかいいな。
「2001年宇宙の旅」では(小説の方だが)、ボーマンはイアペトゥス(ヤペトゥス)に向かう。
土星というのはその輪もそうだが、なかなか神秘的な惑星なのだ。
ホルストの「惑星」では、土星は老年の神だ。木星の明るさや、火星の猛々しさに比べると、非常に地味だが、その分美しい。別に静かな曲というわけではないし、途中は鐘や太鼓でどんひゃららみたいなところもあるが、全体としてはじみーだ。
望遠鏡で空を除いていた頃は、土星はその輪を見て楽しんでいた。ホイヘンスが見つけたタイタンは見たことがない。17世紀に見えているのだから、口径10cmの20世紀の望遠鏡で見えないことはなかったと思うのだが、その分空が明るいから難しいのかも知れない。
でもこうやって、一つ一つ宇宙の不思議が解明されていくのだろうが、その地に自ら立つことはないのだと思うと、ちょっと寂しい。100年後に生まれていたら、宇宙旅行は当たり前になっているのだろうか?
21世紀って、そんな世の中だと思っていた子供の頃、やはり100年経ってもあまり変わっていないということもあるんだろうか?ああ、1000年くらい生きたいな。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 22:57 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月14日
Intermezzo
先日、Intermezzoというダーバンのブランドのマフラーを頂いた。多謝。
さてこのIntermezzo、普通に読めばインテルメッツォだが、ダーバンはインターメッツォなのだ。これがイタリア語なら、多分インテルメッツォが正しいが、言語というのは意外にこれをインターメッツォと読んでいる国なり地方なりがあるのかも知れない。単純に間違いと決めつけるわけにはいかない。
例えばAeroという接頭辞は、「エアロ」だが、Aeroflotは「アエロフロート」だ。でも、Aerosmithはアエロスミスではない。エアロスミスだ。元々このAeroはAir(空気)のことだから、「えあーろ」とうことだと思うが、アエロフロートはロシアの航空会社だからなのか、それにしたってAeroの部分は飛行機を表す英語だから、どうもよく分からない。
さて、同様に、Intermezzoも、インテルメッツォとAtokで打って変換すると、Intermezzoと表示されるのだが、インターメッツォと打っても、実は同じ単語が出る。
そもそもこの言葉は、「間奏曲」を表すイタリア語のはずなので、本来は「インテルメッツォ」のはずだ。音楽用語は、イタリア語やドイツ語がほとんどなので、これはインテルメッツォであると疑っていなかったのだが、これは微妙な聞き取りの違いとしては、表記が大幅に違う。
実は辞書によると「インテルメッゾ」と書いてあるものもある。いっそのこと、「インターメッゾ」とでも書いてくれれば、明らかに英語読みの誤表記では、と思えるのだが、そもそもイタリア語の素養どころか、英語の素養もあまり無いので、どうもただ釈然としない気持ちだけがしこっている。
閑話休題。
間奏曲と言えば、忘れられないのがカラヤン指揮によるレコードだ。この「うちでのこづち」で、マスネの「シンデレラ」というオペラについて書いた時にちょっと触れた。
この中でカラヤンは、必ずしも全て著名ではないけれど、間奏曲が単体で聴いて楽しめるものを10曲前後収録していた。CDになって曲数が増えていたが、ものによって何でこれを追加?みたいなヴァージョンもあった。
カラヤンは死後、「アダージョ」というアルバムをグラモフォンが発売してベストセラーになった。私自身は聴いていないが、「アルビノー二のアダージョ」とか、言ってみれば静かなクラシックの寄せ集め。そしてこの原点が多分、この間奏曲集だ。
「椿姫の第三幕の間奏曲」「カヴァレリアルスティカーナの間奏曲」「道化師の間奏曲」「友人フリッツの間奏曲」「マスネのタイスの瞑想曲」「修道女アンジェリカの間奏曲」くらいまでは覚えているが、後何が入っていたか思い出せない。
これらはどれも静かで美しい、言い方を変えると、いい睡眠薬の音楽だ。
基本的にはそれに続く楽章のテーマになるようなメロディーが使われている。
インテルメッツォとはそもそも、オペラ・セリア(シリアスなオペラって事だ)の幕間に関係ない喜劇を入れるという、それだけ考えると意味が分からない仕組みの、その喜劇のことだ。ペルゴレージの「奥様女中」が有名だ。・・・あのCDはどこへ行ったの・・・
それが、幕と幕を繋ぐ間や、場と場を繋ぐ間、あるいは、オペラとは関係なくても、何かの間に挿入される曲などが、いつの間にか間奏曲になった。日本語で間奏曲と書けば、非常に意味はよく分かる。mezzoとは、メゾフォルテとかメゾソプラノでも解るように、中くらいとか、真ん中のという意味のようだ。interも多分英語的にはそんな感じだ(インテル入ってるっていうのもきっとそんなところだろう。英語ではIntel Insideだが、これをインテル入ってるに言い換えた人は頭がいい。・・・余談だ)。だから、インテルメッツォは、中の音楽というような意味なのだろう。
さてこのカラヤンのアルバムを聴いてみると、たとえオペラが総合芸術であっても、十分抜粋で楽しめるというのが私の意見だった。例えば、レコードやCD でオペラを聴く場合、1枚とか1面だけとかいう聴き方を普通にできるから。歌唱もイタリア語だったり、たまにドイツ語やフランス語、ロシア語だったりするわけだが、そもそも何を歌っているか解らないので、筋は追わない。
ところが、なかなかオペラを見にいく機会がなかったのだが(オーケストラコンサートばかりで)、ここ数年、たまにオペラを見るようになると、ああ、CDでは見えていなかったものが(言葉の意味としては当然だが)あったのだ!という思いに、これまでオペラを見なかったことを後悔した。
オペラ公演の唯一の欠点は、休憩時間が長いことだが、これは歌手のことを考えればやむを得ない。これのせいで、2時間のオペラは3時間以上になるし、たいがい6時は過ぎて始まるので、9時過ぎまで食事はできない。これは日本の劇場では当然だ。海外のホールを知らないが、さすがに映画館のように座席で何かを食べられるとは思えない。せいぜい、幕間のサンドイッチとコーヒー程度だ。
しかし最近は、字幕もしっかり出るから、内容も追いやすいし、極めて快適だ。
もちろん、それでカラヤンの間奏曲集の価値が下がったわけではないが、オペラは再発見だったのだ。
さてそのカラヤンの間奏曲集で思うのは、60年代から80年代にかけて、カラヤンが帝王として君臨していたクラシック界だが(CDの収録の長さにまで影響を及ぼすのだからたいしたものだ)、カラヤンという指揮者は、実にこういう種類の、いわばエンターテインメントとしてのクラシックの扱いが上手いと思う。多分、R.シュトラウスも走だったのではないかな?と思わせるほど、カラヤンのR.シュトラウス作品もいい。美しく聴かせるすべをわきまえている。ベルリン・フィルというのもミソかも知れない。
とにかく間奏曲、Intermezzo、侮るなかれ、ということで。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 21:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月13日
三国志(ゲーム)
私は「横山光輝の世界」というサイトを運営しているが、横山氏と言えば、「三国志」を描いた漫画家の中で最も有名な漫画家である。さすがに、三国志だけあって、多くの漫画家さんがトライしているようだが、あれだけのボリュームと、おもしろみを持って大河作品に仕上げたのは、横山氏だけである。
それでも尚、私は三国志、及び水滸伝は、吉川英治版と、「三国志演義」そして「水滸伝」の翻訳がそれ以上に好きである。
しかしながら、実は私と三国志の出会いは、横山光輝でも、吉川英治でもない。パソコンのゲームであった。しかも、MSXという、今ではほとんどの人が知らない様なOSのためのゲームだった。
当時は「三国志U」で、光栄という、当時はほとんど知らないメーカーの作品だった。20年以上前の話である(たぶん)。
何でこのゲームを買ったのかは覚えていないが、多分雑誌で見たからだろう。当時は劉備玄徳も、諸葛孔明も私は知らなかった。そもそも中国文学には全く暗かった。
しかしこのゲームは面白かった。最新版が]だから、人気もあるわけで、よく続くものだ。私自身は実際にやったのはVまでだ。いや、実際は他のもやったことがあるが、難しくて1回で止めてしまったりで、きちんとやったのはVまでだ。つまりそれも20年程度前のお話しだ。
実は私はこの前に、「信長の野望(これはTだ)」をMSXでやっていたので、取っつきやすかったのだと思う。MSXの「信長の野望」は、今考えるとすごいと思う。16色で、日本は点線で区切られていた。北は信濃、南はせいぜい紀伊半島当たりまでで、16国しかなかった。それでもこのシミュレーションはとても面白かったと記憶している。
三国志はUだったが、MSXもUになっていたので、16色は256色になっていた。まだゲームと言えば、PC8800というNECのシリーズが主流で、ディスクは5インチの大きくてぺらぺらのものだった。MSXは最初から3.5インチフロッピーだったが、確か720KBくらいだった。今では下手すると、画像1枚分の容量だ。
それ数枚でゲームが遊べたのだ。
三国志は、ユーザーが武将の一人になって、中国を統一するという、恐らく今でも基本は同じだと思うが、そういうストーリーだった。「劉備」「曹操」「袁紹」「公孫贊」「孫権」「董卓」辺りを選べたような気がするが、非常に記憶がおぼろげである。
劉備を選ぶと、割合簡単に関羽と張飛はくっついてきたが、諸葛亮は少し努力が必要だったような気もする。
いずれにしても、このゲームのおかげで、吉川英治を読み、演義の翻訳を読み、流れで、水滸伝のゲームをやり、これまた吉川英治を読み、翻訳を読んだ。これは岩波文庫のものだった。
ある程度本当の歴史なのに、わくわくしながら読めるのは、日本の戦国史と同じだ。本を読んだ後にもう一度ゲームをすると、妙なこだわりが出てくる。
劉備で始めたら、「関羽」「張飛」「超雲」「馬超」「黄忠」という蜀の五虎将と、諸葛亮、鳳統、二人の軍師はどうしても手元に置きたくなる。なかなか楽しかった記憶がある。
今は時間もないので、やる気はしないが、時間ができたらまた楽しんでみたいゲームである。
最近ではプレステで、非常に活劇的な楽しみ方ができるものもあるようだが、なかなか手は出せない。
さて、三国志本編に関してはまたいずれ。三国志と水滸伝、どちらが好きかと言われたらやはり水滸伝だな。
投稿者 keisuke_yui : まんが | 22:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月11日
性犯罪前歴者の情報把握
性犯罪を犯した者の把握に関して、昨年の奈良の少女誘拐殺人事件の影響で議論が高まっている。
性犯罪を犯した者の再犯率が高いことと、刑務所での矯正が極めて困難であると言うこともその根拠の一つになっている。警察庁長官が口にしたのが始まりだ。公明党の浜四津議員なども積極的に働きかけているようだ。
テレビで、「性犯罪にも痴漢から奈良の事件まで程度にも差がある」というような趣旨の事を、犯罪者履歴の把握、または公表に関して慎重な立場の学者(だと思う)が言っていた。痴漢は冤罪の問題が微妙だが、いずれにしてもたとえ痴漢であれ、「性犯罪者」としてレッテルを貼られたくなければしなければいいだけの話であって、ほとんどの人はやらない。そんなレベルのお話しでないことだけは確かだ。
また、犯罪者は2度罰せられないという趣旨の法的な問題を同じ人が言っていた。別の人が、犯罪者の把握は2度目の罰には当たらないと言っていたが、確かにその通りだ。
犯罪を犯した人が、刑罰を受けたことによって、果たしてその罪が完全に許されるのだろうか?ある種の罪は、消えないのではないかと、私は思う。
例えば、人殺しという犯罪が、10年間刑期を全うしたらその罪が消え、社会復帰と更正を、社会が認めるというのが現在の仕組みだが、たとえそうであるにせよ、そういう類の犯罪は、加害者は一生背負って生きていくべきではないのだろうか?
人一人の命を奪う犯罪を犯した加害者に、いったいどんな人権があるというのか?
人権というのは、誰にでもあるかも知れないが、その重さは違うはずだ。殺人犯と、被害者が同じ人権の重みのはずがない。少なくとも今は、被害者の人権の方が圧倒的に軽く見られているとしか思えないケースが多いように思える。
目には目を、歯には歯をというハムラビ法典の言葉はあまりに有名だが、それそのものは極端かも知れないが、一面真実を言っている。
今回話題になっているのは性犯罪者であるが、「犯すか犯さないか分からないものの監視」という表現を、前出の学者は言っていたが、普通の人よりは犯す可能性が高いからこそ、きちんと警察が把握すべきだし、二度と犯さないような更正プログラムも必要だ。
アメリカのように、一般の人にまで情報を公開することがいいのか悪いのかは、必ずしも是とすることは私にはできないが、「世間の目」を意識しないと生きていけない環境に彼らが置かれたとしても、やはりそれは自業自得なのであって、食い逃げや万引きなどとは明らかに性格の異なる犯罪だ。もちろん、万引きだって重要な犯罪だ。たかが万引きなどとは私は思っていない。しかし、それでも婦女暴行や、痴漢よりも、軽いとは思う。
とにかく重大な犯罪を犯したからには、そのことは一生消せないし、背負っていくのだという世の中でなければならない。私はそう思う。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
猿の惑星
「猿の惑星」をさいしょに観たのはいつのことだったろう?もう忘れてしまったが、劇場公開時ではなかったことは確かだ。恐らく吹き替えのテレビだったような気がする。
テイラー(チャールトン・ヘストン)の吹き替えが納屋悟朗の印象が強いのもそのせいだ。もちろん、納屋氏はチャールトン・ヘストンの他の作品もたくさん吹き替えをしているので、そのせいもあるかも知れない。
普通話題になるラスト・シーンで私も驚いた一人だった。中学か高校の頃だったと思う。コーネリアスを近石真介、ジーラ(キム・ハンター)を楠トシエだったと記憶している。コーネリアスは他の人のヴァージョンもあるのだが(記憶では)、近石さんの方がしっくり来る。
以前に「猿の惑星」シリーズがまとまったボックスセットを購入したが、これには吹き替えが入っていなくて残念な思いをした。
「猿の惑星(Planet of The Apes)」自体は68年の作品なので、私が9歳の時だ。これ以降、5年間で「続・猿の惑星(Beneath the Planet of the Apes)」「新・猿の惑星(Escape from the Planet of the Apes)」「猿の惑星 征服(Conquest of the Planet of the Apes)」「最後の猿の惑星(Battle for the Planet of the Apes)}の5本が作られる。
宇宙飛行士テイラーの着陸で幕を開けるこのシリーズは、そもそも最初からこういうストーリーで考えられていたわけではない。一作目が受けたので、続編、続編となって、あの輪廻のような作品ができあがったのだ。
原作はピエール・ブール。名前から解るようにフランス人作家で、「戦場に架ける橋」を書いた人だ。
今更この作品でネタバレもないが、1作目の山は、なんと言っても、最後の最後に、自由の女神をテイラーが見上げるシーンだろう。ただ猿が支配する惑星の冒険譚を描いたのであれば、この映画はあれほど有名にはならなかった。ザイラスに別れを告げて、禁断の地域に足を踏み入れたテイラーが見たものがあるからこそ、続編が生まれたのだし、なぜそこに自由の女神が倒れていたのかと同時に、なぜ猿が支配したのかを、「ターミネーター」ばりのタイム・パラドックスを使って強引に仕上げたあれだけの作品になったのだ。
70年頃のサイケデリックで、B級な演出も、今となっては素晴らしく見える。「続」は、最後の2作と共に、私はできが悪いと思っているが、最後の最後で、「猿の惑星」の最終話が実はこれなんだという演出をし、恐らくこれを最初に見た人は、「正・続」2編で完結という見方をしたに違いない。
「新」を見ると、なぜか私は「ダーティー・ハリー2」を思い出す。1話の逆をいった「猿の漂着」から始まるこの「新」はとても面白いし、ラスト・シーンも1話と同じくらい粋な終わりだと思う。
「征服」は、いかにもあの当時に描かれた未来ものという映像で、「新」との間に違和感を覚えずにはいられないが、恐らく1話では、演出程度にしか感じられない「猿は猿を殺さない」という台詞が、ベトナムへの反戦スローガンのように聞こえるから不思議だ。これと次の「最後」は、実はオチがない。3作目までに気づき上げてきたものを、どう帰着させるか、少なくとも「征服」はテーマがあったが、「最後の」はそのテーマを失ってしまった蛇足の作品になってしまっている。
起承転結とよく言うが、「猿の惑星」は、まさに起承転結的シリーズであると思う。正・続・新、ここまでは、まさに起承転なのだ。そして言ってみれば残りの2作で結なのだが、実際には先ほども書いたように、「承」である2作目が、真の意味でのラストシーンと言うべきなので、微妙に最後の2作は威力がない。
作品としては「新」で終わっても良かった気がする。それだけのインパクトを持っているから。多分配給会社の欲目だったに違いない。
2作目ができが良くないというのは、猿が地球を支配するようになるという流れはともかく、安易に、放射能が生んだ「超能力者」という設定が、何とも作品をチープにしているからだ。
それ以外は、「新」を作ることで、猿が地球を支配することに、言っての説得力を与えているからだ。但し、このパラドックスの放置は、SF的には破綻すれすれなので、それを押してもよく見えてしまう映画の力がすごいと思う。
ティム・バートンが2年くらい前かな?リメイクしているが、あれに関しては、見るべきところがない。正直がっかりした。映像的にはきれいだが。確かに、今、68年のと同じ作品を作れと言われれば、無理がある。
それくらい「猿の惑星」は、実は突っ込みどころがたくさんあるのだが(例えば、猿が英語を話す段階で主人公、解れよとかいろいろね)、そんなものは些事であり、この作品の評価をおとしめるものではないのだ。
そういう意味では、ティム・バートンが描いたものは、その辺りの説明的整合性は、旧作よりしっかりしていたかも知れないが、それだけだ。
ある意味、ああ、これで良かったのか、昔は。というおおらかさすら感じさせてくれるSFではある。
投稿者 keisuke_yui : 映画 | 00:34 | コメント (0) | トラックバック (2)
2005年1月10日
ヴェリコフスキー
しばらく前に読んだJ.P.ホーガンの「揺籃の星」の下敷きになった、学説を主張していた学者がヴェリコフスキーだ。
聖書にあるような天変地異などを、木星の一部が飛び出して彗星になり、それが地球とニアミスをしたことで起こったとする説である。その後この彗星は金星軌道に収まったとする。つまり、金星は元木星の一部だというのだ。
ホーガンのものは当然小説で、ホーガンなので、基本的にハードSFだ。しかしヴェリコフスキーは生涯をその説に捧げたようである。出版されたのは1950年頃で、大ベストセラーになると共に、最初に刊行した出版社は、圧力に屈して出版権を他社に譲渡したほど、すさまじい攻撃があったらしい。当然著者にもあったはずだ。有名なカール・せーガンなども一貫して反ヴェリコフスキーだったようである。
普通に考えれば、ここまで荒唐無稽であれば、相手にしないというのが正しい姿勢のような気もするが、相手が大ベストセラーとなれば話は違うようだ。「ハリーポッター」が、実際の歴史書として出版されて、学説として流布するようなものかも知れない。
しかもヴェリコフスキーの著作は、簡単に書いた冒頭の内容でさえ、天文学、物理学、歴史学、聖書学など、かなり広範囲に影響を及ぼしている。
内容を読んだわけではないが(翻訳は「衝突する宇宙」で、3500円もする)、70年代に流行ったUFOや不可思議現象・・・社会思想社とか、角川文庫当たりから出ていたエーリッヒ・フォン・デニケンの著作のような印象も受ける。
但し解説を読むと、このヴェリコフスキーなる人物はかなりの博識で、緻密な理論の積み重ねを行っているらしい。科学者などのにとってはこの当たりがタチが悪いと言うことになるのだろうか。
しかし、データ的なものを抽出すると、当時の科学的な常識とは反していた幾つものデータが、実はヴェリコフスキーの方が正しかったものもあるようだ。
この著作がベストセラーになったもう一つの背景は、聖書の記述を真実として説明しているところにあるらしい。
歴史学者がそれは年代的に正しくない!と言っても、そもそもその年代の比定が違っているというところから入っているらしいので、そうなると、そう言った歴史学からの反論は意味をなさないことになる。
このヴェリコフスキー理論が正しいのか間違っているのかと言えば、普通の教育を受けてきた私などは、「まあ、間違ってるんだろうな」と思ってしまう。荒唐無稽という言葉さえ使いたくなる。
ただ、ガリレオだって、ケプラーだって、アインシュタインだってそうじゃなかったか?という疑問も起こってくる。どうもその当時の科学界からの反応を読んでいると、あたかも切り捨て御免的に、頭から「怒って」いたような印象を受ける。すなわち、「どこがどう間違っているかなど、いちいち指摘するのもばからしい」と言うことか。但し、「世間がこれだけもてはやすというなら、黙っちゃおれん」と言うことのようだ。
だが何か釈然としない。3,4千年前に地球と、これから金星になる星がニアミスをしたと言うことが、信じられるかというと、ハリウッド映画ならという感じはある。だが、それでは最新の宇宙論の多くが、信じられるのかと言えば、同じようなものだ。人気のあるホーキンスなんていう学者は、宇宙が生まれる前は時間が虚数だったなんて言ってる。そもそも「虚数」という概念を人が感覚として捉えることは不可能だから(理屈は解るが)、それを信じろと言っても難しい。
仮にヴェリコフスキーの理論が、金星の現状(例えば金星の公転軌道だけがどうして他の惑星とは逆なのだとか)などを、今の科学よりも上手く説明できていることが仮にあるのだとすれば、頭から否定するのは、ガリレオの宗教裁判と大差はないような気がする。
あるいはホーガンの意図はそんなところにあるのかも知れない。小説によってヴェリコフスキーの理論を現代にもう一度再浮上させ用なんて言う。なぜなら、SFが荒唐無稽でもいいというわけではないからだ。少なくとも、ホーガンという人は、科学的な基礎の上に作品を構築する人だ。それがフィクションであろうと、嘘を書きたいとは思っていないだろう。幾ばくかの真実をヴェリコフスキーに認めたからなのではないのか。
ヴェリコフスキーという人は25年ほど前まで生きていた人だ。
頑なに自説を守り通したようだ。それが正しいのかどうかは別の問題だが、同じ事が科学者側にも言えそうだ。いろいろなことが、積み重ねられてきてできあがった現代科学に真っ向から対峙し、荒唐無稽に一見見える学説は、恐らく今でも同じような評価や扱いを受けるに違いない。
昨年のイラクで最初に人質になった3人の日本人に対する「自己責任」という一斉批判みたいなものと同質の何かを感じないではいられない。これは実は、同和問題などの、差別を生み出す人の意識のあり方と、非常によく似た面を持っているのだと思う。
多分、ヴェリコフスキーの理論は正しくない。これがとても考えやすい。しかし、科学というものが、実験と検証、あるいは数学という手順がない限り、論争の台にも乗らないとしたら、寂しい感じがあるな。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 00:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 8日
レッド・ツェッペリン
レッド・ツェッペリンと言えば、今更言うまでもなく、伝説的なイギリスのハードロックバンドだ。1969年のデビューで、10枚前後のアルバムを出している(数えていない)。
レッド・ツェッペリンは「ツェッペリン」とかゼップとか日本では言われる。恐らく最も有名な曲は、「天国への階段(Stairway to Heaven)」だろう。「胸一杯の愛を(Whole Lotta Love)」「ロックンロール(Rock'n'rokk)」「移民の歌(Immigrant Song)」「グッドタイムズ・バッドタイムズ(Goodtimes Badtmes)」「永遠の歌(song Remains The Same)」「アキレス最後の戦い(Achilles Last Stand)」等、有名な曲には事欠かない。
個人的な好みとしては、「天国」「アキレス」「永遠」「ゴナ・リーブ・ユー(Babe I'm Gonna Leave You)」「一人でお茶を(Tea for One)」と言ったところだ。
私はロバート・プラントの歌よりも、ジミー・ペイジのギターに比重がある。アルバムは、ジャケットの好みも含めて、「アキレス」と「お茶」が入っている「プレゼンス(presence)」が一番好きだ。「俺の罪(Nobody's Fault But Mine)」なんていう印象的な曲も入っている。
ツェッペリンは70年代の日本では、ディープ・パープルかツェッペリンかというハードロックの2大バンドのようなところがあって、歌謡曲のようなパープルよりも、よりブルースなツェッペリン派が何となくかっこよかった。渋谷陽一などはまさにそういう人だった。ラジオ番組でも、「比較するな!」という感じだった記憶がある。
ツェッペリンの曲は「聖なる館」「フィジカルグラフィティ」辺りが、あまり面白くない。5枚目6枚目だ。最初の頃の、荒削りだが、なんだか2分ちょっとの曲でも、ものすごいエネルギーが横溢しているような曲が、どうも「天国への階段」辺りで様変わりしている気がする。実際、「天国への階段」が入っている4枚目の、どこにもジャケットにタイトルが書いてないアルバムでは、その傾向が出ている。レコードのB面、つまり「天国への階段」の後の曲はなんかとらえどころがない。
「プレゼンス」と「「イン・スルー・ジ・アウトドア」は突然ポップになったような気がしたものだ。「イン・スルー」は、実はアルバムとしてはかなり面白いのだが、際だった曲がない。私はどちらかというと、アルバムの統一感みたいなものより、突出して好きな曲があればその方がずっといいので、「この曲しか聴かない」CDなんていうのが結構ある。
今でも、パープル系のバンドは、ツェッペリンに比べて評価が低いが、実はパープル系のバンド・・・・というかリッチー・ブラックモアの書いた楽曲というのは、非常にテレビなどでよく使われる。確かに同じハードロックでも傾向は全く違っていて、私などは敢えて、「歌謡曲」と「ブルース」という言い方をするが(ブルースったって、青江美奈じゃない・・・青江美奈は青江美奈で素晴らしいが)、意外と的を射ていると私は思っている。
それと、ジミー・ペイジの影のある容姿、煙草をくわえてツインリードのギターを弾く姿などがとてもかっこいい。ちょっと禿げかけたリッチーのギョロ目とは大分違っていたりするのだ。でも、私はどちらも好きだ。甲乙は付けがたい。
ロバート・プラントの驚異的に高い音域は、到底カラオケなどで歌っても出るはずもないので・・・・イアン・ギランも一緒かな?それにもあこがれたりしてしまうが。
ツェッペリンが解散したのは、ドラマーのボンゾことジョン・ボーナムが死んだからだが、そういう意味でも、メンバーチェンジをやたら繰り返していたパープル系の人たちと、4人でワンセットのようなツェッペリンとは大分違う気がする。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 7日
負け犬
負け犬はイヤ?早婚願望高まる等という記事が出ていた。
私は昨年の流行語大賞の発表がなければ、「負け犬」なる言葉を知らなかった。というより、聞いていても、そのまま馬耳東風、意味も知ろうとしなかった。
ざっと、意味を読んでみると、定めし私など、男の「負け犬」かも知れない。
だが、負け犬というのは語感が良くない。「30代以上・未婚・子ナシ」を負け犬というのだそうだが、半分は自虐的な意味合いも感じないではない。
「30代以上・未婚・子ナシ」の女性に対して、世間てそんなに冷たいの?
というのが最初の感想だった。
私は男なので、女性の「未婚・子ナシ」ということに対する感覚は、正確に摑めない。私自身、これまであまり結婚したいと思ったことがないし、実は結婚と言うことの重要度が、多分解っていない。45にしてこんな事を言うのもどうかと思うが、実際そうだ。
人間も動物なので、子孫を残すという本能は、恐らくどこかにあるに違いない。そういう意味では、男であっても、もう少し子供が欲しいとか、そういう感情みたいなものがあっても良さそうなものだが、正直、どちらでもいい。いればかわいいと思うだろうし、普通に愛情は持つだろう。しかし、いないからどうだと言うことはない。
これは結婚に対しても同じだ。好きな女の子がいて、一緒にいられれば、籍がどうのなどというのは、少なくとも私自身の側にはない。つまらん男だと仰る方もおられるに違いない。
私は、やはりどこか考え方がひねくれているというか、若い頃の何かを引きずっているのか、取り敢えず、伝統や形式というものに対する反発が人よりも強い。
ネクタイは積極的に嫌いだし、儀式とか、行事に関しては極めて強い違和感を持つ。王政や天皇制は、全く共感しないし、同じテンションで、結婚もどうでもいい。
つまり、王政や天皇制も、それによる被害が自分に無ければ、敢えて否定もしない。「なぜネクタイをしないのだ」と上司から言われれば、「なぜネクタイをしなくてはならないのでしょう?」と切り返してしまうような男だ。
但し、ここに書いているのは、私の建前だ。社会的な他社との関係と、どちらが重いかという判断が求められるような場合は前者を優先する。それもまた私のやり方だ。それが正しいと思っている。
自分の意見を述べることと、自分が社会的規範に従わないことは同じではない。
妙な言い方だが、受信料を払うからこそNHKに文句が言えるというようなことかも知れない。
結婚して、子供を作って、というのが人の生き様かも知れない。生まれたからには人生が死への行進であることは、私はいつも言っていることだ。
手塚治虫の「ブッダ」の中にこんなくだりがある。
「人を殺したいと思ったら、自分が手を下さずとも、いずれその人にも死が訪れると考えなさい」
まさにどんな人生を送ろうと、生と死はどんな人にも共通の事象だ。
どんなに偉大な人でも、死後に価値を認められてもうれしいことはない(と思う)。そんな人生が、勉強をし、学校へ行き、社会に出て、結婚して、子供を作って、老後をのんびり暮らして、大往生というのと、波瀾万丈のどちらがいいかと言っても、選ぶのは難しいだろう。
ただ、そういう人生じゃなくても、やはり負け犬では無かろう。少なくてもそう思うことでストレスから解放されるような、それほど重いことではないはずだ。
ただ、この人のエッセイを実際に読んでいるわけではないので、「負け犬」の本質を私は理解していないかも知れない。
誰が自分を負け犬と思おうと構わないのだが、反動を期待するならともかく、あまり「負け」という感覚は人にとっていい感覚ではないはずなので、どんなものなのだろうと思った次第。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 6日
ブログ
インドで、スマトラ沖地震の救済を目的で立ち上げられたブログがすごいアクセスだそうである。
今書いているこれもブログには違いない。ブログとは、Weblogが縮まった言葉だが、Weblogは、Web上のlogということで、インターネット上の記録といった意味だろうか。日記と限定してはいないわけだが、どちらかというと日記は、他人に読んでもらうことを目的とはしていないと思われる。「土佐日記」だって「更級日記」だって文学として成り立っているわけで、だとすれば、個人的だけど、やはり誰かが読むことを目的としているのだろうか?確かに、夏休みの絵日記は宿題だが、学校で先生が読むな。
つまり日記には二種類あって、自己完結する日記と、第三者が読むことを前提としているものがある。ということか。
Weblogは、毎日書くと決まっているわけでもなく、非常にフリーな日記のようなものであることは確かだ。トラックバックという特殊な機能があるが、それはどちらかというと、インターネットだから為し得た、日記の相互侵犯みたいなものかも知れない。いい意味で。
しかしそのブログが、被災者救済や、行方不明者の確認などに役に立っているという。
インターネットというのは最早世の中になくてはならないツールで、携帯電話が、無かった頃では想像できないくらい普及しているのと同様、生活の一部になっている。
20世紀は高度成長期に三種の神器とまで言われた冷蔵庫や洗濯機やテレビなどの家電が、今ではなかった頃が想像できないくらいになっている。
私も物心付いたか付かない頃というのはテレビが無くて、近所の家に見にいった記憶がある。洗濯機も、脱水は二つのローラーで挟んで搾るだけのものだった。
世の中が便利になることを否定的に見る人もいる。
もちろん文明は大局的に見れば、自然と対語であり、どんなに共存と言っても、相容れない何かを持っている。この世の中で意志と感情、そして知恵を持って動き回れるのは人類だけだし、ちょっと周りを見回しても近所にはいないようだ(宇宙人がUFOでやってきているなら話は別だが)。文明の発展は、それまでのビッグバンからついこの間までの悠久の自然の流れとは一線を画す事象なのだ。
しかしもっと大きな視点で見ると、人類の文明や、あたかも自然の対極に位置するような文化的な「モノ」もまた、自然の流れの中で自ずと存在するものなのではないかという気がしてくる。
インターネット犯罪は間違いなく増えているし、悪質化もしているに違いない。だがそれはインターネットだからではない。新しいお札が出れば、偽札が横行するのだ。
ブログが増えれば、ブログがそもそもなんなのか判らないほど様々なサイトが生まれる。その中には素晴らしいものからどうしようもないものまである。普通は可もなく不可もない。多くはただの日記だ。まあ、そういう意味では私のところも、世の役に立っているとは到底言えない。またそれが目的でもない。
ただそれでも月間に500近いアクセスがあり、検索してきて頂いている方もいる。
そもそもリハビリと言って書き始め、100wo超えたら小説などと言っていながら、なかなか忙しさにもかまけて実現していない。リハビリそのものは、室内を出て外で、すなわちブログから創作へを示唆しているのだが、頭の中のリハビリが足りない。
あ、ついでに言うなら身体のリハビリ・・・・これは単純に運動不足というのか。
投稿者 keisuke_yui : | 22:41 | コメント (0) | トラックバック (1)
2005年1月 5日
1年の不思議
といったって、それほど大したことを書こうというのではない。
1年は365日、1日は24時間、1時間は60分、1分は60秒、そして1年は12ヶ月、1ヶ月は約30日、これは偶然なのだろうか?
時計は60秒と、60分、12時間の針がそれぞれ回転する。1回回るのは360度だから、1秒は6度、1時間は12度動くことになる。月は、約28日で地球の周りを回るが、それは約1ヶ月で、太陰暦と太陽暦の差は、長い目で見ればもちろん違うが、ある意味近似である。地球もまた、その12倍をかけて太陽の周りを1回転する。つまり、1ヶ月に約30度、1日1度ずつ、太陽の周りを動くのだ。もちろん正確にではないが。
しかし、火星や金星だったら、そんなことはない。
火星は自転こそ地球とあまり変わらない24時間で1回転する。しかし、太陽の周りを回る時間は687日。火星の衛星は二つあるが、フォボスは約7時間半、ダイモスは約30時間で火星を回っている。
金星に到っては、225日で太陽の周りを回っているくせに、自転は243日もかかるのだ!
この、地球に存在する360度という円の角度と、それを基準にできる様々な日や時間の数値は偶然なのだろうか?あるいは言い方を変えれば、そういう数値の巡り合わせを持った地球にだけ人類がいるというのはどういう事なのだろう?
科学者に言わせれば、数学は、言葉が通じない宇宙とのコミュニケーションに非常に適しているという。様々な数列の不思議や、定理、公理などはこの宇宙のどこへ行っても通用するからだという。例えば、1+1は2以外にはならないわけだ。
まあ、こんなものでコミュニケーションを取るということが、どんなコミュニケーションなのだか、はなはだ心許ないが、相手が知的かどうかを判断する基準にはなろう。
朝起きて、次の朝が来るまでが24時間、その30倍が1ヶ月、そしてその12倍が1年と知った時に、人類はやはりそこに何かあると思ったのではないだろうか?昔は1秒は1日の86400分の1だったらしいが、現在では「セシウム原子133の基底状態の二つの超微細準位間の遷移によって発する光の振動周期の91億9263万1770倍の時間。(広辞苑)」と言うことらしい。こういう数字を見ると、何だ、別に数字に意味なんて無いな、と思ってしまうのだが・・・・
とにかく、1日の24時間までは何となく人間の決めごとで解る気がするのだが、なぜ月は約その30倍で地球を回っているのか、さらにその12倍で、地球がなぜ太陽の周りを巡っているのか、そしてそれがどうして約360日なのかとふと思ったとき、何か神秘的なものを感じてしまったのだ。
まさにマヤ歴は30日×12+5日を1年としていたらしい。
地下鉄をどこから入れるかなどより(古いな!)よほど不思議なのだ。
私は基本的に、心霊現象や、UFO、ネス湖の怪獣とか、いわば人の力が解明できていない不可思議なことの多くを信じていない。ただ、否定もしない。あったら楽しい(楽しいばかりではないが)だろうな、という程度だ。占いであれば、都合がいいところだけを信じる。
例えば、UFOを見た人は現代にいる。上手くすればその時の状況を直接聞くことが可能だ。しかし、豊臣秀吉とあった人は現代にはいない。直接彼について訊くことはできない。
この直接検証できるかどうかを比較すれば、どちらの信憑性が高いのだろう?昔の人が嘘を書かなかったと、古文書に対してその保障をするのは何なのだろう?という程度の懐疑を持って、物事を見るのもまた楽しい。
ところが、地球が1年で太陽の周りを回っているのは現前とした事実で(いや、誰もそれを上から見下ろしたわけではないが)、そちらの神秘の方が、私にはより神秘なのだ。なぜ、地球が200日や400日で太陽の周りを回っているのではないのか、なぜ24時間で自転しているのか、月はなぜ5ヶ月かけて地球の周りを回らないのか?どうして地球にいつも同じ面を向けるように動いているのか、ああ、なんて不思議なことだらけ!
多分答えはたまたま、偶然。という言葉でも片づけることは可能だが、これは、あらゆる事に適応できるので意味はない。因果や縁起はこの世の成り立ちすべてに当てはまるし、恐らく自分が今これを書いている元は、この360日と無関係ではないのだと思う時、この世の全てはとても美しく思えてきませんか?
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 4日
Suica
昔は定期を駅員に見せていた。切符は駅員に渡していた。
自動改札ができて、切符は機会に吸い込まれるようになり、定期はそこを通過し、定期のようなプリペイドのイオカードなどができた。そして、タッチ式のSuicaが出てきた。なんだかんだいいながら、JRの選択は正しく、今のところ私鉄のパスネットよりも便利だ。パスネットが便利なのは、ほとんどすべての私鉄(JRを除く)が関東圏で使えることだろう。
今は、Suicaタイプに統一され、JRも含めて使えるようになるという噂を聞いた。そもそもJRだって私鉄だろうに。今は日本に国鉄はない。都営とか、地方の行政が営業する電鉄と、第三セクターが、公営に近いのだろう。
その都営地下鉄がパスネットグループでJRのみがそれに参加していないという辺りが、元国鉄だけのことはあるが、私も含めてほとんどの人が私鉄とJRという分け方をする。そしてその私鉄の中に都営が入っているという非常におかしな分類だ。
いずれにしても、次の段階はクレジットカードや、電子マネーとしても使えるSuica型の切符カードがしばらくは主流になるのだろうが、実はクレジットカードとしても使えるのに、「入金」という作業が必要になる。そして、Viewカードが使えるチャージ機は非常に少ない。大きな駅にしかない。なんだか便利なようで不便なのだ。
ただ、これが駅だけでなく、街中でも使えるようになれば、財布は非常に軽くなり(今でも十分軽いは軽いが)、現金をあまり持ち歩かなくても良くなる。
個人認証の問題も、指紋だ、手の平の静脈だと、個人を特定する方法がどんどん開発されている。
ペリー・ローダンで人間の「個体放射」というのが出てくる。それがIDのようになって個人を識別できるものだ。
今や、個人を特定することで、財布を持ち歩かなくても買い物ができる時代はすぐそこまで来ている。本当のキャッシュレスだ。
個人情報をコンピュータで管理し、背番号を付けたりと言ったことには、非常に反発が強い。曰くプライバシーの侵害。だが、プライバシーというのはそんな物だろうか?
もちろん、個人のすべてを国家が管理するなどというのは論外だし、私生活に他人や公的機関が踏み込んでくるのは誰でも嫌だろう。自ずと制限は必要だ。
しかし、ある程度の把握は逆に、いい面もある。
先日のならでの少女殺害事件でも、犯人に関しての個人情報をもっと把握できていれば、犯行を防げたとまでは思わないが、犯人確保はもっと早かっただろう。
もはやこういう世の中で、国家よりも、あまり知られて欲しくない金融業者や悪徳商法の人間にこそプライバシーは漏れていたりする。
個人の購買履歴や、様々な情報は集めようと思えば、様々な手段で集められるに違いない。それは情報社会の好ましくはないかも知れないが、一つの特徴だ。
その社会を制御していくためには、逆に個人を特定できるようにして置くことは必要であるような気もする。
住基ネットなどというお金ばかりかけて、あまり内実がなさそうなシステムではなく、もっと社会と個人が幸せになれる、個人管理システムがあるような気がする。
少なくとも、個人が特定できない限り、Suicaだって、便利なだけの道具ではない。
情報社会の至便とプライバシーの問題は、常に諸刃の剣であるような気がする。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 3日
ドック・サヴェジ
1970年代のハヤカワSF文庫に「ドック・サヴェジ」という超人が主人公の作品があった。オリジナルはケネス・ロブスンという作家の作品で、いかにもアメコミの原作という内容だった。翻訳は3冊が出ていた。「ブロンズの男」「魔島」「死の胡蝶」である。訳者は、スペースオペラと言えばこの人という野田昌宏氏。
今では書店で見る影もない。絶版中である。
原作は1930年代から40年代にかけての刊行で、100編以上出ているはずだ。
人気が出なかったのか、日本では3冊だけだったが、私は非常に好きなのだ。
ドック・サヴェジはブロンズの肌を持ち、超人的な体力を持った科学者だったと思う。一癖もふた癖もありそうな部下が何人かいた。世界各地を舞台に大活躍をするのだ。
ペリー・ローダンもそうだが、こういう作品を読むためにはほとんど言語で読むしかない。ローダンはそもそもドイツ語なので、ハナから諦めているが、ドック・サヴェジは英語なので、あるいはがんばればどうにかなるかも知れないとは思うのだが、辞書首っ引きで読むだけの体力も時間も、今の私にはない。
それに確かに好きで読みたいが、同じ努力を払うなら、恐らく他の作品に手を出すだろう。
復刊ドットコムを見ても2票しか入っていない。まあ、のっけから諦めてしまう。恐らくその程度の認知度だからだ。それに、読みたいのはこの3冊ではなく、それ以外の新訳だから、復刊になってもあまり意味はない。実家に帰ればたぶんあるし・・・・
こんな風に、読みたくても読めない本というのは多くの人が持っているだろう。オンデマンド時代には、多分すぐに読めるという風になるのだろうが。それでも翻訳となるとそうはいかないのだろう。機械翻訳がどれほど進化しても、なかなか文学の翻訳となると難しいに違いないからだ。もちろん無理ではないだろうが。
ローダンの1000話移行と、ドック・サヴェジの翻訳されたことがないお話しの多くを読んでみたいなあ。
投稿者 keisuke_yui : SF | 22:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 2日
お笑い
年末年始を実家で過ごした。わずか2日間程度だが、のんびりさせてもらった。
テレビを何となく見ていると、さすがお笑い芸人さんは引きも切らずたくさんテレビに出ている。その中でも、波田陽区、長井秀和を、たまたまかも知れないが多く見かけた。
波田は昨年の流行語大賞にもノミネートされ、長井も「間違いない」が相当流行った。
年末年始を通して、お笑いブームの中、若手の芸人が勢いよく活躍する中で、この二人もその上位で活躍している。
波田は、紅白から笑点まで5〜8番組くらいで目にした。長井もそれに若干少ないくらいで、ほぼ同じ程度に。私が驚いたのは、その何回かの中で、ほとんどネタがかぶっていないことだ。
波田などはもちろん、即興もあっただろう。確かにパターン化された芸なので、ある程度はそれにはめていくことで、通常の漫才のネタよりは工程が少ない分、いいのかも知れない。
しかし、改めて芸人さんの頭の良さと、センスに脱帽した。昨年流行った漫才などを新年に見ると、意外にネタは同じものを何回もやっているのに気づく。普段はたまにしか目にしないから、それほど気にならないが、年末年始のだらだらしたテレビ鑑賞の中で、それはとても目に付きやすい。もちろん、そんなことで非難がましく言うことはないし、それがすぐに才能や面白さと結びつくわけでもない。
それでも、例えばギター侍であれば、あれだけの人を斬っていくのは、なかなかの体力と精神力がいるはずだ。長井にしても、それだけのネタを年末年始のために作り続けていたのだろう。
どちらかというと二人とも、「他人を肴にする」ことでネタを作っているので、人によっては嫌う人もいるに違いない。だが、今回見ていて、その「冴え」はなかなかなものだと思うし、がんばっていると思う。
あれしかないのかと思うかも知れないが、実はお笑いの世界は、それほどバリエーション豊かな芸が生き残れるわけでもない。一つの芸でもいかにそれが優れているかが鍵だ。
往年の芸人さんで、その人ならでは、というユニークな何かを思い起こすと、牧伸二のウクレレ、早野凡平の帽子ネタ、東京コミックショーのレッドスネークカモン!、堺すすむの「なーんでか」、ケーシー高峯等、その芸一つで長年やっている。漫才は漫才としてその中で、スタイルはそれほど変わるわけではない。
例えばダンディ坂野だって、ネタさえ面白ければ、「ゲッツ」一つでいくらでも生き延びることは不可能ではないはずだ。しかし今年は1回も顔を見かけなかった。一過性の流行と、ネタの価値とは同一ではない。一過性で終わるのは、それがそれだけの芸でしかなかったと言うことなのだ。
長井がいみじくも笑点で波田に対し「今年の流行語に・・・って言うじゃなーい・・・がノミネートされたことを揶揄って、去年はテツandトモだったぞ、と言っていた。それは恐らく、ギャグでもあり、同時にまじめな警鐘でもあり、自戒でもあるのだと思った。
何事も、「ただの・・・」で終わるか、長く残るのかは、どんな世界でもそこに努力と運は必要だ。たかがお笑い、されどお笑い。短期間のこの年末年始に賭ける二人の意気込みを見たような気がした。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 1日
紅白歌合戦
本当に何年ぶりかで紅白歌合戦を観た。もちろん最初から最後まで観たわけではないが、半分くらいは観た。
あまりに歌を知らなくなっているのにびっくりした。もちろん演歌歌手や往年の歌手が歌う古い歌はそこそこ知っているものもあったが、今年流行った歌を、ほとんど知らないことに驚いた。
昔は視聴率が70%なんていう時代もあったのは、チャンネルの数を比べれば、自ずとそんな視聴率が維持できるはずもなく、それでも4割前後の視聴率を確保するのは驚異的だ。子供の頃はよく見ていたし、歌もほとんど知っていた。
でも、イ・ジョンヒョンという韓国の歌手を知れたので良かった。なかなか楽しかった。韓流ブームとは無縁だったが、BOAも面白かったし、意外に韓国の音楽も面白そうだ。
NHKが様々な使い込みやら何やらで、受信料の支払い拒否がどんどん増えているという。紅白の視聴率が普通になっても、まだまだNHKの視聴率は高い。もちろん地方に行けば、NHK以外は数えるほどにしかチャンネルがないところもあるし、あっても映りが悪いところもたくさんあるから、視聴率が上がる理由の一つはわからなくはない。
しかし、やはりNHKも変わる必要があるのだろう。海老沢会長が辞職してもそれでこと足れりということではないだろう。受信料で運営されているとしても、受信料は義務ということになっているので、一般の会社とは訳が違う。公営放送なのだ。いや、そういう認識で番組が作られるべきだ。
そういう意味では、BS2や、BSデジタルが本当に必要なのかは疑問だ。BSアンテナを立てると、どこから見ているのか知らないが、徴収員がすぐに現れる。地上波のNHKは分からなくはないが、勝手にBSを作って、その分を別料金で徴収しようというのはいかがなものか。
視聴料を払わない人がこれほど増えても、予算的には許容範囲田などということを何かで読んだ。と言うことは、払っている我々が、NHKを支えていることになる。早いとこ体質改善し、払っていない人から徴収できるようにし、その余裕のある分を値下げしてほしいものだと思う。
紅白の話だったんだが・・・・あまり書くことがなかったので。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 21:21 | コメント (0) | トラックバック (0)