2004年12月31日
年越し
一年が終わって次の年が始まる。歳末だったり、年忘れだったり、お祭り的だ。そして明日はお正月。もっとお祭り的だ。
でも、何が変わるわけでもない。一日が明けるだけだ。
それでも人間は何かを区切りにすることで、気持ちを新たにしたり、何かを始めたりしながら生きていくのだ。何かのきっかけには一年の節目は非常にいいのだろう。
何が変わらなくても数字が一つ上がり、新しくなるということが問題なのだ。
つまり、毎日明日がくるので、毎日を新鮮な気持ちで生きていけばいいということなのだな。
そう、来年は毎日が1月1日であるつもりで(休むってことじゃなく)、気持ちを新たに過ごしていこう。
まあ、大晦日だし、こんなところで自分を許してやろう。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 21:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月30日
第九
12月になると第九の演奏回数が増えるようになったのはいつの頃からなのだろう?少なくとも私がクラシックを聴き始めた時は既にそうだったような気がする。インターネットで調べると、戦時中の学徒出陣の時、今の芸大(東京音楽大学)が、繰り上げの卒業式を12月に行い、その時に演奏したのが元、というような記事を複数見つけることができ、オーケストラとしては今のN響(当時は新交響楽団)が始めたようなことが書いてあるが、まあ、戦後何となく定着していったのだろう。「喜びの歌」という終楽章のシラーの歌詞も、新年を迎えるに当たって良い歌詞と言うことだったのかも知れない。戦中でも、ドイツ音楽なら問題なかったと言うことか。
恐らく戦後、どんな高度成長期にも、「この世知辛い世の中」といった形容詞は使われ続けてきた。バブルだって高度成長だって、日本人全員が等しく味わっていたわけではない。どんな好景気にだって倒産する会社はたくさんある(逆に不景気だって高成長を続ける会社もあるわけだが)。
そんな中で、暮れの押し迫った時期に、一年の憂さを晴らすような「歓喜の歌」を、素人でも歌えるこの企画は、非常に一般に浸透しやすかったのだろう。
今でこそ、オーケストラもたくさんあるし、ホールもたくさんある。演奏家もたくさんいるから、第九の演奏と言ってもそれほど難儀なことはないのかも知れないが、オーケストラと独唱、合唱を入れると、「ちょっとコンサート」という規模ではない。 時間だって1時間以上かかるわけで、楽なコンサートとは言えないはずだ。
個人的には第九は好きな音楽の一つだ。だが、根がひねくれているので、年末に猫も杓子も(というほどではないことは百も承知しているが)第九となると、あまり聴きたくない。しかも、なぜか小学生の時から知ってる「晴れたる青空、漂うく〜もよ〜」という歌詞が、何とも脳天気で好きになれない。
第1楽章の、いかにもベートーベンらしい無骨で重々しい雰囲気が、美しい第3楽章を挟んで、終楽章へ移るわけだが、ここではもう、「晴れたる青空」という感じではなく、もっと宗教的な歓喜なので、「みんなで歌おう、ああ楽し」ではないと思うのだが。
ただ、この歓喜の歌の第1主題は、個人的にはあまり好きではない。実はこれも脳天気だからだ。ベートーベンの脳天気さというのは、例えば交響曲第7番のような、脳天気であればこそ、「舞踏の権化」と言われても頷けるような、ああいうメロディラインをいうのであって、なぜか聴いていて気恥ずかしくなるような、穏やかすぎる歓喜の歌ではないのだ。
尤も、同じ主題から出ているにもかかわらず、バリトンの歌い出しはなかなかかっこいい。それは、第4楽章の冒頭と、バリトン歌唱の前の、これまたベートーベンらしい喧噪に満ちたフレーズが、上手く導いているからかも知れない。結果的にバリトンが歓喜の歌の主旋律を歌うと、なんだかまた意気消沈してしまう。
私のイメージとしては、「歓喜の歌」よりも「天下太平の歌」といった、若干気抜けを感じさせるメロディなのだ。
実は私は前にマーラーの「復活」の項でも書いたが、この「復活」という曲は、間違いなくマーラーの頭の中に第九があったので、恐らくマーラーはベートーヴェンを心から尊敬していたし、自分自身の第九を書いたのだと私は思っている。
第九の3楽章が持つ静謐なイメージを第4楽章の「原光」でなぞり、第九が騒々しいフルオーケストラで始まるのを、同様に第5楽章の冒頭に持ってきている。
私が第九よりも復活が好きな理由は、恐らくこの後の、声楽部分にある。第九の、敢えていうなら惚けたような脳天気さとは違い、あくまで無骨に、厳かなイメージを崩さないマーラーの頑なさが好きだ。
第九というのはベートーヴェンの交響曲の中でも決してよくできた曲ではないと思っている。3,5,6,7などの方がベートーヴェンらしい。「運命」は手垢が付きすぎていて、当たり前のような曲だが、素晴らしい曲である。
ベートーヴェンの良さは、私は緻密で細やかな緩徐楽章にこそあると思っている。第九もその例に漏れず、第3楽章が美しい。その余勢を駆って畳みかけるような終楽章の冒頭も、なかなかいい。何になぜ?と言うところだ。
まあ、これはあくまで個人の好みなので、一般の人がどう考えるかは別のことである。
クラシックは一頃に比べると大分市民権を得たようで、CDも非常にたくさんの種類が手にはいる。コンサートもたくさん催され、料金的にも手頃なものが増えている。相変わらず外タレはポピュラーと違って、これでもか!という料金を平気で付けているが、1回のコンサートに3万円などという価格が付いていると、見る気もしない。
よく、この演奏は10万払っても惜しくないなんていう表現にお目にかかるが、私は比喩以上に捉えていない。感動は金で買えないかも知れないが、であれば、金銭的価値に置き換えるのはおかしいので、素直に、こんなに素晴らしい演奏はお目にかかったことがない。と言えば済む問題である。
著名な指揮者やオーケストラ、演奏家が、ある程度以上のいい演奏をするのは当たり前だから、見に行きたいと思う。また、見るからにはいい席で見たいと思う。しかしそれがお金持ちしか簡単に見られない金額では断念するしかない。
そういう意味じゃ第九は常に手頃だ。すなわち、多く観客を呼べると言うことなんだろうな。もっとクラシックが人気が出れば、何かが変わることがあるんだろうか?
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 21:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月29日
地震
今年は地震の多かった年だ。特に大きな地震が。
新潟、北海道、スマトラ沖と後半だけで3回も起こっている。地震のホームページを見ると、8月からマグニチュード5以上の地震が日本付近だけで6回起きている。巨大な地震に関しては例年よりは大分多い。
地震は揺れによる家屋の倒壊や地割れ、引き続く火事など、地震そのものだけでなく、付随する現象が恐ろしい。今回、スマトラ沖の巨大地震は、津波だった。日本でも過去、奥尻や秋田など、記憶にあるだけでもいくつかの津波による惨事がある。
この世の中で、天災はいずれにしても防ぎきれない。地震、台風、噴火、など、星が起こす災害には、人間はあまりに無力だ。
しばらく前に読んだ本「揺籃の星」は星が地球に衝突する話だった。これだって無いとは言えない。少なくとも長い地球の歴史では何度も起こっていることだし、恐竜の絶滅の原因も現在ではそこに根拠を置いているのだから。まあ、月の表面を見るだけでも、大気がなかったら、いかに多くの天体が地球に落下しているのか、そしてそのいくつかはいかに地球に被害を与えるのか、「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」を見るまでもなく、明白だ。
人が住む大地で、自然災害の皆無なところはほとんど無い。幸せなことに、私はこれまで、大きな自然災害には巡り会ったことがない。でもそれは、これからもそうであることを一切保障しない。それが自然災害の恐ろしいところだ。
昔、「日本沈没」とか、巨大地震をテーマとした小説や書き物、あるいは映画などが流行ったことがあった。1970年代の前半だ。当時は「ノストラダムスの大予言」もベストセラーになり、世紀末まで30年近くある中で、週末ムードが漂っていた。
「日本沈没」は、文字通り日本が沈んで日本海が無くなってしまうお話しだが、小松左京は科学的なデータをたくさん付けて、中学生には難しい小説を書いていた。
実際に、近いうち日本が沈まないまでも、それほど破滅的な事が起こることはないだろうが、破滅的というのはそれが自分自身に関われば、今回の新潟中越地震などはまさに破滅的でさえある。
プレートテクトニクスにより、地面の下では対流が起こり、常に動き続けている。太平洋プレートは日本の下に潜り込み、反動で地震を起こす。この動きが大陸を動かし、今の世界を形作っているとすれば、大地の動きは地球の脈動であるし、星もまた生きていることの証左なのだろう。
地震の予知は非常に難しいという。直感的に分かるような気がする。よく、動物は予知して逃げるというが、どこまで信じていいのか、仮にそれが確実なら、今頃予知できるようになっているのではないか?
人間は自然や生物に対して神秘的な何かを見たがる傾向にある。いいことも悪いことも神の思し召しというわけだ。それはそれで信仰という面からすれば重要なことだろう。否定するつもりはない。しかし、そこから科学的に何かが導き出せない限り、やはりその時点では迷信に過ぎないし、偶然なのだ。
ただ、仮に予知できたとして、それがどの程度のタイミングで、どれほどの確度をもってされるのかが問題だ。1時間前に震度7の地震が起きると予報があれば、どこかへ逃げることができるだろうか?確かに避難場所へは行けるだろう。しかし家の倒壊は予報の如何に関わらず、防ぐことはできない。もちろん地震予知が無意味だと言うことではない。そうではなくて、地震そのものをコントロールできるようになるまで、地震の恐怖はあまり変わらないと言うことだ。
今これを書いている間に地震があった。東北らしい。やはり大地の揺れというのは、「足下を揺るがす」大事件なのだ。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 21:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月28日
ブッダ
手塚治虫の「ブッダ」を読み返している。
「ブッダ」はもちろん、お釈迦様の伝記を扱ったマンガだが、実際残っている仏伝に手塚なりの脚色がされ、人間シッダールタが、ブッダとなっていく様が生き生きと描かれている。
釈迦の伝記というのは、そもそもが口伝によるお経などを基にまとめられたものだし、大乗仏典がまとめられる中で、かなり神秘的な要素も加わっている。そもそも2600年も前の人なので、その当時でさえ、かなり神秘的なオーラに包まれていたであろう事は想像に難くない。
現代のように、ある程度のことが科学で解り、人の仕組みがDNAで解析されようという時代にあってさえ、様々な奇跡や不思議を語る人は、枚挙に暇がない。マジックなどというのは仕掛けがあっても、あれほど不思議なのだ。
人の世の成り立ちを説くブッダに神通力があっても不思議はないだろう。事実十大弟子の筆頭格のモッガラーナ(目健連・・・健という字は本当は牛偏だが、字がない!)は神通第一と言われていたらしい。
釈迦の伝記は通常、人というより、人や神を超越した覚者として描かれ、生まれたとたんに有名な「天上天下唯我独尊」と言ったとされる。天地に自分より尊い者はないと言うことだ。普通に考えれば、これ以上傲慢な言葉はないところだが、覚りを開き、人を導く優れた者になるのだから、ある意味最も尊いに違いない。だが、生まれてすぐそんなことを言うはずはない。
手塚の「ブッダ」は、超能力者(霊能者)として描かれているが、微妙なラインを取っている。基本的には仏典によるが、アーナンダや、アッシジはより強力な役割を与えられ、タッタやチャプラといったオリジナルのキャラクターが手塚らしい彩りを添えている。手塚治虫の作品を、私はあまり知らない。「鉄腕アトム」「ブラックジャック」「ビッグX」「ワンダー3」「どろろ」などのアニメになった作品を除くと、せいぜいこの「ブッダ」くらいしか読んだことがない。名前だけは他にも知っているが、実際に読んだかと言うことになると読んでいない。
「鉄腕アトム」は同時期に「鉄人28号」という強力なライバルがおり、男の子にとっては、恐らくアトムよりも鉄人の方がずっと人気があった。これはアトムが描こうとしている世界と、鉄人が描こうとしている世界が違うからだ。鉄人はあくまでロボットで、子供が戦車や軍艦にあこがれるのと同じで、単純に強さと勧善懲悪という世界観の中でお話しが構成されているが、アトムはそもそも、「ロボット」というのは体裁だけで、どちらかというと優れた人間に過ぎない。内に優越という意味での差別を抱え、社会が抱える欺瞞や、多面的な正義と悪の狭間で、時には苦悩さえするという作品なのだ。どちらがより単純に楽しめるかを考えればどちらが人気を得るかは、自ずと明らかだ。
世の中というものは面白い者で、社会的に評価を受けるのは「アトム」で「鉄人」ではない。私は手塚治虫という人は天才だと思うし、非常に優れた漫画家であると思う。しかし、私が数少ない手塚作品の中から、純粋にエンターテインメントとして成功しているのは「ブラックジャック」だと思うし、手塚氏がマンガの中で描きたかったことを「アトム」ではなく、「ブッダ」の方がより上手く描いていると思う。
私は昔から、キリストの話や、ギリシャを始めとする神話などをよく読む。聖書は旧訳も新訳も、文章そのものはまだるっこしいが、非常に面白い作品だと思う。そしてまた、随所にいいことが書いてあるのも事実だ。
仏典時代を聖書のように読んだことはほとんど無い。聖書に比べると非常に読むのがしんどいからだ。本来仏典の多くは、「このように仏陀が言ったと私は聴いた」というスタイルで進められているらしいので、その点だけをとっても、聖書に比べて物語性が低い。
キリストは神の子であり、知らないうちに主イエスと言うことになって神の座に座っている。私はこの「人の子」という表現と、唯一神であるはずの神を父と呼び、知らないうちにそれとどうかしてしまったような点を、クリスチャンの方がどう理解しているのかがよく分からない。
ブッダことゴータマ・シッダールタという釈迦族の王子は(王子と言っても今想像するような王権があったわけでもなさそうだ)、人として生まれ、人として死んだ。ちょっと脚色すれば、覚った人として死んだ。後生の人が彼に、一般の人が神と同格のようにして扱う「仏」としての地位を与えたとしても、彼が実在した人間であることは考古学的にも証明されているらしい。
イエスの母マリアが処女で受胎したというのと同様に、ブッダにも、母マーヤの右脇から象が入ったという話があるが、手塚版ではそういう夢を見たことになっている。
確かに、シッダールタのように覚りを開いて人を導くということは誰にもできるものではないし、非常に高邁で、素晴らしい教えであることもうなずける。だからといって彼を神の高みに持ち上げるのはどうだろう。
私は神の存在を否定する者ではないが、信じてもいない。この世の中は考えると不思議なことだらけなので、超越的な存在がどこかにいても不思議ではないが、kの広い宇宙の地球の、しかも一地方に偏在する神が全世界(この場合は全宇宙以上の)を束ねているとは想像しがたい。但しこれも否定する根拠はない。
しかし、ブッダが覚り、教え導いた多くの真実は、非常に貴重で信じる価値があると思う。
これは別の本で読んだことだが、「この世はどうなっているのか」と言ったようなタイプの質問に、ブッダは、「そんな答えのでないことに悩むより、日々を正しく生きなさい」というようなことを答えたという。これが本当かどうかは知らないが、理屈としてはすごく正しい。「人は何のために生きているのか」という質問に、あらゆる哲学者は答えを出せていない(はずだ)。なぜなら答えのない質問だからなのだと思う。答えのない質問の答えをあれこれ考えて、いったいそこに何があるのか?
もちろんブッダの教えの肝はそこにはないと思う。彼が説いているのは、森羅万象を極めたと言うことではないからだ。だからこそ人間らしいし、親近感が持てる。
宗教という言葉を辞書で引くと広辞苑には
「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」
学研の百科事典には
「人が神・仏・絶対者・超越者を認め,一定の様式のもとで,それを信頼・崇拝・信仰することにより,心の安らぎや幸福を得ようとする精神文化の一体系」
とある。
これで見ると、キリストは最初から宗教者として(少なくとも伝道を初めて以来)自分の中に意識があったことは間違いが無く、それは神という絶対者を信仰することで体系づけられている。
しかし仏教はというと、恐らくブッダの死後、徐々に形作られたのではないか。少なくとも生存中のブッダには、その意識はなかったのではないかと思う。死後は法に寄れというのはブッダの遺言だが、法とはブッダ説いた人の生き方であり、その方を中心に人々が信仰を深めることにより、宗教として成長していったのであろう。
キリスト教徒仏教は仏教の方が500年ほど古いが、似た教えも多く、例えば、仏教でいう貧者の一燈(この言葉を初めて見たのは「巨人の星」だったが)とキリスト教でいう「金持ちが神の国にはいるのはラクダが針の穴を通るより難しい」というのはほとんど同じ意味だし、そもそも捨てることをよしとする文化がそこにはある。
人としてのブッダが(かなり破天荒な超能力は満載だが)、悩みながら覚りを得、梵天の勧請を受け伝道を始め、入滅するまでを実に手塚は生き生きと、波瀾万丈に描ききっている。手塚なりのユーモアは所狭しと横溢しているが、全体は一本の芯が通っていて、揺らぐことはない。きちんと仏典の骨子を外すことなく、豊かな肉付けをしている。
いくつも仏陀の話は読んだが、手塚の作品は面白いと同時に胸にも響く。
ずいぶん前、「涅槃で待つ」と言って自殺した人がいて話題になったが、「涅槃」という言葉は難しい。「ニルヴァーナ」(ロックグループじゃない)の音訳だそうだが、よく死ぬことに使われるが、それは死と涅槃が似ているからかも知れない。煩悩を吹き消すって、普通に生きていては無理だ。だが目指すことはできよう。
キリストや仏陀に限らず、優れた先人の多くは、我々に多くのことを教えてくれる。このマンガ「ブッダ」は、そういう意味で、もっと読まれてもいい作品だと思う。
投稿者 keisuke_yui : まんが | 23:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月26日
諸行無常
諸行無常とは仏教用語だ。平家物語の冒頭で「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」とあるのは有名なところだが、これを聴くと、諸行無常というのは何か幽玄な、非常に茫漠としながらも重みのある得体の知れない物みたいな感じも受けてしまうのだが、すべてのものは常ではない、ということを言っているに過ぎない。
過ぎない、などと書くと軽んじているようだが、そう言うことではない。
時代も、物も、事も、人の心も、移ろいゆき、一所にはいないのだという、この真実は非常に重いと感じている。
この世の中で、何が正しくて何が間違っているかということはすごく難しいことだ。私は正義ということが好きだが、イラクを攻撃するアメリカが正義を振りかざすのを見ていると、いったい正義とは何だろう?と感じないではいられなかった。
歴史の悠久といわれる流れの中で、人は数え切れないくらい争い、殺し合い、破壊し、創造してきた。それもこれも、人の心の中にある何かが動かしているのだ。個々の人が幸せを求めても、得られる人と得られない人がいる。神の名を呼んでも、助かる人とそうでない人がいる。この世が平等や公平を基にできていないことは誰でも知っている。
諸行無常という中には、それでも幸も不幸も移ろうのだと言うことを言っている。絶対的な真実があるとすれば、それは、諸行無常だとか、諸法無我だとか、涅槃寂静といういわゆる仏教の三法印と呼ばれる言葉の中にはあるような気がする。
仏教はとても哲学的で、その思想は人生やこの世の成り立ちを極めようとする釈迦牟尼の、「悟り」というのがいかに清澄だったかを感じさせる内容をもっている。
人生は苦だという。
マーラーは「大地の歌」の第1楽章で「生は暗く、死もまた暗い」と歌う。
人の人生が死に向かっているのなら、なぜ人は殺し合うのだろう?
何十億という人間が住み暮らすこの地球で、諸行無常を思う時、そして幸せを求めるのがすべての人間の営為だと知る時、互いが互いの幸せを引き出してあげることこそが、自分の幸せに繋がることだと、多くの人が気づくに違いない。
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」
と平家物語は続く。この変転の人生を知ることこそが、大切だ。驕る平家とならぬが人の但し生き様なのかも知れない。・・・・まだちっとも驕れる人生じゃないが。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月25日
有馬記念
明日は有馬記念だ。
私は競馬をやらないので(この「競馬をやる」という表現はくせ者だ。つまり「競馬をやる」は馬に乗って戦う騎手のことではなく、あくまでギャンブルをするか否かと言うことだから)、こんな記事を書くのもどうかなと思うのだが、まあ、それはそれで。
先日友人が来て有馬記念歴代の名レースを収録したDVDを見せてくれた。有馬記念といえば1年の納めのレース、「グランプリ」で、強い馬が集結するレースだが、オグリキャップとか、トウカイテイオーとか私の知っている馬ばかりであった。
私の年齢で、競馬をやらない人間にとって、競馬馬というと、ふと思い浮かぶのは「ハイセイコー」だが、これとて、歌で知っているだけで、どんな馬かというとさっぱり解らない。しかも有馬記念とは関係ないらしい。
有馬記念は2500メートルを走るということなので、長距離が得意な馬が自ずと出場することになる。去年の優勝場はシンボリクリスエスという馬のようだが、全く知らない。しかもこの馬、2年連続でグランプリを取っている。
今年はゼンノロブロイ、コスモバルクといった辺りに人気があるらしい。
私でも今まで競馬を見たことがないわけではない。時折見ると、オリンピックと一緒で、それなりに楽しめる。お金を賭けていなくても。競馬をする友人を見ていても、勝ち負けはもちろん気になるようだが、それ以上に競馬が好きらしい。
競馬がスポーツだと言うことをよく言う。確かにプロレスも100メートル走もスポーツだから、馬場を走る馬と騎手にとってスポーツであれば、スポーツには違いない。
同様な理由で、競艇や競輪もスポーツなのだが、これとサッカーのみが賭事の対象になっている。この辺りの仕組みがよく分からない。
スポーツはほとんどが出場選手の勝敗を競うことで成り立っている。必ず勝者と敗者がいるのだ。どちらが勝つか、あるいはどういう順位になるか、当然予想と結果が食い違うわけで、賭事が可能だ。
なぜ他のスポーツもすべてかけの対象にならないのだろうか?
かけが不健康だなどというのは戯言だ。その資金が暴力団に流れたりするからそういう印象を持つだけで、そもそも人生とはかけの連続ではないのか?
ある商品を売りに出す。それが売れるかどうかで会社の存亡が決まるとしたら、これはもう、人生をかけた大きな勝負で、法律はこんな事を禁じてはいない。恐らく胴元がいないからだろうが。
大学受験だって、相当な賭だ。結婚だって実はかなりの賭で、よく賭に負けている人もいるのだ。それに比べたら、パチンコや宝くじなどかわいいものだ。
賭事で人生を棒に振るかどうかは、当然のこと、賭事の問題ではなく、それにのめり込む人の問題である。むしろその賭を活力に、人生を成功させている人だってたくさんいる。あたかも賭事が悪であるかのような風潮は、臭い物にふたをして、ただ見せないというに等しい。
今度のテストで100点取ったら、好きな物を買ってあげる。
これが賭事でなくて何だろう?
人は知らないうちに、子供であろうと大人であろうと、何かをかけて行動を行う。これは、人生が先の解らない賭のようなものだからだ。その人間が、賭を悪く言って、「競馬はスポーツだ」などという逃げ口上を使っている。
ギャンブルでいいじゃないか?
私はあまり賭事をする方ではないが、それでスポーツ振興にもなり、基本的に人生は勝負なんだということで、がんばって行ければそれでいいと思うが。但し、相手に対する敬意と尊重、弱者へのいたわりなどはまた別の問題だが。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 21:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月24日
Godiego
Godiegoは、日本のロックグループだ。ゴダイゴといった方が通りはいい。「モンキーマジック」や「ガンダーラ」「銀河鉄道999」や、様々なCMソングで有名だ。といっても、70年代から80年代に活躍したので、今では昔の話だ。
タケカワユキヒデは、その後、ソロでも多少テレビに出たりしていた。奈良橋陽子さんという方が多く作詞を担当していたと記憶している。なぜ作詞家の話を書くかと言えば、私にとってゴダイゴは、セカンドアルバムに始まって、セカンドアルバムで終わっているからで、それは確かに、「ガンダーラ」は好きだが、他の曲はほとんどどうでもいい。

この「DEAD END」というアルバムがすべてで、しかもむちゃくちゃ好きなアルバムだからだ。「袋小路」というこのアルバムは全曲が英語詩である。
メンバーはミッキー・吉野、タケカワユキヒデ、トミー・シュナイダー、スティーヴ・フォックス、浅野孝己の5人だが、外国人(少なくとも名前は)が二人いるし、タケカワユキヒデは外語大出だし、まあ、英語詩のアルバムを出す要素は揃っている。ミッキー・吉野は元ゴールデン・カップスだから「長い髪の少女」とかをやっていたことになる。それよりゴールデン・カップスは「巨人の星」で、星飛雄馬(このひゅうまを一発で変換する最近の日本語変換はすごい)の最初のガールフレンドオーロラ3人娘が歌っていた「クールな恋」の原曲を歌っているのだ。「あいらびゅ、あいらびゅ、ふぉればもー」というやつだ。
さて、そんな「DEAD END」だが、アルバム全体がいいが、特にアルバムタイトルにもなっている「Dead End〜Love Frowers Prophecy」という曲と、「The Last Hour」という曲が好きだ。「Mikuni」は静かなバラードだが、「Dead End」は曲全体が面白い構成をしていて、特徴的な小気味いいピアノのリフで始まり、第1主題を2回繰り返し、第2主題と展開部へ進んだ後、そこから引き返して、第2主題、第1主題と進む。そして第1主題の繰り返しで終わるのだ。つまり曲全体が「袋小路」なのだ。そして最後のリフレインは、少しずつ転調して音を高くしていく。
この曲を最初に知ったのはいつだったか忘れたが、確かテレビでライブを観たのだった。「新創世記」というファーストアルバムからの曲と、「Dead End」を演奏したのを覚えている。すぐにレコードを買った。それ以来、この「Dead End」は、何回聴いただろう。ほとんど飽きたことがない。歌えと言われたらきっと歌えるだろう。歌詞を覚えている。残念ながらカラオケ屋にあった試しがないが。
タケカワユキヒデの歌はどこか空気が抜けていて迫力はないが、とてもユニークで、彼にしか歌えない歌を歌う。以前にテレビで昔の歌手が最近のヒット曲を歌う番組があり、たまにそれに出ていたが、人の歌を歌うとあまり上手く聞こえなかった。メリハリやアタックがないのですべての音楽が流れてしまう。
しかしこのアルバムではそんなタケカワの歌唱はほとんどプラスに働いていて、非常に良く仕上がっている。
ゴダイゴがなぜゴダイゴなのか由来は知らないが(あるいは後醍醐か?)、英語に直す時にGodiegoとした覇気はこれ以降のアルバムには、少なくとも私は感じない。Go-Die-Goというグループ名とDead Endというアルバムタイトルはまさに私の感性にしっくり来る響きだったし、それに負けない内容であった。
もともと「僕のサラダガール」というCMタイアップでデビューした彼らだから、むしろこのアルバムは彼らの本質を外れた物だったのかも知れない。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月23日
ファイナル・カウントダウン
「ファイナル・カウントダウン」といっても、ヨーロッパの歌じゃない。この場合ヨーロッパはロックバンドのヨーロッパだ。妙な二重説明。
「ファイナル・カウントダウン」は、カーク・ダグラスが主演した1980年の映画のことだ。同時期のタイムスリップ物では、「フィラデルフィア・エクスペリメント」があるが、なぜかこちらの方は評価が高いが、「ファイナル・カウントダウン」は評価が低い。カーク・ダグラスと、マイケル・パレを比べて、パレの方がかっこいいからというわけでもないだろうが、なぜかそうだ。
確かに、ステーキのような名前をした原子力空母「ミニッツ」が、実験公開中に変な嵐を抜けると、そこは太平洋戦争前夜の太平洋にタイムスリップし、ちょっといざこざがあって、元に戻るという、書いてしまえばたわいもない話なのだが、落ちが好きだ。
当時の最新鋭の戦闘機が零戦と戦って撃ち落とすなんていうシーンもあるが、メインはタイムパラドックスなので、真珠湾攻撃をミニッツで阻止しようという目論見は敢えなく潰える。
大統領候補の上院議員の秘書にキャサリン・ロス、そしてその相手役は名前を知らないが、ミニッツの士官である彼が結果的にハワイ近くの島に置き去りにされ、40年の時を経て、帰還したミニッツから降りたマーチン・シーン(チャーリー・シーンの親父だが顔がそっくりだ)を、ベンツだかロールスロイスだか忘れたが、高級外車で出迎えるというシーンは、一見べたべたな終わりのようだが、意外にないはずだ。
マーチンよりも40才年老いてしまった士官は「つもる話もある」といって彼を車に迎え入れる。全編を通じて音楽もなかなかいいし、スペクタクルに流れがちなSF映画の中では、なかなかいい味を出していると思う。
確かに、SFとしては1980年という年には、アイディア的にどうかという批判があってもいいが、だったらスター・ウォーズはどうだ?1930年代のSFだと言うことになる。アイディア云々よりも、いかに面白いかだと思うが、私的には至極面白く、何度も見返している作品だ。
カーク・ダグラスといえば往年の名優で、息子も活躍しているが、さすがに「スパルタカス」とどちらがいいかと訊かれると悩むところだが、その程度に気に入っている作品だ。私は「十戒」を始めとするあのころのスペクタクルものがとても好きで、また別に機会に「バラバ」を取り上げたいと思うが、それに比肩する楽しさだ。
タイムスリップした空母が、どこにいるかが判らなくなり、通信のやりとりの中で、「こちらは空母ミニッツ」というと、「何を言っている、ミニッツ提督はまだ現役だ」というようなシーンがあったと思うが、こういうところが、私のツボなんだなこれが。
投稿者 keisuke_yui : 映画 | 21:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月22日
生きていくと言うこと
先日ここで、「傷追い人」について書き、そのせいで読み返した。やはり面白かった。
最後のシーンで、母を含む3人の女性をそのために亡くした復讐すべき敵が、既にこの世に存在せず、しかもそれがCIAの一機関であることを知った主人公が、自らの生き方を問い直すために、浮浪者が集まるシェルターに身を置くシーンがある。彼は職を求めてそこにいる多くの男達に混じり、但し食も水も口にしない。
自分を死の直前まで追い込むような行動をしながら、渇望に耐え、彼は改めて立ち上がる。彼はそれができなかった場合、そこで一生を終えるほどの覚悟でそこに座り、そして悔い無き自分の人生の新しい一歩を踏み出すのだ。
さて、人はパンのみに生きるにあらず、というのは聖書の言葉だが、物質的なものよりも精神的なものに重きを置くのは、人類の歴史の中でも、ずっと尊ばれてきた考え方だ。三大欲といわれるのは「食欲」「睡眠」「性欲」だが、「パンのみに」は生きなくても、断食を続ければ死んでしまう。
つまりここのところだ。死を賭してもすべき事、命あっての物種、この両極端は果たしてどちらが正しいのだろう。
「傷追い人」の茨木圭介はただの超人なので、そこには答えがない。彼のような生き方は、彼のような肉体と、彼のような精神力がないと実現できないからだ。
だが、「死を賭しても」という姿勢と、「命あっての」という姿勢は、例えばドラマでは、主役と悪役にその立場を置きやすい。多くの人が、命がけで行うことに意義を見いだしているということか。
「食欲」と「睡眠」は、断たれては人間、生きていけない。まさに茨木圭介は、恋人夏子と共に「食」を断たれるが、敵に屈するよりも死を選ぼうとする。このマンガに限らず、こういうシーンは、極めて崇高な雰囲気があり、結果がどちらに転ぼうが、作者は概ね、主人公をそこで殺すことはない。
人は誰も生きる上で、何か目的を持ちたいと思う。寝て、食って、子供を作ったとして、何か人生に価値が生まれるわけでもない。それが、宇宙旅行でも、出世でも、何らかの目的を持たないと生きていけない。何もないと思っている人でも、例えば、生きるための金を稼ぐのだとしてもそれを目的としていることには違いない。
実は、人は人生を生きることを目的として生きているのだと思う。あたかも泳ぐのを辞めてしまうと死んでしまう回遊魚のように、常に何かを目的としなくては死んでしまう。そしてそれは、生に執着することの裏返しでもある。
あらゆる物は永遠ではない。生きていくことの意味は、それが死への行進だからこそ瞬間瞬間に意味を持っている。ことさら、大きな目標など必要ない。
王様だって乞食だって、土に帰れば同じだ。・・・・いや、死後のことは死んだ人に訊くしかないので、たとえ科学が、意識は脳の中の電気信号だと断定しても、霊魂の存在を否定しきれないのは困ったことだ。
それでも、生きていくことには意味など無い。どう生きていくかだというのはやはり人を人たらしめている「何か」ではあるのだろう。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月21日
忘年会
忘年会シーズンたけなわです。実は私も今日、忘年会でした。
さて、忘年、年忘れといいますが、どんな意味なのか気になりました。
広辞苑を引くと
@年の老いたのをわすれること。老年を気にしないこと。
A年齢の差を気にとめないこと。「―の交り」
Bその年の苦労をわすれること。としわすれ。
と、忘年という意味には三つあることが解ります。当然忘年会はBの意味です。きっと1年間、嫌なことがたくさんあった。忘れようって事で、非常に楽天的な宴ということですね。
お釈迦様は人生は苦だといいました。仏典では生老病死といいます。そういう意味では、人生は常に忘年会を必要としているのかも知れません。だからきっとサラリーマンはあんなにお酒に酔うのでしょう。
しかし、忘年の@の意味もAの意味もよく分かります。この二つは人の年齢のことで、カレンダーの年ではありません。年を取れば、そんなことは忘れていつまでも若くいたいと思う気持ち、人間年の差なんて関係ない、刎頸の交わりこそ楽しけれ。
その通りです。もちろん、若さはそれだけで輝いているし、同窓の友は、ある一時期を共有した仲間として大切ですが、人はいずれ年を取り死んでいくし、同じ年、同じ学年などというのは人と人の関係においては共感以上のきっかけではありません。中身のつきあいができるかどうかです。
今日飲んだ友は、やはりそういう友です。年も離れています。老後までつきあえると思います。
忘年会という一言の持つ意味は、実は仕事納めの鬱憤晴らしという意味に止まらず、いくつになっても快活に、気の合う仲間と飲み過ごすという事なのかも知れません。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月20日
未成年の飲酒
未成年は酒を飲んではいけない。誰でも知っていることだ。少なくとも日本では。
ではなぜいけないのかとなると、何となく、未成年の健全な発育が云々というようなご託が聞こえてきそうだ。
今日、夕方のニュースで、忘年会シーズンに奮闘する居酒屋チェーンの取材を放映していた。薄利多売でなかなか厳しいと言うことだ。
そんな中で、店長は入店の際に未成年チェックをしていた。若そうに見える人に、学生証などを呈示してもらい、拒否すれば入店を断り、未成年には酒を供さない旨を入店時に告知するためだ。最近の居酒屋さんは大変だ。私が学生の頃にはそんなチェックをする店はなかった。
さて、思うのだが、確かに未成年に飲酒は禁じられている。法律で。昨日や今日決まったわけではない。だがどうだろう。その法律を厳しく遵守させようとしている大人達は、どれほどの人が未成年の時に酒を飲んだことがないだろうか?もちろん、人数はたくさんいるだろう。飲めない人だっているわけだから。
酒を飲んで運転をしてはいけないという法律がある。これは、明らかに酒を飲んだ結果が事故に繋がる可能性が大きいから、誰が考えてももっともな理由がある。しかし、未成年の飲酒は、喫煙やエロ映画と共に、二十歳という区切りがどうも胡散臭い。
昔であれば、大学に入学すれば飲める人はたいがい飲んだ。親も文句は言わないことが多いだろう。当たり前のことだが、飲み過ぎは良くない。身体にも悪いし、端にも迷惑をかけることが往々にしてある。だがこれは未成年に対する戒めではない。酒を飲むすべての人に対してだ。
前にも煙草のところで書いたが、煙草が身体に悪いとすれば、大人も子供も変わりはない。より成長期の子供にとって良くないなどというのは、大人のごまかしに過ぎない。酒もそうだ。
二十歳を成人と決めたのは誰だろう?もしこれが古代の中国から来ているとすれば、誰も見直そうとしないのはなぜだろう?孔子に言わせれば30歳で成人でもいいのかも知れない。
この文章で、だから勝手に飲めとか、未成年を(結果的に)追い返した店長を責めたりしているわけではない。むしろ彼は、職務に忠実で偉い。
だが、未成年の犯罪が増加する中、なんだか、簡単なところだけをうまく守らせようとして、他はほったらかしのような感じがする。道徳という授業は、非常に退屈で、面白くない授業だったが、少なくとも子供心に何かを植え付ける役には立っていたと思う。人がいかに生きるべきか、いかに他と共存していくかを教えるのは親の責任であり、学校や行政、あらゆる大人の責任でもある。
18才が酒を飲みに行っても、きちんとした飲み方をする18才はたくさんいる。しかし、50才になっても「あんたは酒を飲むなよ」と思える大人のいかに多いことか。酒の上のことだからという無礼講の行き過ぎた事がまかり通ったり、酒の力を借りて女性に良からぬ行動に出たりと、確かに酒の力はある意味恐ろしい。だがそれと、20才は飲んでも良くて19才はいけないという単純な区切りでものを考えることは、自ずと違う。
まあ、法律で決まっているので飲まないに越したことはないが、自分が未成年に戻ったとして、非常に釈然としない決まりであることだけは確かだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月19日
歌謡曲
歌謡曲というジャンルは、どこからどこまでを指すのだろう。
私は、自分のパソコンに入れてある邦楽のMP3は、基本的にすべて「J-POP」というジャンルにしている。演歌も、ロックも関係ない。唯一、アニメの音楽は「Anime」でフォルダも変えている。あ、もちろん、日本人のジャズは「Jazz」だし日本人の演奏家でもクラシックは「Classical」になってはいるが。
北島三郎と、中島みゆきが同じジャンルのはずはない。北島三郎は、明確に演歌だし、中島みゆきは今の言い方ならJ-pop、かつてはニューミュージック、それ以前ならフォークソングとなろう。では、由紀さおりはと言えば、これが歌謡曲だ。もちろん、日本の童謡を歌った曲ではなく、「手紙」とか「夜明けのスキャット」とかだ。
さて、森昌子の古い歌に「中学三年生」という歌がある。森昌子と言えば、デビュー曲「せんせい」も演歌かどうか怪しいところだが、「越冬つばめ」「立待岬」など、後年はまさに演歌の歌手である。
この「中学三年生」は、実はアルバムの中で山口百恵も歌っている。これは当時で言えば、やはり歌謡曲だ。ちょっと後になると、アイドルポップスと言うことになるだろう。でも、何となく森昌子が歌うと演歌だったりする。
演歌も歌謡曲の一部と考えれば、これは解りやすい。
しかし、私はポップスと歌謡曲の違いがよく分からない。日本のポップスが歌謡曲で、今はそういう言い方をほとんどしない、というような区切りでいいのだろうか。
歌謡という言い方はやはり古臭いし、演歌という表現は古さを尊ぶからこそ朽ちない表現なのだ。そういう意味では、中島みゆきも、浜田省吾だって歌謡曲だし、私はよく思うのだが、ディープパープルってイギリスの歌謡ロックだ。
ロックやポップスの中で、あれだけこてこての歌謡曲的メロディラインを書く人は少ない。最も最近の洋楽に関してはとんと暗い私だが。
さて、この歌謡曲というのはとても日本人にしっくり来るのだ。いわゆる日本の5音音階は、例えば沖縄民謡に似たところがあるので、本来から言えば、西洋音楽の日本人なりのアレンジ音楽といった方がいいのかも知れない。まさに日本人は、このアレンジという部分がとても上手で、最近の日本の若い人向けの音楽も、アメリカやイギリスの音楽を巧く輸入している部分が多い。
確かに昭和40年代、50年代くらいの歌謡曲には私くらいの年齢以上になれば、懐かしさが第一になる。かつて、自分の親が懐メロを見る姿を見て、退屈な音楽が多いと思っていたが、今、懐メロ番組を時々やっているが、そこに登場する歌手は、かつて自分が幼い頃、あるいはティーンエイジャーだった頃といった方がいいかもしれないが、その頃に流行っていた歌手だ。
サザンオールスターズ、井上陽水、中島みゆきといった歌手は当時から第一線だったし(サザンは少し後だが)、今でも第一線だ。すごいことだと思う。
懐かしさというのは一つには曲そのものに対するノスタルジックな印象もあるが、当時の出来事との関連で懐かしさを感じるものもある。おそらくは恋愛が最右翼だと思うが、その時の感情を呼び起こすことができる。
洋楽ももちろんそうだが、歌謡曲は曲だけでなく、その歌詞も絡むことがある。
私がそういう感情と共に思い起こす曲をふと思い浮かべるとしたら、バンバンの「いちご白書をもう一度」と、アグネスチャンの「白い靴下は似合わない」なのだが、どちらもユーミンの曲だ。そう言えば、ユーミンも昔も第一線だし、今も第一線だが、なんか最近はパワーダウンしている。まあ、中島みゆきも「地上の星」がなければ、それほどでもないので、やはりサザンはすごい。別にサザンはそれほど好きではないが、すごいということだけは言える。
サザンは歌謡曲じゃないと一般的には思うが、これはかつてニューミュージックと呼ばれたジャンルは、歌謡曲ともフォークとも一線を画すという意味で使われたからだ。サザンよりちょっと古いが、雅夢の「愛はかげろう」という曲がある。これも言ってみればニューミュージックの曲だが、今聴くと、歌謡曲だなこれは。・・・・という印象でくくれるのが、きっと歌謡曲なのだ。
それにしてもこの「愛はかげろう」は、カラオケで歌う時は要注意だ。女の子と行く時はちょっとセクハラだから。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 20:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月18日
中国
中国に親しみを持つ人が減ったという統計が出たと、ニュースでやっている。その理由を、最近の中国とのぎくしゃくした国際関係や、先日のサッカーの日本代表に対するファンの態度に置いている。
まあ、あのサッカーの後の映像を見れば、愉快な思いをする日本人はほとんどいないだろう。しかし、60年前の戦争を今まで引きずるのは多少しょうがないとしても、当時0才の人が60才になろうという時代に、過去の戦争を引き合いに出して「日本帝国主義」みたいな表現をするというのは、いったい中国ではどんな教育をしているのだろう。
靖国参拝ということを誰もが象徴的に扱うし、小泉があそこまでこだわるのは、性格だろうか?そもそも政教分離というのは一国の首相には適用されないことなのだろうか?そしてその靖国問題で中国が不愉快な思いをするというのもまた、象徴的である。どれだけの中国人が、そのことを解って不愉快になっているのか非常に疑問だ。
戦犯戦犯というが、東京裁判で有罪にされただけで、彼らだけに太平洋戦争の責任があったわけではないだろう。
戦争がいけないというのは子供でも知っている。多分子供に解らないのは、戦争がいけないのに、いい大人が何で戦争をし、しなくても、いつ起こってもいいような準備をしているのかという事ではないだろうか。
中国の油田開発の問題は、あたかも、山間の垣根のない隣同士が、温泉が出そうなのはどこかを探っているようなもので、互いが自分の利益しか考えないということに問題があるし、そんなことがいけないというのはやはり子供の時に教わる。
潜水艦の問題だって、知らないうちに隣の家の庭で何かしてましたみたいなものだ。その程度を「ミス」しているとしたら、とんでもない低レベルの海軍だ。
こういうさや当ての試合みたいなものが国際関係ならば、人類はいったいどこへ行こうというのだろう。
人種や民族、肌の色、生まれによる差別、これらは人間が生来持っている感覚なのだろうか?よく韓国で事件があった時に、正体を無くして泣き叫ぶ家族の映像が映ることがあるが、日本では余り見かけない。これは民族性の違いなのだろうか?私はそうは思わない。
人種や民族などの違いがどうであれ、そんなものはきっと地域差だ。雑煮の味が違うのと、感情の表現方法が違うのは、どこに住んでいるかというだけの問題だ。
もちろん、熱帯に住む人たちと、北国の人たちが、同じ表現をするとは思えないが、実はそれぞれに家風があるように、それぞれの地域によって、あるいは国によって何事も違うのだ。ところが、違わないことがある。
それは同じ人類だという点だ。
映画「猿の惑星」で、「猿は猿を殺さない」というキャッチフレーズがある。これは猿を導き、地球の主足るに導いた指導者の決めた律法だ。
人は生きるために生物を殺す。食べるためや、身を守るためだ。実際には楽しみのためや、単純に嫌だから殺すと言うこともある。一概に食物連鎖の一部とは言い難いが、いずれにしても、人間は人間を殺さない。これが不文律であるはずだ。
でなければ、常に自分の命の危険と共に生きるなど、知恵ある猿が容認できるはずはない。
鯨やイルカは知能が高いから殺すなという思想がある。鯨は安い肉で、給食でも食べていた世代としては、意味の分からない論点だ。知恵という点から行けば、チンパンジーだって、犬だって、猫だって、あるいはマウスだって、人間が勝手にレベルを付けているだけで、知恵がないわけではない。
あたかもこの論理は、IQが高い人間の方が低い人間より価値があるという理屈に結びつきそうでとても嫌だ。例えば、日本ばかりでなく、犬はかわいいペットだ。当然、犬を食べるというのはそういう人たちには、考えられないだろう。しかし、食肉牛を育てている人たちだって、十分に牛に愛情を持っていたりするものだ。でも牛を食べることに異論を挟むのは宗教上で食べられない人達くらいだろう。
人は人を殺さない、これが第一だ。
そのためには人は人と争わない事を目的とし、そのためには相手を尊重するところから始めなくてはいけないだろう。だがそれは、相互に尊重が成り立たねばならない。
人類が種として真に霊長と呼べるようになるのは、そこの部分が進化しなくてはならないのだろう。今はまだ、種としての人類はかなり野蛮だ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 22:55 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月17日
飢餓海峡
「飢餓海峡」を最初に知ったのは、確か映画だったが、見たわけではなく、小説から入った。水上勉という作家は、私にとっては全く未知の作家で、イメージとしては、私が余り馴染まない日本文学の作家というものだった。
私がそれを手にした理由は、恐らくタイトルだし、キャプションを見なければ、いまだに読んではいないだろう。
これまで北海道の話は何回か書いたが、そもそも北海道を訪れる前は東北を旅することが好きだった。今でももちろん好きだ。鄙びたという表現をよく使うが、この鄙という言葉は、田舎という意味だと思うが、都会に住んでいれば、何も東北だけが鄙びているわけではない。鄙にはまればなどという表現も使うが、美人が都会に多いとすれば、それは総人口が多いからに他ならない。
東北好きなのだが、車を運転しない(人によってはできないという表現も使うが)私にとっては、下北というのは実に旅しづらい土地で、あの下北半島というのは実に広大で辺鄙なのだ。何度か計画を立てながら、現地で挫折したりしている。
津軽は意外と楽だ。五能線や津軽鉄道、バスなどが比較的便利に動いているからだ。しかし津軽となると、大湊まで鉄道は繋がっているが、その先が結構不便なのだ。いや、思ったより距離があるといった方がいい。大間崎や仏ヶ浦などを訪れようとすれば、やはりマイカーかレンタカーでないと多分辛い。
さて、そんな経験から、下北というのは軽い見果てぬ夢みたいなところがあり、まさに「飢餓海峡」の最初の舞台は戦後の荒涼とした下北なのだ。
「飢餓海峡」自体はミステリーに分類すればいいのか、純文学に分類すればいいのか、あるいはエンターテインメントと言っていいのか解らないが、私には少なくとも最後の分類がしっくり来る。
主人公の樽見京一郎こと犬飼多吉は、悪いジャン・バルジャンみたいなところがあり、内容全体はそんな男と、女の生き様のぶつかり合いというか、非常に日本的な愛憎劇である。
小説はすごく面白かったし、三國連太郎が主役をやった映画も面白かった。NHKがドラマ化した若山富三郎のものは見ていないが、是非見てみたいと思う。
薄幸で健気な八重と、人の善意を信じられない悪人の犬飼の対比と悲劇は、戦後という舞台で、非常に重々しくも快活に描かれている。
実は細かいところは覚えていないので、これを機会に読み直しをしたいと思う。DVDも購入したいところだが、どうして邦画のDVDはこんなに高価なのだろう。買う人が少ないというだけとは思えない。
洋画が物によって1000円を切る時に、5000円前後の価格を付けている。文庫だって、上下巻でせいぜい1500円前後ではないだろうか?
レンタル屋で借りると同じ値段なのにどうして?と思ってしまう。
しかも、洋画の方が、吹き替えや字幕を付けるという手間がかかっているはずだ。この辺りの仕組みが、私にはどうも解せないのだが?
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 23:38 | コメント (0) | トラックバック (1)
2004年12月15日
傷追い人
「傷追い人」は小池一夫原作、池上遼一画によるマンガで、ビッグコミックスピリッツだか、スペリオールだか忘れたが、に連載されていた。20年前後前のことではなかったかと思う。
私の好きなマンガのベストファイブに入る。
私はいろいろなところで、ことあるごとに言っているのだが、強い主人公が好きだ。しかも圧倒的に。自分の周りにでもいそうな普通の主人公など読む気がしない。と言うことは、日常を扱ったマンガはほとんど読まないと言うことだ。・・・というより、横山光輝を除けば、非常に限られた読書量だと思う。
「傷追い人」は、G・P・Xという名のポルノ映画組織に復讐を誓う茨木圭介という青年が、莫大な宝を手に入れて、アメリカ社会でのし上がりながら、闘うという物語だ。4人の女性との恋愛と、相克を彩りに、まるで現代版モンテクリスト伯のような展開と思わせて、それと大分違うのは、実際は復讐劇ではなく、復讐すべきG・P・Xの正体を暴いていく物語なのだ。
G・P・Xは、上流階級御用達の、会員制ポルノ配給組織で、出演者は各界の著名人のみで占められている。アメフトのヒーローだった圭介もそのターゲットになるが、恋人との愛を貫いて拒否する。その過程で恋人の夏子は死に、圭介はG・P・Xに復讐を誓う。復讐のための資金を得るために南米に金を求め、その時であったアナウンサーの夕湖と行動を共にしながら、新たな恋をする圭介。そして、ジャングルの奥で莫大な財宝を手にする。しかし、夕湖もまた旅の途中で死に、その折行動を共にしていたペギーという名の女性と共に、圭介はジョー・ツルギと名乗ってニューヨークで華々しくデビューする。ペギーはG・P・Xの一員であるマフィアのボスとの戦いの時に圭介をかばって死ぬ。圭介はマフィアの跡目を継ぐことでその一員となり、G・P・Xに一歩近づく。組織は圭介殺害のためにミスティーという少女の殺し屋を差し向けるが、ミスティは失敗し、逆に圭介を愛するようになる。彼らを襲って次にやってくるのはベトナムを経験した退役軍人の二人で、圭介とミスティは彼らと戦艦を舞台に死闘を繰り広げる。そしてその戦いに勝った圭介に、真実が語られる・・・・
という内容で、まあ、とにかく圧倒的な腕力と、精神力プラス財力というスーパーマンが主人公なので、非常に小気味いい。逃げている時も、逃げているというよりは次の手に向かって進んでいる。これはどちらかというとハリウッド的な作品なのだ。
そう、ハリウッドで映画化したらきっといい作品ができあがるような気がする。
いかにも小池一夫な小理屈(という表現は失礼だが)の積み重ねがリアリティを生んでいるし、圭介の純愛にも何か心打たれるものがある。
とにかく裸とエッチなシーンが多いので、親は子供に読ませたくないかも知れない。
しかし、あれほどの情熱を持って、何かに突き進む事は、人間ほとんど無いと思う。
拷問のような責めと恋人の死で、髪の毛が真っ白になってしまっている圭介は、白髪鬼(ホワイト・ヘアード・デビル)と名乗るのだが、これだけはどうもゴロが悪いような気がする。
それと、やはり最後の落ちが今ひとつだ。ミスティーと結婚し、3人の女性を弔うシーンはとてもいいが、何かが違う。彼が求めていたものの意味を、その前のシーンで説明しようとする意図は分かるのだが、何だろう、よく分からないが・・・
ただそれを押しても、この圧倒的に強靱な男が持つ魅力は、他のマンガではなかなか味わえない。同じコンビの「クライング・フリーマン」にはない世界観なのだ。
言ってみれば、生臭いゴルゴ13みたいなものかな。画はさいとうたかおよりも個人的にはずっと好きだが。池上遼一の画はこのころが一番好きだ。・・・他をよく知っているわけではないが。
投稿者 keisuke_yui : まんが | 22:25 | コメント (0) | トラックバック (1)
2004年12月14日
おせち
インターネットでおせちを注文しようとした。
大手の百貨店と楽天の専門ショップみたいなところが引っかかってきた。百貨店では、高島屋、小田急、三越、東急といったところだ。1万円くらいから、20万円近いものまである。何人家族で注文するのだろう?
多いのは京都の老舗のおせちとか、有名レストラン、ホテルのおせちなどだ。
しかし共通して思うのは、写真を見るだけでよく分からないと言うことだ。例えば海老が3尾入っているとする。しかし人数には4〜5人前となっていたりする。普通分けては食べないから、5人家族がちょうどいいと思って注文すると、二人は海老が食べられないという計算になる。
高価なものを選ぶと、種類がどんどん増えたり、いきなり大きな伊勢海老が入ってきたりして、微妙に選びづらい。
例えば、これとこれとこれの組合せで何人前というような注文の仕方ができるようにとは誰も考えないのだろうか?もちろん、家族のすべてが、同じ種類を同じだけ食べるわけではない。しかし、同じだけ揃えておけばあとは適当に食べられる。あるいは、少なくとも一人一つ見当で食べそうなものは、人数分、あるいはそれ以上入れるという配慮が欲しい。いたずらに種類を増やしていけばいいという物ではない。
黒豆を個数で入れろとは言わないが、前出の海老などは人数分揃うようにして欲しい。どうせ予約販売なのだから、注文の仕方次第でどうにでもなると思うのだが。
インターネットがここまで隆盛を極め、ネットショップを集めた楽天が野球に新規参入できるほど儲かっているわけで、これは、日本人の相当数がネットショップを利用していると言うことでもある。
しかし使いやすくなったかというと、それはごく一部のショップで、それほど使いやすくはない。百貨店などはあれほど商品を抱えているのだから、もう少し巧い通販の方法もあるような気もするが、画像一つとっても、小さくて見づらいところがいかに多いことか。
顧客主義みたいな事は相当昔から言われている。商売が街に一軒の万屋ならともかく、常に競争にさらされている現代、顧客満足が高いか、そこでないと買えない物がある店しか成功しない。しかしインターネットはまだまだだと思う。デザインばかりきれいで、使い勝手という意味では不十分だ。
先日ヨドバシカメラのネットショップで買い物をした。蛍光灯を買ったのだが、実はネットショップになかった。しかし、これが欲しいとリクエストしたら、その日のうちに購入ページを作ってメールをくれた。個人商店では難しいかも知れないが、こういう細かなサービスこそが、顧客を顧客たらしめる成功の秘訣なのだろうと思う。
Amazonが成功しているのは、品揃えとか、ではなく、マーケティングと、顧客に使いやすいホームページのせいだろうと思う。但し検索はまだまだだ。
先日PHPについて調べたら、PHP出版がずらっと並んだ。私が見たかったのは、CGIに使うPHPのことだ。プログラム言語だ。書籍もある程度ジャンル分けしてもらわないとなかなか難しい。
まあでも、家にいながらこんな買い物ができるなんて、いい時代になったものだ。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月13日
流行語大賞
しばらく前に流行語大賞の発表があった。
大賞は北島康介の「チョー気持ちいい」だったが、あれって流行語なのか?というか、流行語の定義って何なのだろう?
ホームページでは
「1年の間に発生したさまざまな「ことば」のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶとともに、その「ことば」に深くかかわった人物・団体を毎年顕彰するもの」が流行語大賞だと言うことだから、大賞の北島の言葉は、日本人がうれしかったと言うことなのだろう。個人的には流行語という響きからいうと、2位の「気合いだー!」の方がよりそんな感じはあるが、アニマル浜口以外が使っているのはあまり見たことがないのでそうでもないのか。
そういう意味では「チョー気持ちいい」は、北島よりも、渋谷辺りを歩いている女子高生に上げた方がいい感じもする。
3位以下を見ると 「サプライズ」「自己責任」「新規参入」「セカチュー」「中二階」「って言うじゃない… ○○斬り! …残念!!」「負け犬」「冬ソナ」となっている。こう並べてみると、あまり世相が解らない。
「自己責任」なんて、私は今年の1位だと思うし、日本人というのがどういう国民性を持っているかを端的に浮き彫りにしたものだったと思う。
流行語大賞の流行語には、単純に言葉としての意味や、その言葉が世間に流布したと言うことではなく、むしろ、「セカチュー」「冬ソナ」のように、言葉はともかく、その本体が流行ったという点で選出されることも多いようだ。
歴代の1位を見ると、第6回の「セクシャル・ハラスメント」7回の「ファジィ」12回「無党派」14回「失楽園」17回「おっはー」などは、なるほどと頷けるが、意外に、何でこれが?と私などは感じてしまう。流行語大賞というより、インパクトのあった言葉大賞という感じで、ニュアンスがどうもしっくり来ない。
「タマちゃん」が流行語と言われても、確かにタマちゃんは話題になったが、それが流行語という語感や意味から導き出される内容とはどうも一致しない。少なくとも私の中では。
ある意味、「チョー気持ちいい」はそういう意味では流行語として相応しいのかも知れないが、それを受賞したのが北島康介という辺りが、違和感を感じるのだろう。「チョー」なんとかは元々辞書にでも載っている超人とか、超高速とかの超をあらゆる言葉の接頭辞として使う使い方で、かなり前から使われていると思うが、例えば「チョーうざ」とか言うような使われ方をし出したのはここ数年ではないだろうか。10年くらい経つのかな実際は。よく分からないが。その辺りも、今頃「チョー」かよ。という気がしないでもない。
まあ、オリンピック選手が「めっちゃくやしい」と同じように、非常に普段の言葉で、喜びや悔しさを表現することが、大人には新鮮なのだろうと思う。これは実は、言葉遣いが総じて悪くなっている事への裏返しでもあるのだ。
欧米のように、特殊な敬語以外はいわゆる日本的な敬語がない国に、日本も変化していく過渡期なのかも知れない。テレビを見ていても、「ですます」で喋らない若い人が多いのを見ても解る。まあ、どちらでもいいことだが、そのことを許容するのであれば、自らに年下が敬意を払わない時代が来ることを認識しなくてはならない。運動部はどうなるんだろう?
私は、たかだか数十年先に生まれたからと言って、それだけを理由に年上を敬う必要など全くないと思っている。敬うべきは年齢ではなく、対人関係としての他人すべてであって、年上だって年下を敬う必要は十分にある。
人を尊重することが、年齢や、経験だけに委ねられていいはずはない。もちろん、ここで私が言っているのはかなり極論で、自分がそうしていると言うことではない。
いずれにしても相手に敬意を払うという姿勢は、世界を平和に導く一つの手段でもあるわけで、だからといって、北朝鮮に敬意を払えるかというと、そうも行かないに違いない。
ところで、流行語大賞には月間ランキングというのが載っているが、今月の7位に「ニート」というのが載っていた。ニートと言えば松原みき「ニートな午後3時」だろうと思ってしまう私も、やはりどうして、おじさんなのだ。多分。この歌好きなんだが。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月12日
100
とうとう100に達した。日記だって文字通り三日坊主の私だから、人はなんと言わずとも、自分を褒めよう。次は1000だな。3年かかるわけだ。そもそもそんなに書くことがあるかな?
100という数字は10進法の2度目の位上がりの数字だ。世界は、10進法が基本だ。時間は12進と60進。コンピューターは2進法。それぞれ用途によっていろいろある。
指が10本あるから10進法なのだろうか?地球が太陽の周りを回る間に月は約12回地球の周りを回る。だから1年には12ヶ月があるわけだし、コンピュータはあるか無しかという最も単純な違いから様々な計算を可能にする。それぞれ意味があるようだ。
しかし10進には、指の数以外にどんな意味があるのだろうか?
10進法には0から9の数字が使われる。と言うことは0の概念が発明されるまでは、10進法はなかったのだろうか?0がない言うことは、1から数字が始まるので、1,2,3,4,5,6,7,8,9
さて、次の数字は?
これはローマ数字で考えると解りやすいが、T,U,V,W,X,Y,Z,[,\,]だ。
と言うことは、0で始まる今の10進法とは違い、Tで始まる10進法があったと言うことなのだろうか?
0と1の組合せで表される10と、単独で]という数字を持っていることは、大分意味が違うような気がする。どう違うのかと言われるとよく分からないが、きっと数学者に訊けばいいのだ。
こう考えるだけで、実は数学というのはとても楽しい学問なのだ、という気がしてくる。微分や積分だって、学生時代はよく分からなかったが、きっとすごいのだ。
たまたま先日、お世話になっている歯科医の先生からそんな話を聞いたばかりだが、果てしない宇宙とか、限りなく0に近い瞬間とか、とても微積な感覚がある。
100という数字を一つの区切りと考える人間の頭脳は、同時に12進で動く1日や1年を理解し、さらに60を単位に動く時計を腕にしていたりする。コンピュータで色を付ける時には16進という0からFまでの数字を利用する。
確かに物の数は自然に存在する物だが、それをどのように数えるかは、人間が決めることだ。あらゆる科学が、実験と観察を基本とするなら、それを翻訳する言語が数学かも知れない。幽霊よりよっぽど神秘的だ。
さあ、101からも別に心機一転することなく、淡々と進みましょう。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月11日
マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」
「復活」は私がクラシックを聴く決定的なきっかけとなった作品だ。殊に、最初に買ったズービン・メータ指揮ウィーン・フィルのレコードは、私にとっては宝物だ。
それまでもクラシックを聴かなかったわけではない。それ以前に購入していたのはオーマンディの「ツァラトゥストラはかく語りき(R.シュトラウス)」カラヤンの「運命」(但しこれは弟にプレゼントした物だ)。ストコフスキーの「白鳥の湖」「新世界」。誰の演奏だか忘れたが「1812年序曲(チャイコフスキー)」。ツァラトゥストラは、映画の影響だし、1812年はコージー・パウエル(ドラマー)の影響だ。白鳥と新世界はきっと魔が差したのだ。
そんなとき、メータの「復活」のジャケが目に入った。

当時は金色の帯が掛かっていて、マーラー「復活」と書いてあったように思う。
私は、このタイトルとジャケットだけで5千円のこの盤を買った。内容なんか全く来たこともなかったし、マーラーという作曲家も初めて目にした。
こういうのを邂逅というのだろう。レコードに針を落とした瞬間、弦のトレモロの上にコントラバスが重々しい旋律を奏で始める。この冒頭を聞いた瞬間に、私は打ちのめされた。ああ、こんなクラシックもあるのか、と思った。
この曲には最後の二つの楽章に声楽が使われている。そもそも声楽というのは、私にとっては不自然な発声と、画一化されたテクニックで、クラシックの中でも最も馴染まないものの一つだった。ところが、この1枚のレコードのおかげで、全く声楽に関する考え方が変わった。
大学ではクラシック関係のサークルに所属していたが、このレコードのおかげで、最初から声楽が好きだという顔をしていた。
この復活という曲は、ベートーヴェンの第九のようだし、恐らくマーラーは意識していたに違いない。時間的には第1楽章20分、第2楽章10分、第3楽章10分、第4楽章5分、第5楽章35分で、約80分かかる大曲だが、非常にまとまったいい曲であると思う。
第1楽章をマーラーは交響曲第1番の巨人の葬送行進曲だとしている。死と復活というのは西洋人の、たとえクリスチャンでなくても何らかの重要なテーマなのだろうと思う。マーラーはユダヤ人だし、クリスチャンではあるが、社会的な事情で洗礼を受けているようなので、信仰心がそれほどあったとは思えない。末期の言葉も「モーツァルト!」だそうなので、音楽こそが、彼にとっての宗教であったに違いない。
元々私は第1楽章が大好きで、そこばかり聴いていた。冒頭の重々しさから嵐のような中間部など、楽章の中でもかなりメリハリのある曲だ。そしてフィナーレの、序奏とは逆に高いところから急降下するような旋律。この辺りのびっくり交響曲もどきなやり口は、6番でも使われているし、マーラーというのはひどくこういうドラマチックな方法が好きなのだな、と感じる。私は大好きだが、こういうところが嫌いな人も多いだろうなと思う。
穏やかな第2楽章と、「不思議な角笛」という歌曲集の1曲の旋律をそのまま使ったスケルツォ、第1楽章と終楽章は単独でもよく聴くが、この二つの楽章は単独で聴くことはない。実をいうと、私はマーラーのスケルツォはそれほど好きではない。
第4楽章も「不思議な角笛」から取られた曲だ。この曲は厳かで、次に来る復活のプロローグとしてまことに相応しい。長すぎないのもいい。
そして、静かに消え入るように終わる4楽章の直後、第1楽章の最後を逆に行ったかのような形で駆け上る旋律とともに、劇的に終楽章が幕を開ける。
この楽章はソプラノとアルトのソロ、そして合唱で華々しく色取られているが、私は非常にオペラチックなものを感じる。オラトリオといった方がいいのかも知れない。指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀の時に聴いたクロップシュトックの詩に啓発されたようなことを本で読んだが、だとすると、その詩がなければマーラーのこの曲は「復活」にはならなかったのだろうか、と思う。そうしたら、私も今頃クラシックをそれほど聴いてはいなかったかも知れない。
かなり長いオーケストラの演奏の後、合唱にそのクロップシュトックの詩が登場する。私は実は第九も好きなのだが、やはり比べものにならないくらい、「復活」の方が好きだ。これは多分、「合唱」が、歓喜の歌なのに、「復活」が復活だからだ。禅問答のようだが、このニュアンスの違いは、解る人だけ解ってくれればいいといった感じで、これは単純に私の個人的な資質の問題だ。
今では復活だけで10種類前後の演奏を持っているが、実はメータ盤はCDを持っていない。一番好きなのは、今のところ、ずいぶん昔にレヴァインがどこのオーケストラだったか忘れたが、FMで放送になったライブの演奏だ。今でも大切なテープだ。
メータのレコードは売れないで手元に取ってある。これはこれで、今でも十分に名演だと思う。当時はかなり、話題になったようだが、その当時は私はそう言うことには疎かった。
クラシックという音楽は、やはり特殊だし、歌謡曲やポップスに比べると、近寄りがたい部分がある。だが所詮音楽なので、慣れてしまうと、その中にあるポップスでは味わえない良さというのがあるのだ。
ハードロックばかり聴いていた10代の後半は、クラシックと言っても、ロック歌手が話題にするから聴いてみようと思い、概ね、大きな管弦楽曲が多かった。多くのロッカーが「バッハ」と言っていたから、それでも私は自分の好みで取捨選択はしていたのだが、このマーラーの「復活」は、そんな私に音楽(聴くだけだが)への大きな転換点を与えてくれた大切な曲である。これからもずっと、愛してやまない曲と言い続けるに違いない。もっといい曲や、すごい曲があっても、この曲だけは別格なのだ。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 22:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月10日
誤字脱字
エントリーの数を見ると97になっている。これが98番目の書き込みだ。1日1件として3ヶ月以上続いた計算になる。我ながらびっくりしている。こういう作業が苦手だからだ。こつこつ続けるというやり方が。
さて、常々いろいろな人から指摘されるのに誤字脱字がある。しかもどちらかというと明らかな変換ミスだ。ワープロならではの誤字ということができる。こんな風に客観視していないで是正しろというお話しなのだが、毎日書いていると、しかも仕事などの合間に趣味とはいえ、ここまで来ると半分は義務感もあって・・・誰に対する義務感かと言えば、自分自身にだが・・・書かざるを得ない。数は少ないが読んで下さる方もいる。
となれば、書き続けることが自分と、わずかではあっても読者への責務である。同様に、誤字脱字をなくすこと(敢えて減らすとは言わない)も責務なのだ。と、言ってはみるのだが、なかなかどうして、読み返すのを忘れて、そのまま寝てしまったり、仕事に戻ってしまったりする。
読み返すことは、推敲だったり、校正だったりの一環で、当然誤字脱字だけを直すに止まらない。時により奇妙な表現をしていることもあるからだ。また、これでは言いたいことも伝わっていないだろうという場合もある。誤字脱字を直すために読み返すことは、実はより重要な表現上の問題を修正する助けとなるのだ。
いやいや、こうやって自分に言い聞かせているのか言い訳をしているのか解らない文章を書いていると、少なくともこの文章内では、誤字脱字をしないでくれという天からの声が聞こえてくるようだ。なぜなら、大学生の国語力低下というエントリーで思い切りそれをやって「この内容でこれは・・・」という至極当然で、反論の余地のない指摘を受けたからだ。
確かに大学生に限らず、漢字力などは私自身極端に落ちていると思う。とにかく書けない。読めないわけではないので、誤字という問題はケアレスミスという事になる。
ワープロを打ち始めてから考えると、10年以上が経つが、タイピングの技術は大して上達していない。携帯のキーよりは巧く打てるが、TとRはよく打ち間違えるし、「という」と打たねばならないところを「とうい」と打ったり、「とい」と打ったりする間違えが多いことに、自分でも気づいている。
時には正しいと信じて間違っていることもあるかも知れないが、それは気づいていないので、恥ずかしいことだ。
例えば私は「しばたたく」をずっと「しばたく」と思っていたが、実際は「しばたたく」で、しかし調べてみれば「しばたく」でも良かったりとか、表現は難しい。最近ではマンガなどでよく、当て字が使われる。これは一つの流行だが、フリガナが振ってあれば、読者はそれで覚え、それがその読みだと信じてしまうこともあるだろう。
言葉というのは難しい物だ。
ちょっと脇道にそれたからと言って、誤字脱字に関して私が反省していないわけではない。今後も気をつけようと思う。
エントリーが100を超えたら、別枠で小説を書き始めようかとも考えている。久しぶりなので完全に頭が鈍っているが、ここまでのリハビリはきっと無駄ではなかったろう。そう思えるように、腕に縒りをかけてがんばりましょう!・・・ああ他人事・・・
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 9日
21世紀
ヨドバシカメラからカタログ冊子が送られてきた。年末やボーナス時期、新入学時期などに送られてくるものだ。意外と読み応えもある。が、基本はカタログだ。
しかし、それを見ていてふと思った。
確かに21世紀は科学の時代だ。
子供の頃、アトムや未来物の映画やドラマを見て、こんな世界が来るのだろうか、と思っていた。空飛ぶ車や、人間そのもののようなロボット、オートマチックで何でもできる家庭などというのは実現していないし、相変わらず、男はスーツを着ていて、よくある未来型の服などはお目にかからない。
しかし、テレビ電話は現実の物となり、コンピュータに到っては、20世紀中期以前に本などで見た物とは比較にならないくらい、発達している。タイプライターを見た時、日本語でこんな風に印刷文字を機械で行うのは非常に大変だろうな、と思ったものだが、今では手書きの方が大変だ。
印刷は個人の物になり、写真も劣化せず、300キロを超える速度で電車は走る。宇宙旅行だって、目前に迫っている。
私は音楽が好きだが、テープに好きな音楽を録音して聴いていた頃は、この複数のテープが1本に入ったら、どんなにいいだろうと思っていた。ビデオだって、いちいち入れ替えなくても良くなればいいのにと思っていた。今では、ハードディスクが十分にそれらの用途を叶えている。
次世代DVDは、またもやVHSとβの争いをしようとしている。消費者には難儀なことだが、実はこの競争こそが、様々な文化的産物を可能にしているのだと思えば、互換性がないと言われている二つのフォーマットを、いかにして1台の機械で再生できるようにするかが次の問題なだけで、さほど落胆することではないような気がする。
現在、何枚組とかになっているドラマやアニメ、映画などが、1枚に入る時代はすぐそこに来ている。
私たちは、レコードで始まり、様々なフォーマットのテープメディア、CD、LD、MD、DVDなど、一つの世代で多くのAVメディアを体験してきた。DVDが長期間劣化しないからいいとしても、主流のメディアが変遷していくことで、次のものに乗り換えていくしかなくなる。
パソコンだって、10年も経てばどんなものになっているか解らない。
インターネットなど、10年前は国民の多くが存在すら知らなかったものだ。
アトムはまだアシモだし、エンタープライズはまだスペースシャトルだが、やはり世の中は着実に、人の頭脳が思い描いた未来に向かって確実に進歩している。
もちろんできない物もたくさんあるに違いない。前にも書いたが、タイムマシンなどはその最右翼だろう。
こんな風に考えると、人間の人生というのは短いな、とつくづく思う。100年後の世の中すら見られないのだな、と残念に思う。しかし、願わくば、人類がその暗い未来を描いた小説などを現実のものにすることだけはないようにと思わずにはいられない。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 8日
旅の楽しみ
北海道の話の続き。
北海道に限らず、日本国内の旅行が好きな理由は、「電車で行ける」「言葉が通じる」「温泉に裸で入れる」などいくつかあるが、食事が旨いというのもある。
フランスに行った時、やはり食事は日本の方が旨いと思った。フランスで食べられるものの多くは日本でも食べられるが、日本の例えば旅館の料理などは、なかなか海外では食べられない。
国内を旅する時の、食事は重要なファクターだ。
一頃は、ホテルや旅館で、1泊2食というと、夜の食事は刺身と鍋と、揚げ物と・・・・みたいなパターン化された物が多く、辟易したこともあったが、最近は競争も激しく、例えば刺身一つとっても、こだわりの強いところが多い。
それとは反対に、ホテルなどでは、朝食をバイキングと言うところがこれまた多い。
北欧のバイキングがそんな食い方をしていたのかどうか知らないが、多分語源はそこに間違いない。
知床に行った時、一人旅だったが、電話で当日に予約を入れた。地の物や、特別料理などがある場合があるので、電話で確認したが、料金はいくらですというだけで何の説明もなく、ホテルに着いた、チェックインして、部屋に入ると、部屋はなかなか良かった。大きなホテルだったので、温泉の大浴場は、客も多く、気持ち的にはのんびりしなかった。
食事が何時から食堂でという話を聞いていたので、食堂へ向かうと、バイキングだった。正直な話、その時までバイキングだという話はなかったし、当然そんな確認はこちらもしていない。ひどく腹が立った。一人旅の男が、大勢のツアー客に混じってバイキングの食事をするなど望んでいるかどうか、分かりそうなものだ。
今更文句を言っても、後々気分が悪くなるだけなので何も言わなかったが、食事もそこそこに部屋に戻った。後にも先にも、最悪の食事だった。
バイキングが嫌いなわけではない。好きでもないが。朝食は眠いし、それほど気にしない。しかし、1日歩いたりして、楽しみにしている夜の食事が、しかもしっかり料金も払って、バイキング!団体旅行をして、わいわい仲間と選んで食べるというならともかく、一人旅で、大勢の客に混じって、しかも相席だった。
二度とこんなホテルは泊まらないと思った。
いまだにこんなに思っているのだから、相当だったのだ。最初からバイキングと予約時に言われていたら泊まっていない。それくらいフレキシブルな旅行だ。ウトロではそこしか泊まるところがないと言うことであれば、他に泊まったろう。
唯一良かったのは、団体客がバスでどんどん出ていく中、一人で温泉に浸かっていたことだろうか。大浴場から、走っていくバスがよく見えたから。少し元を取った気がした。
旅というのは日常生活から逸脱した何かを得るために行う。私にとっては、だから団体旅行が苦手だ。気があった友達や仲間との旅行は別だが、いわゆるツアーというのには参加したことがない。ツアーのルートや、その間中同じ人たちと行動するというのが、私には耐えられない。
草むらに横になって、居たいだけそこにいたり、急に予定を変えたり、こういう事ができないと、非常に窮屈な旅となる。もちろん、どんな場合でも旅程はあるし、有り余る金と時間を持っているなら真に気ままな旅もできるが、それなりの制約が普通はある。それはやむを得ない。
帰りたいと思ったら、急に帰れるし、そこに2泊したかったらできる。私にとって旅行とはそういうものだし、それこそが旅の醍醐味、楽しみでもある。
投稿者 keisuke_yui : 旅 | 23:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 7日
非を認める
非を認めるというのは人間、なかなか難しいものだ。
NHKの様々な横領や着服といった問題で、不払いがかなり増えているという。10億円とも言うことだ。払いたくなくても、口座引き落としの場合は難しいだろうから、本当に払いたくない人(こんどの事件で)ということになれば、NHKの経営に大きく響くほどの金額になろう。
実際に発覚して、悪事がばれた人たちは、謝罪したりしているようだが、NHKは「自分たちも被害者」などというのんきなことを言っている。確かに、昨日今日入った人たちや、多くの職員にとっては、こんな事で非難の矛先が向けられるというのははなはだ不本意だというように、日頃一生懸命仕事をしているに違いない。だが、記者発表する時に「そりゃねえだろ」という感じだ。そんな職員を雇ったのはどこの誰だ!
法律を笠に着て、国民の義務だと言って金銭を徴収するのは、税金、社会保険料、NHKなどだが、これらを使う現場で、多くの無駄や、どう考えても不適当な使われ方がされている。
しかし、よっぽど事が公になり、刑事事件にでもなるか、明るみに出ない限り、公的機関や政治家が、「非を認め」るのを見たことがない。
人間、心情としては解らなくもない。誰だって、自分が悪いことをして、それをすみませんというのはなかなか難しいことだ。
しかし、私たちは子供の頃から、「嘘をつくな」とか「悪いことはするな」とか、教わって成長してきた。恐らくどんな国でも教育では同じ事が言われているだろう。つまり、人類社会においては、これは普遍の真理なのだ。
例えば今回のNHKの件で言えば、NHK内の誰が悪かろうと、国民に対してはNHKこそが当事者であり、その犯人(今は容疑者と言うようだが、本人が謝っているのに容疑者はおかしいだろう)が、個人的に殺人事件を起こしたというならともかく、役職を利用した横領だったりすれば、その監督責任をこそ、自らに対して問わなければならない。自分も被害者だなどという発言は火に油を注ぐようなもので、それが解らないとすれば、彼らはばかだ。
ところが、彼らに限らず、人間というのは多かれ少なかれ馬鹿なのだ。そして臆病だし、自己防衛は確かに本能的なものだ。
だから、単純に理屈や論理がそういう時には通用しなくなる。
社会保険庁や道路公団、その他多くの公益法人などで、税金や社会保険料が、無駄に、そして不公正に使われている。職員の宿舎を、全く世間的な相場を無視した価格で運営していることだけをとってみたって、これは国や行政がやれば悪事だ。
会社が社員にただで貸すのは構わない。しわ寄せは会社の経営に影響し、会社が倒産するだけだからだ。
ところが国や行政は、赤字を増やして国民に増税という形で付けを回し、自分たちは安穏としていることが可能だ。こんな不公平な悪事があろうか?
国会の質疑などで、野党がそれらの追求するシーンでは、概ね弁解が聞かれるだけだ。その時は問題になるが、いつか忘れられていく。
非を認めないと言うことが、実は最大の防御なのだ。
子供たちに正義や平和を語りながら、親は不正や戦争を行っている。これが世の中だ。人類の進化は、知恵を持つことで始まった。しかし今の人類に種としての知恵があろうか?
まず隗より始めよ!
これが我々一人一人に課された、人生での試練なのだ。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 22:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 5日
スティーヴン・セガール
セガールというと、俳優でもあり監督でもあり、武術の達人で、大阪弁で喋る大男というイメージだ。
彼が当たったのは遅いデビューの「刑事ニコ」と「沈黙の戦艦」だろう。後者は「沈黙シリーズ」として日本ではおなじみだ。実際には同じ主人公のものは「暴走特急」だけだから(実は続きを作っているらしいが)、シリーズ物ではないが。・・・やたら沈黙を付けるのは映画会社の情けないところでもあるが、一方、それがセガール作品であることが解るという意味では、効用もあるのだ。
個人的に最も好きなのは、「暴走特急」だが、取り敢えず、彼が出る作品は、彼の圧倒的な強さが何よりも魅力なので、彼が暴れない作品は余り面白くない(ほとんどないが)。
「沈黙の断崖」「沈黙の要塞」「グリマーマン」「DENGEKI」「アウト・フォー・ジャスティス」「ハード・トゥ・キル」「死の標的」「沈黙の陰謀」「沈黙のテロリスト」・・・最近の物では「奪還」とか、「撃鉄」とか、DENGEKI以来、新しいシリーズを(配給会社が)作ろうとしているようだ。
こう並べてみても、やっぱりみんな強いな。
中でも「沈黙の断崖」や、「グリマーマン」での強さは、とても楽しい。どちらも、相手が誰であれ、危機に陥るということがほとんど無い。これはあの力ずくのハリウッドのアクション物でも余りお目にかからない。
私は常々、こういう圧倒的な強さのヒーローものの素晴らしさを強調するのだが、なかなか賛同を得られない。拮抗する力量を持った敵やライバルの存在が、物語には必ず必要だというのは、私に言わせれば、色恋がなければお話しができないというのと同じくらいステレオタイプの物の考え方で、それらを悪いとは決して言わないが、そうでないものの価値をもう少し考えて、映画にしろアニメにしろ作って頂きたいと思う。
私は「横山光輝の世界」というホームページを開いているが、氏の作品はたくさんアニメやドラマ化されている。「鉄人28号」「バビル2世」「ジャイアントロボ」「仮面の忍者赤影」「魔法使いサリー」「マーズ」・・・・氏の作品は少年ものに限って言えば、極めて女性の登場人物が少ない。しかし、原作を好む物にとって、そのことがマイナス要因として挙げられるかと言えば、そんなことは決してない。にもかかわらず、アニメになると余計な女性キャラが登場したり、原作では1場面しか出てこないような女の子がガールフレンドになっていたりする。
これは明らかに、制作者側の意図であり、女性キャラを登場させないと受けないと思っている、“ステレオタイプ”がいるか、制作に携わっている人の多くが、多分、そう言う作品が好きなのだろうが、非常に私としては不満である。
たまたま今、アニメ専門チャンネルで、横山光輝以外はほとんどアニメ作品やマンガを読まない私にしては珍しく、「ドラゴンボール」を見ている(今更!)。完全に原作通りとは行かないが、それでも、ほとんど原作通りだ。恐らく余計な枝葉に関しては、30分という枠の中で、どこからどこまでを描くにあたって、足りない部分を補っているという感じだ。横山作品をこういう風に描いて欲しいなという羨望しきりである。
さて、横道にそれたが、セガール作品で、彼が危機に陥らないわけでもないし、好敵手が存在しないわけでもない。だが、彼はそれを圧倒して強いことだけは確かだし、そういう描かれ方をしている。
だから以前、レンタル屋に行った時に「エクゼクティヴディシジョン」というカート・ラッセル主演の作品が、セガールの棚に並んでいたので借りてきたが、これにはまいった。パッケージにも大きくセガールの名前は入っていたし、確かに彼は出演している。でもなあ、何のためにセガールなんだ?他の俳優で十分だろう。という役柄だ。途中で簡単に死んじゃうし。その死に方だって・・・興味ある方はご覧になるといい。
それとこの作品の面白いのは、全く同じ内容の別の映画があることだ。「エグゼクティブ・コマンド」という作品だが、テレビで放映されたのを見た時に、どこかで見たというよりは、どうしてこういう映画がここにあるのかという不思議の方が大きかった。
同じ原作を別々の人が映画にすることはよくあることだし、前にもここで述べた「レ・ミゼラブル」の映画を誰も盗作とかパクリとは言わないと思うが、この映画はその臭いがぷんぷんしていた。
セガールの映画は強い上に、彼が正義の味方なのがいいのだ。正義の味方なんて臭い感じもするが、こんな世の中だから、正義は大切なのだ。彼が命を張って、しかし圧倒的な強さで倒すのは本当の悪人達だ。「沈黙の断崖」や「沈黙の要塞」では、環境保護をテーマにしているが、そのテーマはともかく、それを守るために、彼は人生を賭けている主役をまじめに演じるのだ。デビューの「刑事ニコ」から、徹底的に社会の悪と対峙するという姿勢を貫き通している。
最近の映画やドラマの多くは、正義と悪を立場の違いで微妙に変転する物だというような「ものの分かった大人」のような作品が多い。「清濁併せのむ」事を度量としてしまうことが、大人になると言うことであれば、私は喜寿を迎えようが白寿を迎えようが、青い子供のままでいい。セガール作品に流れる、本当にティーンエイジャー並みの正義感は、映画を時にはB級に見せてしまうこともあるかも知れないが、それをB級と感じる我々こそが、その純粋な正義を生活の中で失っているに違いない。
ものの分かったセガールなど見たくはない。ジミ・ヘンをBGMに使えるセガールがやはり好きだ。
投稿者 keisuke_yui : 映画 | 23:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 4日
Firefox
インターネットのブラウザは9割がIE、つまり、インターネット・エクスプローラーだ。Windowsをインストールすれば標準のブラウザになっているのだから、当然と言えば当然だ。
昔は、Netscape Navigatorの方が優勢だった。その前はその名もズバリMozillaだった。ゴジラの絵を使ったアイコンが懐かしい。
最近Firefoxというブラウザが注目されている。これはMozillaのFirefoxだ。すごくややこしいが、どうやら、Mozillaを元にNetscapeは製品化されているらしい。ところがMozillaはオープンソースなのでいろいろな人が開発に携わっている。Thunderbirdというのはメールクライアントらしい。つまり、Netscape Messengerに酷似したメールクライアントだ。
私自身よく分かっていないので、これからどうするのか決めていないが、今までがNetscape派で、マイクロソフトのものよりも個人的には使いやすいので、今後もしばらくはそれを使うと思う。
しかしFirefoxにも興味がある。見た目は若干Netscapeと違うので、機能的な差も皆無ではないだろう。悩むところだ。
そもそもWindowsを始め、PCに関するOSや、ソフトウエアは、機能的な進歩と、何も考えなくてもできるという点などはある程度評価できるが、3.1,95,98と、実際にカスタマイズといった面では使いづらくなっている。
何がどこに入っているのか解らないし、セキュリティー面での強化と言われればそれまでだが、メール一つとっても複雑だ。
端的な例が、「登録されている拡張子は表示しない」というオプションがオンになっていることだ。あたかもMacintoshに阿るかのようなこの状態は、誰かに説明する時に非常に困る。同じファイルが平気で複数並んでいるからだ。これはJpegで、これはテキストと言っても、見た目だけでは解らない。極端な話、拡張子が付いていないのか、見えていないのかの区別が付かない(実際は解るが、電話などで説明をする場合極めて難しい)。
ブラウザもそうだった。そう言う意味で、Netscapeはかなり良かったのだが、6.0は正直言って、困ったブラウザで、なおかつメールクライアントだった。メールが突然消えてしまった時にはどうしようかと悩んだ。
7.1になって大分改善されたし、javaと見れば勝手に無効にしてしまうような機能もない。起動もIEよりずっと早い。ああ、それでも主流は動かせないから、IEを基準にホームページも作らなくてはいけないのだ。
Firefoxどうしようかな。
投稿者 keisuke_yui : インターネット・PC | 23:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 3日
イェヌーファ
東京文化会館にヤナーチェックのオペラ「イェヌーファ」を観に行ってきた。余り有名なオペラでもないし、それほど期待しないで見に行った。チケットを購入したのが遅く、インターネットでの購入だったが、余りいい席が取れなかった。しかし、実際は空席が結構あり、S席でも観られたな。
内容は、イェヌーファという村一番の美人が、遊び人の男と恋仲なのだが、もう一人実直な青年が彼女に恋をしている。恋仲の男とイェヌーファは婚前に致してしまっていて、実はお腹に子供がいる。母親は、そんな男との結婚は認められないと言って男にも怒る。もう一人の男は、あいつはおまえの顔が好きなだけだと言いながら、逆上してイェヌーファの顔に切りつけてしまう。
母親はイェヌーファがウィーンに行ったと言って部屋に閉じこめ、彼女はそこで子供を産む。子供がいるので仕方なしに、母親は遊び人にイェヌーファと結婚してくれと懇願するが、男は自分がののしられたことを根に持ち、しかも顔に傷ついたイェヌーファには興味が無くなっており、実は既に村長の娘と婚約をしていた。
実直な男は、自分の行為を詫び、その後もイェヌーファを慕っている。
母親は、イェヌーファがその実直な男と結婚して幸せになって欲しいと思うが、そのためには子供がきっと邪魔だと、、イェヌーファに薬を飲ませて、眠っている間に、子供を氷の張った川に捨ててしまう。
母親は自分が犯した罪の重さにさいなまれ続けるが、やがて、イェヌーファはその実直な男と結婚することになり、その婚礼の当日。
客には村長夫妻と、その娘、そしてフィアンセである遊び人がいる。
そんな折、外で氷の中から子供の死体が見つかる。イェヌーファは自分の子であることを証言し、群衆が子殺しの母親に石を投げようとした時、母親が自ら名乗って罪を告白する。イェヌーファは、母が自分の将来を思った故の殺人であったことを理解し、母を赦す。そんなことがありながらも、これからも君を守っていくという実直な男の愛を受け入れて物語はハッピーエンドに。
そういう内容で、まあストーリーにはつっこみどころがいろいろあるが、大抵のオペラはそうなのでここでも些末は気にかけない。
ヤナーチェックのオペラは「利口な目狐の物語」のCDを持っているが、まともに聴いたことがなかった。ELP(エマーソン・レイク&パーマーだ、もちろん。・・・パウエルじゃない)のナイフエッジという曲でもそのモチーフが使われた、シンフォニエッタと、タラス・ブーリバ、クロイツェルソナタという名の弦楽四重奏曲などが有名だが、印象としては結構粗野な音楽という気がしていた。
今日聴いたオペラは、所々ドヴォルザーク風のメロディー有り、ワーグナー風ありだが、かなりオリジナリティーに富み、しかもなかなかいい曲だ。管楽器はやはり粗野なイメージを払拭しきれないが、むしろ今日のオペラには合っているような感じだ。
第1幕はちょっと冗長で、音楽そのものはかなり面白いのだが、場面が退屈だった。
ところが、2幕からは急に緊張感が増し、4人しか登場しない2幕は、ほとんど母親の独壇場といった感じで、時間を感じさせない素晴らしい物だった。続く3幕も、子供の死体が上がった辺りからは、怒濤のように終幕へ向かい、かなりクオリティーの高い作品であるように思える。
罪を負った母親が群衆と部屋を出て行き、舞台にイェヌーファとラツァ(実直な男)の二人だけにするシーンでの音楽は、ワーグナーチックだった。しかもそれで終わってしまうくらい盛り上げてくれる。いかにもそれで子殺しにピリオドを打ったような印象があり、死んでしまった子供がいかにも可哀想な扱いだという思いは残るが、その後、二人が愛を確かめる場面の音楽は美しく、しかも前途の多難さを表現の中に残す、終わり方だった。
演出もなかなかよく、非常に舞台装置を旨くシンボリックに使っていた。
「道化師」や「カヴァレリア」のような、いわばヴェリズモに属するオペラだと思うが、より泥臭く、生々しい。しかし、ヴェリズモをヴェリズモらしく見せるためには人殺しが必要だというのは、どうもミステリーとかぶるところがある。
悲劇を悲劇らしく、しかも身近なものとして描くのがヴェリズモなのだろうか?単なるリアリズムではなく、悲劇でなければならないような・・・
今日の演奏では、母親役の渡辺美佐子さんが、鬼気迫る厳格でありながら、誰よりも娘を愛する母親役を最も好演していたように思う。イェヌーファ役の津山さんも良かったが、渡辺さんは圧倒していた。
指揮は阪哲朗さんだが、若干荒さはあったように思うが、ヤナーチェックにはそれくらいの方がいいのかも知れない。
カーテンコールで後ろに直立不動で並んでいた二期会の合唱団の面々は、第1幕の若者の羽目を外したハチャメチャシーンでも、素晴らしい動きをして、イェヌーファが遊び人、シュテバとエッチしてしまう部分を非常にシンボリックに表現する演出を成功させていた。舞台狭しとあの大人数か駆け回り、絡み合う姿は圧巻だった。
人はあまりはいっていなかったし、1幕で帰った人もいたようだが、作品的には1幕と残り2幕のデキに差があり、まとまっていない気もするが、後半だけでも十分に観る価値はあるし、また演奏もそう言って過言ではない。
見せ場が、イェヌーファと母親に極端に偏っているので、他の配役には気の毒な作品のようにも思える。・・・ラツァはそうでもないかな。
いずれにしても、思った以上にいい演目、そしていい演奏で満足して帰ってきた。・・・DVDでも買うかな。出てれば。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:18 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 2日
コーヒー
コーヒーというのは、調べてみると、それほど歴史が古いわけではなく、せいぜい千数百年前から飲まれ出したらしい。日本に入ってきたのは17世紀頃のようだが、本格的に飲まれ出したのは明治時代と言うことだから、日本のコーヒーの歴史は100年余りと言うことになる。
よく西部劇で、荒野でコーヒーをわかして金属のカップで飲むシーンがある。あれがとても旨そうだ。ドリップやサイフォンではなく、パーコレーター、どちらかというとただのポットで入れているように思える。時代からいうと、ドリップもサイフォンもその頃発明されているようなので、西部劇の舞台で出てくるとは到底思えない。
インスタントコーヒーは19世紀の終わりの発明だという。
私が子供の頃は、家でコーヒーと言えばインスタントで、今のようにドリップが普通ではなかった。学生時代でもよく「泥水」と評したコーヒーを飲ませる喫茶店も多かった。今では、余りまずいコーヒー店というのは少ない。もちろん好みはあるが。
ドトールだって十分美味しい。個人的にはスタバよりドトールだ。スターバックスのいい点は店内禁煙と言うことだろう。
愛煙家にとっては、コーヒーと煙草をワンセットに考えている向きも多いかも知れないが、単純にコーヒーの味と言うことを考えれば、煙草が損なっていることは間違いないと思う。
しかし、美味しいコーヒーを飲ませる店というのはたくさんあって、最近好きなのは新宿の但馬屋珈琲店。私は西口の方しか行ったことがないが、とても美味しい。まあ、ドトールの3倍の値段を払うのだから、美味しくなくてはやっていけないと思うが、時々飲みたくなる。
ドリップの仕方を見ているととても面白い。ポットはそのままで、ドリッパーの方をまあるく動かすのだ。あれが秘訣なのかな。自分では試したことがないけど。
家ではもっぱらブルックスの19円、モカコーヒーだ。以前は豆を買っていたが、最近では1杯1杯淹れるのがめんどくさいのでそうなってしまった。一時期、カフェ・ノ・バールのソンブラという豆に凝って、ずっとそれを買っていたこともあったが、当時は勤めが池袋で、事務所がまさに西武百貨店の隣だったこともあったからで、勤めが変わってからは、余り買わなくなった。
こんな文章を書くと、また飲みたくなる。正直なところ、ブルックスよりは遙かに美味しいのは目に見えているから。
でもブルックスのコーヒーはありがたい。非常に手軽で、そこそこな味で、しかも安い。尤も、オリジナルブレンドは同じ19円でもあまり美味しくないと思う。中ではトラジャが一番美味しいかな。その分高いけど。でも、ソンブラは確か200グラムで1000円近かったので美味しくて当たり前だな。
昔は砂糖とミルクを入れないと飲めなかったが、今は砂糖を入れると飲めなくなった。だがミルクだけは入れる。クリームというよりミルクだ。クリープのような粉末系のミルクは以ての外だし、スジャータでも濃い。ブラックよりもそちらの方が好きだ。真のコーヒー飲みからは邪道に思われるのだろうか?そんなことはないな。フランスで飲んだコーヒーは基本、エスプレッソで、私の口には合わない。
イタリアやフランスの人は、エスプレッソがコーヒーだと思っているから砂糖をたくさん入れて飲む。お国柄の違いというよりは、私的には個人的な味覚の違いに過ぎないが。薄目で量の多いのをよくアメリカンというが、そのエスプレッソではないから、普通のコーヒーをアメリカンと言うようになったのではないのかな?
昔の喫茶店は、明らかにコーヒーを入れてお湯で割ったのをアメリカンとして出していたように思う。
まあ、コーヒーだろうがお茶だろうが、美味しく飲めるのであれば飲み方は自由なので、どんな飲み方も個人差だと思っている。私はコーヒーには全くうるさくないので、こんな文章をブルックスのコーヒーを味わいながら書いていれば、それは酒飲みがグラスを傾けているのと同じ気分なのだ。
まあ、胃に悪いので飲みすぎには注意しろと医者にまで言われたことがあるので、注意はしているが。でもやはり嗜好品というのは常習性や、麻薬的な魅力があるのだな、これが。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:18 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 1日
デヴィッド・カヴァーデール
デヴィッド・カヴァーデールとの出会いは、もちろんディープ・パープルだが、長い間、彼のソロアルバムが私の愛聴盤であった。
デヴィッド・カヴァーデールはイアン・ギランの後を受けて、「Burn(邦題:紫の炎)」からディープ・パープルに参加した。当時、それほど歌がうまいとは思わなかったが、非常に味のあるブルージーな声質のヴォーカリストではあった。「Stormbringer(邦題:嵐の使者)」「Made In Europe」「Come Taste The Band」という4枚のアルバムを出してディープ・パープルが解散した後、2枚のソロアルバムを出している。
最初のが「Whitesnake」2枚目が「North Wind」この2枚が特に好きだった。中でも「Whitesnake」の2曲目「Blindman」という曲が好きで、繰り返し聞いていた。もちろん今でも好きだが、大分聴く機会も減った。
彼の歌い方はハード・ブルース・ロッカーという感じで、かなりルーズで、ねちっこさを感じることもある。酒場で酔っぱらいが眠そうに歌っているような雰囲気もある。Whitesnakeをバンド名にしてから、特に、アメリカで当たった頃は大分高音のシャウト歌手みたいになってしまったが、このソロの頃は、あまり高音も出ていなくて、それが魅力でもあった。
ディープ・パープルではリッチー・ブラックモアとトミー・ボーリン、ホワイトスネイクではミッキー・ムーディーとバーニー・マースデン・・・そのあとは、ジョン・サイクスだのヴィヴィアン・キャンベルだの、エイドリアン・ヴァンデンヴァーグだのスティーヴ・ヴァイだのメタル・ギタリスト目白押しだが・・・ジミー・ペイジなんてのもあるが、とにかく、誰と組んでも、デヴィッドはデヴィッドなので、私にとっては、ロニー・ディオを聴いているのと同じに、幸せに浸れるわけだ。
ディープ・パープルというメジャーなバンドでスタートし、初期のホワイトスネイクでは「フール・フォー・ユア・ラヴィン」をイギリスで当て、ジョン・ロードと縁を切ってアメリカに渡ってからは、「Serpens Albus(邦題:白蛇の紋章)」は世界的に大ヒットした。考えてみると、リッチー・ブラックモアよりも成功している。
このアルバムのタイトル、Serpens AlbusのAlbusというのが意味がよく分からない。辞書で引いても出てこないし。本当に紋章っていう意味なのか?しかもこのタイトル、CDでは、読めないくらいに小さい。タイトルなのかも怪しいくらいだ。
しかしビルボードチャートの上位に入ったりすると、コマーシャリズムとか、アメリカナイズとか言われるが、それほどこのアルバムはアメリカンな作品ではない。
確かにジョン・ロードと一緒にやっていた頃は、ブルース指向なのに、なんかちょっと野暮ったい部分があって、突然このアルバムから音がクリアになった感じがして、何かが違うが、それは多分、ポリープの手術で高音が出るようになったので、心機一転したデヴィッドの心象の表徴なのだと思う。確かにこのアルバムでのジョン・サイクスの存在は大きいけれど、やっぱりホワイトスネイクはデヴィッドの個人バンドなのだ。
それは、ディオが何をやろうとディオであるように、存在感の大きさというのは否めない。
ジミー・ペイジとのコラボレーション(ロバート・プラントの真似のように言われるが、全く違うぞ!)もなかなか良かったけど、1枚で終わり、最近ではたまにソロアルバム出したりしてる。お金もあるし、美人の奥さんと悠々自適なのかも知れない。年も年だけど、まだまだがんばって欲しい。
ブルージーなソロアルバムでも出してくれないかな。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)