2004年11月30日
氷点
三浦綾子の「氷点」が好きだ。とても良くできた小説だ。
小説が持っているセンス・オブ・ワンダー(これはSFのための用語だが)を、あれほど強く意識させられる小説はない。
陽子という無垢なキャラクターに「私の心にも氷点があった」と言わせるくだりは、涙無くして読めない。そして二重のどんでん返し。どんでん返しというのは、それ一発勝負ではいけない。緻密に描かれた前半の物語があったればこそ生きるどんでん返しなのだ。
これはそもそもが不倫の話から始まるので教科書などでは多分扱われない小説だとは思うが、キリスト教的な原罪とか、心に罪を犯したことがないものがまず石を投げんといったシーン、様々な人の罪と愛の在処みたいな葛藤を描いているように思う。
ファウストの昔から、「永遠に女性なるもの」が魂を救うといった感覚が、キリスト教にはあるのかも知れないが、まさに陽子はそういった象徴のように思える。
生まれた瞬間から十字架を背負わされたような数奇な運命を、少女時代に過ごさねばならないのにも関わらず、人を信じ、愛し、許す、言ってみれば天使のような娘に「心の氷点」と言わせるところで、普通は良くできた小説だが、そこに綾をもう一つ作ることで奥深いエンディングを演出している。
続編もそれなりに面白いが、正編の域には達していない。但し、作者が描かんとした部分は、恐らく正編では不完全で、幼い無垢な少女が強さを身につけるまでを描きたかったのだろう。例えば、「風と共に去りぬ」のスカーレットのように、雄々しく立ち上がる陽子を描くことで、あたかも十字架に欠けられたイエスが復活するように、苦しく辛い人生でも、ここから生きていくのだという強いメッセージが感じられる。
実際、正編の方は、エンディングのすばらしさに、作者のメッセージ性は弱い。むしろ花登筐とか、小公女ではないが、虐げられてきた主人公が最終的に光を浴びるような、そんなエンディングだった。
多分これでは作者の思いは描き切れていなかったのだ。
ただそれでも、一個の作品としては、正編のクオリティの方が遙かに高い。
作家であれば、こういう作品が書きたいと思わせる作品の一つである。
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 23:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月29日
戦争を知らない子供たち
「戦争を知らない子供たち」という歌がある。ジローズだったか。杉田二郎がよく歌っているからきっとそうだと思うが。
戦争が終わった後で生まれた子供たちが平和を大切にというような内容だった。
現代は、そんな戦争を知らない子供たちの子供たちが既に社会に出ている時代だ。
よく、戦争体験を語り継ぐことの大切さというようなことが言われる。現実に体験した人が、戦争がいかに悲惨かということを後世に伝えることで戦争を二度と起こさないためだ。
私はこういう話を聞くと悲しくなる。人間は、たとえ理由がどこにあろうと、殺し合いを、直接体験や体験談を通じてでしか悪いこととして認識できないのだろうか。戦争の話など聞かなくても、戦争がいいわけはないと思うが。とても単純な問題だ。
機動戦士ガンダムとか、いわば未来の宇宙戦争を扱ったアニメがある。これはあたかもアメリカの戦争物と似て、戦うことを美化しているように思う。ただこれはアニメだし、制作者の意図はそんなところにはないと思うし、ファンは「もっとよく見ろよ」と立腹するかも知れない。
しかし、戦国時代の戦記が人殺しをしても現実感がないのと同様、アニメやスクリーンの中の戦争は、概ね現実感がない。描かれるのは主要な人物の周りだけであり、あまり無駄な死というのは少ない。
戦争の悲劇とは、実際に戦争を決めた人物以外が死んでいくことだと思う。ブッシュは戦争を命じることで多くのアメリカ国民を含むたくさんの命を奪っていることを、全く自覚していない。
人は生まれてきたからには、死に向かって生きているのだ。いつ来るか判らないが、いずれは来る死に向かって生きている。だからこそ生きている間の人生の瞬間瞬間は大切なのであり、怠惰に生きようが夜の目も寝ずに努力しても、その人なりの充足感や生き様が許せばいい人生であると思うが、いずれにしても終点は死なのだ。
人にとって、誕生は自分の意志ではどうにもならない。だが死は、病気や怪我といった不測の事態はあるとしても、死に向かって飛び込むことを命じられるかどうかというのは、完全に個人の裁量に任されるべきだ。
空から落ちてきた爆弾は、隕石の落下とは違う。
戦争など知らなくても戦争の恐ろしさや無意味さは解る。
小泉の靖国参拝の問題で、世論の70%前後が賛成しているという。これは、中国がとにかくそのことに反発して、「参拝するな」と国を挙げていうからで、単純なそれに対する反発の数字だ。別に首相の参拝を指示しての高い数字ではない。そもそも日本人の多くはそのことに関心すら持っていない。
過去の戦争を云々するのは、国家としての被害者への賠償といった問題はともかく、一般市民レベルでは、ほとんどの日本人に責任はない。なぜなら、今ではほとんどの日本人が戦争を知らない子供たちなのだから。親の責任を子が背負うのは、遺産相続で次いだ借金くらいでいい。
と言って、あれだけ反発している他国の状況を見て、いつまでも参拝し「二度と戦争を起こさないため」などと嘯く人物が自分の国のトップに立っているかと思うと、寒々しい感じがする。
これが戦争の原因にはならないとはいえ、こういう事の積み重ねが過去の戦争を引き起こしたことだってあるのではないのか?
人間は些細なことで争い、感情的に殺人さえ犯す。自分の行動を戒め、他との関係を良好な物とする努力を、嫌でも強いられるのが社会というものだ。
富、権力、優越感、様々な不公平感をなくそうとして共産主義や社会主義のイデオロギーは生まれた。しかし、これらのイデオロギーや社会体制も、そもそも人間が持つエゴイズムを統制できないことはソビエトや東欧の各国、あるいは北朝鮮や中国を見れば解ることだ。
自由社会で、いかに他を思いやれるか、世界の平和を勝ち取るためには、恐らくそれしか手はない。少なくとも近い将来にそれが訪れるというのは、自分が宝くじで1等を取るより、遙かに難しいのだろうな、そう思う。だが、少なくともそういう意識を、死ぬまで忘れたくないと思う。
一人でも多くがそう思って生きていけば、少なくとも戦争の危機は少しは減るのじゃないかと思う。
投稿者 keisuke_yui : 歴史 | 23:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月28日
ゴジラ
ゴジラの最終作が封切られるという。既に28作目だそうだ。
実は「ゴジラ」作品を劇場で見たのは、「ゴジラ対ヘドラ」だけだ。小学校の高学年くらいだったように思う。いわゆる東映マンガ祭りの東宝版になるのかな。
そもそも「ゴジラ」は1954年の映画化で、当然、私は生まれていない。香山滋の原作はもっと以前なのだろうが、それも寡聞にして読んでいない。テレビやビデオで、「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」という自分が生まれる前のモノクロ2作品は見たし、今でも大変好きな映画である。
その後の、モスラがあって、正義の味方ゴジラや、息子が出るやつなどは、多分1回くらいは必ず見ているように思うが、いつでもキングギドラと戦っているような気がする。80年代に入って大分減ったような気がするが、それでも数年に1回は映画になっていた計算になる。
そういえばどれかの作品で、これでゴジラは打ち止めみたいなことを言ってなかったか?
制作者が別々なら、今回みたいに「ファイナル」なんていう冠を付けて、これから同じキャラで作りたい若い人たちの夢を壊すようなことはしなくていいような気がする。そもそも、世代交代をした今の人が、「これでおしまい」みたいなことを言うこと自体僭越ではないのか?まあ、そんなことは無視して、しばらくしたら作ればいいだけの話なのかも知れないが。だとしたら、お客に対する欺瞞だな。
とにかく、どの作品でゴジラが敵なのか味方なのか、まじめなのかギャグなのかよく分からないが、怪獣映画というものが、そもそもは欧米で始まったとはいえ、それとは別基軸の日本のオリジナリティー高い作品群であることは間違いないと思う。
今回はTOKIOの松岡扮する「ミュータント部隊」が登場するらしいが、ミュータント部隊と言えば、ペリー・ローダンだ。その日本版第3巻は、その名もズバリ「ミュータント部隊」・・・だったと思うが。
ゴジラそのものがSFであり、いいのだが、ロボット(メカゴジラ)や超能力者みたいなのが出てくると、なんだかあの恐ろしげなゴジラが、影が薄くなるような気さえする。ただ、松岡はかなり雰囲気がありそうなので、期待はできそうだ。あ、でも劇場には見に行かないのは解っているが。
私にとってはゴジラはテレビでのんびり観る映画なので、たとえ特撮がどれほど優れていようと、わざわざ映画館に足を運んで、大画面で見たいという思いはない。
今度、ゴジラのDVD-BOXが出るようだが、ちょっと欲しくもあり、でも、見ないから最初の2作だけでいいかな。
ところで、基本となる音楽は第1作の伊福部昭による有名なテーマだが、あの音楽はよくできていると私も思うし、これだけ長きにわたり使われ、多くの人が知っているとなれば、客観的に見ても優れた音楽なのだろう。伊福部は、あのテーマを交響詩のようにもアレンジしていたような気もするし、彼の他の作品もなかなかいい。クラシックの作曲家辞典に載っていなかったりするのだが、映画音楽とかが多いからなのかなとも思う。欧米の現代音楽作曲家に比べても、CDになる率が低かったりするようにも思うし。
今、どんな活動されているのか解らないが、少なくとも新しいゴジラは、イギリスかどこかのロックグループがやっていた。
投稿者 keisuke_yui : SF | 21:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月27日
夢の話
今、夢の話を読んでいる。講談社のブルーバックスの一冊だ。(夢の科学ブルーバックス)
夢をなぜ見るのか、そしてどういう仕組みで見るのか、どういう意味があるのかといった問題を、脳科学の面から解りやすく説明している書籍で、なかなか面白い。風呂に入っている時だけに読むので、なかなか進まないが。
そもそも夢が何かのお告げだったり、抑圧された何チャラの情動だったり、などと言ったことは元々ほとんど信じていなかったが、さりとて、フロイトを始めとする夢判断についても実はあまり馴染みがなかった。
人間に肉体がある以上、それは科学的に分析できる形で説明が付く以上のことはないと信じている。科学万能主義ではないが、それは、科学が万能でないという姿勢ではなく、科学は万能だが、その万能の部分のすべてを人が手に入れることは、未来永劫ないだろうと思っている。
よく、「この世には科学で解明できないことがある」という意味の文章があるが、これは間違っていて、「この世には現代科学で解明できないことがある」が正しい。これは大きな違いで、実際問題、この世には科学で解明できないものはない。なぜなら、物理的、化学的、生物学的といった様々な面から、ことを解明するのが科学だからだ。
夢も同様で、100年前とは比べものにならないほど、脳内の仕組みが明らかになってきていても、夢の観察は電位の変化と、夢を見た人間の報告によるしかない。恐らくすべての人が同じだと思うが、夢の記憶というのは極めて曖昧で、目覚めた瞬間は覚えていても、あっという間に忘れてしまう。目覚めた瞬間だって、それほど細部まで明確に記憶しているかというと、記憶しているように感じることもある、という程度に過ぎない。そういった記憶を頼りに解明していかなければならないのだから、夢の研究者も大変だ。
予知夢というのがあるが、多分、それは偶然という言葉で片づけられる以上の頻度では起こっていないだろう。そもそも超能力や幽霊や、超自然現象の多くが、「説明が付かない」のであって、証明されているわけではない。
ある名前の人がいい運勢だと言って、同じ名前の人全員がいい運命だかどうかの統計を取った人などいない。物事は、ある程度普遍的にその事実があると証明されない限り、「どう説明するのだ」と言うことであっても、偶然の域を出ていない。
夢も所詮そんなもので、「夢枕に立つ」というのは記憶に過ぎないというのがとても素直で普通の見方だ。
まあ、人間の脳が神経伝達物質を介して、電気エネルギーを脳内で走り回らせているというのが心を生む元だというのは、非常に殺伐として、面白くない見解だが、魂があると言われるよりは解りやすい。いや、魂はあるだろう。心とか魂とか、いわば人間のアイデンティティを表徴する事や物があるのは確かだ。しかしそれは個々の人を離れて、死後も別個にあるというのは、およそ信じるに足る証拠がない。逆に、否定する証拠もあるようには思えないので、極めて不可知な分野だ。
文学や芸術、といった人間の当為の上では、非常に重要で、わざわざ否定する意味は全くないが、それが現実の話になると、果たしてどうか?これは言ってみれば、葬式の意味と同じで、生きている人間が、自分と何らかの形で関わる人の記憶に意味を持たせるという行為に過ぎない。少なくとも、何らかの影響を現世の人間に及ぼしている事が証明できるまで、あまり意味がない。
夢もそうだ、もちろん。
だが、夢やそれらの様々な事象の不可知な部分が、意味がないかというとそうでもない。なぜならそれを信じている人がいて、それに影響されている人がいるなら、たとえそれが架空であっても、十分な意味を持つ。
自分の愛する人が亡くなったあと、その人の夢を見ることが、自分に対するメッセージであるかどうかと言うことは、科学的な理由付けはともかく、その人がどう捉えるかという問題である。
物事には何でも意味があるのではなく、物事から意味を汲み取る、それが人間を賢くし、生きていくすべを教え、より素晴らしい人生を造りあげていく一助になるのは、当然のことだ。
占いが人生を変えることだってある。夢だってそうだ。
いかに夢が解明されても、それが電気信号で再現できたり、映像化可能になったとしても、それが持つ意味を、人がどう捉えていくか、夢の真の意味はそこにある。但し、闇雲にそれらの意味を、与えられて丸飲みに信じるのは、あまりおすすめできないな。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月26日
宝くじ
年末ジャンボが発売になった。日本人の多くがギャンブラーに変身する時期の一つだ。年末ということで実際に一番多いだろう。
ギャンブルの多くは射幸心を煽るというのが、日本で許されていない理由の一つになっている。だが、射幸心という意味なら、以前にも書いたが、宝くじだって、パチンコだって競馬だって一緒だ。競馬で万馬券を1万円買っていれば100万円が懐に入る。合法だ。だが、点100くらいのレートで麻雀をやっていると、きっと賭博罪が適用されるに違いない。所詮ギャンブルに対する法律というのはその程度のものだ。掛け金が暴力団に流れるというのなら、そのルートをきつく取り締まるとか、競馬やパチンコの業界のような仕組みを作れば、石原慎太郎がやりたがっているカジノだって、別に悪いことじゃない。悪いのだったら、パチンコだってまずいだろう。今日のニュースで、川上麻衣子が16万円相当を勝ったという報道がされていた。今時16万円勝って、それをすべて景品に変えている人がいるとは到底思えない。結果的に現金に還元しているのだ。あの回りくどいやり方で方を抜けているのは、非常にばからしい。最初から、店内の景品交換所でお金に換えればいいのだ。
さて、そんな中で、宝くじというのは、そして特にジャンボというのは前後賞合わせて3億円という高額当選が魅力だ。毎年毎年、1000人以上が高額当選をしている計算になる(ジャンボは年末だけではないから)。身近にはいないが、いてもあまり解らないだろう。
外国の宝くじ、特によくニュースになるアメリカの宝くじは、途方もなく巨額の当選がよくある。日本の風土には私も馴染まないと思うが、私は日本の宝くじ制度は国家による虚飾だと思っている。
日本は国や地方の公共団体が胴元で、銀行(みずほだ)に販売を受託している。この国家による専売を、「民間にできるものは民間に」と言って民間にやらせると、恐らく相当に巨大な企業が誕生するだろう。3億円をあれくらい出したところで、痛くも痒くもないほど、巨大な収益が上がるはずだからだ。しかも一部を除いて繰り越しもない。繰り越しも4億までだ。そもそも、収支を計算していけば、多額の時効償金や、販売数による利益がそこに発生しているはずで、そんなものは、購入者に、経費を除いてすべて還元すべきだ。国に入れてしまえば、所詮これに関わる総務省などが、いいように使ってしまうに決まっている。事業や何かに回される金だって、当選者の善意の寄付の方がよっぽどいいに決まっている。
繰り越しで金額を増やすのではなく、当選本数を増やせばいいだけで簡単なことだ。日本という国家は、国民のことなど全く考えていないと言うことの一例に過ぎないが、ありがたがって宝くじを買っている人に対して私は、目を覚ませと言いたい。
いや、これは宝くじを買うなということではない。私も買っている。だが宝くじの背後に潜む嘘にもっといかれと言いたい。もっと大勢の人が当選して、夢を摑むことが可能な仕組みにできるのだ。
ただでさえ、無駄遣いをしまくって金がなくなれば増税ばかりを考えて、身の回りの始末は何もしない国と政府だ。マスコミ、インターネット、様々な手法で国家に個人が影響を与えられる時代なのだ。
国家が国民のことを第一に考えていないと、多くの国民が考えているような国に未来はない。
宝くじ、ちょっとだけ買うかな。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月25日
タイムマシン
タイムマシンと言って、別にウエルズの小説の話題じゃない。
だがウエルズの昔から、あるいは時間旅行という意味では、マーク・トウェインという先達がいるが、不可能でありながら尽きせぬ魅力あるテーマである。
そもそも時間という概念はアインシュタインによって、縮んだり伸びたりすることが解ってから(それともローレンツか?)、大きく概念が変わった。人によって進み方が違うことが証明されたからだ。が、そもそもこの時点でよく分からない。
ウラシマ効果と呼ばれる現象は、まさにこの光速度に近い運動をする物体では、その外よりも時間がゆっくり進む。光速度に達した段階で進み方はゼロになるわけだが、このことを浦島太郎に模した表現だ。つまり、光の速度に近いスピードで宇宙を旅して帰ってくると、宇宙船では大して時間が過ぎていないが、地球では何十年も何百年も経ってしまっているというやつだ。
ある意味未来への時間旅行の訳だ。
だがこの時間旅行の概念は、ちょっと違う。
例えばウエルズの時間旅行であれば、時間をあたかも道路のように行き来すること、途中下車をすれば、そこには未来や過去の自分がいる可能性があるのだ。
前出のウラシマ効果は、時間の進み方は違うかも知れないが、実は宇宙船も地球も同じ時空にいる。常にいるのだ。ドラゴンボールに出てくる「精神と時の部屋」のようなもので、それぞれに別の次元が存在するように、同じ時空の中に二つの時間があるようなものだ。
実際にこの時間の遅延現象は、超高速で飛ぶ飛行機と地上の間で時間のすすみに差が出るという現象で証明されているらしい。あるいは、若々しくいる秘訣は、年中旅客機で旅行をすることかも知れない。新幹線だって、ちりも積もればで、少しは違うはずだ。いや、新幹線は地面を走ってるからそうじゃないのかな?その辺り、よく分からない。
さてこの時間旅行というのは、できないからこそしてみたい。自分が若返ったりするのとは別に、過去や未来を体験してみたいというのはそういうことに思いを馳せれば誰にでも共通の願望となろう。
ジュラ紀や白亜紀に戻って恐竜を見てみたいとか、キリストの最期を見てみたいとか、戦国時代の真実を探ってみたいとかいう、過去への憧憬とともに、この先人類がどうなっていくのかという興味も、時間旅行が可能であれば多くの人が持つだろう。
よく言われるパラドックスというやつは、例えば、「ターミネーター」などで、未来の自分が、過去の自分を守るために送り込んだ男が自分の父親だったなどという、問題を確実に惹起する。
人は意志と科学が何かを成し遂げることを本質的に信じている。
しかし、人が空を飛びたいという願望を飛行機で叶えたようには、時間旅行は行かない。空を飛ぶのは、鳥や虫が既に飛んでいるという実例があるが、未だかつて時間旅行をした何物かというのは見つかっていないからだ。
それでもパラドックスや物理的な不可能性を超えて、まじめに研究している人たちもいる。時の彼方への旅は、宇宙の果てへの旅と同じく、人類がその歴史の中で実現できそうにないことだし、少なくとも私が生きている間での実現は100%無理と断言できるわけだが、そういうものに向かって何かをほとばしらせることが無くなったら、人類はおしまいなのかも知れない。
軍備の拡張にたくさんのお金を使うよりも、無駄と解っていても、こういうことにたくさんのお金を使う世の中が早く来ることを願ってやまない。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 11:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月24日
大学生の国語力の低下
文部科学省メディア教育開発センターが、大学生の国語力を調査して、1割前後が中学生レベルだという結果を発表した。
例に挙がっていたのは「憂える」が読めず、意味が分からないというものだった。まあ、しゃれとしては良くできた例ではある。それにしても、この言葉を「喜ぶ」という意味だと答えた学生が一番多いというのは、この言葉を使ったことがなかったり、字の形が似ていたり、優しいという字に似ていたりと、何となく理由が想像できそうなところが面白い。
もちろん本を読まない人が増えていることや、パソコンの普及も影響しているだろう。パソコンのない世代でも、読めても書けないという状況はどんどん進行しているが、その世代は少なくとも昔は書いていた。いや、書かざるを得なかったと言うべきかも知れない。
欧米と違ってタイプライターなどというものは一般的にならなかったし、なりようもなかった。ワープロが出るまでは手書きだったのだ。今時の学生は卒論を手書きする人は少ないだろうが、私は手書きだった。それだけでも、同じ行為をしていても国語力が低下してくるのはやむを得ない。
ましてや、マンガがこれだけ隆盛を極めれば、自ずと国語力の低下に繋がるのも容易く想像がつく。マンガがいけないとか言うつもりは毛頭無いし、マンガだって文字は付いている。ただ、多くの部分で絵が文字の代わりをしているわけで、自ずと小説などに比べれば読み易く、同時に読み飛ばしやすい。
他にも様々な要因は考えられるだろうが、例えば、こうやって文字は使われなくなっていく、表現は古語になっていくという見方も一面できると思う。
憂えるという言葉が、心配するという言葉で代用できるのなら、いずれ使われなくなるかも知れない。そもそも学校で習った古語という言葉は、ものによっては、100年かそこら前に使われていた言葉も含んでいる。
森鴎外や夏目漱石だって、七面倒くさい文章だ。こうやって時代は変わっていく。
ただ、表現手段が、どの程度の範囲で有効かと言うことになると、現代は非常に広い。情報ツールが格段に進歩し、言語や様々な表現手段(コンピュータの言語なども含め)が非常に多様化しつつも、系統立てて利用できるようになっている。
昔のように、一部に使われる頻度が減ったというだけで、単純に言葉が消えていくわけではない。辞書もある。しかも多様な辞書がある。
いずれにせよ、若い人は昔よりも活字に触れる機会が減り、日常的に使わない言葉を覚えようとはしなくなっているのだろう。
関連した記事の中に、国語の授業がつまらないというのがあった。私は、つまらないから授業なんだろうという、穿った見方をしていたが、確かに国語の教科書はつまらなかった。今と30年前が同じ教科書ではないと思うが、所詮、選んでる人の感性がそれほど時代とともに変わっているとは思えないので、それほど面白いものになっているとは思えない。もちろん、面白いと感じる感じ方は人それぞれなので、楽しめる人は十分に楽しめるだろう。
だがそれでも、「この“それ”は何を指しているのでしょう」みたいな問題が出ていると、たとえそれが読解力の判断基準になろうとも、つまらないのは当然だ。
私は、こんなものはたくさん読めば身に付くと信じているので、ことさら興味のない文章を題材に、授業を行うより、好きな作品をずっと読む時間を授業に作ってやれば、自然に国語力は付いてくるように思える。
それが西村京太郎や、内田康夫でも、せかちゅうでも構わないと思う。むしろ、有島一郎を無理矢理読まされるよりはずっと面白いし、読む力も、書く力も付くはずだ。
好きな本を買ってこさせて、自由に読ませ、解らない字があったら辞書で調べさせる。そんなんじゃ国語力って付かないのかな?
面白い本が出てくれば、自然に他のジャンルも読むようになると思うのだが。国語の授業中に、アイドル本を読んでいたって、週刊誌だって、その文章がどうしようもないのなら別だが(例えばどう読んでも意味不明だとか、あまりにユニークすぎて日本語らしからぬとか)、普通の本であれば、そこそこいいと思うが。
この文章は素晴らしいとか、たくさん文章を読んでいる人の視点でいくら力説したところで、子供に通じるのはわずかだ。
国語力の低下は憂うべきことだが、その前に、国語力っていったい何だ?と言うことを教科書に対して問うてみたいな。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月23日
ヒドゥン
「ヒドゥン」は映画のタイトルだが、最近ようやくDVD化された。初発売だからしょうがないとしても、洋画としては少々高いので購入していない。
「ヒドゥン」は以前にここでも書いた「デューン」に出ていたカイル・マクラクランが、出演しているSFの傑作だ。何とかいう賞も取っている。この賞のことはよく知らないが。
ストーリーとしては、脱獄した宇宙人の犯罪者が、地球にやってくる。この宇宙人は、人間に次々と乗り移る、ハードロック大好き宇宙人なのだが、それを追ってきたのがカイル演じる宇宙人の警察官?だ。結果的に大統領だか上院議員だかに乗り移った宇宙人をやっつけるという落ちだが、素晴らしいスピード感と、ストーリーテリング、抜群に楽しい映画だ。
言ってみれば「メン・イン・ブラック」からギャグ(この映画ではユーモアと言いたいからだ)を抜いたような映画だが、もっと楽しい。恐らく世間では確実にB級というレッテルを貼るのだろうが、決してB級じゃない。
一緒にエイリアンを追いかける地球の刑事が実は主役だが、俳優の名前を知らない。最後はなかなか心温まるエンディングになっているし、比較的誰にでもお勧めできる映画だ。
実はこの作品は「ヒドゥン2」という続編があるのだが、監督も違うし、内容もひどい。正直言って、作った意味が分からない。本作ができがいいからと言って2を作ればいいってもんじゃないという典型だ。それに、1で内容的には十分完結していて、2のストーリーを書かされた脚本家は苦労したに違いない。
尤も、「猿の惑星」の例もあるので、続編を書けば、それなりに受ける場合もままあるのだろう。「猿の惑星」は別の機会に書くが、あれは1が最もよくできていることは、大方の人が認めると思うが、実際5部まで作ったことで、別の大きな話を作りあげることに成功したまれな例だ。
この「ヒドゥン」は、有名なようであまり有名じゃないが、SF作品の中でも、少なくとも10指、うまくすれば個人的には5指に入るかな・・・・
「2001年」「猿の惑星」「ゴジラ」「ファイナル・カウントダウン」・・・5は無理だが、10には入れるな絶対。でもここに、「ET」とか「スター・ウォーズ」とか、「未知との遭遇」とか、20位以内でも入れない私のセレクトなので、あまり信用はおけないな。
でも、「ヒドゥン」そのものは間違いなく面白い。
投稿者 keisuke_yui : SF | 23:27 | コメント (0) | トラックバック (1)
2004年11月22日
セレモニー
セレモニー。すなわち式典とか儀式のことだが、MCなどというと、最近はテレビなどの司会までMaster of ceremoniesの部類に入るらしい。また、よく葬儀屋さんにセレモニーや、それに近い名前を冠したところがある。あまり結婚式などの主催をするところでセレモニーに近い名前を使っているところは見たことがない(あるかも知れないが)。
試しに検索エンジンでセレモニーと調べてみるといい。ほとんどが葬儀屋だ。
さて、私は一般的に言うところのセレモニーが嫌いだ。その多くは無駄だと思っている。ただ誤解がないように言い添えておくが、無駄=必要ないではない。無駄でも必要な物はあると思っているからだ。また、私が一般的にと断ったのは、この中に入学式とか卒業式、成人式とか、テープカットとか、多くの式典すべてを含んでいるからだ。
世の中にはこういったセレモニー好きの人も多くいるので、そういう人たちには顰蹙ものの記事かも知れないが、逆に、こう思っている人間もいるのだという一つの例にはなろう。
極端なことを言えば、セレモニーはすべて宗教儀式の延長みたいな物だと思っている。つまりは、目に見えぬ何かに、何かを捧げる、あるいは訴えるというのがセレモニーの目的であり、その目に見えない何かとは、多くの場合神様に他ならない。もちろん多くはその原形をとどめていなかったり、そもそも宗教的な意味合いを既に持たない物がほとんどかも知れないが、いわば形骸化した宗教儀式のような側面を持っていることは確かだ。
私は宗教を否定しないし、それほど不信心でもない。「あなたは神を信じますかぁ」と訊かれれば、その文脈で問われる神は信じてはいないと答えるしかないが、では神はいないと思っているのかと問われれば、そうとも思っていない。だって、解らないでしょう。もしいないとしたら、いないことを証明するほど難しいことはないし、いるとしても、見たことはない。声を聞いたこともない。言ってみれば、いると証言する人がいると言うこと、そしてその人達が必ずしも信じるに足りない人たちではないと言うことくらいが解っているので、そういう意味では、情的にも少しは信じている方へ傾いていた方がいいかもしれない程度だ。そういう意味では仏教はちょっと違うが。
閑話休題。
さて、そういった儀式の内、思いつくままにどうか考えてみると、例えば七五三。これなどどんな意味があるのか、実はいまだに知らない。いや、聞いたことはあるが右の耳から左の耳、忘れてしまった。これなどは、親が子供をかわいがりたい以上の意味を持たないし、まあ、あってもなくてもいいかな。
入学式。入学説明会というのは、入学に当たって必要なことを知らしめるという意味では必要かも知れないが、国旗を揚げたり、国歌を歌ったり、校長先生の退屈な訓辞を聞いたり、非常に虚飾が多く、しかも等の児童や生徒はあまり楽しんでいないケースも多い。昔から自由参加にしてくれたらいいのにといつも思っていた。当然参加しないが。卒業式も同じだ。意味のある人にとっては意味があるかも知れないが、私にとっては、明日から学校へ来なくても良くなる日にしか過ぎない。それによって友人がいなくなるわけでもない。
成人式。これなど参加していないので、ただの休日だ。法的にはいろいろな権利が与えられるが、それ以上の意味はない。免許が取れたり、アダルトビデオが見られるようになる18歳がなぜ成人ではないのかもよく分からない。もっと言えば、明日から煙草も酒もOKの境というのが、肉体的に、生理学的に、どのような根拠があるのかも解らないし、19歳と11ヶ月だと身体に悪いものは、30歳になったって身体には悪い。しかも、今時の子供が、その年まで酒も飲まない煙草も吸わないなどと言うことはないし(当然そういう人や、私のようにいまだに1本も煙草を吸ったことがない人間もいるが)、大人と子供の境を決めて、それを祝うなどというのは、早死にする人が多く、ようやく二十歳になったねと喜んでいる時代の遺物に過ぎないとさえ思う。
結婚式。結婚もしたことがないやつが何を言うと言われそうだが、こればかりは、葬儀と一緒で、その当人が存在し、当人がやりたいというなら無駄でもないし、無意味でもない。それはいいことだ。葬儀の場合は当人というのは死者ではなく遺族のことだ。最近では結婚式を挙げないというカップルも大分増えてきたようだし、それに異を唱える家族や親戚も減ってきているようだが、地方ではそうでもないらしい。
そう、よく考えてみると、私は儀式自体が嫌いなわけではないのかも知れないと思い出した。
それが伝統に根ざし、昔からそうだからという根拠のない理由で、ありがたく奉じられていることへの反発なのだ。
例えばよく言われるのに、名古屋の結婚は大変だと言われる。今時どのくらいの比率で、ドラマなどで見る豪勢な嫁入り道具や、結婚式があるのか知らないが、明らかにそれは、土着の伝統に根ざしている。私は中京人ではないので、ほっとしているが、これらは本当に無駄だと思う。でも、繰り返し言うが、必要ないわけではない。必要としている人がこの世にいる以上、どんなに無駄であっても、それは必要なのだ。
政治家のパーティーだって、考え方によれば非常に無駄だと思うが、当人達にとって見れば、重要な資金集めなのだ。
あるいは、竣工記念とか、開通記念とか、オープン記念といった行事は、「区切り」だというだろう。広報的な意味を言うこともあろう。なので、やはり私は無駄だと思うが、必要なのだ。
では、それだけ必要なのだから、無駄ではないだろうという意見も当然あるに違いない。私が無駄だという意味は、例えば開通記念にそこに紅白のテープを貼って、どこかのお偉いさんを呼んだりしてテープカットをする。そんなことの意味がどうにも解せないというだけだ。
金八先生などで、卒業式にクラス全員の心が一つになって・・・みたいなシーンがあったりするが、そもそも卒業式などに、そんなシーンはない。少なくとも私は経験したこともないし、経験したくもない。むしろおぞましい。それはある意味洗脳に近いからだ。ま、それは極端だが、テープカットと、この儀式は大同小異だ。
ただくれぐれも誤解のないように。成人式を除けば、そのすべてに私は参加しているし、友人の結婚式にも参加させてもらい、十分に良かったと思っている。父の葬儀も、父自身が喜んでいるのかどうか、それは解らないし、やはり葬儀というのは残された者のための儀式であるから、悪い葬儀ではなかったと思っている。ただ、あれらの儀式がどこでどう決まったか知らないが、なぜこうするのか?という点が最後まで理解できなかった。この辺りは非常事務的で、むしろ死者を弔うと言うことには反して、無駄だなと、今でも思っている。ただ恐らく父は、そういうところは厳格な人だったから、こんなことをここで書いている私を怒っているに違いないとは思う。
この世からすべて無駄を省いたらいい世の中になるなどと、私は思っているわけではない。ただ、何時までもそれらのことが変わらずに、伝統という衣を着て、なぜ延々と続くかということに、常々疑問を感じている、そのことを、言いたかっただけだ。
卑近なことを言えば、どうして家を借りる時、客側である借り主が、「礼金」を払うのかという、商慣例上の不思議とも、意味は似ている。おかしいでしょ(これは、家を貸してくれてありがとうという感謝とは別ですよ)。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 01:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月21日
衣装を着けろ!
「衣裳を着けろ」は、レオンカヴァルロのオペラ「道化師」の第1幕の最後に歌われる歌だ。カニオという座長で道化師役者が、自分の妻の浮気を知り、舞台で現実と混同しながら、妻と愛人を殺してしまうという、ストーリーだけでもとてもイタリアーんなオペラで、その妻の浮気を知って逆上しているカニオが、舞台が始まるのだから衣装を着けねばと自分に言い聞かせる部分を切々と歌い上げる、著名なアリアだ。
これは、レオンカヴァルロの最も有名なオペラだが、何とか言う1幕物オペラ作品コンクールに応募された作品で、2幕物であったため失格となったらしい。前年の1位作品がマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」だというから、なかなかのコンクールのようだが、他の著名な作品を私は知らない。
この2作は“ヴェリズモ”オペラの代表作とされていて、時間も短いので二つ一緒に上演されることが多いようだが、確かに魅力的なメロディが多く、冗長にならずに楽しめる。ヴェリズモとは、現実主義的とかそんな意味らしいが、どちらかというとメロドラマ、「牡丹と薔薇」とかに近いんじゃないかと思える。確かに、神話や大時代の歴史物とは違って、日常的な風景ではあるが、それでもかなり、ドラマティコだ。
さて、その中でカニオが歌う「衣裳を着けろ」(カニオとトニオという名を同じオペラに出演させる気が知れない。もう少し違う名前を思いつかなかったのか)だが、これはまさに、重く沈むような部分から、高音へ一気に伸びていく哀愁を帯びた、しかし力強いフレーズがとてもかっこいい。
私はパヴァロッティのものと、デル・モナコのものを持っているが、さすがに当たり役だけあって、モナコのは素晴らしい。パヴァロッティだって十分うまいと思うが、霞んで見える。パヴァロッティのは朗々と歌い上げすぎていながら、なぜか高音が伸びきっていないのに、モナコのは、切々とした情感を漂わせながら、非常にストレートに高音が伸びている。気持ちいいし、それがカニオの狂気にも似た感情をうまく表現できているように、私には思える。「衣裳を着けろ」のサビ部分は、最後の幕前の音楽でもあり、実は1幕の終わりから2幕の終わりまでをうまく繋ぐ音楽でもあるのだ。
アリアのあとは、単独でも素晴らしく美しい間奏曲へと移行する。この作品が、失格とされながら、今でもイタリアオペラの代表的な1曲として命脈を保ち続けているのが納得できる名曲である。
最初に聴くオペラとしても、十分に楽しめる作品であると思う。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 00:37 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月20日
太閤記
世に太閤の話は数多い。信長、秀吉、家康と、いわゆる戦国の世を太平に導いた三傑は、それぞれに個性的で、よくホトトギスを呼んだ俳句で象徴的に言われる。
信長は気性が激しく、残虐さと華麗な戦略が同居した、英雄的な魅力を持っている。家康は泰然自若とし、隠忍と深謀遠慮が持ち前で、時として容貌も影響しているが、狸と評されたりする。しかしこの二人は、元々武士の出で、規模はともかく、家臣を持ち、「殿」と敬われていた。
それに比べ、秀吉はそもそも武士でもない。ただの百姓で、それが国のトップに躍り出たのだから、異質だ。
最近ではどうかは知らないが、高度成長期の日本では、この3人の中では秀吉が一番人気があったようだ。かっこいいのは信長だし、結果的に政権を盤石のものとして確立したのは家康だが、最初に天下統一を果たしたのは秀吉だし、やはり、がんばるサラリーマンの琴線に触れるというか、どこかをくすぐるものがあったのだろう。
私も、本人を知っているわけではないが、若い頃の書物で読む秀吉がやはり一番好ましい。信長の破天荒で、無駄な伝統をどんどん排除していく姿勢は非常に共感するところもあるが、なかなか上司や知人にしたくはない感じだ。家康は、一緒にいたらうまい物も食えそうでないし、口うるさそうで、しかも自ら実行して範を垂れるという、いわば一番やっかいなタイプに見えるので、どうも好きになれない。尤も、山岡荘八の描く家康であれば、それはそれ、一目も二目も置きながら遠くで手を合わせて見ていてもいいかもしれないが。
秀吉が若い頃、本当に小説などで描かれるような人間であったのかはともかく、一介の百姓から太閤にまで上り詰めるためには、ただ才能があって、世渡りがうまいだけでは不可能だろう。それ相応の人望や、人間的な魅力がなければ、人は付いてこない。そういう意味では、秀吉という人は、そこそこな人物であったのだろうと思う。
運も実力の内と言うが、私に言わせれば実力も運の内なので、結果から判断して運が良かったか悪かったかは判断するしかない不可逆の評価であれば、秀吉は極めて運の強い人物でもあったといえる(所詮終わったあとでしか運がいいとか悪いとか言えないのであれば、運という言葉は非常に軽くて意味の薄弱な言葉ではないか)。
戦時中に連載されていた吉川英治の「新書太閤記」は、さすがによくできた小説で、面白い。文章はちょっと古臭く感じるが、当時の日本人が鼓舞され、明るさを取り戻したというのも解る気がする。
今では太閤記といえばやはりこの作品が最右翼で、私はべたべただが、山崎の戦いから賤ヶ岳の辺りが一番好きだ。
秀吉は関白になってから人が変わったようになるみたいだが、彼は常に外へ外へと発散していくようなタイプなので、頂点を極めると言うことができないのだろう。山の頂上へ行けば、そこから見えるより高い山を目指すような人間だ。私などには到底理解できないバイタリティーの持ち主に思える。壮年期以降の秀吉の行動で、彼の性格が大きく変わったとは思えない。若い時にはいい面に活かされていたエネルギーが、下に向いた時に別な形で出るというのはよくあることだ。
例えば、政治家というと悪者の代名詞のようなところがあり、確かに様々な悪いことをしている人もいるだろう。しかし、その人が悪人かというとそうではない。とてもいい人だったりする。政治家の行動と人柄は、必ずしも一致するわけではないのだ。
やくざだって身内には優しい。
大局的には同じ意味だ。
秀吉の変質は、立場の変質に過ぎない。日本を統一した秀吉が、必然的に次は海外に目を向けてもあまり不思議なことではないと思う。彼は自分でどうにかなることは誰にでもどうにかなると考えるタイプの一人かも知れない。彼自身が指揮を執って朝鮮の役を戦ったら、あるいは違った結果になったのかも知れない。尤もいずれにせよ、朝鮮の人にとってはさんざんなことだ。
強い人間はどこかで自重しなくてはいけないと言うことだし、武力で外から民主化をもたらすことが正義だと信じているどこかの星条旗の大統領や、ネオコンと呼ばれている人たちと同じに、秀吉もエゴイストだったのだろう。ある部分。ただ、日本という小さな島国にいて、百姓から太閤に上り詰めた人間が、ではどこを目指せばいいのか?今のような情報化社会ならともかく、彼の生き様はある意味やむを得ないことだったろう。
でもやっぱり、秀吉は賤ヶ岳が頂点だよなあ。
投稿者 keisuke_yui : 歴史 | 12:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月19日
刑の重さ
今日、夕方のニュースで最近ひき逃げが増えているというニュースをやっていた。
中でも、泥酔状態で車を運転しながら、ひき逃げ後に酒を飲み、運転中に飲んだのかどうか検査ができないようにして飲酒運転の判断が下せなかったなどという悪質きわまりない例もあった。
危険運転致死罪で、最高が15年になったが、法律は殺人という行為にどういう考え方で対処しているのだろう。殺人事件は殺した人数でも形の重みが変わる。
殺人という行為には大きく分けて3つあると思う。
理由はともかく、計画的で利己的な殺人。事故としての殺人。そして、復讐。この際正当防衛は問題にしない。
最初の殺人は最も忌むべきもので、保険金目当てのものから、理由すら分からないものまで、凶悪な犯罪が昨今特に目立つ。最高で死刑だが、死刑や無期になるためには相当の凶悪生がないと行けない。だが、一人を殺す凶悪性と、多数を殺す凶悪性に差があるのだろうか?
事故としての犯罪は、傷害致死や、前述の自動車事故によるものなどがある。私は今日の番組を見て、身内ではないが非常な憤りに襲われた。報じられたことが事実であれば、極刑に処すべきである。例えばこれだけ飲酒運転の危険性を様々なところで言われても、当たり前かのような顔で運転するドライバーのいかに多いことか!酒を飲んで運転した時点で、死亡事故を起こしたらそれは殺人に他ならないのだという認識など、彼らにはない。
今ここで死刑の是非は問題にしないが、少なくとも上記のような人間は極刑が相応しい。ひき逃げという時点でも、同様だ。日本の司法はあまりに甘すぎる。というより、人の命を故意に奪っておいて、そんな人間に人権そのものがあるはずがない。
交通事故そのものは、様々な原因で起こるし、結果的に人が亡くなることも多い。しかし、少なくともドライバーの最低限の法律の遵守や、適切な事故処理によって、奪われずにすんだ命があるとしたら、その行為は、故意の殺人と同じである。
時折、一斉検問で飲酒運転を取り締まるような番組をやっている。そのドライバーの反応を見ていると、非常に恐ろしい。こんな奴らが公道を我が物顔で走っているのかと思うと背筋が寒くなる。
恐らく彼らの感覚はこうだ。事故を起こさなければ犯罪ではない。その程度の認識でも免許は取れる。
更正と言うことは大切なことだが、更正させる必要のない者もこの世の中にはいるのだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 01:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月18日
SPAM
最近のSPAMメールは二極化している。
堂々とSPAMと断っているタイプと、知り合いを装うようなタイトルを付けてくるタイプだ。
SPAMと書いてあるのは、一時期「未承諾広告」というタイトルを決まり通り付けていたのと同じ程度には良心的と言うべきか。これをも良心というならばだが。
一方、ちょっと拾っただけでも
「風邪ひいてない?」「近所で会おうよ!」「どもー♪はじめまして☆」「元気かな?」「早く金返せよー」などなど・・・・
半分くらいはリンクが張ってあるようだが、ただの文章だけというのもある。返信を待っていると言うことか?ランダムにアドレスを打っていて、戻ってきた人だけに改めて何かをしようとするのか、どうにも目的が解らない。
「早く金返せよー」などは、SPAMと解っていても気分が悪い。逆効果だと思うが。
長いこと同じドメインでホームページをしたり、掲示板への書き込みをしたりと、自分のドメインを長期間使っていると、こういうことになるのだろうか?1日に来るSPAMと全く読まないメルマガだけで300件以上に登る。
いい加減辟易する以上に、ごくたまに必要なメールを削除してしまうことがある。こちらの方が大きな弊害だ。ゴミ箱に移したやつを、もう一度確認してから消すという、二度手間をせざるを得ない。
私の場合、海外空が半数を占めているが、面白いのは、海外のうち、半分はアダルトで、半分は非常に様々なサイトからの広告だが、日本のメールは9割がアダルト(出会い系を含む)で残りが怪しい販売だ。統計を取ったわけではないが、明らかに日本の方がアダルト市場が活発なように思える。
まあ、世界で1番アダルトビデオの数が多い国だから当然かも知れないが、こんな状態では、確かに、真剣に憂える大人が、中学生にセックス禁止条例を施行しようと考えたくなるのも無理はないかも知れない。・・・それでも賛成はしないが。
とにかくこのSPAMというやつ、たちが悪い。
ただ、同じくらいメルマガというのも煩わしかったりする。1回商品を買ったら送ってきたりする。そんなところで二度とは買わない。せめて、確認してから送れよ。と言いたい。
インターネットは、リアルな世界と違い、どこかへ行く時の労力が極めて小さい。それは裏を返せば、攻めてくる側からの距離も短いと言うことだ。オレオレ詐欺ではないが、様々な詐欺の温床にもなりうる。
人の世は、貧富や階層がある限り、悪いことで金を儲けようとする人間はいなくならない。しかし、平等な社会を作ろうとすればするほど、不公平になったりもする。
神様がいるのなら、そもそもこういう風に人間を作ったことこそ、大いなる失策だったのではないか。
たかがSPAMだが、人の営みを象徴しているのだ。
投稿者 keisuke_yui : インターネット・PC | 02:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月17日
たばこ
私は生まれてこの方煙草を吸ったことがない。だから、自分で吸うという点に関して、煙草が好きか嫌いかという場合は、どちらとも答えられない。ただ、他人の煙草は、その分、不快だ。などと書いて、ここを読む友人の気分を害してどうすると言うことだが、その伝で言うと、おたくの庭の気がうちの庭にはみ出しているので切ったというのが違法であるように、喫煙者には喫煙者の権利があるはずだ。
ブータンで、煙草の販売が完全禁止になったという。違反すると営業停止になり、罰金まで取られるそうだ。ニューヨークなどでも、一般客が入る店では全面禁煙だ。喫煙者の方には非常に住みづらい世の中になりつつあるようだ。
先日JTでも、煙草のパッケージに「肺ガンになるぞ!」と脅し文句を大きく入れるようになるという。
ところで、これらの規制で、面白いのはやはり煙草は麻薬や覚醒剤と違うので、「吸ってはいけない」という法律や条令がないと言うことだ。これは、喫煙が違法だということではなく、ここでは吸ってはいけない、自分で楽しむ分にはいい、と言うことだ。ブータンでも、海外から買ってきて自分で吸うのは違法ではない。
煙草の場合難しいのは副流煙という存在だ。つまり、煙草は吸った本人ではなく周りの人に害を及ぼすという点だ。煙草と肺ガンの因果関係は今では常識のようだが、だからといって喫煙者が100%肺ガンになるわけでもない。
私の父は今年亡くなったが、ヘビースモーカーだった。が肺ガンで死んだわけではない。とはいえ、実は肺をやられていなかったわけではなく、肺気腫という病気であった。肺の病気と言って、肺ガンだけが怖いわけでもなく、それらの病気の原因が、多く煙草に負うているというのも事実なのだ。
個人的には、規制が強くなるのは歓迎する。だが、麻薬などのように完璧に違法とされるまでは、やはり煙草はマナーの問題なのかも知れない。
最近テレビで「マナーの猫」というコーナーを見た。テーブルマナーや、祝儀袋の書き方など、様々な決まり事(誰が決めたのか、どの程度の意味があるのか極めて不明だが)を、こうだと教えてくれる。これらのマナーのうち、それが伝統的にマナーであるからという理由で、その作法をその通りにしなくてはいけないという主張には、私は馬鹿らしくてつきあっていられないし、そんな物時代とともに毎年更新したっていいくらいのものだ。ただ、マナーの基本は、自分が対する相手、あるいは周囲の第三者に対して、どういう姿勢で対するかという問題なのであって、祝儀を2万円にするのは割り切れるからよろしくないなどというのは下らない問題だ。3万円は2で割れないとでも言うのか?
それはともかく、つまりは煙草のマナーというのは、要するに周囲への慮りであり、それはしごく日常的な人との関係をいかにしていくかということに他ならない。都内の多くの駅のホームが禁煙になってしばらく経つが、相変わらず気にせず吸っている人はいる。これは法の問題ではなく、生き方の問題なのだ。
この世は60億もの人間が暮らしている。そのすべての人が同じ考えを共有することなど不可能で、それは今日何を食べたいから、イラクへ爆弾を落とすか否かまで、非常に階層的に食い違いが存在している。個人レベルで帰結することはともかく、集団としての規制が必要なので法がある。であれば、法が規定していることは取り敢えず遵守する、あるいは遵守する努力をすることが必要で、それは道徳やマナーとは別の問題である。
喫煙が法の問題にならないように、喫煙者が煙草の吸い方や場所を守っている限り、規制が強くなることはないはずだが、どんどん強くなると言うことは、現状の法では理想的な状況に近づけることが難しいと言うことである。
私自身、マリファナと煙草の違いが分からない。どちらも葉っぱを紙に巻いて火を付けて吸っているのに、片方が適法で片方が違法である。煙草に習慣性がないなどと今更誰も言わないだろう。煙草が一切精神的に作用しないと言うこともない。
これはあたかも、競馬、競輪、競艇、パチンコ、宝くじは違法ではないが、カジノは違法だというのと実はよく似ている。競馬がスポーツだとしたら、それは騎手にとってだけだ。馬券を売らないで単純に競馬だけを振興させることができないとすれば、同じ理由で、プロ野球も野球券を売れば、赤字解消に繋がるはずだ。
人は、常に自己の都合で物事の判断をする。これは必ずしも悪い意味ではなく、最終的な判断は個人に帰結するのはやむを得ない。とはいえ、その際に、そうでない他人がいることを考えなくてはいけない。
煙草を規制することは大賛成だし、麻薬と同じように違法にしてしまえば、もっとうれしい。しかし、この世の中には煙草が楽しくて仕方がない人もたくさんいるのだ。その全員が、害悪をまき散らしているわけではない。互いが譲り合い、共存できるための方策を考えていくのが、最も(少なくともまだ今は)いいことなのだと思う。
自分の父親が亡くなる前に、病床にいる時、一服させてやりたかった、今ではそんな風に思っている。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 14:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月15日
マイケル・シェンカー
マイケル・シェンカーというギタリストがいる。
スコーピオンズというハードロック・バンドにお兄さんがいて、最初のスコーピオンズにも参加していた。とてもメロディアスなギターを弾く人で、私は多分ギタリストの中では一番好きだ。
スコーピオンズではほとんどプレイらしいプレイをしていない感じだが(少なくともアルバムでは)、その後、UFOというバンドを結成し、そこを辞めたあとはMSGという、昔懐かしいバッグのような名前のバンドを結成する。Michael Schenker Groupの略だ。そのあとはソロで活動したり、MSGを再びやったりしている。まあ、MSGがマイケルの非常に個人的なバンドなので、UFOを辞めたあとは、ほとんどソロだと言っても過言ではない(少なくとも私にとっては)。
UFOのフィル・モグーという人はそこそこいいヴォーカリストだと思うが、それ以降のヴォーカリストは、あまりいい人に出会っているとは言い難い。特にMSGで最初に歌っていたゲイリー・バーデンという人は、私は下手くそだと思う。意外と日本では、そしてMSGを好きな人の中では評価が高いこともあるようだが、単純に「クライ・フォー・ザ・ネイションズ」とかの、曲が良かったから人気があったような気がする。それでも、彼が参加した「限りなき戦い(Built to Destroy)」というアルバムは結構好きだが。
マイケル・シェンカーはドイツ人で、当然お兄さんのルドルフもドイツ人なのだが、スコーピオンズの「ロンサム・クロウ(Lonesome Crow)」というアルバムに参加した時は16歳だというからすごい(今、この前の文章を打ったら、「だというカラス語彙」という変換をされた!ロンサム・クロウの呪いか?!)。次の「何とかの蠍団(Fly To The Rainbow)」では、作曲だけでプレイをしていない。レコーディングの前に辞めたらしい。でも、タイトル曲や「Fly People Fly」など、非常にきれいなメロディーを書いている。そして、兄さんの元を去ってまで参加したUFOで、「現象(Phenomenon)」という名作を作るのだ。UFOは元々別のギタリストでデビューしていたバンドだが、ディープ・パープルの「イン・ロック」以上にUFOというバンドそのものを決定するようなアルバムだ。「ドクター・ドクター(Doctor Doctor)」や「ロック・ボトム(Rock Bottom)」という名曲が入っている。分けてもこの「ロック・ボトム」のソロは、いまだに私のロック人生(たわいもないが)の中でベスト3に入る。
2枚ほど置いて、「新たなる殺意(Lights Out)」もいい。このアルバムはタイトル曲がライブでも演奏されるし、有名だが、それ以外にも名曲が多い。
この人は、いわば早弾きの元祖みたいな人で、非常に素晴らしいテクニックを持っている。テクニックと同時に、メロディアスな旋律を弾ける人で、その二つが相俟っていることで評価されているのだと思う。ことに日本人好みのいわゆる「泣き」と言われる旋律を弾くが、同じような感じのゲイリー・ムーアなどと比べると、洗練されている。というか、歌謡曲の一歩手前で止まっているのだ。ゲイリー・ムーアは完全に歌謡曲だから。なんと言っても本田美奈子だって歌ってるんだから。
ただ人間的には奇癖がある人で(ロック界はやたら多いが)、メンバーとのいざこざや、神経症だったりと、いろいろあるようだ。そういうところにはあまり興味がないのだが、グラハムがステージで、マイケルはホントはギターを弾いていないとか言って、別のギタリストを連れ出したなんて話を聞いたことがある。真偽の程は知らないが。
何時の頃からか「神」と呼ばれ、フライング・ブイという、布袋寅泰もたまに弾いていたギターをトレードマークにしていた。グループ名そのものをタイトルにしていたアルバムが、日本盤になるとなぜか「神」になってしまうところで、レコード・メーカーの作為を感じないわけではないが、それくらいうまいと言うことだろう。
アルヴィン・リーなんて言う人は、それ以前から早弾きで有名だった人だし、アル・ディ・メオラなんていう人もかなりの超絶技巧の持ち主だが、マイケル一人が「神」と名付けられたのには、テクニックばかりでなく、様式美とか、そういう大上段に構えた何かを信奉しがちなハードロック界ならではの命名だと思う。
最近でもアルバムを出しているが、昔日の勢いはない。まあやむを得ないか。しかし、リッチー・ブラックモアがブラックモアズ・ナイトというバンドというかで、自分がやりたい世界を、新しいきれいで若い奥さんと楽しくやっているのを見ると、マイケルにももう一花咲かせて欲しいなという気がする。
いや、もちろんいまだってがんばってはいるんだけど・・・
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月14日
北海道2
今まで北海道に行って、主要都市以外で、2度訪れたのは霧多布と、納沙布くらいだろうか。札幌や旭川、釧路、網走、函館、稚内といった都市は、取り敢えず他へ行くためのキーステーションだったり、そこ自体に多くの観光地を持っているので当然、何回も行っているが、霧多布岬はなぜか好きなのだ。どちらかというと納沙布はそのついでだ。
霧多布岬は、オンシーズンに行かないと、何もない。灯台があるだけだ。釧路から釧網線で浜中へ。浜中からのバスはほとんど本数がないのでよっぽど時間をうまく合わせていかないと難しい(今はどうなのか知らないが)。以前行った時には浜中から駅へ向かうバスを待つため、浜中市内のレストランで2時間以上待った記憶がある。
浜中の市内から岬までは約3キロ、片道1時間もぷらぷら歩くと着く。途中も何もない。浜中から岬までは半島になっているので、歩く道すがらはずっと海が見えていたように思う。何とものんびりしてていい。道路はしっかり舗装されているので、車ならホントはすごく楽だし、現実的には釧路からずっと車の方が一般的だ。車で行くなら、下記で有名な厚岸から厚岸湖を回って海沿いに浜中まで行くのがいい。
当然バスも走っているが、夏場でも1日多くても3本くらいだ。もっと少なかったかな?サイクリングだったら、天気さえ良ければ楽しい気がするが。
時間とお金があれば、サイクリングで北海道を回るのもいいな。無理をしないでのんびりと。
霧多布は本当は湯沸岬というらしいが(ゆわかしじゃない)、何で霧多布岬というのか、正確なところは覚えていないが、どう見てもアイヌ語が語源だ。付近にはいいホテルやペンションなどもあるのだが、旅程の関係で泊まったことがない。次の日のことを考えると、釧路まで戻った方が楽だからだ。
そういえばその、2時間待った時の浜中から釧路へ行く列車を待っている時、駅には私と、小さな女の子を連れた女性だけだったのだが、時間になっても列車が来なかった。
釧網線は単線で、1日数本しか走っていないところだ。辺りはとうに暗くなり、しかも非常に寒かった。晩秋と言うより、雪こそ降っていなかったが、北海道は既に間違いなく冬だった。そのお母さんが娘に、「おかしいわね、今日は来ないのかしら」と話しているのを聞いて、「えっ、そんなこともあるんですか?」と聞き返して笑われた。
さすがに日本ではそんなことはない。
しかしそれが本当に思えるほど寂しいところなのも事実だ。
だがそれでも、また行きたい。
バスで走る風景は納沙布岬の方がそれらしくていい。のどかというより、寒々としている。それがまた最果てを訪れているという感覚になる。しかし、人もなく、土産物店も閉まっている霧多布岬は、太平洋からの風を受けながら、何かこころ落ち着く雰囲気を持っているのだ。
投稿者 keisuke_yui : 旅 | 22:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月13日
ファルージャ
米国によるファルージャへの攻撃が激しい。
サマワは非戦闘地域と言って行っている自衛隊と同じ国の中で、1000人もの人がたとえ武装勢力とはいえ、戦争で殺害されている。小泉首相を始め政府のこの問題に対する言い訳を聞いていると、子供が悪いことをして叱られても、あれこれ言い訳をして逃れようとしているのに似て潔くない。
政治的な問題として、自衛隊がイラクに行って国際貢献することがいいのか悪いのかという問題は、実は私自身の中では明確ではない。ただ、自衛隊を送るために法律を作ったり、という作業は、実は個々の政治団体への献金の上限を設けて、政治団体自体の数は制限していないというような、結果ありきの嘘で世界も日本も動いていることの一例にしか見えない。
同様なことはこのファルージャへの攻撃にもあり、すごく解りづらい。
ザルカウィや、ビン・ラディンが行っているテロリズムがいいことでないのは、ほとんどの人が認めることだろう。だが、アメリカの正義が本当に正義だとしたら、この世は闇だ。
あたかも大航海時代、列強がアフリカやアジア、新大陸へと勢力を伸ばしていたのと、根っこは同じだ。人がどこに住もうと、住んだところを発展させようと、それは自由だ。しかし元々そこに住んでいる人がいて、そこにはそこの流儀があるとすれば、黒船を接岸させて開国を迫るのは、ある意味余計なお世話だ。
アメリカが今回やった一連のことは、9.11の同時爆破テロに対する、復讐以外の何物でもない。大量破壊兵器を地球上のどの国よりも大量に所持している国が、その力にものを言わせて、自らの正義という御旗で、侵略をしているのと、少なくとも今は変わらない。今になって撤退したら、それこそ無責任かも知れないが、そうなる前にこのような状態にしてしまった原因がどこかにあるはずだ。
独裁は忌むべきもので、それは北朝鮮であろうと、イラクであろうと、良くはない。だが、防衛のための先制攻撃などと言う、文章としてさえ破綻してそうな行為が正当化されるのは、独裁国家とそれほど違うだろうか?
それらの行為を見ても、アメリカ国民は今回ブッシュを支持した。
仮に私がイラクやパレスチナや、あの辺りの生まれで、なおかつユダヤ教徒かイスラム教徒で、周りに原理主義の大人がたくさんいて、あまりいい暮らしもできていなくて、そんな生活を続けていたら、テロリストになっていなかったという保障はない。
それはユダヤ教やイスラム教がもたらす人間形成ではない。救いをそこにしか求められない人生がそれを為すのだ。そしてそこへアメリカやヨーロッパの列強による利権が絡み、複雑な政治状況の中で、アメリカを憎み、反旗を翻す。
戦うことにしか、未来を見いだせない1000人近い人間が、爆撃によって死んでいる。私にはそう見える。
ブッシュも小泉も、命じる人間は戦地にはいない。
何がどうなれば、世界から個人に到る様々なレベルで平和が訪れるのだろう。人類が歴史をつづり始めてから数千年、人類は学ばない。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 11:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月12日
北海道
北海道がなぜか好きだな。
考えてみると、最後に北海道を訪れてから10年以上が過ぎた。その前は、1年おきくらいに、1週間から2週間かけて行っていた。車を運転しないので、もっぱら電車とバスに頼る旅行だ。人と一緒に行く時は飛行機も使うが、一人で行く時には夜行列車を使う。
始めていった時には、八甲田という急行の自由席に乗り、青森から連絡船を使った。実を言うとそれ以前から東北が好きで、北海道はなかなか行こうとしなかったのだが、ふと何を考えたか北海道を目指した。
最初の連絡船は酔った。元々乗り物は弱いのだ。十和田湖の湖畔を3分の1くらいしか乗らないバスで酔う男だ。修学旅行の時はフェリーだったが、接岸の瞬間だけで酔った。そんな私なので、連絡船は酔いそうな予感があって、ずっと寝ていようと思ったが、早朝発の船だ。風景はきれいだし、晩秋の津軽海峡は気分も爽快なはずだ。そういうちょっとした欲目が最終的には酔いに結びついたのかも知れない。
乗り物酔いをしない人には決して解らない感覚だろう。
函館からは、ほとんどの場合、特急を使って札幌に入った。連絡船が無くなっても、概ねこのルートだ。変わったのは連絡船の代わりに海の底を通るようになったぐらいだ。
函館から乗る特急の中で駅弁を必ず食べる。これはいつでも私の楽しみだ。今でも覚えているのは、「身欠き鰊弁当」だ。甘辛く煮た鰊と、大きな数の子が乗っていた。
なぜ札幌まで一気に行くかというと、私の場合は道北や道東が主な目的地だからだ。道南が嫌いなのではなく、遠くから行って、最後にきっと時間があるので、道南を回ろうと考えてのことだ。実は、私は実に細かいルートを行く前に決めていく。時刻表首っ引きで、どこに泊まるかも綿密に決めてから旅に出る。が、だいたい初日からその予定は崩れる。ならなぜ予定を、と思うかも知れないが、予定を立てるのが楽しいのだ。それに、崩れるとは行っても、予定で立てた要所には、順序が違っても、ほとんど行っているのだから、予定を立てる意味は十分にある。

温泉が好きなのも北海道が好きな理由の一つだろう。もちろん、北海道へ行かなくても温泉はあるが、あの気候や風土の中で浸かる湯は、また格別なものがある。しかも、穴場のようなところも多く、観光客を避けてのんびりはいることもできる。まあ、自分も観光客な訳だが。
道内でも、よく夜行を利用した。一泊分浮くし、距離も移動できる。また独特の雰囲気もある。特に稚内へ向かう夜行は、朝方薄明からの左右の窓の景色が非常に美しい。特に秋を過ぎ、葉が落ちた後の荒涼とした樺系の白木の風景は日本ではないみたいだ。窓の左側に利尻富士が見えてくる頃には車内と外の気温差が窓を曇らせ、何ともいい雰囲気を醸し出すのだ。
当然、稚内の街は田舎だ。1回目か2回目に訪れた時は雪が降っていた。街は真っ白だった。外国人二人から声をかけられ、キリスト教の勧誘を受けた。東京では考えられないが少し話し込んだ。こんなこともいい思い出だ。
一番最初に北海道の目的地として訪れたのが、その稚内市の北端、ノシャップ岬だった。北海道の北端である宗谷岬は、稚内から車でしばらく行かないと行けない。実は最初に行った時には、まだ稚内から宗谷を通ってオホーツク海側を猿払、浜頓別まで行き、そこから内陸に入って音威子府(おといねっぷと読むのだぞ)へ行く電車が走っていた。
ノシャップ岬には水族館があり、駅からバスを使うと10分程度で着く。そのバス停から岬まで歩く途中でラーメンを食べた。こうやって記事を書いていると、不思議とそのときのことが思い出されてくるものだ。
そういえば稚内は数年前に市場が大きな火事に遭ったことがあった。今はどうしているのだろう。
話はポンポン飛ぶようだが、1993年6月25日から、私は北海道を訪れていた。夏の北海道はそのときが初めてだった。利尻、礼文と短く回って、夏だったので富良野なども訪れ、約2週間で帰ってきた。夏休みと、リフレッシュ休暇というのを利用した豪勢な旅だった(内容はともかく)。
12日から会社だったので10日には東京に戻ってきていたが、実はこの12日というのは奥尻島などに大きな被害をもたらした北海道南西沖地震が起こった日なのだ。奥尻島では震度6で大勢の人が津波に呑まれて無くなった。この地震は東京でも揺れを感じた。
稚内の火事からふと思い出した。もちろん、私が行っていた地域は大きな被害もなかったのだが、つい数日前まで歩いていた北海道で、と思うと、何か不思議な思いがしたものだ。
北海道の話はしばらくしたらまたいずれ。

投稿者 keisuke_yui : 旅 | 23:28 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月11日
歌劇「シンデレラ」(マスネ)
マスネという作曲家は、「タイスの瞑想曲」で有名だ。この曲は、いわゆる「癒し」系のクラシックアルバム(NHKの名曲アルバムとかね)によく入っていたりする。
元々この曲は「タイス」というオペラの間奏曲だが、美しい曲なので、元のオペラなどよりよっぽど有名だ。
お聴きになりたい人がいればカラヤンとベルリンフィルによる、 序曲・前奏曲・間奏曲集 がオススメ。1枚聴かないうちに確実に寝れる。・・・・いや、いいアルバムですよ、ほんとに。
さて、そんなマスネであるが、まさにオペラ作曲家で、寡聞ながらオペラ以外で有名な曲を私は知らない(ホントはたくさんあるが思い浮かばない)。そのオペラでは「ウェルテル」「マノン」が特に有名だ。あと「ドン・キホーテ」とか。
そんなマスネに「シンデレラ(Cendrillon)」という作品がある。もちろんオペラだ。マスネはフランス人だから、「サンドリヨン」が正しいが、いわゆるシンデレラの話だ。私はこの作品に15年ほど前くらいに出会い、当時Sonyから発売されていたLPを購入した。
フレデリカ・フォン・シュターデがタイトルロール、王子様役がニコライ・ゲッダというのだった。1幕のシンデレラのアリアが好きで、自分で作ったロック、歌謡曲混じりのカセットの中に、マーラーの「大地の歌」の第1楽章とともによく入れていた。儚げなシュターデの歌唱が、サンドリヨンをよく表現していた。・・・実を言うと、通して聴ききったことがない。後半だれるからだ。
しかし、レコードで出ていたので、どうせCDも出るだろうと高をくくっていたら、一向に発売されない。シュターデの盤じゃなくてもいいからと待ったが、出ない。オペラを紹介した本のマスネのコーナーにも滅多に「シンデレラ」という文字を見ることもない。
そのときになって初めて、「ああ、この曲は全く無名の曲なんだ」と解った。
数年前に新宿のTOWERで見つけたので、これならそろそろ国内版が発売されるかなと思ったら、一向に出ない。その次に行った時にはそのCDはなかった。後悔というのはこういう時使う言葉だ。
それがしばらく前に再び棚にあった。前に、決断力のなさを連れに怒られたので、今度はすぐに買った。輸入盤なので当然日本語訳は付いていないし、その割には高かったが、満足している。対訳も実はLPの時にひょんなことからレコードに付属していたものとは別のものを手に入れていて、それが見つかったので問題ない。
久々に聴いたシュターデの声は、記憶の通りだったし(これは他のオペラで聴いたりしているからそれほど記憶に遠かったわけではないが)、やはりいい曲だと思うが、ちょっと記憶とはメロディが違っていた部分もあった。
オペラは、総合芸術とよく言われるが、CDで聴くというのはそのおよそ半分と言ってもいい「劇」の部分を省いて鑑賞するわけだから、その時点で作品全体の真価は聴く側に伝わってこない。また、Je suie Japone しかフランス語の記憶がない私にとっては、歌詞を見ない限り意味も伝わらないので、さらに価値の一部が削がれる。そして、オペラ全体を鑑賞しないのだから、ホントに全体のわずかばかりを抽出して楽しんでいることになる。
映画や小説などを見ることを考えると、どうも大分違う鑑賞の仕方だ。
もちろん、それらの芸術や文学だって、一部を繰り返し観たり読んだりということはあるので、同じようなものだと言えば言えるのかも知れないが、実はそうではなくて、オペラという作品は部分部分切り取って、アリアや間奏曲といったところが、単独でも楽しめる芸術なのだ。
木を見て森を見なくても、十分に木で満足できる場合がある。まあ、そういったところか。
そんな意味で、私にとっての「シンデレラ」は、これからもあのアリアがその価値のほとんどを占めることになるのかも知れない。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月10日
宇宙の果て
宇宙が閉じているか開いているかという問題は、ずいぶん昔から議論されていて、いろいろな本にも載っている。それは同時に、宇宙は膨張しているか、平衡状態にあるかという問題と同時に論じられる。
ビッグバンという言葉は、今では金融についても言われるが、元々数学者のガモフが、宇宙の始まりについての理論の中で使った言葉だ。150億年(少しずつ時代によって変わっているらしい)前に、ある一点から宇宙が始まり、その後ふくらみ続けて、今のようになったという。今でも、宇宙は膨張し続けている。それは、遠くの宇宙がより速い速度で遠ざかっていることが観測されることで裏付けられている。
問題の一つは、この膨張がずっと続くのか、どこかで収縮に転じるのかといった問題と、その広がりはどこまであるのかという問題だ。
仮にこのビッグバン理論が正しいとすると(今のところほとんどの科学者は正しいと信じているらしいが、誰も見たわけではないので、直接証拠立てるものはないわけだが)、宇宙がある一点で始まり膨張を始めた。すると、時系列に沿ってその大きさが徐々に大きくなっていると言うことで、その大きさには自ずと限界があるはずだ。
宇宙の地平線という言葉があって、それは地球の地平線に似て、観測できる限界を指す。地球は丸いので、一定以上の距離より先は光学的に見ることができない。同様に、光の速度は一定で、秒速30万キロなので、それ以上の早さで遠ざかる銀河は、観測できない。光がこちらに向かってくる速度よりも、銀河が遠ざかる速度の方が早いからだ。え?そんな馬鹿な。だってこの世には光より速い物はないんでしょう?・・・実は私もこの辺りはよく分からない。前に本で読んだが忘れた。
いずれにせよ、その地平線を超えて、向こう側に銀河があるとしても、どこかに限界があるのは、ゼロから広がっていったのであれば、自明のことだ。ではその外側はどうなっているのだろう?
哀しいかな人間は空間がないと言うことを理屈では解っても、現実問題としてうまく捉えられない。宇宙に外がないことを、空間に浮かぶ宇宙以外のイメージで捉えられない。無という概念は、無限という概念と同様、頭の中で再現させることは極めて困難だ。言ってみれば、このようなものという雰囲気で理解するしかない。
この人間の限界が、私には非常に面白い。宇宙の果ては?と考えて、果てが想像できない。あるいは、果てまでは想像できるが、その向こうは想像できない。だって、果ての向こうですよ。・・・はてな?などとオヤジギャグを飛ばしている場合ではない。
無限と有限という概念が、この世をどう形作っているのか、すごく不思議で面白い。お化けや、UFOなど目じゃないだろう。点の一角を指さして、このまままっすぐ行ったらどこに着くのか(重力で光が曲がって、元のところに戻るなんていうのは無しで)考えると、なぜだか幸せな気持ちになってくる。
もしかすると、人生の究極の意義は、この不可知な多くの事象を思うことにこそあるのではないだろうか、なんていう気がしてくるのだ。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 22:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 9日
楽天イーグルスとプロ野球機構
プロ野球の分配ドラフトが終わり、楽天のドラフトの指名順も決まったようだ。
三木谷社長が憤っているように、プロ野球界全体のものの考え方非常に解りやすい。「入れてやるけどあとは勝手にしろよ」だ。
あれだけいろいろなことがあっても、企業のエゴを最大限押し通そうとしているのが結局は野球界だ。オリックスはあれで心が痛まないとしたら、はっきりって情けない。ファンはその辺りをよく見た方がいい。卑怯この上ない。
マスコミはその辺りを三木谷氏の記者会見だけであまり言おうとしない。パリーグの他の球団も文句を言わないという辺りは不思議だが、単純にオリックスと近鉄の強い選手をオリックスがせしめただけのドラフトであろう。
楽天が弱かったとしてもそれはそれで来年の話だが、この分配ドラフトに関しては、どうしても疑義がぬぐえない。
それを踏まえて、ドラフトの順位を考えるなら、楽天を1位にすべきで、例えば、分配ドラフトを一人ずつ指名していくなどの公平性が保たれていれば、新規球団である楽天がドラフトの指名順最下位でも納得がいく。
私は来年、別に楽天のファンでもないし、元々オリックスや近鉄のファンでもない。ただ、自分がファンであるヤクルトが、今回のオリックスのような挙に出れば、正直ファンであることがいやになるかも知れない。
これは政治家や役人が、平気で都心の一等地に、法外に安い官舎を借りて平然としているのに似ている。誰しもいい境遇や得という概念の中ではそこを離れたくない。しかし宝くじの当たり券とは違って、そこに明確な不公平感が第三者に有り、それがしごく理にかなっていれば、その時点で改善すべきではないだろうか。
大リーグのことはよく知らないが、テレビなどで話を聞く限り、少なくともプロ野球球団を持つ企業の体質は、明らかに日本の方が落ちる。かつてエコノミック・アニマルと呼ばれた日本人の悪い側面がそこにある。
市場原理でものが動き、企業が利益を追求するのは当たり前のことだが、社会とのバランス感覚を失ったら終わりだ。
投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 8日
声
「声」というプーランクのオペラもあるが、その話ではない。
人間の声というのは一つの楽器だと思うし、しかも楽器の中でも最も奥深く、幅広いものだと思う。他の楽器が声に比べて落ちるということではなく、例えば、人間の声のみが、基本的には有機質の楽器なのだという意味だ。人間の声は人間が作り上げたものではなく、自然が醸造したものだからだ。
歌というのは、概ね誰でも歌う。歌手というのはある意味専門職だが、他の専門職に比べると、(うまい下手は別にして)誰でもできることをやっているのだ。料理などに近いかも知れない。家だって誰でも建てることができると思うかも知れないが、実はできない。
しかし職業歌手というものが昔から存在し、しかも多くのファンや賞賛を勝ち取ると言うところに、本当はスポーツや料理と同じ側面がある。修練もあるが、実はこれは一つの才能なのだ。
サラリーマンがよく、「君がいなくなったら誰がこの仕事をやるのだ、困る。辞めないでくれたまえ」みたいなことを言われて会社を引き留められたりするが、案外後釜はいくらでもいる。意外と困らない。いや、細かいことを言わなければ、歌手だってスポーツ選手だって、代わりはいるのだ。だがこの場合はサラリーマンのそれとはちょっと違う。
比較的オンリー・ワンなのがこの種の才能と感性が関わる分野の職業だ。この人の声が聴きたかったり、この人のプレイが見たかったり、その個人に密接に能力が結びついているのだ。
私はポップスもクラシックも聴く。どちらの声楽も大好きだ(ポップスの場合声楽とは言わないが)。この二つの最大の違いは、語弊があることを恐れずに言えば、一生懸命勉強しなくてはなれないかどうかという点にあると思う。もちろん、ポップスの歌手も勉強しているし、天才声楽家は勉強とは別のところで奇跡的な声を持っている。黄金のトランペットと言われたデル・モナコや伝説のマリア・カラスを持ち出すまでもなく、持って生まれたもので勝負している以上、その最大の魅力はテクニックよりもむしろ、声の美しさにこそある。この美しさとは、例えば、ルイ・アームストロングはあの濁声こそが美しいのだという文脈が許される美しさだ。単純に透明感とか、伸びとか、そういうことではない。
演歌歌手は総じて歌がうまい。ポピュラー歌手に比べると、不思議としっかり歌えている人が多いように思う。ところがそれでは皆売れているかというと、そうでもない。これは演歌という世界が、没個性になりがちだという点にあると思う。そしてそれはクラシックにも共通することだ。こういう言い方をすると、演歌やクラシックの歌手、あるいはファンから怒られそうだが、発声や、歌唱方法に一定の制限がある両ジャンルは、その点制限が全くない他のジャンルの歌に比べて、没個性的になるのはやむを得ないと思う。
もちろん、その世界の中で、個性的な歌手や歌い方、声があるのは当然のことで、それがなければ、歌手は今の100分の1の数でもこと足りるだろう。
私は、この没個性的な制限の中でこそ勝負をかけるのがこの両ジャンル、分けてもクラシックであると思うし、どちらかというと個性一発勝負なのが他のジャンルなのだと思う。
これは例えば文学で言えば、俳句や短歌、あるいは詩といった韻文の世界と、小説やエッセイなどの違いと同じように感じる。得てして、芸術と大衆文化の違いのように捉えられがちだが、その基軸は私は違うと思う。もちろん、これはとらえ方の問題なので、個人が、自分で定義して分けている分には文句を言う筋合いはないが、規定された世界での個性や美しさと、自由な中での技術的な成熟度や、ユニークさ、これが大きく分けて二つの歌の世界だと私は思っている。
だからこそ、演奏解釈の違いはあれ、クラシックは(基本的には)音符通りに歌うのであり、ポピュラー音楽は、ライブで自由に演奏できるのだ。どちらがいいかは好みだが、私は相互の世界で相互のやり方をやっているのをちょっと観たい気がする。
カデンツァだらけの声楽コンサートや、CDそのままのロック・コンサート(これは意外と難しいのだ)などだ。
レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジは「アキレス最後の闘い(Achilles Last Stand)」という曲のレコーディングがあまりに完璧にいったので、もうこんな演奏はできないと言ったという話を読んだことがある。これは、テンポとか、リズムとかいうことではない。ライブで同じメロディーラインを弾いていないからだ。クラシックではあまりあり得ない。超絶技巧だって引きこなしてナンボだ。
この辺りの評価する側の甘さもクラシックとポピュラーを分けているかな。
なんだか声の話を書こうと思って、音楽ジャンルの話になってしまった。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 22:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 7日
携帯電話
携帯電話の機種変を行った。3台目である。この前の機種は多分4年くらい使った。当然写真も撮れない。
今度の機種は、なにやらたくさん機能が付いている。当然写真も撮れるし、解像度も悪くない。おまけにMP3を録音して音楽まで聴ける。メモリカードにもよるが、100曲くらいまでは入りそうだ。ただ、どの程度の時間、聴いていられるのかが問題だ。説明書に書いてるのかどうかも判らない。
また、この機能を有効に活用するには当然ステレオイヤホンが必要になるが、付属品としては付いてこない。コントロールするためのリモコンというのはなんと5000円以上するのだ。詐欺とは言わないが、どうも釈然としない。自分のところにとって、きっと「目の付け所がシャープ」なのに違いない。録音するにも、なんたら変換ケーブルを買わねばならない。出力用のケーブルだけはおまけで付いてくるのに。逆にこんなのイラン。
昨今のメーカーは顧客第一みたいなことをよく謳っている。このメーカーが(明確にシャープだと上で言い切っているが)そういっているかどうかは知らないが、結果的にそうなっていないことをメーカーは知るべきだ。元々無い機能は、それと解って購入しているので、文句もないが、付いている機能を十全に活用しようとした時、新たな部位品の購入をしなくてはできないようなものを、あたかもこの機種を買えばこういう機能が楽しめるようなCMをしたりするのは、そうは認められなくても誇大広告だ。
実は、オーディオ機器や、パソコンの周辺機器も、多くはケーブルが別売である。ただこれは、安いケーブルを買うための手段が別にある。サードパーティーなどの機能的には十分で、純正品など必要ないから、という理由がある。
この携帯のように、そもそもケーブルの端子が、今まで見たこともない規格であるために、それを利用するしかない。
こういう機能は内蔵させるか、せめて変換して市販の機器をつなげれば利用できる部分まで最初に付属させておくべきだ。あるいは、徹底して携帯を販売する際に、「この機能はこれを買わないと使えません」と言うことを、訊かれなくても店員が説明できるようにしておくべきだ。これは携帯会社の落ち度というよりも、メーカーサイドの問題であると思う。
しかも、プレイヤーを使うために1,500円かかるのだ。何じゃこりゃ(この金額を知るためだけにも、通信料がかかるんだぞ・・・説明書には書いてないから)!
自分で聴きたい音楽を録音して聴くために、新たに1万円近い出費を強いられるのなら、専用の機器を買った方がいい。iPodとかね。あたかも携帯で何でもできるような宣伝文句で、そのために携帯を購入したのとは別料金を、ソフトを手に入れるのとは別に徴収しようと言うのは、非常に阿漕なものを感じる。きっとカタログのどこかには書いてあったんだろうが、小さくて読めないような字で書いてあったに違いない。
このサイトを、シャープの社員が読んでいるとは思えないので、内側に向けた愚痴のようで何とも情けない限りだが、せいぜい、他の機能を使いこなして・・・・電話とか、メールとか・・・・後はよく分からないが・・・・今までよりは楽しい携帯ライフを送ろう。・・・この音楽機能を一番楽しみにしていただけに、ちょっと過激で、ただの日記のような記事になってしまった。自戒自戒。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 6日
巌窟王
最近、「巌窟王」というアニメを夜中に放映している。「巌窟王」と言えば、言わずと知れたアレクサンドル・デュマの小説「モンテクリスト伯(Le Comte De Monte Cristo)」の邦訳タイトルの一つだ。
日本では、デュマは「モンテクリスト伯」と「三銃士」の2作で有名だ。「三銃士はその続編「20年後」と「ブラジュロンヌ子爵」を合わせて、ダルタニャンの一生を描く活劇、かつ宮廷絵巻みたいな感じだが、「モンテクリスト伯」は、活劇的ではあるが、「三銃士」のトーンとは大分違った、かなりミステリー的な手法も入った復讐劇である。邦訳で5巻から7巻とかなりの長編だが、その長さを感じさせない、恐ろしいほどの文章力で全体が貫かれている。個人的には生粋のエンタテインメント作品だと思っていて、日本では、ある意味、ここでのカテゴリーである「文学」という言葉と対峙的な位地にある作品だとも思う。尤も、私自身は「文学」という言葉を、文字で書かれた作品といった意味で捉えているので、その意味では十分に範疇であるが。
さて、私が最初に「モンテクリスト伯」と出会ったのは、恐らく中学の頃、ラジオドラマだったような気がする、元々小説に限らず、文章を読むのが大嫌いで、SFに出会っていなかったら、ただの読書嫌いで終わっていたかも知れない人間なので、家にあった「モンテクリスト伯」を含む子供向けの文学全集の1巻など、小学生の時に目を通すはずもなかった。今となっては、もっと早くから本に興味を持っていれば良かったとも思う。
友人と、結託した検事らの手によって奸計にはまり、結婚を前にしたエドモン・ダンテスは、牢獄送りとなる。イフ城と呼ばれる海上の牢獄の奥深くに繋がれたダンテスは、そこで一人の神父に出会い、モンテクリスト島の宝の秘密を聞き、神父の死を利用して脱獄する。莫大な富を得たダンテスは、モンテクリスト伯爵と名乗り、かつての3人に復讐を始めるという、設定だけ聴いてもわくわくするような内容だ。デュマはこの中に、二重三重に人間関係のドラマを仕立てつつ、驚異的なスピード感と、複雑に織り込まれた伏線で、類い希な物語を作り上げた。物語としてよくできすぎているとさえ感じる。
映画化も何度もされているが、なかなかこれという作品に出会わないのは、「レ・ミゼラブル」と一緒である。デパルデューが作ったテレビドラマなど、最終回は腹が立った。こんな結末、ありえんだろう。といった感じだ。
今回「巌窟王」という名で放映されているアニメは途中の一回を何となく見たのと、ホームページで情報を若干見ただけだが、ストーリー展開は原作にかなり近い。但し主人公はアルベール・ド・モルセールで、モンテクリストのかつての恋人メルセデスと、仇敵フェルナンとの間にできた子供だ。原作でも非常に重要な役回りで、いかにもの若くて潔癖だが、かなり直情的な青年だ。ただ、この作品をアニメ化するに当たって、私には何で舞台が未来なのか、全くもって制作者の意図が分からない。原作を、モチーフ程度に扱って、新しい物語を作っているならともかく、1回見た限りでは、人間関係や登場人物そのものまで、ほとんど原作そのままで、サイトを見ても、最近の若いやつのためにそうした、程度にしか私には理解できない。
アルベールを主役に持ってくるのは悪い視点の変え方ではないと思うが、それでも、それによって描かれる世界は、モンテクリスト伯とは実は別物だ。恋人ユージェニー・ダングラールなどの描き方も1回見た限りでは結構行けているように思うので、いかにも舞台設定が私には不満だ。
この作りで、舞台設定も原作通り、結末も原作通り、最後の決めぜりふも原作通り、のアニメだったら、私は相当に入れ込んでいたろうが。絵も不思議な世界を醸し出してはいるが、個人的にはCGの使い方などはあまり好きではない。単純に、見づらいという理由だけだが。
それでも、全体が終わって、ストーリーと構成がしっかりしていれば、多分買ってしまうかも知れない。でも、アルベールが主人公なら、最後のシーンは私の期待しているものとは違うはずなので、きっとがっかりしちゃうんだろうな。
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 21:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 5日
超人ハルク
「超人ハルク」はアメコミの「Incredible Hulk」を向こうでドラマ化したものを日本で放映した時のタイトルだ。私はオリジナルのコミックを知らないので、どの程度コミックとドラマ化されたものが違うのか知らない。
また、昨年公開されたハリウッド版の「ハルク」も見ていないので知らない。
私の中ではドラマと、それに続く一連の映画版ハルクがすべてである。言い方を変えると、ルー・フェリグノがハルクをやり、変身前のバナー博士をビル・ビクスビーが演じたシリーズだけだと言うことだ。
大量のガンマ線を浴び、怒りをきっかけにハルク(ルー・フェリグノ)に変身する体質になってしまった科学者デヴィッド・バナー(ビル・ビクスビー)は、自ら死んだことにして、自分の身体を元に戻すためにアメリカ中を放浪する。最初に博士を怪しいとにらんだ新聞記者のジョン・マクギー(ジャック・コルビン)は、執拗にハルクを追いかけ、デヴィッドに迫り、その都度デヴィッドは安住の地を求めてその土地を後にする、という話だった。ほとんどの回で、最後にデヴィッドが、道路でヒッチハイクをしているシーンが流れ、私有を帯びたテーマがオーヴァーラップして番組が終わる。
私はこれが大好きだった。家で飼っていた犬に、私一人が「ハルク」と呼びかけていた。調べてみると、アメリカでは90回近いシリーズになっているようだ。
日本で放映されたのは約半分である。なかなか人気があったのだ。アメリカでも日本でも。この手のSFとしては、かなりトーンが暗く、悲哀に満ちたデヴィッドの人生が、ハルクそのものよりもクローズアップされていた。
ハルク役のルーはボディビルの大会でも優勝したことのあるマッチョで、緑色に塗られた身体と、白いコンタクトをはめた目、ぼさぼさの髪でハルクを好演していた。
私はビル・ビクスビーという俳優を、この作品以外で知らないので、どちらかというとアメリカのテレビ俳優なのだろう。
アメリカやイギリスのこういったドラマは、あまり最終回というのがない。謎の円盤UFOなど、UFOは結局謎のままで終わっちゃってるんじゃないだろうか。このハルクも、実はテレビシリーズで何も解決していないようだ。
ところが、人気があったせいか、TVの長編映画の形で、TVシリーズ終了後に何本か作られている。中にはデアデビルと共演なんて言うのもある。デアデビルはこれもアメコミのヒーローで盲目の弁護士だか何かだ。これもハリウッド版の映画は見ていない。
ビルは、よっぽどこのハルクに愛着があると見えて、自分でもメガホンを取っている。既に90年代に他界しているようだが、やはりこれも彼が監督をした「超人ハルク 最後の闘い(The Death Of The Incredible Hulk)」がDVDで発売されている。直訳すれば当然、「ハルクの死・・・・もっと直訳すると、驚異的な大男の死」なので、まさにハルクの最後を描いた作品だ。すでに天敵のマクギー記者も登場せず、しかしバナー博士の目的は自らの身体を元に戻すことだ。
スパイとの愛も絡め、バナー博士は実験が成功する前に事件に巻き込まれ、変身したハルクは敵を倒して絶命する。バナー博士は、女スパイに自分と同じ境遇を見ていた。彼女をスパイの道から抜け出させ、自由を与えること、そして自らもハルクの束縛から、今一度の実験で戻ることを夢見ていたが、叶わぬ夢となる。バナーの末期の言葉は、「これでやっと自由になれた・・・・」だった。
やはり最後まで、ハルクはハッピーエンドを拒んだ。これは、長い間ハルクというよりバナーを演じてきたビルだからこそできた作品であると思う。この作品は首尾一貫、人間の悲しさ、人生のはかなさを描き続けてきた。そして最後、安寧が死でしかなかった男は、少なくとも一人の女性を救ったのだ。こてこてだが、このシリーズに相応しい掉尾。これまで購入したDVDの中でも1,2を争う作品だった。
あ、ただ普通の人はきっとそう感じないので、ハルク大好きな私なりの見方ですので、悪しからず。

ハルクだ!
投稿者 keisuke_yui : 映画 | 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 4日
大統領選挙
アメリカの大統領選挙が終わってブッシュが再選された。アメリカ国民の選択はこれまでの政治や経済を是認した形になった。・・・・が、待てよ。日本の選挙でもそうだが、選挙の結果というのは、あたかも勝った方は国民すべてから選ばれたような顔をする。本当にそうだろうか?
アメリカの大統領選挙というのは、経験のない日本人には判りづらい。選挙人を通した選挙とはいえ、奇妙な直接選挙だ。なぜ、選挙人を間に置いているのか、見ていても私などにはよく分からない。
いずれにせよ、今回は思いの外、得票数は開いたようだ。投票率も60%になるという。日本で首相を直接選挙で選ぶことになった時、これだけの投票率になるだろうか?
まあ、日本のことはさておいて、60%の投票率というのは、言ってみれば残りの40%は投票していないと言うことだ。40%のうち、どれほどが、意志を持って投票していないか、推測するすべもないが、どちらの候補者にもNo!と言っている人は明らかにいる。
政治家は、常に当選した時に「選ばれた」「信任された」という。だが、圧倒的多数の票を得た政治家と、僅差で勝った政治家が、同じ信任を得ていないことは明らかなことだ。だが政治家の中で、その辺りを謙虚に受け止めて、「実は市民の半分は私にNoと言っている。当選したからには彼らにもYesと言ってもらえるように努力する」みたいなことを言った人を、私は見たことがない。皆厚顔だ。
民主主義は多数決がその基本を担っている。多数決が物事を決めていくのはある意味やむを得ない。一艘しかない船の乗員が、右に行くか左に行くかを決めるのに、少数派の意見を聞くことはない。もちろん、どちらがより知識があるかなどと言う余分な条件がない場合だ。
ブッシュがケリーになったところで、戦場で死ぬ兵士がどれほど死ぬのか判らないが、ジェンキンスさんが、戦場が怖くて逃げたと言っていたようだが、兵士の多くはそう感じているに違いない。
うまく言えないが、政治家は、自分が政治を行うメリットとともに、自分が行った時のディメリットも頭の隅にとどめていて欲しい。少なくとも、国民の半数近くが相手に票を与えていることを自覚していない政治家が、政治を続けていく限り、人類はあまり進歩していない感じがするし、今回のアメリカの選挙を見ても、世界で最も進んでいる国にして、こんなものなのだという感がぬぐえない。
個としての人は、いかにも様々な個性や正論をその中に持っていることが多いが、集団は相当に機能が落ちる。心理歴史学はある意味SFではなく、現実の政治に当てはめられるような気がする。
民主主義という、最も集団にとって公平であるはずの仕組みは、その中で特殊な権限を持つ人間を選ぶことによって、その民主主義の根底になる何かを失っているのではないだろうか?
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 22:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
継続の意味
「継続は力なり」という言葉は、恐らく大学受験の時に初めて聞いた記憶がある。
受験勉強は弛まぬ努力のたまものというわけだ。ところが世の中皮肉なもので、私のように弛んだ結果が情けない結果に終わる、理屈通りの者もいるが、あんなに努力して・・・・不幸な結果に終わったり、何も努力らしいことをしなくてもうまくいってしまう方もいる。なべてこの世はアンフェアなのである。
さて、だとしても実は、「継続は力」というのは、ある意味まことに正しい。できるかできないかはともかくとして、何らかを継続していくというのは、非常に大変なことだからだ。
日記など付けたことがないという人もたくさんいるだろうが、意外と多くの人が、多かれ少なかれ、1回くらいは日記を付けようとしたことがあるのではないか。私は付けようと努力して、何回か挫折した。
今回も挫折するだろうと思って、気楽な気持ちで書き始めた。
リハビリならリハビリらしく、しっかり書けと言われた。歯に衣着せぬこういう事を言ってくれる人は大切にしたい。少しだけ克己した。
その結果、1ヶ月半、ほぼ休むことなく記事を書き続けることができた。幸せなことだ。おかげで、書き始めた当時よりは遙かにスムーズなキー運びができるようになった。リハビリ効果は少しずつ出ている。
今回初めて1日飛ばした。悔しい気も一瞬したが、そもそもそういうことにかまけない性格なので、取り敢えずこの記事を書いて埋め合わせにする。今日もう一個書くからだ。・・・・意外とこだわっていたりして・・・・・
投稿者 keisuke_yui : 人生 | 15:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 2日
パ・リーグの新球団
パ・リーグの新球団が楽天に決まった。前評判通り、また、オーナー会議や球団代表が集う審査会がどういう思考経路で決断するかを普通に考えれば、非常に予定調和の結果である。
いくつかのポイントがある。
まず、仙台の市民の多くはlivedoorを指示していたこと。
次に、明らかに楽天とlivedoorでは企業規模が違うこと。
選択するプロ野球機構側を、年経たじいさん達が占めていること。
まずlivedoorは、近鉄の買収を端緒とするならば、プロ野球への参入を強く希望していた。近鉄とオリックスの合併が決まり、選手がストライキをやる中、新球団設立を目指し、仙台をその候補地に選んだ。ここまではlivedoorとしてはしごく一貫性がある。livedoorという企業の好き嫌いや、堀江氏自身への好悪を別にしても、評価の声が上がるのは当然のことである。
少なくとも赤字覚悟の野球業界参画で、当然あれだけの企業人であれば、勝算もあったに違いない。「負けることは考えていなかった」というのは、誰が考えても嘘くさいし、それはそれで戦略の一つでもあろう。
そんな中に、楽天が参加してくる。当然楽天への風当たりは強い。日本人の人情的な傾向を考えたって、楽天ではなくlivedoorを推す仙台市民の反応はとても素直なものだと言えよう。
三木谷氏は「早い者勝ちってことはない」と言って参入表明をしたが、やはりあれは姑息だ。この理屈は、商店街のど真ん中にでかいスーパーが後から入ってきて、市場をすべて奪っていくのとどこか理屈が似ていて、より強い企業が取っていい戦略だとは思えない。優等生の6年男子が、ちょっとひねた2年生男子とけんかをして、その裁定を金八先生のところの校長に頼んでいるようなものだ。
ただこの二つの例と大きく違うのは、商店街の既存商店は、たっぷり立ち退き料をもらったのだし、ひねた2年生には金八先生が付いていたのだ。すなわち、この一連の騒動で、livedoorは、一切被害を被っていない。むしろ莫大な広告宣伝費を使っても為し得ないような、宣伝効果を得た。livedoorが全国区になったことだけは間違いない。
一連の流れを見る時、こういう結果を堀江氏が見越していたとは到底言えないと思うが、結果的には最も大きな宝箱を掘り当てたのがlivedoorだったことは間違いない。そしてこれには姑息さや卑怯な感じがないことが、最大の企業メリットだろう。アダルトコンテンツなんて言うのは些細なものだ。
少なくとも日本の男性で、アダルトコンテンツに本気でバッテンをくれているようなやつがどれほどいるだろう。未成年が見られる番組で、裸こそ出なくても、よっぽどきわどい番組をテレビで流しているではないか。おっぱいの先っぽが見えなければそれでいいなどというのははっきり言って欺瞞でしかない。
そしてこの欺瞞こそが、プロ野球機構側にある。
いみじくも日本テレビのゲスト解説で出ていた小林至氏が言っていた。「最終的な理由は、企業の経営的な資質などではなく、今後どちらが一緒にやって行きやすいかだ」と。私もそう思う。楽天が日本の大きな柱に経常利益を支えられていて、livedoorが走ではないという皮相なもののとらえ方だけで、将来的な安心を、本当に考えられると、プロ野球オーナー達は考えているのだろうか?これはあたかも、街の電気屋よりも大手の電気屋で買った方が品物が安心だと言っているようなものだ。寄らば大樹が日本人の体質だとすれば、あるいは本音かも知れないが、単純に堀江氏と三木谷氏を見てみよう。
「三木谷はネクタイ締めてるが、堀江はやっとジャケットを着だしたぞ。あんなやつと一緒にやるのか?」
デフォルメしてしまえばそういうことだろう。どちらがより、プロ野球界をかき回すのかと言うことだ。そういう意味では三木谷氏の方が堀江氏より大人だと言うことになる。
今年の一連のプロ野球界のごたごたを見てみれば、実はどんな国でもあるごたごたと同質のものだ。努力して作り上げた世界が新たなパラダイムによって崩壊していくことを嫌う旧人が、そのパラダイムに力で抵抗しているのだ。
今年ヤクルトと阪神の最終戦、金本とラミレスが打点王を競っていた。金本は、2回フォアボールを喫した。しかしそれは、金本が選んだフォアボールだった。しかし3打席目のラミレスは敬遠された。阪神が大量得点差で勝っていて、ラミレスがホームランを打った時に影響を受けるのは金本の打点王だけだったときだ。私が見る限り、直後の金本も、投げた井川も不服そうだった。
これは今年に限ったことではない。ローズが王のホームラン記録を塗り替えようとしていた時を例に挙げるまでもなく、毎年行われている下らない行為だ。これを下らないと断ずるのは、業界人がテレビでも言っているのだからいいだろう。そしてこれが、古いパラダイムに支配されたベンチの行動で、今はもう時代が変わっているのだ。
この例は時代に変革ということに対する例としてはあまり相応しくないかも知れないが、ことほど左様に、プロ野球業界を支配している様々なしがらみは、経営者や、経済原理が握っている。
損していいとは言わないが、その方法論が何か違っているように思う。
いずれにしても、結果は丸く収まっていることになぜか不思議な違和感を感じる。
セ・パ両リーグともに7球団にして、毎日交流試合があるようにすればいいのに。
投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 15:29 | コメント (0) | トラックバック (1)
2004年11月 1日
ペリー・ローダン1
自分の周りで、ペリー・ローダンと言って解る人は数少ない。私自身が教えたので知っている人は別だが。
ペリー・ローダンは毎月、非常に多くの書店で平積みされる。文庫である。なので、多くの人が一度は目にしていて、「ああ、あれね」と、言われれば判るかも知れない。ただ、それだけ平積みされ、いまだに発刊が続いていると言うことは、現実に売れているということで、いかにも不思議な現象だ。
確かにこれから読もうと思っても気後れするだろう。
ペリー・ローダンシリーズは、日本では1971年に第1巻が発刊されている。私はこのとき中学1年で、まだ存在すら知らなかった。私が初めてその存在を知ったのは、74,5年の頃、高校へ入ってからだった。当時既に、10巻以上が発刊されていた。
私は第2巻の「銀河の神々のたそがれ」を購入した(銀河帝国の興亡といい、私は1巻を読むのが苦手だったようだ)。ただ、この2巻と続く3巻「ミュータント部隊」のおかげで、私はこのシリーズの虜になったのだ。1巻から読み始めていたら今まで読んでなかったかも知れない。

ローダン・シリーズは現在翻訳で300巻を超えている。日本版は、2話で1巻なので600話を超えたところだ。ただ、原作は61年のデビューから週間ペースで発刊が続いているので、既に2,200話を超えて、今なおハイペースで続刊中だ。日本版はこの夏から、毎月発刊にスピードアップした。それでも年に24話、今原作が大団円を迎えたとしても、翻訳が追いつくまでに70年近くかかる。最近判った最長寿のおばあちゃんの年齢まで生きて、ようやく読める量だ。原作がここらで終わるなどという様子は全くないので、まず無理だ。
正直、このためにドイツ語を勉強しようかと思った頃もあった。しかし始める前に挫折した(挫折とは言わないかな)。ドイツ語のできる奥さんでももらって、寝物語に読んでもらうのがいいかもしれない。
知らない方は、どんな話やねん?と思われるかも知れない。2,000以上もの話を書けるかとか。要は、栗本薫が20人以上いて、みんなで「グイン・サーガ」を書いているとか、そんな感じだ。複数の人間が回し書きをすることで、続いている。しかも主人公のローダンを始め、中心的な人物が不死身と来てるから、なかなか話が終わらない理屈だ。
こういう書き方をしてしまうと身もふたもないが、実は単純なスペースオペラでもない。SFが持っているあらゆる要素を詰め込んだと言っても過言ではないのだ。小説としてのデキという面では、作家によってばらつきがあるのはやむを得ないが、トータルで考えた場合、やはり図抜けたシリーズなのだ。
ストーリーなどに関してはまたいずれ。
投稿者 keisuke_yui : SF | 11:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
