2004年10月31日
宇宙人の話
今、古本屋で買ってきた「惑星の暗号(The Mars Mistry)」という本を読んでいる。ずいぶん前に火星探査機が撮影した火星の大地に写る「顔」のようなものを巡る科学者の論議や、筆者なりの解説をしている本だが、系統としては、科学の解説書と学研から出ている「ムー」という雑誌の中間くらいに位置する本かなと思う。
今同時に「揺籃の星」(J.P.ホーガン)というSFを読んでいて(電車でしか読まないので遅々として進まない)、この2冊がかなり頭の中で混乱をしているのだが、この、実証的な部分では証明困難な科学というのが非常に面白い。
火星の顔やら、ネッシーやら、宇宙人やらを本気で信じている人は信じている。一笑に付す科学者や文化人もたくさんいる。
そんな中で宇宙人というのは特殊な存在だ。
なぜかと言えば、我々地球人が存在するからだ。
火星の顔やその本に出てくる「シドニア」と呼ばれる地区に散見するピラミッドやその他の建造物と思われる物体は、よっぽど解像度のよいカメラで撮影されるか、人がこの目で見るまでは、存在そのものが証明しづらい。NASAは自然現象だと言っているらしいから。
同様に、これだけ技術の発達した時代に、いわゆるUMAと呼ばれる未確認生物は、精細な写真がまずない。あると主張するより、いないと考えた方が納得がいく。
これはA.C.クラークが言うように「タイムマシンが不可能なのは、未来人がこの時代にいないからだ」というのと同じくらい本当らしい。
また、太古の先駆的文明「アトランティス」や「ムー」「レムリア」といったものも、その根拠をせいぜいプラトンの見聞などに依っていたりする辺りで、非常に証明がしづらい。すなわち信じるに足りない。
尤も、シュリーマンの例もあるように信じれば扉が開かれることだってあるのだ。信じる人々はがんばって、私のような、「あったら楽しい」と思っているだけの無責任な人間の心にも火を付けて欲しいものだ。
さて、そんな中で宇宙人。
この広大な宇宙(これだってどれだけ広いか確かめた人はいない。今の科学現象の仕組みを満足させるようなやり方で、ちょっと遠いところに住んでいる髭を生やしたおじいさんが、一生懸命ランプを付け替えているとしたって、誰も証明できる訳じゃない)に、人類以外に文明を持つ生物が存在する可能性は、普通に考えれば非常に高いことは、科学者じゃなくても容易に想像できる。
もちろん、遙か彼方のイスカンダルに、顔色だけが違って日本語を話すデスラーがいるとは誰も思わないが、意外と信じやすいのは昔からUFOの話で出てくる吊り目でのっぺりした顔の小さな宇宙人かも知れない。まあ、真偽は別にしても見たという人や写真があるから、矢追ディレクターでなくても信じたくなるというものだ。
ところが世の中は面白い物で、ああいえばこういう人がいるので、かたくなな「人間原理」なるものを唱える科学者達は、この宇宙に人類こそ唯一の知的生命体だ、いや、人類がいるからこそ宇宙が存在するとまで言い切っている。
もちろん、証明できないし、反証も難しい。
宇宙人がいると言っている科学者の多くは、だからといってUFOに乗って地球を訪れていると思っている人はほとんどいない。そこにはアインシュタインが、この世には光より速い物はないという前提で作り上げてしまった相対性理論という壁がある。この理論が現実に証明されていけば行くほど、光より速く移動できないという事実を、科学者は受け入れなければならないのだ。
光は太陽まで進むのに8分以上かかる。ノミのチャンピオンが、隣の犬に乗り移るのに1秒しかかからないぜ!と自慢していても、彼はアマゾンの奥地に住むかどうか解らない毛むくじゃらの生き物に乗り移る前にその一生を終えるだろう。恐らく宇宙の広さは、たとえそれがすぐ近くのSFでよく出てくるアルファ・ケンタウリでさえ、もっと遠いのだ。
そんなところから生き物が、乗り物に乗ってやってくるだろうか?否。
それが現代の科学って言うものだ。
でも、そういいながらも、科学では解らないことはたくさんある。科学というのが、この世の成り立ちを理屈と算術で説明する学問だとすれば、この世に科学で説明できない物はない。単に現代の科学が未熟って言うだけだ。
幽霊だって、あの世だって、あらゆる不可思議現象は科学で説明できるはずだ。というより、そこに明確な説明付けをして納得させてくれるのが科学の役割だ。と思う。
宇宙人が、五体満足であるかどうかとか、酸素を吸って二酸化炭素を吐いていないといけないとか、水がなければ生き物は生きていけないとか、いずれにしたところで地球上の常識から逸脱した存在を規定することは今のところ作家の領分かも知れない。人間の脳が、シナプスと神経の電気的な繋がりで活動しているとしても、他の惑星に生まれた生命が同じ生命活動をしているとは限らない。
ニュートン力学は19世紀の終わりまで、最終的な力学的答えだと思われていた。何百年もだ。相対論や量子論が生まれてまだ100年弱。次に何が起こるか解らない。
明日にでも宇宙人が「ハロー」と取り敢えず最も多くの地球人が解るであろう言葉で挨拶して登場することだって十分に考えられるのだ。
この時代に生まれたことは、かつてイギリスの産業革命の時に立ち会ったのと同じかそれ以上の画期的なことだと思うが、今後の100年、200年をこの目で見ていくことができないと思うと、何か悔しい。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 21:46 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月30日
白い牙
「白い牙」と言ってもジャック・ロンドンじゃない。昭和50年頃にテレビで放映されたドラマのことだ。
主演は藤岡弘、。他に、佐藤慶、川津祐介、藤巻潤、ジェリー藤尾、鳥居恵子といった俳優陣が出ていた。刑事物というには異色で、でも当時は似た感じのドラマが結構あったようにも感じる。
その中でなぜこのドラマを上げるかと言えば、私が好きだからだが、ストーーリーはこんな感じ。
警視庁捜査一課の刑事、有光洋介(藤岡弘、)は、同僚で幼なじみの刑事、村木を射殺してしまう。村木は捜査上の絡みで裏社会とつながりができ、有光を煙たがったその筋の組織が、村木をそのことで脅迫し、有光を殺させようとする。しかし逆に有光が村木を殺す結果となってしまうわけだ。
村木は友人で同僚というばかりでなく、その妹が有光の婚約者だった。しかし有光は、その真相を誰に語ることもなく、同僚殺し(但し捜査上の事故)として警察を追われることになる。
警察を去った有光は、かつて八百長ボクシング事件で世話をしたことがある矢野(藤巻潤)とそのマネージャー大沼(ジェリー藤尾)とともに事件屋として生まれ変わる。柄の悪い探偵みたいな稼業だ。そこに、かつては有光を悪徳刑事として追っていた週刊誌記者の佐竹(川津祐介)が参加し、ドラマは続いていく。
結果的に初回と最後の数回が続いており、黒幕の代議士を追いつめていく有光だが、逆に元婚約者の杏子(鳥井恵子)、大沼、佐竹と次々殺害され、一人復讐を誓う。
これ以上有光に犯罪を続けさせたくないかつての上司草刈警部(佐藤慶)は、矢野の助けもあって、黒幕の代議士東郷を逮捕する。しかし強大な力を持つ東郷は、すぐに釈放され、捜査も打ち切られる。
そのことを知っていたかのように、悠々と警視庁の階段を下りてきた東郷を、駆けてきた有光の匕首が刺し殺す。敗北感にさいなまれる草刈警部の前に両手を差し出す有光。矢島正明のナレーションが重くかぶさる。
何とも印象的なエンディングで、当時私は高校生になったかならないかで、最初の放送は見ていない。再放送で見た印象がかなり強かった。
役柄としては、例えば角川であれば松田勇作を持ってくるような感じかも知れないが、藤岡弘、が演じると、ハードな中にも、柔和さみたいなものがそこにあって良かった。特捜最前線でも独特のキャラを演じていた藤岡弘、だが、それ以上に有光洋介という役柄が合っていたように思う。
しばらく前に、ケーブルテレビのキッズステーションというチャンネルで放送され、録画し損ねていたのだが、今回「刑事(デカ)フェス」という特集で改めて放映があり、ようやく見ることができた。DVDも出ているが、価格と考え合わせると買うのはちょっと辛い。第1,2回と最後の3回だけでも買おうかな(個々が話が繋がっているので)。
この当時の刑事物の常として、最近の刑事物とは全く違う暗さを常時漂わせているし、それは恐らくいわゆる庶民の生活感の向上に負っているところが非常に大きいように思う。さっき例に出した特捜最前線の主題歌「私だけの十字架(チリアーノ)」も大変名曲だが暗い。同様に、なかなか手に入りそうにない「白い牙」の主題歌は、本郷直樹が歌う「悲しみにつばをかけろ」。歌詞自体が、当時の歌舞伎町辺りの裏路地を連想させる。なかにし礼、菊地俊輔という大御所の手になる曲である。
この作品の凄さはやはりラストシーンだろう。絶対に現代では制作されないだろう。「法で裁けない物がいる」と、かつての上司である捜査課長に語る元刑事有光が取った行動は、黒幕を刺殺することだった。そして後日譚もなく、ドラマはそこで幕を下ろす。
最近の刑事物、あるいは特にミステリーは、事件が解決するための謎解きだけが主眼で、いかにも凄惨な事件や、暗い過去、悲劇的な告白などがあった後、必ずと言っていいほど、それを解決した主役達の平穏な日常が語られる。しかも、「後は法が裁く」か、内田康夫がお得意な犯人の自殺という結末だ。
確かにこれはリアリズムだ。事件と隣り合わせに日常はあるし、不幸の向こう側ではお祝いをしている。地震で被災している様子がテレビで連日流れていても、近県の温泉地でのんびりしているたくさんの人たちがいる。これが現実で、しかもそんなことは責められるわけでもなく、むしろ、そんなことで誰も彼もが自粛を始めたら大変な経済的損失だろう。
だがせめてドラマではそういうアクチュアルなリアリズムではなく、作品の中でのみ通用するリアリズム、本当らしさを追求して欲しい。
「白い牙」は、全部で26回、当然の事ながら中だるみしている。だが最後の3回のテンションは非常に高い!藤岡弘、が自分の元婚約者を盾にして生き延びているように見えても、それは効果的な演出だ。彼が物陰で短刀の鞘を抜き、駆け出すシーンは圧巻だ。ある意味これを上品にしたのがモンテクリスト伯だが、この泥臭さが、何とも日本的で納得がいくのだ。
投稿者 keisuke_yui : 映画 | 11:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月29日
人質問題
イラクでまた日本人が人質となった。
今回人質になっている香田さんは「旅行」らしいため、世間の同情や関心も以前の時に比べると低いように感じる。もちろん、新潟の地震関連のニュースがあるから、自ずと比率は低くなるだろう。
とてもかわいそうだし、是非助かって欲しいと思う。たとえどんな理由にせよ、親の立場からすれば、まず第一義に救いたいという気持ちに違いない。
ニュースで、昨日から実家に対し相当数の嫌がらせ電話がかかっていると報道されていた。たとえ理由はどうあれ、明日にも首がはねられる可能性がある青年の実家に、例えば「自業自得」とか、「馬鹿じゃないか」とかいう電話がかかっているのだろうか?
確かに彼の行動は非難されるべきだろう。少なくとも無事助かって帰ってきた暁には、大変な苦しみも待っているだろう。
Yahoo!の掲示板などを見ると、様々な意見が寄せられているが、その中で、「旅行中の事故のようなもの」「対岸の火事」といった意見も見られる。理屈で言えば一面正しい。例えば同じ時期に新潟の地震で多くの命が犠牲になった。交通事故や、様々な理由で多くの人が毎日亡くなってもいる。他人の死が「対岸の火事」であるのは事実である。すべてを自分に置き換えたり、身内のこととして捉えるのは難しいだろう。
今回の場合、たとえて言えば、酒を飲んで車を運転して、壁にぶつかったのと比較できるくらい香田さん自身にも非はある。
だが、彼の身を案じ、自らのみを着られるような思いをしている家族に対して、誹謗や中傷のような電話をかける人たちというのは、いったいどんな意識を持っているのだろうか。私にはどうもその辺りの感覚が理解できない。ある意味こういう反応は悪辣でさえあると思う。学校や職場でのいわれのないいじめに似ている。
多くの人が毎日死を迎えているのも事実だし、その中には不幸な死もたくさんある。死はとても個人的な苦しみであるとともに、周囲の人間にとっても悲しみである。一定以上の年齢を迎えて、老衰や、あるいは病気でなくなるとしても、これは望むべくいい方の死である。
若くして病気や怪我でなくなる人、事故でなくなる人、自然災害でなくなる人、殺害される人、我々は誰もこういう死を望まない。だからこそこういう死は特殊であり、しかもより大きな集団から段階的に自分に近づくごとに、それは近しい感覚をもたらす。
たとえ非の多くが香田さんにあるとしても、彼が首を切られて死ぬと言うことがあれば、それは忌むべき行為であるし、あってはならないと思う。その点は分けて考えるべきだ。
日本政府が多額の税金を使おうと、それは政府の義務である。銀行につぎ込んだり、役人や政治家の家賃を安くするために使う税金よりは、少なくとも人の命を救うために使われる税金の方が有意義ではある。
イラクでは、結果的になんだかよく分からない理由のために多くの国民や、あるいは攻めて側である多くの軍人が命を落としている。生と死は、分かつことのできない一本の線の両端であるが、それを戦争や争いという事象の中で、本人の意向を無視して断ってしまうことが、いいわけはない。
この度のことは、人質という手段をもって政治を動かそうとするテロリスト(彼らは自分をテロリストだと思っていないだろうが)側の方が悪い。
ずれにしても、息子の生死を他人に握られた家族には、中傷などすべきでないことは自明のことではないだろうか。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 01:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月28日
MP3
SonyがヨーロッパでMP3対応の音楽プレイヤーを発売するという。
Sonyは音楽をダウンロードして聴く際に、Atracという独自のフォーマットをサポートしてきた。これはMDウォークマンでも使用できるフォーマットだ。そもそもは手軽にコピーを取られたくないための著作権保護から発したものだ。
音楽関連メーカーはこれまでもコピー・コントロールCDをAVEXが先陣を切って発売し、他社がそれに追随している。
あの手この手で不法なコピーが世界中を駆けめぐる中、それを阻止しようとするのに躍起なのだ。それはCDの売り上げの低下にも原因がある。
しかし、売れなくなった原因を一意に不法コピーに求めるのはいかがなものだろう。
レコードが大量に流通し始めた時にはすぐにカセットテープが世間に出回り、ダビングを後押しするようにレンタルが始まった。世の趨勢にはかなわず、レンタルを違法としていたメーカーも、最終的にはレンタルも商売の場所に変えてきた。
CDが発売され、MDが出、パソコンが一家に一台に迫る勢いで増えている現在、音楽をデジタルで聴くフォーマットは非常にたくさんある。
CDで音楽が、LDで映像がデジタル変換され、銀色の円盤に記録できるようになった時点で、デジタル to デジタルのダビングが誰でもできる時代はすぐそこに見えていた。音に劣化が基本的にはないこのダビング方式は、レコードからカセットへのダビング以上にメーカーや著作権管理団体のストレスを増加させる仕組みだった。
しかしちょっと待てよ。
CDが売れなくなった原因は、実は野球の視聴率が下がった原因と似てはいないか?かつてONが活躍し、巨人がV9を達成した時代、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が流行った時には、テレビがない家庭も多くあった。娯楽も少なければ、可処分所得も少なかった。どこに娯楽を求めるかという選択肢は、今のように多くなかったが、現在では非常に多岐にわたる。
巨人戦の視聴率の低下に試合が面白くないという理由を付けるのは簡単だが、今の試合だって、昭和30年代や40年代に見ていたら熱狂しはしなかっただろうか?当時、サッカー人口がどの程度いただろう。父親が会社から帰り、カラオケをやっている家庭がどの程度あったろう?今と昔では、そもそも余暇の過ごし方が違うのだ。
同様に音楽も、売れなくなった原因を、音楽そのものの質の低下とか、氾濫するコピー文化に負わせてしまうのはいかにも本当らしいが、そうだろうか?もちろん、全く原因がないとは言わないが、メーカーが考えるほどの比率だとは思えない。
バブルがはじけあらゆる物の価格が下がり続けていた時も、CD、しかもビッグアーティストと言われる売れ筋のCDは価格が下がらなかった。それでも売れるからだ。それに合わせるように、邦楽のほとんどはバブル以前の価格をいまだに維持している。
どう考えても、CD制作の原価(物理的な)は昔に比べて圧倒的に下がっているにもかかわらずだ。
売れる物と売れない物の格差が非常に大きいのは、平成に入った以降どんどん加速してきた。音楽の趣味も多様化し、かつてに比べると輸入盤の比率も高くなっている。あらゆることに変化が起きてくる中、保護貿易のような政策ではSonyでさえ生きていけないと言うことが、今回のMP3へのSonyの妥協である。
レンタルでこれまですませてきた人は、これからもレンタルですませるだろう。しかし、コピーコントロールという仕組みで、ダビングを阻止すれば、そういったCDのレンタルは減るに違いない。だからといって「買う」訳ではない。買うかどうかという判断はどれほどその音楽やアーティストに興味があるか、欲しているかによるだろう。
携帯の料金や、プロバイダの料金なんて、10年前は家計に存在しなかったものだ。少なくともその分のしわ寄せがどこかへ来る。それでも尚、減った小遣いからでも買おうと思わせる音楽を売ること、ダウンロードで売るなら、当然その分製作費が浮くのだから、低価格にすること、果たして音楽業界がそんな努力をしているのだろうか?
少なくとも私にはそうは見えない。
今度Dioのアルバムが出るようだ。私はきっと買う。昔に比べたら、CDにかけるお金など本当に何分の一日に過ぎないが、きっと買う。
ことほど左様に、今日の世の中は、趣味産業に努力を強要する。音楽は日常的に溢れている。テレビを付ければどこかでやっている。インターネットでも結構聴ける。
購入し、自分の物にしたいと思っても、ではそれを何回聴くか?無駄金に思える時もあるだろう。
それを無駄金にしない方法が必要だし、無法なコピー音楽の反乱は、ある意味そのことを制作者側に投げかけている。
iPODが、SonyのMDウォークマンよりも売れる原因の一つには、自分の持っている音楽を、音の劣化無く大量に持ち歩けるというメリットがある。世界中のあらゆる音楽がダウンロードサイトで買えるようにでもなれば、また多少話も変わってくるかも知れないが、今の量では所詮無理だ。
誰を相手に商売をしているのか、メーカーサイドはよく考えるべきだ。不法なコピーをする人間を対象に規制をかけていくことは、とりもなおさず、まともな消費者が、まともな使い方で楽しむことを阻害する大きな原因になっているし、そのことが、メーカー不審にも繋がる。どうせ買ってくれない無法者など無視をするくらいの度量で、より素晴らしいものをどんどん開発してくれた方が、消費者は付いてくると思うのだが。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 03:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月27日
レインボー
レインボーというのはこの場合、私をハードロックの世界にのめり込むきっかけを作ったバンドの名前だ。レインボウではなくレインボーが、レコードメーカーの日本語表記だ。
75年のデビューで、84年に一回解散、95年にちょっとだけ再結成(名前だけか)という経歴です。
元々ディープ・パープルにいたリッチー・ブラックモアがディープ・パープルを脱退、ELFというアメリカのバンドに参加するような形で「Ritchie Blackmore's Rainbow(邦題:銀嶺の覇者)」がファースト・アルバムです。セカンド・アルバムを出す時、ELFのヴォーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオを除く残りのメンバーを解雇、今は亡きコージー・パウエルを含む3人を補充してセカンドアルバム「Rainbow Rising(邦題:虹を翔る覇者)」をリリースしたのが76年でした。私が17歳の時、このアルバムを聴いたのが全ての始まりでした。
特に「A Light In The Black」という、LP B面の2曲目に収められていた曲が大好きでよく聴いていました。いかにもリッチーらしいリフと激しいコージーのドラム、そしてのびのあるロニーのヴォーカルが渾然一体となった、ハードロックはこれでいいんだぜ!と言わんばかりの8分を超える名曲です。この曲がなければ、その後の私のハードロックを皮切りとした洋楽への傾倒も、あるいはクラシックへの指向も無かったかも知れません。
作家の栗本薫はRun With The Wolf」なんて言う作品を初期の頃に書いてますが、このアルバムの中の一曲です。
なかなか発売されなかったライブ、そして「Long Live Rock'n'roll(邦題:バビロンの城門<アーチ>)」までが、私がこの世で最も好きな二人のヴォーカリストのうちの一人、ロニーが参加したアルバムです。ここまではLPも見開きジャケットでした。
ロニーが辞めて変わりにグラハム・ボネットが参加し一緒にパープル時代の盟友ロジャー・グローヴァーが加わった「Down To Earth」からは、曲もちょっとポップ指向になり、1曲の時間も短くなってきました。このアルバムにはホルストの「惑星」から、火星の一部をモチーフにした「Eyes Of The World」という曲があるのですが、2年ほど前に、着メロでこの曲を見つけた時にはびっくりしました。「All Night Long」や「Since You've Been Gone」なら解りますがね。
グラハムは1枚で抜けて、次の「Dificult To Cure(邦題:治療不可)」からは、ジョー・リン・ターナーが最後までヴォーカルを務めています。このアルバムはアメリカでも成功したらしいですが、後年ホワイトスネイクは1位になっていますから、同じパープル出身とはいえ、この点の勝負はリッチーよりもデヴィッド・カバーデールに軍配が上がったようです。
このアルバムではリッチーはタイトルにもなっている曲でベートーヴェンの第九の終楽章を恥ずかしげもなく弾きまくっています。私は苦手だ。
次のアルバムは「Straigt Between The Eyes(邦題:暗闇の一撃)」は、なかなかいいアルバムだと私は思っています。1曲目の「Death Alley Driver」は、「Highwaystar」みたいですが、それより成功していません。
そして事実上のラストアルバムとなった「Bent Out Of Shape」ですが、この作品は確かにレインボーの中にあっては比較的評価が高いのですが、ジャケットからはレインボーらしさはなくなっています。
ディープパープルからレインボーに入った人は多いと思います。パープルよりもリッチー色が強いようにも思えます。でも私はレインボーだし、これはクラシックで言えば私のマーラーに対するこだわりと一緒で「Rising」は私にとっては「復活」と同じくらい重要なアルバムです。そしてレインボーは私にとって、リッチーのバンドである以上にロニー・ジェイムス・ディオのバンドなのです。 ELFに始まり、レインボー、ブラックサバス、Dioと、彼のアルバムはどんなにつまらなくても買います。聴きます。
あの小さな身体から出る力強い声は、私を魅了してやみません。
この記事をきっかけに調べてみたら、こんな素晴らしいサイトを見つけてしまいました。
レインボー研究所
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 03:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月26日
歩き煙草
私が住んでいる荻窪は駅付近が、杉並区の条例で歩き煙草禁止区域に指定されている。駅の南側は、バス通りの拡張や、福祉センターの新築などで大分様変わりしたが、同時に整備された歩道には、禁煙マークが所々に印刷されている。
歩き煙草で最近よく言われるのは、手でぶらぶら持っているのが子供の目線である危険のことである。
確かに、煙草ばかりが社会の迷惑ではない。法律で禁じられていない以上、煙草を悪者扱いするのは喫煙者に対する差別だ、という意見があったとしても必ずしも間違ってはいない。煙草が健康を害するのは本人の問題でもある。副流煙が不愉快だったり、他人の健康を害する恐れがあるとしても、車の排気ガスや、様々な環境汚染物質と比べてどの程度だろうか?
こんな反論も、あるいはあるかも知れない。
昔ユートピアという漫才師が煙草のコントをやっていた。
教師「オタクのお子さんは学校で煙草を吸っているんですよ」
親「今時誰でも吸っているでしょう。先生だって昔吸っていたんじゃないですか?」
教師「私は二十歳になるまで吸ったことはありませんよ」
親「先生は二十歳になっても煙草が体に悪いって解らなかったんですか!?」
コントではないが、多くの親が高校時代に煙草を吸った経験を持つであろうし、煙草が青少年だけの体を蝕むわけではない。青少年に悪いものは大人にだって悪い。煙草を吸う人の多くも、体に悪いことを認識した上で吸っているのだ。寝たばこだって危険だと解っていても、自分は大丈夫だと思っているのだ。・・・これは飲酒運転と同じだ。
歩き煙草も実は同じで、千代田区のように職員が取り締まりでもすれば別だが、地面の禁煙マークなど見て見ぬふりだ。これは歩道ばかりではない。駅でもそうだ。若いやつがそうだとか、オヤジがそうだとか、カテゴライズするのは意味がない。そういう人間がいると言うことだ。
私は、学校の卒業式で国家掲揚を義務づけたり、最近ではどうだか知らないが、学校でパーマをかけていたり化粧をしていたりするのを教師が咎めるのは教育ではないと思っている。化粧などというのはいずれ社会に出て必要なのであれば、むしろ学校で授業として教えたっていいようなものだ。と、話がそれたが、こういった思想信条に対する決めごとと、歩き煙草をしないということは、全く次元が違っていて、十分に条例としての価値があると、私は思っている。
私は生まれてこの方煙草を吸ったことがないし、今後も吸う予定がないので、特に煙草の煙には敏感で、不愉快に感じることも多い。せめて、禁煙マークのところでは吸わないという感覚は常識だと思ってはいけないだろうか?
確かにこうなってからは減ったし、多くの喫煙者がそういう決まりを守っていることは承知の上で、敢えてそれができない人たちに、このことは些細でも下らないことでもないと言うことをちょっとだけ言ってみたかった。・・・むう、気が弱い。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 04:23 | コメント (0) | トラックバック (1)
2004年10月25日
カレー
カレーが好きだ。
日本人でカレーの嫌いな人というのは割と少ないと思うが、カレーを発明した人は素晴らしい。そして、日本のライスにカレーをかけて食べようと考えた人も偉い。特許を上げたいくらいだ。
ただ私はあまり嫌いなカレーがない。裏を返すと、カレーならほとんど何でも好きだ。そのために、探求心が実はない。ここのカレーはうまいと聞いても、行く機会があれば食べてみようと思う程度で、結果的に行かないことが多い。あるいは近くに行ってもその時点で忘れていることが多い。
そもそもカレーが好きだからと行って、毎日カレーを食べるわけでもないし、1日おきでもない。ふと食べたくなる瞬間があるのだ。母親が作ったカレーも好きだが、意外と自分で作ったカレーが好きだ。自慢ではなく、自分で作ったものは概ね自分の舌に合う。これはとてもありがたいことだ。カレーもその例に漏れない。
私はこんなことを書いていても、スパイスを調合なんてほとんどしない。昔はルーにスパイスを混ぜたりしていたが、最近は面倒でやらない。10回に8回はジャワカレーの中辛だ。具は、豚肉、玉葱、ニンジン、ジャガイモ、シメジやエリンギ等のキノコ類という至ってオーソドックスなやつで、時折海鮮系も作る。
友人が、飴色になるまで玉葱を炒めると言うが、私はいつも途中で挫折する。
チキンカレーもたまに作るが、ビーフカレーは作ったことはほとんど無い。カレーは豚だ!という信念があるわけではないが、まあ、好きだ。
たまにトマトも入れる。これは意外といける。ワインがあればワインも入れるが、だいたい無いので、ちょっとだけ料理酒を入れるが、入れた時と入れない時の味の差は全く判らない。気分だ。但しワインは味が変わる。
忘れていたがニンニクも入れる。
ショウガも少し。
コンソメも。・・・意外にいろんなものがはいるのだ。
いずれにしても、こんな程度の曖昧なレシピで作っても、かなりうまい。だからカレーが好きだ。
以前、フライパンで10分でカレーができるルーというのがあったのだが、最近、近くのスーパーでは見かけない。非常にありがたかったのだが。レトルトよりもうまいし、簡単だし。インターネットで調べても判らないし、意外とこういう時ネットは役にたたんな。
ああ、久々に明日、カレーでも作るかな。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 00:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月24日
オペラ
オペラというのは音楽が付いた劇だ。ワーグナーやR.シュトラウスの曲に使われる「楽劇」という呼称も、所詮は音楽劇だし、アリアやレチタティーボが無くなったとしても、歌で構成される劇には違いがない。明確な序曲がなくても前奏曲や間奏曲は現実にあるし、それが使われる目的が多少違ったところで、聴く側にはそれほど問題はない。
むしろミュージカルは、歌曲とポップスぐらいの差があるので、同じ音楽劇だとしても、大分違って感じる。
クラシックの歌手は、昔学校で習った記憶では、ソプラノ、アルト、テノール、バスだが、クラシックを自分で聴くようになり、それがマーラーを入り口としたおかげで声楽に比較的簡単に馴染むことができた時には、バリトンとメゾソプラノが増えた。今までアルトだと思っていたのに、コントラルトなんて言う呼び方が増えたり、まあ、これでは小中学生時代に声楽を好きになるのなんて到底難しいと思わざるを得ない。
オペラの多くは原語で演奏されるので、イタリア語か、ドイツ語かフランス語って言うのが相場だ。多少は英語や日本語もあるだろうが、概ねその3カ国語だ。しかも圧倒的にイタリア語が多い。理由はオペラ作曲家の多くがイタリア人の上、モーツァルトまでほとんどがイタリア語と来れば、仕方あるまい。
オペラ作曲家としてやはり小学生くらいから知っていた作曲家といえば、モーツァルト、ヴェルディ、プッチーニ、ワグナーといったところだろうか。
私がオペラを聴けなかった理由の一つは、全体が音楽付きなので、当然面白くもないメロディーが中にはあるはずで、そのためではないかな、と思っていた。後は、子供の頃から3分前後の歌謡曲などになれてる耳は、1時間2時間という長丁場を耐えられないとか。
実際には、オペラはやはりオペラなので、舞台を見ることで最大限の効果を発揮するわけで、レコードやCDではどうしても片手落ちになる。
最初に好きになったオペラはレオンカヴァレロの「道化師」だった。川越の図書館で借りたのを覚えている。「衣装を着けろ」は今でも最も好きな曲の一つだ。しかもデル・モナコのやつが。
それとワグナーは「ニーベルングの指輪」の題材とその長さ故に最初から興味を持ち、当時3万円したショルティ版のレコードを購入した。CDでも買い直しているのでやはり好きなのだと思う。一番好きなのは「ラインの黄金」の最後の場面「虹の架け橋」といわれる部分だ。
オペラを見ようと思うと、どうしても普通のコンサートよりも高い。舞台なのでいい席で見たいし、2万円近くかかることになる。オーケストラコンサートとは大分違う。しかも著名な歌手や指揮者となると、ぽんと跳ね上がる。なんだかお金持ちの道楽趣味のようなイメージが払拭できないのは、こういうところにも問題がありそうだ。
オペラ座や、ウィーンの国立歌劇場や、いずれにしても正装をしていかないと(少なくともジーンズにシャツでは)入れないようなのがオペラだと思っていたし、たかだか音楽を聴くのにそんなことに気を遣うとしたら本末転倒だという気が、実はいまだにしている。
よくクラシックは、音も立てられないから堅苦しいというポップスファンの意見を聞くことがある。概ねマイクを通して、会場の音を圧倒するようなポップスやロックのコンサートは、スタンディングが基本みたいなところがあって、静かに聴ける雰囲気はないことが多い。
私はロックコンサートでも、周りのファンの喧噪なんて聴きたくはないので、静かに座って聴きたい人だ。それがハードロックでも。だって自宅で聴く時に騒いで聴くやつなんていないだろう?あれはコンサートを聞きに行っているんではなく、騒ぎに行っているだけだ。常々そう思っている。立って観られたら前が見えないとも。
そんな私にとっては、コンサートはむしろクラシックの方が好適で、なかんずくオペラは豪華な気分が味わえる。しかも気楽な格好で気楽に聴けたら、これに勝る娯楽はない。もちろん、オーケストラコンサートも好きだし、リラックスするので必ず1回は寝る。寝られるコンサートは最も素晴らしいコンサートでもある。
そんなことを考えながら、実はパソコンでオペラも聴いている毎日。まあそれはそれで楽しいのだが、やはり年とともに、音楽の聴き方も変わったのかな?ふとそう思う今日この頃ではある。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 00:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月23日
地震
今日、新潟を中心に大きな地震があった。
私は近くのスーパーで酒売り場にいた時だった(結局酒は買っていないが)。酒の什器が意外に大きく揺れていた。その後知り合いから電話で、新潟で大きな地震があったことを知った。
今年はたくさんの台風が日本を直撃し、浅間山が噴火し、新潟で大きな地震と、夏以降の自然災害が非常に多い。こういうことがあると、このままで日本はどうなるみたいなことをマスコミが取り上げたりするが、ノストラダムスの予言みたいなもので、それほど劇的な変化があるわけではない。
もちろん、小さな変化の積み重ねが、大陸を移動させて今の形にし、エベレストを形成したように、侮ってはいけないが、「デイ・アフター・トゥモロウ」が明日起きるわけではない。もちろん明後日も。
災害も病気も、その渦中にいる限り、人類全体や、国や、会社がどうだろうと、あまり関係がない。今そこにある危機こそが回避しなくてはいけない最大の関心事で、高熱を発して寝ていれば、風邪は世界で一番辛い病気になりうるのだ。
地震・雷・火事・親父の順番でも、地震はトップだ。これはある意味地球の癇癪みたいなもので、今のところ人類には如何ともしがたい。
台風の時に、SFでよくあるバリヤみたいなものが実現されれば、かなり被害が食い止められるのに、と思ったが、地震を食い止めるのはいささか骨が折れそうだ。SFでもあまりお目にかかることはない。「宇宙震」というラインスターの小説があるが、これは全く地震とは関係がない。・・・いや、書きたかっただけだ。
地震ものの多くはパニック小説ではないだろうか。かように地震は恐ろしく、しかも防ぎがたいわけで、本当に大きな地震が来たら、冷静でいるのは難しいだろう。いや、冷静であったとしても、その状態で、本当にどう行動するのが一番なのか、判らない。
昔は机の下に隠れたりしたが、家が倒壊してしまったら、それでも大丈夫なのだろうか?とか、様々な疑問がある。家が丈夫かどうかは、立てた本人でもないので、ビルであれば、「耐震構造」を信用するしかなかったりする。
どんな状況で地震が起こるかなんて判らない。
阪神大震災のような時間に地震が起きたら、私はきっと寝ているので逃げ遅れるような気がする。
東京に住んでいるので、台風の時は家にいれば土砂崩れはないのだから、何となく安心な気がするが、地震はそうでもない。大きさによっては非常に不安だ。
心構えが備えのような気もするが、忘れた頃にやってくるのが災難でもある。
起こらないことを祈るのがせいぜいかな。・・・・怒られそうだが。
とにかく今回の怪我をしたり亡くなられた方には、早い回復と、冥福を祈りたい。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月22日
永遠
永遠という言葉がある。ふと文章の冒頭を考えたとき、何気なく私はこの「永遠」という言葉を頭に持ってくる癖がある。といって、そういう文章を書いたことは実は今回が初めてだが。
永遠という言葉は永く遠いとかく。どこまで通じているか解らないその先を永遠という。
終わりのない遙かな向こうを永遠という。これは人間の頭で具体的に認識できない概念だと思う。
諸行無常とともに、仏教には諸法無我という言葉がある。この世に常という物はなく、永遠不変も存在しないということで、定めし至言と言うべきか、確かに人の命ほど短くなくても、この宇宙とて終わりがありそうな予感はする。
終わりを考えることは実はそれほど難しくないが、終わりの次に何があるのかを考えるのは永遠と同じく人の脳に余る。それは、実体のないものを想像する作業だからだ。
ホーキングは虚数の宇宙というの想定して宇宙論を展開する。虚数とは、二乗してマイナスになる数字のことで、現実には我々の周りに存在しない。あるいは、存在を確認できない。数学上の論理的な数字にしか過ぎない。
人の脳に余ることは、論理的にありそうだとか、言葉で説明することで実感するしかない。永遠も、虚無も、虚数宇宙も、そういった理解しか人にはできない。
試しに永遠を頭の中で想像してみるといい、先が見えない空間や時間といった概念でしか、我々は捉えることができず、それも実は曖昧だ。真空というのは中に何もない空間だが、虚無とは空間さえない状態。果たしてそれが創造できるだろうか?人間は無意識に何もない空間を想像し、それ以上を考えることは「理屈として」しかできない。
ゲーテが書き、ヴォルフが歌曲にしている詩がある。「人間の限界」という。
ここでは神と比して、力足りない人間を描き、無限の連鎖を歌っているが、神が本当にいるのなら、永遠を理解するだろうか?人間が理解できる永遠は、すごく永い時で、それ以上ではない。
永遠という言葉に思いを馳せる時、私は神すらその足下にひれ伏すであろう、不思議に胸が震える。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月21日
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」
マーラーという人は、ご存じの方も多いともうが、作曲のほとんどを交響曲と歌曲に費やしている。交響曲は全部で11曲、内1曲は未完であり、1曲はナンバーが付いていない「大地の歌」である。
交響曲の父と言えばハイドンであるが、基本的に交響曲はソナタ形式の第1楽章を含む4楽章からなるオーケストラ曲を指す。ハイドン以降はモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウス、ショスタコーヴィチといった作曲家が有名である。もちろん、ベルリオーズや、リストを始め、他にも非常に多くの作曲がが手がけているが、チャイコフスキー当たりまでは、いろいろあれども、交響曲は一定の形式の上に作られていることが多い。
マーラーは、第1番こそ4楽章の交響曲を作ったが、2番で合唱と、声楽ソロのある5楽章の「復活」3番では6楽章、4番も声楽付き、5番7番が5楽章、8番はほとんど全てが声楽に満たされたオラトリオのような大作、そして連作歌曲のような「大地の歌」を過ぎて、4楽章の9番がある。しかし9番は調整的にもかなり曖昧で、シェーンベルク達を予感させる。
唯一6番がかなり堅牢な交響曲らしい交響曲といえば言える。但し、全体の4割を第4楽章が占めていたり、モーツァルトやハイドンの交響区曲とは明らかに別のジャンルの音楽である。
主題もしっかりしているし、第1楽章で繰り返しもある。メロディラインは、マーラーらしく俗っぽさもぷんぷんするところもあるが、どちらかというと格調高い。「亡き子を偲ぶ歌」などの自身の歌曲集との関連も、他の作品位劣らず重要な位置を占めている。
この交響曲を最初に聴いたのは大学生の時だが、その行進曲のリズムで始まる第1楽章の冒頭で圧倒された。アルマ(奥さんの名前)のテーマと呼ばれる旋律は非常に美しく、一時期は第1楽章ばかり繰り返して聴いていた時期もある。
第2楽章のスケルツォはいかにもマーラーらしい諧謔性を感じさせる楽章だが、実は私はそれほど好きではない。
第3楽章は、あたかもこの交響曲の名前を象徴するかのような切なくも哀しい旋律を含む楽章で、ここはジョージ・セルの演奏がいまだに一番好きだ。
終楽章はおよそ30分かかるモーツァルトだったらそれだけで1曲の交響曲になる程長大である。この中にはハイドンの「驚愕」交響曲もかくやというような仕組みが隠されており、その最大のものは、この交響曲が終わる直前に振り下ろされる最後のハンマーである。それは最後に人を打ちのめすハンマーなのだ。
今まで多くの「悲劇的」を聴いてきたが、学生時代に購入したジョン・バルビローリ指揮のフィルハーモニア管の演奏がベスト・ワンだ。かつて、ずいぶん昔のことだが、この演奏はなかなか評論家によって評価されず、バーンスタインであったり、セルであったり、あるいはカラヤンであったり(古い演奏家ばかりだな!)、していた。バルビローリだって彼らと比較して十分じいさんだと思うのだが。
レヴァインが出、ラトルが出、マーラーがベートーベン以上にCDショップの棚をにぎわす今では、非常に多くの演奏が聴ける。
しかしその中にあってもバルビローリの演奏は際だっているし、しかもユニークだ。あのテンポ一つとっても、他とは絶対に違う曲だ。文字で表すのは難しいが、主題の繰り返しをしていなくても、している演奏よりも長時間かかっているといえばいいだろうか。行進曲は、足を引きずるような重々しいテーマで幕を開ける。
全体を通じてどこか重く沈潜したイメージで曲は進む。カップリングにR.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を選んだ理由が分かるような、そんな演奏である。
終楽章が終わったときには、悲劇に打ちのめされた主人公は到底立ち上がる気力がないのが解る唯一の演奏のような気がする(尤も全ての演奏を聴いたわけではないし、最近での演奏は特に耳にしていないが)。
しかし素晴らしい感動を与えてくれる名演である。音は古めかしく、オーディオ的にはそれほどいいとは思えないが、それをカバーしてあまりある。バルビローリのマーラーは昔から、5番が名演とよく言われるが、6番を無視してそりゃないだろうと思う。
ところは最近何かで見たが、かなり評価が上がっているようだ。不思議なものだ。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:57 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月20日
追い風
台風です。やたらに多い今年の台風。個人的にはそれほど大きな被害はないですが、家が流されたり、作物がダメになったり、あるいは亡くなった方がいたりと、日本各地に大きな被害を及ぼしているようで、大変なことです。
自然災害というのは、苦情のもって行き場がないところが辛いですね。結果的に対応が良くなかったり、ゴルフに言っちゃったりしていて、行政に風当たりが強くなるのは、そもそも行政という立場がそうなのでやむを得ないと思いますが、そこへ苦情を申し述べたところで、家が復旧するわけでも、野菜が元気になるわけでもありませんから。
さて、テレビで台風情報を見ていて、傘が背中にくっつくようにして後ろから風に押されながら走っている人を見ました。
よく陸上の競争で、追い風だったり向かい風だったりして、一定の風速以上は参考記録になったりするが、例えば風速25mの追い風で100mを走った場合、人間はどのくらいまで早く走れるのだろう?
例えば100m10秒で走る選手が25mの追い風を受けたら、4秒縮まるはずはないと思いますが、最高度の位のタイムが出せるのだろう?
単純計算で、秒速100mの風が吹くと、陸上の選手でさえ、向かい風に対して1mも進めないことになるわけで、瞬間最大風速で40mとか50mという風は、普通の人にしてみれば、とんでもない風と言うことになります。
もしかすると、追い風も10mも吹けばちゃんと走れないのかも知れないな。
投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 12:28 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月19日
クリント・イーストウッド2
昨日の続き。
イーストウッドは大きく分けるとウエスタンと刑事物というかサスペンスの2つのジャンルが主な作品群である。
刑事物の代表はなんと言っても「ダーティー・ハリー」だ。カウボーイハットを脱いで、ジーパンをスーツに着替えても、彼は撃ちまくる。Me and Smith&Wessonですぜ。
ハリーはウエスタンの時のクールなイーストウッドとはちょっと違うが、悪に対する力ずくの姿勢が何とも言えない。これは例えば、ハリーばかりでなく、「マンハッタン無宿」や、「ガントレット」を始め、最近(でもないか)の「目撃」や「ブラッド・ワーク」などでも似た感じの役作りだ。
「ガントレット」の、縦断の雨の中をバスで市庁舎に向かうシーンはしびれた。
「リーサル・ウエポン」などと違って、基本的には全て一匹狼なのがいいのだ。それは西部劇時代から変わらない。彼は自分の世界を持っているのだ。
だから、「スペース・カウボーイ」のような作品ではいまいち面白くない。「ルーキー」ではトム・クルーズと組んでいたが、やはりイーストウッドの凄さがこの作品も出ていないように思う。
今度、「続・夕陽のガンマン」の未公開完全版が発売されるということで、つい今回の記事に。
ところで、イーストウッドというと山田康夫の吹き替えだが、若い人にとって山田康夫はルパン三世でしかなく、違和感を感じるというのを聴いたことがあるが、山田康夫はイーストウッドの吹き替えとしては抜群のデキだと思う。逆に、イーストウッドをやっていたからこそ、ルパンができたのではないだろうか。
クリーフの納谷五郎もいいんだなあこれが。
あ、ついでにエンニオ・モリコーネも・・・付け足しで書いたら怒られるな。
投稿者 keisuke_yui : 映画 | 21:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月18日
クリント・イーストウッド
クリント・イーストウッドの映画が好きだ。
かつて「ローハイド」に出ていたイーストウッドはよく覚えていないが、やはりイーストウッドはウエスタンのガンマンだ。
「夕陽のガンマン」「荒野の用心棒」「奴らを高く吊せ」など、“マカロニ”と呼ばれても、私は名作だと思う。ジュリアーノ・ジェンマはにやけているし、ジョン・ウェインはガタイがでかすぎる。あの痩身に、たばこをくわえたニヒルな口元がたまらないのだ。
中でも私が好きなのは「アウトロー」と、「夕陽のガンマン」だ。
「アウトロー」は自分で監督もやっているだけに、アカデミー賞を受賞した「許されざる者」のような、重みのある西部劇になっている。以上に共演の多いソンドラ・ロックとも、この辺りからではないのだろうか?
「夕陽のガンマン」は、イーストウッドももちろんだが、鷹の顔をしたリー・ヴァン・クリーフがいい。クリーフは昔、テレビで彼がいい役をやったコメディがあり、是非見たいのだが、タイトルが判らない。最もDVDやビデオが出ているとも限らないから、判っても見られないかも知れないが。
多くの初期作品で、彼は非常にクールでニヒル、それでいてどこか優しさを秘めた男を好演している。紋切り型のヒーローかも知れないが、なかなかあの味は出せない。「真昼の死闘」でのシャーリー・マクレーン演じるところの偽の尼さんをもてあましているところなどは、そういうヒーローらしくていい。
後年も彼は自分で「ペイルライダー」や、「許されざる者」のような、いい西部劇を撮っている。
もちろん、ハリー・キャラハンもいいから、西部劇だけが彼の魅力ではない。しかし、彼の面長で広い額と、眼光鋭い目は、やはり西部のアウトローが一番合っている。
投稿者 keisuke_yui : 映画 | 23:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月17日
ブーブークッションで記録 滋賀・草津市、3795人
表題のような記事を読んだ。
ブーブークッションに、同時に何人座れるかという記録に挑戦したと書いてある。
別にどうでもいいが、この挑戦というのが初挑戦なのか、既に記録があるというのが興味深い。ギネスに申請するとあった。これまでの最高が3614人だと言うことだ。
私自身はこういう行事に参加することが極端にめんどくさい人だし、正直言って全く意味を感じない。まして市政50年を記念して企画されたとすれば、尚更参加しないだろう。
別に難癖を付けているわけではなく、このことにこれだけの人数が参加したことに驚いているだけである。当然ニュースになるくらいだし、たとえブーブークッションだとしてもここまでやればすごいとか、そういった価値評価はともかくとして、そうか、3000人以上も参加するのか、と、非常な驚きであるのだが、まあ、お祭りなんだな。
木を逆落としにするお祭りがある。私はその土地に生まれなくて良かったと胸をなで下ろしているのだが、単純に価値が判らない。これもけなしている訳じゃない。
例を挙げれば、「ぼくは『ターミネーター』という映画が好きだ」「私はあまり好きじゃないわ」こういうことだ。でも、好きじゃなくても彼女は『ターミネーター』について語る。
これこそは言論の自由の基本だと思う。
御柱祭りは痛そうだから好きじゃないし、ブーブークッションはめんどくさそうだ。しかし多くの人がそれに参加し、それを楽しむ。この違いと、その違いを認めることが自由社会の良さだろう。同じ世界に住みながら違うことをして互いに認め合う。
ふと思った。会社は外部への認知や、区別のために制服を着るのは意味がないとは言わない。しかし、学校で制服を着るのは(女子校などでその制服が着たいからというような憧れは別としても)、そもそも自由社会の根本を逸脱しているのではないだろうか?
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 23:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月16日
デューン「砂の惑星」
デューン・シリーズを最初に手にしたのは、中二の夏、町田の大きな本屋でのことだった。石森章太郎の絵で、1巻と2巻が並んで平積みになっていた。

正直、最初は難しくてよく分からなかった。巻末の辞書を便りに読み進むというタイプの小説は初めてだった。・・・まあ、どっちみちこんなのはあまり無いが。
それを訳していた矢野徹氏が先日亡くなった。原作者のフランク・ハーバートは、20世紀の終わり頃に亡くなって既にこの世にはない。息子が続編というかデューン前夜のような小説を書いていて、それも矢野氏が訳されていた。
デューンシリーズの翻訳は、文庫本で20冊前後になるのだろうか。「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」「砂漠の神皇帝」「砂漠の異端者」「砂丘の大聖堂」で・・・都合17冊か。実は、「大聖堂」はきちんと読んでいない。「砂の惑星」から「神皇帝」までのわくわく感が自分の中でなくなっていたせいもある。
「砂の惑星」は、アメリカの評論家と読者が選ぶヒューゴー賞とネビュラ賞をダブル受賞している。多くのファンやプロからも評価されている作品である。映画化もされたし、ドラマ化もされた。多くのファンを持っているはずだが、日本では長らく絶版で、最近復刻された。表紙は映画のカイル・マクラクランになっていた。
余談だが、「ツイン・ピークス」で有名になったカイルの映画で私は「ヒドゥン」が好きだ。何かの映画賞を取っていたと思うが、なかなかDVDが出ない。
さて「砂の惑星」だが、これは遠い未来の話、銀河系に人類が散らばり、皇帝シャッダム何世だったかの時代に、砂の惑星と呼ばれるアラキスという星に領地を変えさせられたアトレイデ公爵(映画ではアトレイデスと言っていて字幕もそうなっていたと思うが、これはアトレイデ家という意味ではないのかな?)は男爵ハルコンネンの奸計にはまり、殺害されてしまう。辛くも逃れた妻のジェシカと息子のポウルは、アラキスの砂漠に紛れる。という始まりで、そこまでの間にも、多くの専門用語の説明を読みながら物語を追っていかねばならない。
非常に心理描写の多い作品だが、裏腹に非常に活劇的でもある。映画にしたときに、なぜかスター・ウォーズのようになってしまうのはそのせいであろう。
最も設定自体が宇宙の帝国という設定の中で、貴族が争うという基盤を持っているのでやむを得ないところもある。宇宙へ言っても公候伯子男ですか?とは思ったが、それが中世的な趣を物語に漂わせる原因となっているので、意図的であろう。
しかも男爵の名前がウラジミールって、冷戦ですか!
しかし砂漠の惑星はナウシカが乗りこなしそうなサンド・ウォームと、その砂虫が生成するメランジという麻薬のような香料が大きな鍵を握り、神話的な世界へ入っていく。メランジはあたかも大航海時代のインド貿易の香料のように、莫大な富を約束する。
砂の民フレーメンはまるでアラビアのロレンスを彷彿とする。
そしてメランジの毒性がポウルを予言者に引き上げ、皇帝の地位も与える。ポウルの正妻は皇帝の娘だ。だがポウルの子を産むのはフレーメンの娘チャニであり、ポウルの跡を継いで神皇帝となるのは二人の間にできた双子の男の子の方、祖父の名を与えられたレト・アトレイデである。
予言者皇帝となったポウルはめしいとなって砂漠をさまよう。
この辺りはまさにキリスト教的な感じも受ける。
「砂の惑星」はよくその生態学的な描写や設定を高く評価される。確かにアラキスは細部までよく描かれていて、非常に読者の頭にその姿を鮮烈に投影してくれる。
だが、ストーリーは冒険譚であり、宗教的な政争の物語であり、何よりSFである。
ここまで述べてきたように、非常に多くを地球上の自然や文化、歴史、宗教などに負っている。だがそれがも真似にならずに、オリジナルの世界観を形作っていることがこの作品の成功の秘訣であろう。秘密結社のようなベネ・ゲセリットも非常にいい味を出している。女だけの超能力者集団のようなこの教団は、ジェシカもいたのだ!
多くの人は「砂の惑星」が全てだと(作品の評価として)思っているかも知れない。が、私は「砂漠の神皇帝」まで、素晴らしくよくかけていると思う。その後は、エンターテインメントよりも、作者自身が描きたいこのシリーズの深い部分に話が移行していて、地味であるからだ。
歴史に残る作品だと思う。
また読もうかな。勢いが必要だな。・・・昔のやつはぼろぼろだし。
投稿者 keisuke_yui : SF | 02:58 | コメント (0) | トラックバック (1)
2004年10月15日
量子論の世界
私が量子論の本を詳しく読むようになったのはごく最近のことだ。
相対性理論に関しては、10代の頃から興味があり、本を読んでいた。アインシュタインは私にとって尊敬する人物だった。尤も、相対性理論への入り口はSFではあったが。
光を超える速度がないというのは、ある意味SF読みにとっては寂しい事実で、相対論とはいえ完璧ではないだろうと、すぐに思うようになったが、それでもアインシュタインの価値が変わったわけではない。
20世紀が生んだ画期的な科学理論、相対論と量子論。これはあたかも微分は分かりやすいが積分は難しいみたいなイメージで、私の中で量子論について読もうという気がなかなか起こらなかった。
ある意味単純に、宇宙について語る理論と、目に見えないくらい小さいものを語る理論では、宇宙の方が面白そうだという単純な理由だったかも知れない。それと、宇宙論といえば相対性理論だが、量子論は何となく化学っぽい感じがしていたのかも知れない。
宇宙のことは好きだが、結局は文系の私が、こういうものに興味を持っても、科学的なアプローチは難しく、どこかファンタジックなアプローチになる。
相対性理論で言えば、ウラシマ効果であったり、世界の果ての果ての果ての物語であったり、どこはアンリアルな世界観を感じさせてくれる部分に強く惹かれる。
しかし量子論を読んでみると、どうも相対性理論なんか目じゃないほど、その世界そのものがファンタジックだ。
物は物じゃなくて波だとか、目で見るまではそれがどこにあるのか解らないとか、ある大きさ(というか小ささ)を超えると、こことここの間はないとか、まさに現実に我々が生きている社会では想像できないおかしな世界がそこにある。
でも、人間を細かく細かくしていくとそういう世界にたどり着くわけだから面白い。
量子論の基本は、物質を形作る最も小さな粒などは、粒子としての性質と波としての性質を持つという物だが、粒子とはつまり物で、ある一点に目に見えるような状態である、言い方を変えればそこに存在するという性質であり、波というのは文字通り波動だと言うことになる。後者は直感的に理解しがたい。物なのに広がっているとすればそれは既に物ではないのではないか?といいたくなる。
量子論は言う。観測者がその粒子を観測すると、そこにあるが、観測するまではどこにあるかを特定できない。見てないから解らないのではなくて、あらゆる場所に存在する可能性がある。・・・普通に考えても見ていない物はどこにあるかそれは可能性の問題だろうと思うが、そんな現実的に生やさしいものじゃない。
1個の光子が2つ並んだスリットのどちらを通って、向かいの壁にぶつかるかというのがよく出させる例のようだが、右を通ったら左を通らないのではなく、両方通る可能性がある以上、形跡は両方に残るのだ。あり得ん!
だが最前線の物理学は20世紀初めのそんな理論を元に発展し、その理論が生み出した製品もあるようだ。今のコンピュータと違って、量子コンピュータというのが実現されると、今のコンピュータの数千倍の能力があるという。
理屈は突飛でも、現実がそうなっているとしたら、世の中はそうできているのかも知れない。意外と心霊現象の謎なんて、そんなところで簡単に説明が付いたりして。
興味は尽きない。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 02:18 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月14日
野球とアダルトサイト
今日、livedoorと楽天の2回目のプロ野球機構によるヒアリングが行われた。
その中で、資産状況とは別に、livedoorも楽天も中にアダルトサイトを抱えているという話が出て、青少年に対する対応という問題が質問されたという。
楽天はブロックしているといい、livedoorは難しいといったらしい。
こんなことがプロ野球球団のオーナー会社を決めるための一つの基準になるらしい。
ちゃんちゃらおかしい。
尤も、アダルトサイトにもピンからキリまであるはずで、「ちゃんちゃらおかしい」は、全てのアダルトサイトを養護しているわけでは毛頭無い。私は、アダルトサイトというと青少年育成にとっての悪のように表現されるのが、いかにも嘘くさくて嫌いだ。
インターネットでもそうだが、アダルトサイトお断り、というのは中身を精査できないからという理由に依るわけで、それはある程度やむを得ないと思う。
しかしそれと青少年の育成に悪影響という問題を、アダルトカテゴリー全般に押し広げて、議論するのはいかがなものか。
実は、今日のヒアリングの中でどういう位置づけかと言うことは私は知らないので、そのことはどうでもいい。ただそれを受けて、ニュースステーションで古舘伊知郎と、加藤某というコメンテーター(?)が会話していたのを受けてのこの文章である。
アダルトサイトに批判的かどうかという点は個人の意見なので、これもまた今日はどうでもいい。
問題は、アダルトサイトを(必ずしもサイトでなくてもいいが)、スポーツや、芸術などと対比させて、青少年の健全な育成という軸で、いいか悪いかと言うことを論じるという姿勢を問題にしている。
10代の、少なくとも男にとっては、スポーツや勉強、趣味などと同じくらいに、アダルトカテゴリーの情報は重要なものだ。それは生物学的な意味かどうかは分からないが、極めて大きな興味の対象である。
インターネットがこれだけ巨大な情報バンクとして昨日している中では、女の裸を見るためには尤も手軽なメディアだ。本屋でエッチな本を買ったり、といったことが実はせいぜいだったとしても、それを真剣にやるような年代である。またそれは、決して悪いことでもない。同様に、インターネットの年齢認証があるようなページを10代が見ることも、それはそれで楽しいことであるはずだ。
そういう行動をする若者が、それでは不健全であるかというと、そんなことは絶対にないし、不健全というのはもっと別の概念だ。
今時の社会で起きている、殺人事件やら、汚職やら、国民の賛同を全くと言っていいほど得られない社会保障制度の改革や、大量破壊兵器を世界一所有している国が、他国のそれも憶測で持っていると決めつけた兵器を理由に、戦争を仕掛けて「正義」を言い放つ大統領など、よっぽどそちらの方が不健全というべきであろう。
道徳というのは社会がある以上必要なことだし、ある程度以上の常識は、細かく規定されなくても人が生きてきた歴史の中で培われてきたということも含めて、知り、守っていくべきであろう。
だが、アダルトサイトをその中に持つ企業が、プロ野球球団を持つのが相応しくないという論理は(もし少なからずそんなことがマイナス要因となるのであれば)、むしろ、子供に、この世はお菓子の城でできていると教育するのに似て、非常に偏見に溢れた判断といわざるを得ない。
東京都が進めている中学生のセックスを条例で規制しようと言うのと同じくらいピンぼけだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 11:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月13日
熊
このところ熊がよく出現する。あ、街中に。被害にあった人も結構いるので、その地方の人は大変だと思う。テレビで見てみると、意外と小さかったりするが、普通の人は大山倍達とは違うので、素手で立ち向かっていくことなど到底かなわない。
冬になって冬眠しても春先にまた現れる可能性があるという。今回ばかりは人的なものよりも自然災害の影響によるえさ不足らしい。えさのない熊もかわいそうだが、家の中にまで入ってこられる地元の方も苦労だろう。
ところで、熊というのは一般的にどう発音するのだろう?私はどちらにもアクセントを置かずに「くま」と発音していたが、頭にアクセントを置いて「くま」という人も結構いる。後ろにアクセントを置くことは物理的に難しいので、どちらかと言うことになる。
いわゆる標準語というのは、アクセントが平板で、抑揚がないように思う。
東京の言葉が標準語では必ずしもないので、誰かが作ったのだろうか?
調べてみると、いろんなことが書いてある。
インターネットでは「ウィキペディア」というサイトで、日本には標準語はないと言い切っている。
そうかと思うと、広辞苑では「おおむね東京の中流階級の使う東京方言に基づくものとされている」という、実にあやしい表現が出てくる。東京の上流階級は、今でもざーます言葉を使うのか?あるいは下町辺りの「べらんめえ」だったり、ハ行がサ行に変わってしまうような人たちは、中流階級といえないということか?
いや、冗談はさておき、いずれにしてもヨーロッパなどの国々に比べて、日本はいい加減だということらしい。ただ、このいい加減さというのはむしろいいことのような気がする。話し言葉の基準まで国に決められるというのはいかがなものか?
例えば、ある国に英語と、古くからの土着の言葉が2,3あったとする。土地が繋がっているから、日本に比べると、土着であっても相当違う言葉である可能性がある。その国が、英語とその土着後の一つを国語と決め、それを国の標準語とすると決めるのであれば、便利さ故の処置ということではあり得べく最善の方法かも知れない。
よく標準語という言葉を我々も使うが、非常に漠としていて、辞書ではないが、「アナウンサーが使う言葉」というのが実は最も近いかも知れない。ただそうなると、マスコミ自体はその標準語の元をどうやって決めているのだろう?
三球照代の漫才ではないが、あまり考えても眠れなくなりそうなので、いつか調べてみよう。
しかしそうすると、「くま」は「くま」ではなく、「くま」が標準語ということになろう。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 02:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月12日
西武の優勝
パシフィック・リーグのプレーオフが終了し、西武が逆転優勝を果たした。9回にダイエーが追いつきながら、王監督の喜びのダンスが仇になったか、10回に逆転されてしまった。
プレー・オフは2位と3位のチームが3試合して、勝ったチームが1位チームと5試合する。引き分けなら1位チームが勝ちと、一見、1位チームが有利に見えるシステムだ。しかし、3試合を勝って勢いを持ったまま1位のチームに当たることを考えると、試合間隔の開いた1位チームは必ずしも有利だとは思えない。
文章だって、書かないでいると錆びるが、書き始めて乗ってくれば、書かない頃よりはいい文章が書けるものだ。慣れというのは恐ろしい、とよく言うが、慣れは効果的でもあるのだ。
さて、そんなことでダイエーは、4.5ゲーム差を付けて1位になりながら優勝を逃したわけだが、奇しくも今日はそんなダイエーの本体が、民間主導の再建案を決めた。ホークスも手放さないそうだ。なんか球団に関しては近鉄と似たような臭いがしてきた。
もちろん、バファローズは赤字だが、ホークスは黒字なのかも知れない。
だがそれでも、近くにダイエーがあって、お買い物でメリットを受けている人たちはどうか解らないが、少なくとも銀行に多額の債権放棄をしてもらい、その銀行には多額の税金が使われ、結局のところ、自分たちの税金もそこに使われていることを考えると、せめて役員くらいは総辞職し、退職金ももらうなよと言いたくなる。
なんだか国や行政、政治など、あらゆる巨大な機構に対して感じている不条理とも言える有り様への憤慨や怒りは、大企業でも一緒で、所詮は日本という国とそこにいる日本人に共通なことなのかも知れない。あるいは自分も含めて。自分自身はそういう立場になったことがないので、そうなったとき、どういう決断を下すのかが今ひとつぴんと来ない。
いや、国外に目を向けてみれば、大統領選挙だって結局は互いのこき下ろしあいで、現職は何一つ非を認めず、互いに自分が一番だと言い合っている。私もブッシュは嫌いだが、ケリーよりは顔はいいように思える。
恐らく、世界のあらゆる国と国民は、あるいは一つ穴の狢なのかも知れない。
どういう宗教や思想信条を持ち、生きていくかは、その人の持って生まれたものや、育ち、その時々で目にしみ身にする他人の意見、様々なものやことが影響するだろう。生まれつきの政治家もテロリストも慈善家もいはしない。だが、政治家の家庭に生まれた子供は政治家になる可能性が高い、とか、中東に生まれた子供の方が日本に生まれた子供よりもテロリストになる率が高い、とか、皇室に生まれた長男は天皇になるとか、環境がそう決めるケースは少なくはない。
でも、スポーツ選手になるには努力だけではなれない。まして一流と呼ばれるためには才能以外に運も必要である。いや、その才能を持って生まれることが既に運の一部でもあろう。
ダイエーの敗退と再建問題。別に対比でもなければ、フィールドも違うが、何かちょっと、ダイエーの不運を思った。不運という言葉が適切でなければ、今日の運勢・・・困難にぶつかる日でしょう。でもいいが。
昨日、塞翁が馬という話をした。私は同じような意味でも「禍福は糾える縄のごとし」という表現の方が好きだ。どうも、塞翁が馬は、幸・不幸が交代交代というイメージが強すぎてしっくり来ない。常に同居している感が糾える縄にはある。何となくだが、うまく渡っていけば幸せな糸をたどっていけそうに感じられないか?
恐らくそれが努力というものかも知れない。いい努力をしたいものだ。
蛇足だが、今日ヤクルト・阪神の最終試合が行われた。8回のラミレスの打席で、阪神の井川は、敬遠をした。恐らく、打点王を争っている金本のために、ラミレスにホームランでも打たれてはかなわんと言う首脳陣の考えかも知れない。明らかに井川は不満そうだった。多分金本も。一人ラミレスは笑っていた。
今年は野球界が騒々しかった。それもこれも、赤字球団が多いからだ。毎年のように打点やホームランに関わり、最後にこういうことが行われる。そもそもこういう体質を変えない限り、野球界が再生することなどあり得ない。井川には指示を無視して、ラミレスと勝負して欲しかった。
努力というのは闇雲なものではないのだな、と思う。適切な努力が必要だ。自戒自戒。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 01:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月11日
レ・ミゼラブル2
昨日の続き。
ミリエル氏のエキセントリックな所行は、極めて強い影響をジャン・バルジャンの上に落とすことで、物語の幕が開ける。これまで人を信じられずに生きてきたジャンは、この後のプティ・ジェルヴェの些細な一件をきっかけに、正義の人として生まれ変わる。
ここで著者はジャンに非凡な才能(力と器用さ)を与えることで、彼を市長にまで登らせ、そこでジャベールとの劇的な出会いを設定する。法が全てで、権威主義的な傾向のある官憲ジャベールを、市長マドレーヌとしてのジャン・バルジャンと掛け合わせるのだ。
ジャン・バルジャンはファンティーヌへの贖罪とと残されたコゼットのために、残りの半生を費やそうとするが、いみじくも彼自身のそれは安寧のためでもあるのだ。
革命と恋愛、社会の底辺でうごめく悪党との絡みを経て、物語は進むが、実はその全てが結末への伏線である。
パリを逃げまどうジャンとコゼット、コゼットとマリウスの恋愛、テナルディエとマリウスの関係、マリウスへのエポニーヌの片思い、登場人物が、これでもかというご都合主義的な運命の糸で縛られながら、それでいてそれを感じさせない力強さで走っていく。
そして、革命のバリケード内でのジャンとジャベールの再会、マリウスの負傷という2つの出来事は、決定的な謎解きの解決編を準備するかのごとく、下水道の出口にテナルディエを潜ませる。
ここまでをもし、丁寧に描いた映画が、ジャベールの死で物語を終わらせたり、一直線にコゼットとマリウスの恋愛とジャンの死という終焉を描いて終わるとしたら、これはもう、ユゴーも泣くに泣けない。
最初の一つの山は、テナルディエがマリウスを訪れ、マリウスにとってのジャンの価値を、奈落から神の位地にまで引き上げるところで訪れる。ここはまさにユゴーの作家としての面目躍如という部分で、これまで張られてきた多くの伏線を、実に小気味よく使っている。そしてここからジャン・バルジャンの救いと死に向けて一気に突っ走る。
最後に「司祭はここにおられる」という救いに満ちたジャン・バルジャンの死でこの小説は終わるが、コゼットの結婚以降がうまく描かれている映画はほとんど無い。
それは恐らく、この作品がエンターテインメント以上の何かであるという錯覚から起きるのだ。しかし第一義、小説としてこの作品が持つ命足る部分は、この見事に綾取られたストーリーの妙だ。かなり強引な部分がたくさんあるが、昨今のミステリに比べたらかわいいものである。
時として小説はごり押しとご都合主義によってかくも面白くなると言う典型であると思う。個人的な思いを述べるなら、ユゴーが必要と思って書いている、ナポレオン戦争の説明部分と、パリの下水道の歴史は蛇足の感は免れない。それがたとえ、ポンメルシー大佐とテナルディエの関係を描くためと、ジャン・バルジャンがマリウスを背負って下水道をくぐる大変さを強調するためであっても、である。
ああ、一度、もっと活劇的なレ・ミゼラブルの映像を見てみたい。そして結末を勝手に解釈して、くだらない終わりにしていないやつを。
デパルデューのドラマはそれでも良くできている方だとは思うが、物足りない。彼の「モンテクリスト伯」ほどひどくはないが、デパルデューがジャン・バルジャンらしくない。もっと厳つい悪党面で、普段悪役ができる人がいい。ジャン・ギャバンなんて、まさにイメージ通りだったのにな。これもよくできているが、どうもな。
って、私自身が、どうも勝手に解釈しているのかな?
いや違う。あれだけのストーリーを思いついたら、そのストーリーの読ませたいに決まっている。まず「レ・ミゼラブル」は小説だ。やはり極上のエンターテインメントなのだ。
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 03:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月10日
レ・ミゼラブル1
レ・ミゼラブルといえば、言わずと知れた「ああ無情」、ヴィクトル・ユゴーの名作小説だが、ミュージカルなどは最近では原作よりも有名かも知れない。映画化やドラマ化もたくさんされた。珍しいところでは、榎木孝明主演で原日出子がヒロインをやった昼メロ版もある。最もこれは、半分くらい「モンテクリスト伯」じゃないか?と思える節もあったが。
さて、これだけ多く映像化されたり、多くの人に読まれていると言うことは、当然名作だからなのだが、この小説の真価はどこになるのだろう?
かつて教科書にも「ミリエル氏の銀の燭台」の件は載っていて、あれはあれで、主人公ジャン・バルジャンのその後の人生を決めていく大きな出来事として、一貫して小説全体を流れる主テーマの、まさに最初のエポックとして素晴らしい場面である。クリスチャンでなくても、聖職者かくあるべき、そして至高なる美徳として納得できる。
当然、「レ・ミゼラブル」は、社会の底辺で救い無く生きている様々な人間模様を描きながら、分けても「家族が生きるために」一切れのパンを盗んだというそれだけで、19年間の徒刑生活を送らねばならなかった男が、一人の神父に会ったことから、自分の後半生を人様に捧げて生きていく物語だ。作品の最後に「数奇な運命」とその墓碑に印されたごとく、まさに数奇な人生を送る男の物語だ。
そこには神によって救われる人間という、抹香臭い(キリスト教でもこの表現は有効か?)テーマが延々と横たわり、それは信じる人たるジャン・バルジャンと、信じない人間ジャベールの二元的な対比で、最終的にジャン・バルジャンが勝つという軸で強烈に描かれている。
割と最近上演されたアウグスト監督(だったと思う)のヴァージョンでは、まさにそこが強く強調されていて、まさにジャベールの死で物語が終わっていた。まあ、私に言わせれば、その一点だけであれは駄作なのだが、こういう描き方があってもいいのだろう。
しかし私は、この作品が長く命脈を保ち、常に面白く読める最大の理由は、あれだけ余計な記述の多い(ナポレオン戦争の細かい描写や、パリの地下道の経緯など)作品でありながら、尚これが極上のエンタテインメント作品であるからだと思っている。エンタテインというのは人を楽しませること、すなわち娯楽と私は理解しているが、ある意味これは、一つの例として、物語を通じて思想や信条を読者に伝えることを主眼とする部分と対比させて考えている。
小説が人の手によるものである以上、多かれ少なかれ、思想や信条、あるいはそこで訴えかけたい何らかの情報がそこに込められている場合が多いのは想像が付く。個人的な見解としては、娯楽部分がないがしろにされ、思想性が強く出過ぎた作品はどうも鼻につくので好きになれない。
レ・ミゼラブルは一見、社会は小説のように見える。まして彼の時代背景や、その他の作品を読んだりすると、目的の多くはそこにあったに違いない。
しかし彼は、この作品で、非常に大きな労力をエンターテインメントに割いている。
そしてそれこそがこの作品を朽ちることのない名作として、時代を超えても読み継がれる作品にしている大きな理由だと私は考える。
そして、ミリエル氏の教会の門を叩く場面は、まさにそのエンターテインメントの幕開けなのだ。
以下 明日
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 02:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 9日
温泉
温泉が好きだ。
ああ、日本人的だな、と感じる。西洋の水着を着てはいるのは同じ温泉かも知れないが、あれは風呂じゃない、と思う。
実を言うと、私は泳ぎができない。水は怖い。お湯だって同じだと思うが、温泉を怖いと思ったことはない。温度が違うだけで(まあ成分も)、その違いは面白い。
先日、白骨温泉で入浴剤を使ったというニュースがあって以来、温泉業界はかまびすしい。源泉かけ流しとかで、源泉をそのままうめないで使い、再利用しないものをそう言うのらしい。これは湯量が豊富で、温度がある程度高く、絶え間なく溢れているような温泉地でしか難しいだろう。また、巨大な温泉地に新たに入ってきた宿とかも辛い物があるに違いない。
温泉にわざわざ入浴剤を入れるというのは、ある意味本末転倒な所行ではあるけど、経営者の気持ちを考えると解らなくはない。ただ発想は行為としても、営業的な意味においても正しいとは思えない。
温泉をありがたがる側が、それではどれほど源泉かけ流しやら、効能などにこだわっているのだろう。もちろん、何でもそうだが、「これでなくては」という人が各界にいる。温泉だってその例に漏れないだろう。しかし、多くの人は、温泉が100%であるかどうかとか、効能が優れていると言うだけで温泉を訪れるわけではないし、湯を選ぶわけでもないだろう。
きっと私がこれまでには行ってきた温泉も、嘘がいくつかはあったに違いない。
風呂に湯を溜めて、つかる。家でも気持ちがよい。まして、旅先で広い風呂につかる。気持ちいいに決まっている。それだけで十分満足の一里塚に登っている。そして飯。
なんだかんだといって、旅は総合評価であり、飯だ、眺望だ、サービスだ、温泉だと一つがいいだけでは決まらない。確かに、こういう事件の後は、少なからず気にすることはある。同じにはいい温泉に入りたい。だからといって、それだけが全てを左右する場面というのはよっぽど温泉が趣味という人以外にはさほどないと思う。
温泉が好きだ。
この程度の者には、広い浴槽にゆったり浸かれ、いいサービスを受ける。これにしくはない。
個人的な思いを述べるなら、私は人の少ない風呂が好きだ。大勢の観光客でごった返す有名な風呂よりも、一人のんびり浸かる湯が好きだ。これまでも、自分一人しか浴槽、あるいは風呂全体にいなかったという経験は何度もある。一度などは、旅館にただ一人ということもあった。いい岩風呂で、脱衣所は別だったが、浴槽の奥で男女の境がなく、混浴になっていた。泊まり客が一人では、当然風呂でも一人だが。
北海道の屈斜路湖畔にある確か「コタンの湯」だと思ったが、勝手に入れる露天風呂も気持ちが良かった。人の気配がしたが、男性が覗いて帰った。入ればいいのにと思ったが、実は一人のんびり入っていたので、帰ってくれて幸いだった。
あそこの湯が、どういう効能を持っているか今は覚えていないし、当時も気にしなかった。極端な話、沸かし湯でもきっと入ったろう。湯につかりながら見る屈斜路の風景は格別だった。
温泉が好きだ。何度も言うようだが。
少なくとも私が温泉とその宿に求めることは、温泉といえば多くが旅先である。そのたびを心地よくしてくれるのは、まず第一に温泉でもなければ、旅館の豪華さでもない。宿の方の努力によって醸し出される雰囲気だと思う。それはサービスだったり、部屋の清潔さだったり、食事の盛りつけだったり、仲居さんの人当たりだったり、そんなものだと思うのだが。
温泉が好きだ。そういったときの温泉にはそれらが全て含まれている。単独の湯のことだけではない。それが多くの人に共通していないのかな?
しばらく温泉にも行っていない。のんびりとつかりたいな。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 02:49 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 8日
政治資金規正法
橋本派への日本歯科医師会連名の献金隠しから、国民の関心を引くようになった今回の政治資金規正法改正だが、この政治と金に関する問題は、どうも政治のほぼ全てに関わる問題で、ひとつ政治資金だけの問題ではないように思う。
その昔より、「政治には金がかかる」という。ようは選挙だと理解しているが、ここ数十年の間に金のかからない政治や選挙を目指した政府でも政党でもあっただろうか?個人ではいるが、その多くが既にマスコミに顔の知られた人間である。選挙運動の必要がそれほどない人間が、選挙に金をかけないのは当然のことで、そもそも土台が違う。そうではなく、選挙の仕組み、ポスターだとか、選挙そのものの問題だ。私が選挙権を得てから既に25年が経つが、その間に全くと言っていいほど何も変わって異なように思える。
相変わらず、車で大声を上げて立候補者の名前だけを連呼していったり、そこいらの民家の塀に、到底美的ではないポスターを貼りまくる。突然電話してきて、誰々をお願いしますという。その時点でその候補には入れないと決める、私みたいな男がいるにもかかわらずだ。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 02:21 | コメント (2) | トラックバック (0)
2004年10月 7日
地震
夕べ地震がありました。私は外にいてご飯を食べている時間でしたが、やはり怖いですね。
地震・雷・火事・親父と昔から言いますが、確かに天災ですし、予告無しに大地が揺れるってのは、ちょっとした反則技のような気がします。噴火も同じかな。雷や火事、親父は逃れ方があるような気もしますが、地震はどうも。
大きな地震の仕組みは太平洋プレートが日本海プレートに入り込んで戻るときに起こるというようなことを聴いたことがあります。地球のひゃっくりみたいな物でしょうか?ああ、地球も生きているのだな、と思います。
大きな地震の記録を見てみると、ここ数年は以前にも増して大地震が増えているようにも見えます。
東海沖で巨大地震が起きるという話は、私が若い頃からずっと言われてきましたが、それもなく、北海道や、東北、関西と、様々なところで巨大地震が起こっています。長い歴史の中で、陸地を何千キロも移動させてしまう力が、地面の下でうごめいているわけで、地球というのは活発な星なのだなあ、と改めて感心してしまいます。でも、だからこそ人類がこのように繁栄できたのでしょう。死の星では人類もそれ以外の種も育たなかったでしょうから。
こうしてみると、繁栄と滅亡は表裏一体、諸刃の剣というのか、ダモクレスの剣というのか、一寸先は闇というのか、いずれにしても生と死は、どんな生き物にも、紙一重の差でしかないのだなと痛感します。
予知は難しそうですし、予知してもそれがせいぜい50%以上確実とでも言うならともかく、予知できたら、そのために何かできるかというと非常に難しいと思います。
明日巨大地震が来る確率は80%とでも言えば、避難場所に避難くらいはするでしょう。でも、どれほど巨大か、どれほどの被害が出そうかと解らなければ、意外と動かないのが人間です。5回くらい予報が出て、全て外すと、6回目に本当に来ても何もしないというのは「狼少年」の話と同じくらいありそうなことです。
やはり常日頃から備えあれば憂い無しだな、とは解っていても私を含め、きっと多くの人が何もしていないと思います。なかなか難しいものです。皆様備えましょう。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 04:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 6日
テッド・ニュージェント
テッド・ニュージェントはアメリカン・ハードロックの重鎮。60年代の終わりからアンボイ・デュークスというロックバンドを率いて、70年代の中頃からソロ、80年代だったか90年代だったかに、ダム・ヤンキースで一時期ギターを弾き、現在はまたソロに戻っている。
かつてはテッド・ナジェントなんて言う名前で紹介されていたらしい。私が最初に聴いたのは大学生の頃、池袋の輸入盤ショップで「Dog Eat Dog」を買うきっかけとなった、何かのラジオ番組だった。日本盤は野獣何とかというタイトルでEpicSonyから発売されていた。
とにかくハード・ギターの人で、長い間にも全く変わらないという感じがする。自分で歌も歌うがあまりうまくはない。「Dog Eat Dog」では、一部をミート・ローフが歌っていて、やけにそこだけ歌がうまかった。
日本でもいまだにCDがたまに発売されることもあり、全く人気がないわけでもないのだなと思うが、あっという間に市場から消えてしまう。
まあ、狩猟好きで、ハンターを守る会会長みたいな風情があるので、私生活はあまり知りたくはないが、まさにそんなイメージをステージにも持ち込んでいる感じがする。
私が最初に買ったアルバムはそれでもテッドのアルバムの中では叙情的な部類で、他はもう、何か抜けてるかのようにハードな音楽一辺倒といってもいい。私はどちらかというとその叙情的なテッドのギターが好きだが、ハードというかワイルドなテッドも実は魅力満載。
つい先頃「Craveman」というテッドらしいタイトルのアルバムも出している。間違いなく50代だと思うが、熱気は衰えない。何となく戦う男という感じ。
とにかくギターな人なので、引きまくってくれるとそれだけでうれしい。音色はまさにハード・ブギー!ライブが真骨頂!
気になった方は聴いてみて。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 03:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 5日
星を見る楽しみ
今日は雨が降っています。明日も雨だそうです。
雨が降ると星は見えません。
小学生の頃、どうして星や宇宙があんなに好きになったのか解りません。
当時、必修クラブというのがあって(今もあるんですかね?)、私は天文気象(科学)クラブみたいなところに参加していた記憶があります。中で班に分かれたのですが、天文をやるか気象をやるかという選択で、天文を選んだのが私一人でした。しょうがないから気象をやったのではなく、天文を一人でやっていました。図鑑や本を読んでいただけだったような気がします。何せ、授業の時間だけですから。・・・太陽には思いが至らなかったのかも知れません。
別にいじめられていたわけでもなく、本当に天文をやりたいのが自分だけだったはずです。それほどまでに天文に見せられていたのはどうしてなのか、覚えていません。
空を見上げると、一面の星空。刷毛で引いたような天の川。そんな風景は私の記憶の中では2回だけです。一度は、小学校の夏休み、盆踊りの会場へ向かう坂の途中。そしてもう一回は大学のサークルでの合宿の時、湖の畔で見上げた空。私の天の川の記憶はこの2回だけなのです。
もちろん、天体望遠鏡を使って観たりしたことはあります。しかし、本当に川のように流れる銀河を観たのはその2回だけなのです。
昔から、この世で一番美しいものはという質問には「星」と答えようと思っているのですか、実はその質問自体を受けたことがありません。多感な時代、人類は自然に害なす悪だと思っていたことがありました。ですから、人の作った夜景などは嘘の美しさで、人の手が及ばぬ星の光こそが、この世で最も美しい物と思っていました。
私は天文学を志そうと考えたこともありましたが、宇宙飛行士や、研究者という感覚よりも、星を見る人=天文学者という構図であこがれていたような気がします。高校生の頃、寒い夜に一人、望遠鏡の接眼レンズに目を押し当てて、長時間野外で星を見ていた頃がとても懐かしく、老後の過ごし方としては最高だ!などと今は思っています。
宇宙は確かに神秘的だし、天体物理学、あるいは物理学だけでもSFチックで、興味をそそります。子供の頃のように、無心に星を見上げる気持ちは大分変化していますが、それでも、夜長を星を見ながら過ごすというのは、この上もなく贅沢な余暇の過ごし方のような気がします。
目も悪いし、東京に住んでいると、星はまばらであまり見上げる気も失せてしまいます。寂しいことです。
星を見る楽しみっていったい何なのだろう?と考えたこともありますが、人は絵を見て楽しむし、風景を見て楽しみます。こころを和ませるとかいう、単純な理由だけではなく、言葉に言い表せない何かがそこにはあるのです。
星を見る楽しみを満喫する。何か人生の中で遠ざかっていた気持ちにふと気づいて、仕事でも落ち着いたら、そうしたいなと思います。
美しいという言葉が表す物や現象は、いったい何なのか、ゆっくり考えてみたい気持ちです。
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 02:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 4日
パラリンピックの話
先月、パラリンピックが行われ、日本選手も大活躍の内の幕を閉じました。
毎回思いますが、オリンピックの華やかさに比べると、パラリンピックはどうしてもトーンダウンします。祭りの後・・・のような。
これはもちろん自分の中でもそうなので、いいか悪いかということではないのですが、結果を見るとメダル数などはオリンピックよりも多く(競技数の問題もあるのかも知れませんが)、一人で6つも金を取ってる選手とかまでいます。
当然ニュースとかでは知っていましたが、そもそも中継していたのがオリンピックの時とは違って、ほとんどNHKオンリーだったような気がします。まあ、NHKは公共放送(とはあまり思えませんが)らしく、こういう放送はしっかりしてくれます。ただやはり民放は、ニュースなどでは大きく取り上げますが、実際に中継をすることはありません。
これは、野球が巨人一極集中は問題だという討論会をしている放送局が、所詮は巨人戦しか放送しないというのと似て、放送局というのはまず何より公共性よりも視聴率だし、もっと言えば、そこにお金を出しているスポンサーの顔を見て番組を作っている部分が少なからずあるのだろうなということを思います。
みんなは見たいものを作る、すなわち視聴率の高いものを作る。これはこれで一つの理屈ではありますが、例えばオリンピックにしたって、マスコミがあれほど取り上げなければ、国民の関心はやはりそれほど高いことではないでしょう。
よく、世論調査を行いますが、あれとて、かなりマスコミによる情報操作があるように思えます。小泉支持がかつてあれほど高かったのも、マスコミがあおったからだと、ある意味思えます。もちろんそれが全てとは言いませんが。
同じ理由で、もう少しパラリンピックに注目したかったな、と今にして思います。私にとってはスポーツは娯楽の域を全く出ないので、野球はヤクルトが勝てば見ますが、負けているときは見ません。イチローが今回のような記録を作れば、「同じ日本人」という括りで素直にうれしいので見ますが、マグワイアがいっぱいホームランを打ってもそう関心はありませんでした。
同様に、あれだけオリンピックの見所を事前にテレビで見ていたりすると、つい見てしまいます。見れば面白いし。
パラリンピックについては、ちょっと見逃したのが残念な競技がやはりいくつかあります。4年後は気をつけていよう。・・・・シドニーの時もちょっと思ったかな?
投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 02:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 3日
言葉のお話し
時々テレビで、例えば有名なところでは「情けは人のためならず」の意味は?みたいな特集をやっていることがある。昔から使われてきた言葉の誤った使い方や、忘れられていく言葉についての特集だ。
昨日、故事成語についての新書を本屋でぱらぱらとめくった。「束脩」などという、私が今までお目にかかったことがない、あるいは見ていても覚えていないような、少なくとも意味の分からない言葉も載っていた。束ねた乾し肉から転じて、塾などの入門時に先生宛に持って行ったお礼の表に書く言葉だという。
多分現在も使っている人もいるに違いないが、もらった側がこの言葉を知らない場合も少なくないのではないだろうか。今この文章を書いている時点で、Atokはこの言葉を変換してくれなかった。それだけ使われることが無くなった言葉なのだろう。
世に、死語という言葉がある。まさに使われなくなった言葉だが、最近では、かつての流行語が、時代を経たことによって古びたために使われなくなり、「そんなの死語だ」みたいに使われるケースが多く、前出の束脩は「死語」とはあまり言われない。むしろ、「ナウい」とか、「いかしてる」とかそんな言葉に適用されるのではないだろうか。ところが、数十年を経て「もーれつ」などという言葉は「猛烈」とは別に、復活したりしている。かつての流行語が、必ずしもそのまま消えてしまうというわけではないという例だ。
ただ、例えば今の「もーれつ」を、40以上のおじさんが「うーもーれつ!」などとメロディを付けて言えば、「ださい」わけで、これは一つ言葉だけの問題ではないのかも知れない。
この「ださい」という言葉は、使われ初めて相当長いように思うが、既に日本語として完全に定着している。ほんとかどうかは知らないが、「だ+埼玉」という辺りから来ているという話を聞いたことがあるが、埼玉出身者としては複雑なものがある。
「うざい」などというのも、広辞苑の第6版くらいなら載るかも知れない。
また「ちょー」何とか言うのも、考えてみれば、「超人」「超高層」などの「超」を他の言葉にくっつけただけで、新しい言葉とも言えない。
傾向としては、単語を縮める、特殊な言葉を付けることで後に続く言葉を強調する「ばり」とか「げろ」とかだが、こんなものは「くそ」とか「ばか」とか昔からあったので、実はバリエーションに過ぎない。ただ、こうして言葉は増えたり減ったりしながら、結局はコミュニケーションツールとして、どこかで共通認識を持たなければ意味をなさない。
そもそも「束修」が、入塾の礼物の表書きだとしても、入会金を銀行で振り込んだり、「お礼」という言葉が一般化してしまえば、あまり有用というわけでもない。まあ、伝統もここまで稀少になれば、逆にかっこいいと言うこともあるかも知れないが。
若者が若者である特権は、「大人」とは違う自分を認識することで、「大人」はださかったり、昔であれば、大人は「汚な」かったり、常に世代間の確執があるのは、人類という種が全体的に持つ特質に違いない。その中で若い人は若い人だけに通用する言葉を持ち、次の世代ではその言葉も古臭くなる。そしてその中で社会が認知した言葉が新たに語彙として辞書に加わる。
よく、日本語の退廃みたいな事を言う人がいるが、所詮古文で習うような言葉は今の世の中で通用しないのと同じに、変化してこその言葉である。あらゆる事象が変転していく世の中で、言葉のみを、昔実への美的礼賛とともに、特別視することの方が、困難なのだ。もちろん、困難に立ち向かうことは悪いことではないので、それ否定するわけではないが、「諸行無常」を歌う平家物語や、そもそも仏陀の昔から、あらゆる物は移りゆくのだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 14:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 2日
銀河帝国の興亡−アイザック・アシモフ
アイザック・アシモフは、もちろん最近映画化された「アイ、ロボット」の原作者であり、SF界の巨匠であるとともに、ミステリや科学の解説書も多数書いている。人間タイプライターとも呼ばれていたらしい。

「銀河帝国の興亡」全3巻は、アシモフの「Foundation」「Foundation And Empire」「The Second Foundation」の創元推理文庫版邦訳のタイトルである。早川書房からはほとんど原題通りのタイトルで別訳が出ている。
実際は「Foundation」シリーズとして、アシモフが亡くなる直前まで、銀河系を舞台に書き継がれることになった作品であり、しかも彼のロボットシリーズなど、ほとんどのSF作品を関連づけて、一つの銀河史を形作る作品群の嚆矢となった3編である。
私にとっては、以前にも少し書いたが、最初に読んだ文庫作品で、なおかつ最初に読んだ子供向けでないSF作品である。
1951年から53年にかけて書かれた作品で、今となっては50年も前の小説であるし、ましてSFである。この50年間にどれだけ科学が進歩したかを考えると、科学をその中心に置くことが多いSFとしては、古びてもやむを得ないかと思うが、実際は今読んでも古びていない。
遠い未来、人類が銀河系の隅々まで生活圏を広げている時代、銀河帝国が形成されていたが、その崩壊と続く暗黒時代を心理歴史学(サイコヒストリー)という学問で予測した科学者ハリ・セルダンは、その暗黒時代を縮めるために、銀河の両端に2つの「ファウンデーション」を設置した。という設定で始まるこの作品は、銀河系に人類史かいない、現代の「人間原理」を地でいくような作品で、小説としては批判されることも多い。
しかしそもそもが小説の命とは、読んでもらってナンボであり、読者の数と作品の価値は比例していると思う。評論家や歴史が、いかに作品を褒めちぎろうと、読者の少ない作品は多い作品に比べて劣るのだ。
この作品がアメリカや日本、それ以外の国で今までどれほど読まれているか解らないが、超一流の名作であることは確かだ。
ストーリーとしては、セルダンが設置したファウンデーションが予測不可能な超能力者ミュールによって陥落した後、第2ファウンデーションがどこにあるかの謎を追いながら、結果的にファウンデーションが当初の目的を果たすといった内容だったと思うが(大分前に読んだので。但し数回)、非常に面白かった。
アシモフがミステリ書きだからというわけからという単純な理由ばかりではないと思うが、なかなか想像力をくすぐる。尤も、小説が多くの場合、謎を秘めて最後にそれが判明するというのはある意味当然のことで、それがミステリやSFに特有であるというわけではない。
この小説でも「ファウンデーション」とはそもそも何かとか、銀河の果てにある第2ファウンデーションはどこにあるのかとか、謎の設定の仕方そのものが面白い。
アシモフはこの後、「鋼鉄都市」「裸の太陽」というSFミステリを書くが、その芽が既にここにあるのだ。この2作は人間の刑事と、ロボット刑事が殺人事件を解くというものだが、後期のファウンデーションシリーズでは、このロボット刑事が活躍する。
さて、今回ここに取り上げたもう一つの理由は、私は早川書房版よりもこの創元推理版の方が表紙絵が好きなのだ。今見ても懐かしさも含めていい表紙だと思う。大きく引き延ばして部屋に飾りたいくらいだ。
久々に思い出して、ふと書いた次第。
最近こういう表紙絵ってあまり見かけないな。特にSFはコミックと見まがう表紙が増えてきた。別にあれでもいいが、個人的にはあまり好きになれない。
久々に、また読んでみよう。
投稿者 keisuke_yui : SF | 03:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 1日
中日優勝??
ニュースで今日(正確には昨日だが)のヤクルト中日戦の結果を放送していた。アナウンサーが「果たして今日の中日は勝って優勝できたのか?!」などといっていたが、優勝した日は必ず、番組の冒頭で優勝決定シーンか、喜ぶ監督やナインの表情が映るので、アナウンサーが前記のようなことを言った時点で、優勝していなかったことが判明する。
この矛盾は面白いように各局が同じように放送する。誰も指摘しないし、指摘しても変わらないだろうが、世の中にはこの手のことが意外にあるのかと思うが、実はさほど思いつかない。疑問が結果を断定するというのは、そもそも文脈に不正確さがある。
疑問は疑問であり、それ自体は結果を表現する物ではないからだ。
多分ロボットが開発され、思考に近いことができるようになったとき、人間とロボットを分ける能力の一つにもなるように思える。
ふとテレビを見て考えた次第。
投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 01:37 | コメント (0) | トラックバック (0)