2004年9月30日
R.シュトラウスの音楽
先日、音楽著作権協会のホームページを見たところ、R.シュトラウスの作品が、特別の記事になっていた。ちゃんと読まなかったが、戦争を挟んでいた関係でいまだに著作権があると遺族が主張していたようで、しかし既に裁判でないということが決まったというような話だった。
R.シュトラウスという人は1964年生まれだから、既に生誕140年になるが、無くなったのが確か戦後1949年頃だったと思うので(調べろってか?)、まだ55年くらいしか経っていない。差し引きすると85才くらいまで生きたことになる。ヒトラーの元でも働いていたようなので世渡りはうまそうである。
ハードロックの項でも書いたが、私が初めて買ったクラシックのレコードの一つが「ツァラトゥストラはかく語りき」というシュトラウスの交響詩だった。「2001年宇宙の旅」ばかりでなく、CMやテレビの効果音としても有名な導入部を持つ美しい曲である。
シュトラウスは大きく分けると、若い頃に交響詩ばっかり書き、中年以降オペラを書き、晩年に少しだけ何かを書いたという印象のある、作曲家で指揮者である。オペラは、ワーグナー以降のドイツの最大の作曲家である。ワーグナーのように「楽劇」と呼ばれる作品も書いている。
私は最初に買った曲ではあるが、所詮冒頭の管楽器のファンファーレとティンパニの部分が好きで買ったので、そこから後が聴けるようになったのは大分後のことだった。しかし好きになると、「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」「英雄の生涯」「アルプス交響曲」と立て続けに聴き、マーラーの交響曲第6番とカップリングになっていた「メタモルフォーゼン(変容)」で、最も好きな作曲家の一人になっていた。「メタモルフォーゼン」は第二次世界大戦後の作品だが、切々とした弦楽合奏の中にもシュトラウスらしいコマーシャリズムみたいな親近感を持てるメロディラインが美しい。
ようやく最近、オペラが聴けるようになってきた。「ばらの騎士」の重厚な管弦楽に載せたきらびやかな歌は、ワーグナーでもなかなか聴けない。これを聴くと、なぜマーラーのオペラがないのだろうと残念な思いがする。
「サロメ」は、オペラとしては初期の作品に属するが、幻想的な前奏で始まり、ちょっと無調を感じさせるナラボートの歌は、詩付きの交響詩「ドン・キホーテ」といったイメージもあるが、私が唯一学生時代から聴けたシュトラウスのオペラ(楽劇)だ。
R.シュトラウスの音楽は、それまでのロマン派の音楽とはやはり一線を画すような感じがする。独特の世界観と、空間、そして音の厚み。まさに職人芸と呼ぶべき音楽で、友人のマーラーにあるようなどろどろした人間臭さはない。「英雄の生涯」などというオペラを書き、その英雄が自分自身だと言うくらいだから、ある意味脳天気だったのかも知れないが、とても安心して聴ける音楽だ(俺だけか?)。
作曲家で誰が一番好きか?と聴かれたらやはりクラシックにのめり込むきっかけを作ったマーラーと答えるだろうが、同時代だからというわけではなく、シュトラウスはやはりはずせない作曲家だ。
最近はあまり交響詩を聴いていない。「家庭交響曲」とか「マクベス」とか、佳曲は他にもたくさんあるので、いずれCDになっているのは制覇したいと思う。
でも今この時点でかかっているのはパット・トラバースなんだよな。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 11:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
うちでのこづち
打ち出の小槌はご存じの通り、一寸法師の背を伸ばしてくれた魔法の小槌です。
降れば望みが叶う素敵なツールです。
辞典を見ると、いいおじいさんが土産の小槌で「米、倉」といって米と倉を出したのを欲張りなじいさんが、同じ願いを早口で言ったところ、「小盲」がたくさん出てきたという物語を載せていましたが、放送コードにかかりそうなだじゃれです。
何でこのページが「うちでのこづち」なのかというのは私にもちょっと疑問です。もちろん開運の願いもありますが、ブログが開運の手助けをしてくれるとも思えません。取り敢えず身長も今の状態で不満はありません。
元々文章を書くのが好きなのか嫌いなのか、自分でもよく分かりません。そもそもは、小学校の頃を考えると、読書も文章書きも好きだったとは到底言えません。ことに読書感想文など、何で世の中にこんな物があるのだろうと思っていました。
今でも読書感想文は、「面白かった」で十分だと思っています。主人公がどう考えようが、その作品から何を得ようが、小説やエッセイを書くのと違って、人様に公言すべき根拠があるとも思えません。もちろん、言いたい人は言えばいいですが、全ての子供にそれをさせるのはどうかと思います。
食事の好き嫌いも大人になると大分変わります。読書嫌いの子供も、大人になれば本を読むようになります。読解力だって、個人差があるので無理して読むことはないように思えます。
高校生の頃、「こころ」を読んで感想文をという夏休みの宿題に、私は読まないで、なぜ読まなかったかを書きましたが、当時の先生は快く受け取ってくれました。今でも私はこの国語の先生に感謝しています。
おっと、話がそれましたが、うちでのこづち、この世の中に本当にそんな物があったら、欲しいですね。そんなうちでのこづちを、ここで文章を書くことで探してみたい、そんな気持ちで付けたタイトルです。即物的な意味も、精神的な意味も込み込みで、自分にとって有意義な何かを生み出す、「うちでのこづち」。魔法のランプでも良かったかな?
投稿者 keisuke_yui : | 00:07 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月28日
新しい内閣
第2次小泉改造内閣が発足した。郵政民営化シフト内閣とか巷では言われている。本人も言っているのだから、きっと郵政民営化を是が非でもやる内閣なのだろう。
郵政族や荒井広幸議員などは、郵政公社を民間にする意味がどこにあるかとか、民間にすると田舎の郵便局が無くなると言って懸命に反対をしている。
個人的には郵政公社が株式会社郵政になったとしても、さほど影響はないように思える。預金もほとんど無いし、都内に住んでいる。ただ、本当にそういうことなのか?
民間にできることは民間にというのが小泉さんの口癖だが、それなら、私は社会保険庁とその参加にあるような特殊法人を、同様に政府出資率の高い民間会社にした方がいいような気がする。ハローワークもそうだ。
とふと考えた。
そうじゃないな。郵政も含めて全て民間である必要はない。公社でも省でもいい。
それよりも、国家機関を始めとするあらゆる公的機関で、まず責任体制をしっかりすることと、必要以上の優遇措置をさっさと止めること、民間並みのリストラを断行すること、国会議員の数も減らすこととかだろうな。
ダイエーやらUFJやら、苦労してる企業はたくさんあるが、一番問題なのは国家だろう。日本国だ。
企業は金がなくなれば倒産する。資金繰りで汗をかいている社長さんはたくさんいるが、それでも自治体や国は税金も、年金も、何でもかんでも徴収し、足りなくなれば値上げする。国がやっていることは、値上げと、国債の発行で国を持たせているようにしか見えない。
議員も行政も、「まず隗より始めよ!」だろう。
どうみたって、国民が納得するような政治も行政も行われていない。まじめにやっているとか、そういう問題じゃない。あれだけマスコミに騒がれたって、議員宿舎や社会保険庁の局員の宿舎の家賃など、民間並みにする気などこれっぽっちもない。
議員年金を廃止するなどと息巻いていた民主党の河村議員はいったいそのために何をしたんだろう?10年つとめれば3年で元が取れるような年金を作ってくれれば、国民は喜んで月10万円でも払う。借金したって払う。なぜならこれは、ただの投資だからだ。しかも配当確実な。
議員の皆さんは言う。退職金代わり。そもそも定年すらない議員に退職金などいらんだろう。あるいは年数に応じて、民間平均の退職金を支給し、きちんと定年も設ければいい。
構造改革構造改革と言ったって、結局構造そのものは何も変わってはいない。
この間、行政が少しでもスリムになったか?目に見えて特殊法人が減っただろうか?いや、減ったのかも知れないが、全く劇的なものではない。
この間変わったことで印象的なのは、年金制度が値上げすることが決まったというだけのことだ。この決定がなされたとき、与党の皆さんは、世論などどこ吹く風。
あらゆる事を官と民で競うくらいの社会にしないと、結局はだめなんじゃ無かろうか。新しい内閣の面々を見ても、到底世の中が良くなると期待できるように見えない。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 01:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月27日
小惑星の接近
この29日にトータチスという小惑星が地球に近づくらしい。
月までの距離の4倍に当たる155万キロの距離を通過するという。155万キロというと時速60キロの車で約3年かかる距離だ。影響はないというが、天文学的にはとても近い距離なのだ。直径5キロもあるそうなので、頭上に落ちてきたらきっとすごく痛い。死んじゃうくらい痛いはずだ。
実は、今年の3月には地球から43,000キロ、4月1日に6,600キロまで近づいた小惑星があったのだ。6,600キロなら、時速60キロで110時間、4日半でいく距離だ。だから今回のは大したことないと思う無かれ。この3月と4月のやつは、それぞれ30メートルと8メートルの直径しか持っていないのだ。今回のはスケールが違う。
隣の駅に落ちたとしても、これまでのは大変だ!で済むが(実際はほとんど燃え尽きてしまうらしいが)、今回のは、やっぱり痛いかも知れない。いや、きっと死んじゃう。
1億5千万年も繁栄した恐竜が滅びたのも巨大な隕石の衝突だというから、人類が滅びるのも戦争や食糧危機などではなく、星がぶつかるという、まずそうなったら避けられそうもない事故で起こるというのは、多くのSFや仮説で言われるごとくである。
「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」のように、ロケットで人が飛んでいって途中で爆破するなんて、あまり成功しそうにない。
「地球最後の日」という小説(映画にもなった)では、ぶつかってきた星がでかすぎてどうしようもなく、人類の一部が宇宙に逃げるという話でしたが、運良くでかい星にくっついてきた衛生が地球軌道に乗り、そこに着陸するというお話しだったように記憶している。取り敢えず小説や映画ではハッピーエンドが主流のようだ。
隕石が落ちてきて人類が滅亡しちゃいました!なんていう作品はあまり受けないのだろう。
よく言われるのは巨大隕石の落下というのは1億年に1回くらいだから大丈夫という、確率論的には正しいが、通り魔に殺されるのは何千万人に一人だから安心しましょう、というのと同じくらい説得力もないし、同じくらい不運な結果だ。
ただ、通り魔と大きく違うのはみんな一緒に死んじゃうと言うことくらいだが、実はこの点はかなり大きい。
生あるものはいつかは死ぬが、それは個体に限らず、種や宇宙全般に関して言えることで、宇宙そのものに最後があるかは理論の域を出ないとしても、せめて太陽のような星には間違いなく寿命があるし、それは信用できる。
星が爆発したり、身近なところでは文化遺産を破壊したり、家を壊して更地にしたりと、何かの終演というテーマは身近にいくらでもある。あ、コンセントが外れたのかと思ったら、パソコン自体が逝ってしまった!!みたいに。
小惑星が上から降ってきて死んでしまうのなら、まあ諦めもつくし、一緒に死んでくれる仲間も極めて大量にいそうなのであまり怖くない。ピンポイントで屋根を打ち破って時々落ちてきたりする隕石では、泣くに泣ききれない悔いが残りそうだ。通り魔や、爆弾が落ちて来るというのは人為的な意志がどこかあるし、交通事故だって、万が一にも避けうる可能性を、人の行動に求めることができそうな気がする。しかし、そんな石ころに打たれて死ぬのは、不幸な偶然以上のものではあり得ない。
考えてみると、森羅万象とはよく言ったもので、この世のものは自分も含めて多かれ少なかれ何か見えない糸とか、エーテルとか、科学的な説明を超越した事象で繋がっているような気がする。実際にはそんな物はないのかも知れないし、因縁や縁起、運命という言葉と、確率、不確定性、統計などというのは実は同じフィールドの何かを別の角度から眺めているに過ぎないと思えることもある。
とにかく、小惑星が近づいてきて、思いを馳せる。あの小惑星に乗ってどこまでもみたいなロマンチックな想像に思いを馳せても、小惑星は一定期間に楕円軌道を描いてまた近づいてくる。次回はもっと近いかも知れない。6,600キロの記録を破る小惑星が、今回のトータチスを上回る巨大な小惑星で、近づきすぎて地球の引力に捕まってしまったら、世の中はどうなるのだろう?
映画やシミュレーションではよく聴いたり見たりする、大気圏を覆うチリと、氷河期。人類滅亡のシナリオと落下地点のどちらにいたいかで性格判断ができるかも知れない。
あなたはどっち?
投稿者 keisuke_yui : 科学 | 01:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月26日
人の名前
人名用漢字の答申が出た。
これを見ると結構難しい字が多い。読めても書けない文字がたくさんある。
以前案が出されたときには、「糞」「屍」「癌」なんていう字が含まれていて話題になった。そんな名前を子供に付ける親がどうかと思うが、いないとは限らないので使えないようにしておくに越したことはない。
ただ、使えるようになった字の中でも、これはどういう風に使うのかな?と思う漢字の方が多かったりする。言ってみれば、人の名前としてどうよ、みたいな。
名前というのは苗字も含めて、自分で選ぶことができない。
鈴木一郎でも、大リーグ記録を塗り替えるほどになると、天下のイチローなわけで、名は体を表すというのは名前負けしない中身という意味に近いと思うが、所詮は名前というのは記号に過ぎないのだと思う。物や人を他と区別するための記号だ。
だが、人間というのは面白いもので、その記号にこだわる。
自分の子供が幸せになるように名前を付ける。自分の名前は好きだとか嫌いだとか、果ては、名前で人生まで決まるというお話しまで出てくる。
かくいう私も由比敬介などという名でホームページを運営し、ここでもそういう風に書いている。最近たまに文章をの依頼があるときでもその名前を使う。本名もあるのに。
昔、編集の人に、「本名の方がいい」と言われたことがあった。
ある意味、客観的に考えると、あながちそういう意見が出るのも不思議ではないと思う。なぜなら、私の本名は、かなりの確度で間違えて読まれる。決して難しい字ではないのに間違える。音としても、文字としても難しくはないし、多くの人が名前としてではなく口にするような音だ。だから間違えるのかも知れないが。
だから本名を使わないというわけではない。
どちらかというと気分の問題だと思う。
あるいは、ペンネームという響きにあこがれていた頃の名残かも知れない。
ただ、いずれにしたところで、別の名前を使う場合、人間は日常的な自分とは別の人格を演じていたり、何らかの形でそこから切り離した行為をする場合がほとんどだろう。悪い場合は詐欺だったりするわけで、これはまさによろしくない行為ではあるが、例えば芸能人がカメラの前と普段が別人格だったりするのも、ファンなどにとっては軽い詐欺に等しいものかも知れない。
以前、栗本薫の文章で「自分は多重人格だ」みたいな記事を(後書きだったかな)読んだことがあるが、病的な多重人格はともかく、仕事と家庭、あるいは誰と誰というように場合によって人は別の人格を演じているのが普通ではないだろうか。
誰の前でも、あるいは自分一人の時でも、なのも変わらないという人がいたら、それはそれで貴重だ。
名前というのはある意味で、自分の人格とその個人を結びつける記号だとすれば、時には違う名前を使えるというのもいいかもしれない。国民総背番号制みたいに、一人一人のIDがいい形で確立される世界が来れば、そのときには登録制で複数の名前が使える世の中が来てもおかしくはない。
仕事の時は実直そうな名前、彼女の前ではかっこいい名前なんていう風に。
サインやはんこ、カードと暗証番号、結局のところ完璧にその個人を特定できる仕組みがないから、勝手に口座から預金が引き下ろされてしまったりする。きっと指紋や声紋、光彩など、個人を特定する技術が進めば、記号としての名前など、会話をするときの相手への呼びかけ程度にしか重要ではないだろう。
もちろん、100の名前を持つ男なんて、ミル・マスカラスみたいな人間が友達だったら、あるいは迷惑かも知れないが。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 02:44 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月25日
中学生へのセックス規制
先日、東京都の「青少年の性行動について考える委員会」というところで、中学生以下のセックスを規制する条例を作ろうという意見が提出されたとニュースでやっていた。
もちろん、どんな人に聴いても、条例でそれをやるというのはおかしな話だし、そもそもどうやって適用するのか、その運用方法にしたって現実性が薄い。
セックスをしてしまう中学生に、条例をちらつかせたところで、そんなものは止まるはずもない。大人の間で愛のないセックスが氾濫する中で、意外と中学生のセックスこそ純粋なものが多いのかも知れないとさえ思うが、私も結果的に責任を取れない人間が安易にセックスをするということ自体はいいことだと思わない。だがこれは中学生以下だからという単なる年齢の問題ではないだろう。
青少年の性行動という問題は、当然の事ながら、我々大人が、長い間に作り上げてきたもので、世界に冠たる性産業国の日本としては当然の結果のように思える。
もちろん、だから放っておいて水子の数を増やすというのはいいことではないだろう。世界では妊娠中絶の自由などという議論もあるようだが、たとえそれが自由であっても、しないに越したことはないし、辛い思いをするのはほとんど女性である。
改善されるかどうかは判らないが、これは教育をすること以外に方法はないと思う。基本的に非行にしても犯罪にしても、子供の問題は教育以外では解決しない。
法律で禁じることが、場合と事によっては必要なこともあろうが、それだけで解決するはずもない。
逆に言うと、子供だってバカじゃないので、中学生以下のセックスを(実際には妊娠中絶と、性病の蔓延を)防ぎたいために、条例に頼ろうとする大人を見ることで、より子供は大人に対する信頼や尊敬を失うのである。メディアが発達したおかげで、人はたとえいくつになっても、必ず博愛と正義を求めるものではないのだということが明快になる。
大儀がどうあれ、イラクでたくさんの命が日々失われていくのを、子供たちも見るし、最近の子供は怖いと、少年事件の旅に言われるし、私遅う思うが、では、少なくとも彼らより思慮分別をもてるはずの大人はどうかといえば、少年犯罪に比べてより犯罪件数が多いのは当然のことだ。
実はここから学ばなくてはならないし、有史以来続けてきた戦争をすら超えることのできない人類が、若年層の性という問題で右往左往するのはやむを得ないことかも知れないが、やはりそれは、親が子に、大人が子供に、正しいと思えることを教えていく社会を取り戻す、あるいはこれまでもなかったのであれば作っていくことが必要なのだろう。
自分だって中学生の頃セックスしたかったができなかった。これは、それが間違っているからと思っていたわけではなく、相手がいなかったし、それほど自分が成熟していなかったと言うこともある。別に当時もそんな教育はなかったが、AVを始め、これだけ性が氾濫する世の中では、やはり徹底して行うことが重要だろう。
せめてコンドームしようぜ!てなことを、総理大臣が言ってもいいかもしれないな。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 02:23 | コメント (1) | トラックバック (1)
2004年9月24日
犬のお話し
昨日テレビで、インターネットを利用したペットの詐欺の話を見た。
犬好きでたくさん飼っている人が、里親になりたいという女性に8万円で犬を売った。しばらくしてもう一匹売って欲しいということで犬を送ったが、お金は振り込まれなかったという。実は前の犬も16万円で転売されていたという。
かつて私の実家では犬を飼っていて、20年近くも生きた。チンと何かの間の雑種だが、とてもかわいかった。わがままだったが。客観的に見てもかわいかったらしい。名前の話を書くと長くなるのでここでは書かないが、犬や猫、なべてペットというのは、概ね自分が飼っているのが一番かわいいと相場が決まっているらしい。かわいがっていればいるほどこれは事実で、自分の子供に対する感情とは比較にならないほどこの傾向は強い。
であればこそ、かわいい犬や猫が欲しくて商売にもなる。
かわいがりながら育てるブリーダーもいれば、本当に商売に徹するブリーダーもいる。これは当然のことだ。
冒頭の詐欺のお話しだが、2匹目の犬に関しては詐欺というより、窃盗に近い感じもするが、転売した1匹目は詐欺なのだろうか?と思う。確かに、新しい家族が増えるとか何とか、いかにも自分で飼うような台詞で買ったらしいが、どういうものだろう。
こういうたとえは良くないかも知れないが、自分で読みたい本やCD、車を買って、読み終わったら売る。聞き飽きたら売る。ある程度走ったら売る。
ペットを物扱いするなと言われそうだが、そもそも金出して売買が成立している時点で「物扱い」では無かろうか?
もちろん、私は転売した人はよろしくないと思う。有償であっても、そこには是非かわいがって欲しいという売り主の気持ちもあるし、当然そうしてくれると思ったからこそ売ったのだろう。転売すると判っていたら、売らなかったに違いない。
だが、私にはもう一つその辺りが釈然としない。
中には実験動物として研究者に売られるケースもあると放送では言っていた。
確かにかわいそうだが。
でも私は、ここに捕鯨の問題と共通する何かを見てしまう。
どんなにペットをかわいがっても、見えないところで、研究動物として死んでいく犬や猫がいる。商取引の道具として犬や猫が存在する以上、動物愛護とかに反しない限り、転売されたとしても、結果的にいい飼い主にその動物が渡っているのであれば、それはある意味喜ばしいことではないのか?
冒頭の件は、言ってみれば、卸会社を通じて商材を販売している小売店みたいなもので、形式的にはそれほどひどいことではないような気もする。但し、人間関係や道徳的な問題はまた別だ。
その、転売をした女性の電話口での反応を聴く限り、架空請求や、無理矢理商品を買わせるような業者の口調と、同工異曲なものを感じないではいられなかったからだ。
ペットとしての犬や猫。最近では野良犬というのを滅多に見かけないし、猫だってどこまで野良なのか判断が付きづらい。いずれにしても、人間とこんなに近しい関係を築き上げた彼らが、やはり幸せに生きられる世の中が望ましいのだな。ほんと。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 01:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月23日
ハードロック
私はハードロックが好きで、知り合いもそのことはよく知っている。
でも私のハードロック歴は(今となっては長いが)、例えばDeep PurpleやLed Zeppelinが好きだといっても、リアルタイムでは聴いていない。むしろ、Deep Purpleが解散したときに、ラジオから特集でその音楽が流れているのを聴いたとき、なんてうるさい音楽だろう、俺は聴かんな。そう思っていた。
同じようなことは例えばクラシックでも言える。小、中、高と音楽の授業はあったが、ホルストの「惑星」とシューベルトの「魔王」以外で興味を持った作品は一つもなかった。
さて、現在はそのどちらも大好きで聴くのだが、そもそもはハードロックにある。それまでは歌謡曲ばかりを聴いてきて、洋楽といってもせいぜい、TV番組の「ソウルトレイン」やちょっとしたラジオ番組で聞きかじる程度、むしろ映画音楽やポール・モーリアなどが私にとっての洋楽だった。
ある朝、起き抜けのNHK-FMで、洋楽の新譜を紹介する番組をかけていた。学校へ出かける直前のことだったと思う。かかっていたのはRainbowの「Rising」というアルバムで、このRainbowは前出のDeep Purpleにいたギタリスト、Ritchie BlackmoreがELFというバンドを率いて作ったバンドで、このアルバムは2枚目、既にELFのメンバーはボーカルを除いて総取っ替え、曲想はともかく、音色などは別物で、むしろDeep Purpleよりもうるさかった。
ところが出会いというのは面白い物で、私はこのアルバムに打ちのめされた。当時ステレオの無かった私はエアチェック(懐かしいな!)したカセットを聴きまくった。
最初に買ったアルバムは彼らのライブ・アルバムだった。
そこからが私のハードロック人生の始まりで、高校3年の時だった。同時にEaglesの「ホテル・カリフォルニア」なども流行っていたので、嗜好はハードロックにとどまらず、ロック全般に広がっていった。
ちょっと話はずれるが、私は当時映画の「2001年宇宙の旅」を見て大好きになり、その冒頭に流れるR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」を買った。
RainbowのドラマーはCozy Powellだったが、彼はライブでチャイコフスキーの「1812年序曲」という曲をバックにドラム・ソロを叩いていた。で、「1812年序曲」を買った。ついでに、なぜか「白鳥の湖」の抜粋版を買った。有名な「情景」のメロディーが好きだっただけで、「ドカベン」の影響ではない。
この3枚がクラシックを聴くきっかけで、言ってみれば、ハードロックあってのクラシックだった。ハードロッカーはなぜかクラシックが好きだ。特にバロック音楽。「Ritchieの何とか言う曲はバッハのコード進行と同じだ」そんな文章を読んですげえなと思った。今考えてみると、よく意味が分からない。
さて、クラシックの話は別の機会に譲るとして、ハードロックだ。
Rainbow以来、多くのハードロックバンドを聴いた。当時はDeep PurpleよりもLed Zeppelinの方がかっこいいというイメージが何となく世間にもあった。渋谷陽一氏とかがいろんなところで公言していたのも一つの原因かも知れないが、確かに、Zepの方が、あか抜けているような感じがするというか、Purpleは要は歌謡曲なのだ。この路線で言えば、WhitesnakeやScorpions、Uriah Heepといったバンドが歌謡ハードロックといった感じだろうか。ある意味Zepは孤高なのだ。そして、Zepの根底にあるのはブルースだが、Purple系バンドはどちらかというとクラシックの臭いがする。そんなイメージの違いが一つの理由であるようだ。
私は当然Zepも聴くが、どちらかというとPurple畑の人で、Ronie James Dio とDavid Coverdaleという二人のボーカリストが好きで、この二人がアルバムを出せば、もう60才だと言われても今だに購入する(Ian Guilanじゃないんだなこれが)。面白くなくても買う。これは対象のアーティストが違っても、音楽好きにはよくあることではないかと思う。
最近のハードロックバンドにどんな人たちがいるのか、実はよく知らない。Aerosmithは最近でも流行っているようで、昔は聴いたが(今でも「Dream On」や「Kings and Queens」「Draw The Line」なんて曲は好きだ)、このところあまり聴かない。実際、Deep Purpleも現在でもバンド活動をしているようだし、新譜が出れば聴くこともあるが、かつての、レコードに針を落とすときの高揚感や、隅から隅までライナーを読んでいた頃の情熱はない。
今これを書いている瞬間、MSGの「Searching for Reason」という曲がかかっているが、ほんとなぜなんだろう?
うちの親父は浪曲と、ディック・峰、村田英雄など、往年の大歌手が好きで、子供の頃、大晦日、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)でやっている、懐メロ番組を見ていてレコ大などの裏番組を見られないため、子供心に不満を感じていた。
最近でもその番組は続いているようで、見ると今では、私が子供の頃に活躍していた歌手も多く出ている。下手すると、40代の歌手でも出演している。確かにそのころの歌謡曲やフォークは懐かしいから、意外と耳に心地いい。
私にとっての70年代ハードロックは、この耳に心地いい感を持った音楽である。
音楽の感性というのが、若い頃に耳にした、しかも興味ある音楽によって何らかの形で固められるのかなという気さえしている。もちろん全員が全員ではないし、せいぜい傾向というに止まることだけど、若い人と中年、そしてさらに年配という風に、おそらくは音楽の嗜好はかなり固定的に意識付けされる、そんなようなそんなものかもしれない。といって、新しいものを受け付けないというわけではないだろうが。
今日私は、CDショップで、サイモン・ラトル指揮のメシアンの遺作「彼方の閃光」という曲を試聴した。素晴らしい音楽だった。いずれ購入しようと思ったが、事情があって今日は買わなかった。
きっと、現代のハードロックもいい物がたくさんあるに違いない。なかなか耳にする機会がないので知らないだけだろう。なんだかちょっともったいない気がする。
あ、今サンタナがかかっている。サンタナも好きなんだなあ。
そのうち。
投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 03:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月22日
「幼年期の終わり」-A.C.クラーク
クラークといえば、言わずと知れたSF界の黎明期からの巨匠で、作家というばかりでなく、科学者でもあり、相当な高齢であろうが、今でも存命である。どちらかというと表題の「幼年期の終わり」よりも、映画「2001年宇宙の旅」の原作者として、認知度は高いかも知れない。
この「2001年」でもそうだったが、デビュー作の「太陽系帝国の危機」あるいはそれ以前の「前哨(2001年の原点といえる話)」の頃から、近年の「宇宙のランデブー」に至るまで、徹底して彼のテーマの一つとして取り上げられる、宇宙の異知性、高次の知性体というものが、この「幼年期の終わり(Childhood's End)」でもテーマの中心となっている。
今となってはちょっと古い「インディペンデンス・デイ」の映像をテレビCMで始めてみたとき、私は「幼年期」が映画化されたのでは?とちょっと思った。あのニューヨーク上空に浮かぶ巨大な宇宙船の姿は、まさにカレルレンが乗っていた宇宙船を彷彿とさせた。あの映画自体はそれほど嫌いではないが、圧倒的なスケールで描くことができたあの巨大な宇宙船像を、「幼年期」のためではなく、アメリカ万歳のために使われたのはどうも釈然としないものを当時感じた。
あまり小説をうまいと褒められることのないクラークだが、この作品は良くできている。全体は3部構成になっているが、第一部で謎を呈示、簡単に第2部の冒頭でその謎を明かし、停滞とも言える中間部を通り抜けると、一気にフィナーレになだれ込む。最初の謎など、全体を貫く思想的なテーマに比べれば些末なことという感じである。印象としては3楽章の交響曲を聴いている感じがする。
万が一この文章を読んで作品を読もうと思う人がいるといけないので、ネタバレとなる内容にはあまり触れないが、1950年代の前半という時期にこの作品を書いたクラークは、まさに生粋のSF作家と呼ぶに相応しい人だと思う。
ここにはStar Warsのような作品がSFとは思えなくなるような、絢爛たる黄金時代のSFらしさがあり、今でも私が最も愛してやまない作品の一つでもある。
「2001年」の映画のような解りづらさはここにはないし(「2001年」も小説版はそれほど難解ではないが)、真にセンス・オブ・ワンダーと呼べる工夫がある。恐らく今となっては、この作品が取り上げたそれぞれのアイディアは、古くさいに違いない。藤子F不二雄が短編で取り上げてそうな内容の組合せに見えるかも知れない。
でも、第2部冒頭の種明かしが、今ではちょっと陳腐に見えても、ラストシーンが夢物語に見えても、カレルレンが最後に言い残した一言がこの作品を非常に詩的で叙情性の富んだものにしているのは間違いない。
「・・・・我々は石女なのだ・・・・」
という訳文を充てた、早川書房版の福島正実氏の訳が秀逸だ。
そう、この作品は、地球上の各首都に、空を覆い尽くすような巨大な飛行物体が訪れるところから始まるが、侵略者と戦う大統領などという陳腐な作品ではない。常に、宇宙を見つめ、科学者としての厳しすぎる目で宇宙開発に関わったりなどしていた作者が、同じ視点で、しかし想像力を生かしながら人類に夢を託した作品なのだ。
てなことで、これからも自分の好きな作品で、面白かったものを取り上げていきたいと思う。結構古いのが多いかも。
投稿者 keisuke_yui : SF | 03:33 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月21日
158キロ
俺ってこんなに野球ファンだったか?
このエントリーを書くにあたって、考えてみましたが、そんなことはないのです。
親父になったんだといわれると、しゃくに障るので、別に対して好きじゃないと言い放ちますが、ファンというにはおこがましいほど、薄いファンです。
きっと私は、何に関しても薄いファンなんだな、とつくづく思います。別に球場へも行かないし、テレビもながら観です。
だから野球の記事ばっかり書くのは気が引けるのですが、昨日おとといがストだったからという理由ではなくて、今日のヤクルト・阪神戦で、ちょっと感動したのでそのことを。
私はヤクルトファンなので、当然ヤクルトを応援しているわけで、今日は勝ったから、少しだけ機嫌がいいのかもしれません。今日の試合は、岩村のホームランでヤクルトが1点を勝ち越した後、どちらもチャンスを生かせず、追加点が入らないまま、9回まで来ました。
1点差ですから、ヤクルトのマウンドは当然五十嵐亮太です。150キロ以上の速球をばしばし投げる、今球界で最も早いピッチャーです。去年までに比べると、今年は大分コントロールも付いてきて安定しているので、間違いなく今年の最多救援投手になるでしょう。
さて、彼は去年まで157キロという球が最速でした。歴代の日本の最高速度は158キロで、五十嵐も実は今年既に1回158キロのボールを投げています。ストライクではなく、ボールでしたが。
今日五十嵐は9回にツーアウト満塁というピンチを迎えていました。阪神のバッターは矢野でした。矢野もいい選手です。非常に危険な場面でした。去年までの五十嵐だったら、「ああ、ワイルドピッチで同点か!」と思ったことでしょう。
でも今日の五十嵐はちょっと違いました。
1球目を154キロで空振り。
2球目に158キロ(ボール)
3球目158キロ、ストライク(空振り)
4球目158キロ、ストライク(ファール)
5球目153キロ、ボール(三振)
という内容でした。158キロ三連ちゃん!!思わずテレビを観ていて拍手してしまいました(恥ずかしい)。でも素晴らしい。
きっと五十嵐は近いうちに160キロを初めて投げた日本人選手になるでしょう。まだ若いし。がんばって、高津や佐々木を抜いてほしいものです。でも、国内でね。
今日は面白い試合が多かったようです。サヨナラホームランを打った新庄が前の打者を追い抜いてシングルヒットになってしまったとか。スト効果ではないでしょうが、いいことですね。
投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 03:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月20日
暑かった夏
今年の夏は30度以上の真夏日が歴代1位に並んだという。暑い夏だった。明日も30度を超えるらしいし、いずれにしたところで記録的な夏には変わらない。
大分昔から異常気象という言葉が聞かれる。
オゾン層が破壊されたり、森林がどんどん減っていったり、人為的な原因で自然界に大きな変化があるのも事実だ。それらのことが世界的な気象の変化に何も影響していないとは言い難い。しかし、太古の昔から、地球は、何度も氷り、大地を何千キロも動かし、数々の天変地異を超えて今の状態になっているので、ここ数十年の天候の違いは異常気象などと呼ぶべき物ではないように思える。
東京が熱いのはヒートアイランド現象などに象徴される人の多さと、室内を涼しくするために熱気を外に出している影響かとも思う。それが証拠に、冬も暖かくなって、東京の雪は昔に比べて大分減っている。
「デイ・アフター・トモロー」ではないが、自然災害で人類に危機が訪れるなんて言うことも、あたら空想とばかり言い切れない時代が来るかもしれない。
その関連ではないが、今年は熱いばかりでなく、台風の上陸も多かったし、アメリカでも歴史的に巨大なハリケーンが襲ったりと、嵐の災害も大きかった。東京近辺に住んでいると、台風の被害というのは毎年あまり多くない。そんなのが毎週のように来る地方の方は本当に大変だと思う。
こういった自然の変化は、大きな流れとしては、少なくとも地球全体の温暖化の方向に進んでいるし、この流れは簡単に変わるものではないのだろう。
人類ががこの世に出現して、長く見ても数百万年。有史以来であれば数千年。産業革命からでも数百年。原子力が生まれてからなら100年も経っていない。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 01:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月19日
血液型
私は基本的に占いを信用していません。
それは、生まれた日付による星座や、干支、惑星、手相などといったものが、人の運命や性格に関係するという根拠が全く見えないからです。まあ統計を取ると、多少の傾向みたいなものが抽出できる可能性はあると思います。でもそれは、サイコロを何回も転がしたり、ルーレットでどの目が出る確率が高いかを計算ではなく、実証で導き出そうとするのに似て、確率論的な公平さを以て結果を証明はできないからです。
サイコロに関しては、穴の数とサイズ(1〜6の目の重さの違い)で、どの目が出やすいかと言うことが計算で導き出せるということを、確か「へぇ〜」で放送していたような記憶がありますが。
ある月の生まれが、統計的に今日は運がいいとか、金回りがいいとかいっても、そんなに極端な差が出るとも思えませんし、差が出たとしたら、サンプルの取り方がきっと悪いのでしょう。
現代人に限らず、未知のことには人間は弱いものです。
例えば、人が死んだ後どうなるのかなんて、死んでみなければ証明できないことです。その点科学には自ずと限界があります。科学的な証明が年月を経て覆されてきたのは枚挙にいとまがないことですから。魂を脳の皺に置き換えることはできても、魂がないことの証明にはなりません。
では、占いもそのようなものだから、否定しきれないのでは?という理屈はある意味正しいので、信じるものは救われて頂ければいいとは思います。そこまで強硬に、非科学的というレッテルで否定する意味があるとも思えませんから。
ただ、では信じるに値するかと言えば、どんな占いも一見当たってそうな部分がある反面、全く当たっていないこともあります。いわば、当たるも八卦当たらぬも八卦といわれるゆえんでもありましょう。この16進法に依るいい加減さの主張は、やはり信じるものは救われるという部類のものでしょう。
ところが、血液型というのはちょっと様子が違っていて、少なくとも性格判断の役には立つような気がします。そうなるとそこから演繹できる運勢みたいなものも、うまくすればあながち間違いとばかりも言えないと思えます。
世に血液型というものが存在し、相互の輸血が可能であったり不可能であったりします。この生化学的な事実の中で、血液型の違いが人間に分類可能な何らかの性格付けを持たせていると言うことは、かなり説得力があります。
もちろん、A型は今日は運がいいなどというのは信用なりませんが(何も根拠がありませんから)、人の生き方や生活をしていく上で、自分の血液型がどういう性格的特徴を持っているのかを認識しておくことは、意外と役に立つような気がします。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 02:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月18日
プロ野球スト
とうとう、明日、明後日とプロ野球がストを行うことになった。
労使交渉が決裂したからだ。
野球ファンの多くはストを支持している。大リーグと違い、自分たちの年俸がどうのというような利己的なストではないからだろう。むしろその利己的な側面は経営者サイドに色濃く見えるからだろう。
根本的に、パ・リーグの経営が苦しいのは当然のことで、猫も杓子も巨人や大リーグに行ってしまう選手にも多少は問題がある。
巨人が勝つことを義務づけられているというような表現を時々見かける。例えば、巨人・大鵬・卵焼きといわれた頃や、「巨人の星」「侍ジャイアンツ」といったようなアニメで巨人ファンを義務づけられた幼年期を抱える大人たちが多い中で、野球といえば巨人、何かを超越したように「長島、王」。また、なんだかんだとマスコミを上げて巨人を応援しているかのような昨今、パ・リーグが活気づくはずはない。「男どあほう甲子園」はあったが、そうしたって関西ローカルで、全国区にはならない。
経営者だってきっと巨人ファンなのだ。
そんな根本的な問題を抱えながら、野球界は多分自助努力を各球団で行ってきたのだろう。各球団が、その親会社の一つの宣伝媒体であり、まず第一義としてそのためにこそ存在している限り、問題は解決しない。新規参入を考えるlivedoorや楽天にしてもその辺りの感覚が旧態依然としたものであれば、あまり何かが変わることは期待でない(そうでないことを若い経営者に期待しよう)。
投稿者 keisuke_yui : スポーツ | 02:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月16日
電話の値段
最近、日本テレコムと契約した。NTTよりも基本料金が安くなるのと、通話料金もお得だからだ。 実際にはKDDIも同じように安い。
そもそも、固定電話を家に繋ぐために、かつては高額の債権なるものを購入し、回線を引いていた時代もあった。電電公社がNTTになり、現在でも新しい回線を引こうとすれば、債権が形を変えた施設設置負担金が72,000円かかる。既にこの時点でおかしなことだが、NTTという民間企業になって20年も経つが、未だに変わらない。
基本的に電話回線は公社時代に主要な線をほとんどNTTが持ち、恐らく今でも回線自体はNTTの独占に近いような(仕組み自体をよく理解していないが)なのだろう。だから、マイラインなんていう精度が始まっても、これまでNTTに基本料金を払ってきた。
実は基本料金といいながら、プッシュ回線を使うだけで600円の料金がかかる。今時ダイヤル式使う人なんているのか?つまり、普通に電話を購入して、繋ぐだけで、基本料金が2300円くらいかかる。今時は、携帯を使う頻度も増えているし、通話料金も大分下がったので、下手をすると通話料金の方が全然安いことさえある。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 22:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月11日
なっとうごはん
関西以西の方はともかく、納豆は意外に嫌いな人が少ない食品だと思います。その臭いが気にならなければ、きっともっと広く食べられるに違いありません。
納豆は料理にも最近ではよく使われ、寿司はもとより、オムレツや、カレーなど幅広く見ることができます。
ところで、納豆はどうやって食べますか?
多くの方は醤油とカラシとか、納豆に付いているタレとか、そこに卵を割り入れるとか、そうしたものをご飯にかけて食べるでしょう。私も別に変わった食べ方をするわけではありませんが、みそ汁にご飯を入れ、そこにかけて食べるのが一番好きです。みそ汁かけご飯じゃありません。ご飯にみそ汁をかけるのと、みそ汁の中にご飯を入れるのでは味が違うのです。
この話をすると、ほとんど賛同を得られません。実際にやって見ろといっても、ほとんどの人がトライしません。なぜなのか頭を悩まします。でもまあ、食べ方など人の自由ですから、「こりゃおいしい」というのは単なる軽い自己主張で終わっていいのです。そうして私はまたその食べ方で幸せに浸るのです。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 18:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月 9日
この世のこと
私は昔から、この世の不思議についてよく思ます。
なぜ自分はこの世に存在するのか、なぜこの宇宙はあるのか?
そんなことが私の天文学や物理学への興味に繋がっています。ただ、では科学者を目指したかと言えば、幼い頃こそ天文学者になりたいと思っていましたが、少なくともずっと文系の道を歩んでいます。尤も、現在はコンピュータを仕事に選んでいるので、理系で飯を食っていると言えなくもありません。
今まで多くの科学に関する書籍や、番組などを見たりしてきまいしたし、哲学書まがいのものもかじってもみました。しかし、結論から言えば、所詮人間に答えの出せる問ではないのだというのが私の考えです。であればそこで追い求めるのを止めればいいようなものですが、近年いや増して興味は募るばかりです。
それは恐らく、自分の人生の意味や、社会問題、様々な自分を取り巻く環境の中にある理不尽さや不公平感といった問題に、より強く関心を持ち始めたからです。手相や、星の巡りや、果ては動物、色、あらゆる物で自分の性格や行く末を知りたいと思うようなものと、実は同種かな、なんて思ったりします。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 01:57 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月 7日
プロ野球のスト
このまま近鉄とオリックスの合併が決まったら、今週末から土日は野球をやらないようです。つまりストライキです。この合併問題は今更私がここで何かをいっても仕方ないので前回のエントリーで止めておこうかと思ったのですが、野球と言うことを離れても、企業の構造的な問題もはらんでいそうで、ちょっと追記しようと思い立ちました。
ストといえば、思い出されるのは国鉄や私鉄のスト。私などはどちらかというと、ストで学校や会社が休みになるのを歓迎した、情けない部類の人間ですが、そもそもストライキというのはそうすることでしか闘うことができない労働者が、最後の手段として仕事をボイコットすることで、そうされてはその期間の収入が断たれて困る経営者とのぎりぎりの交渉手段です。
春闘といっても最近はストなどあまりお目にかかりません。一部ではやっているのかもしれませんが、かつてのように、資本家と労働者という二極が完全に対立した格好での組織というのが実はあまり無くなっているからではないかと思います。
昔に比べれば、社員の権利というのは大幅に広がり、経営者側も、少なくとも建前上は、「皆さんたち社員の力がなければ」会社が成り立たないと言うことを認めているからだと思います。つまり、「雇ってやってる」感が薄れたといってもいいでしょう。
でも今のプロ野球界を見ていると、どうも経営者側が、「おまえらを雇っているのは俺たちだ、選手の分際で経営に口を挟むな」といっているように見えます。そもそも経営に失敗して合併話をしようとしている経営者がなにをか言わんや、といった見方もできますが、それはさておき、私には経営者の傲慢が見えて仕方ありません。
そもそも私も経営者の端くれではあるのですが(ほんとに縁の部分です)、経営というのは確かに大変だと、私程度でも感じます。何千万円の赤字を抱えているわけでもなく、何千人も社員を抱えているわけでもありませんが、近鉄が抱える、あるいはパリーグ各球団が抱える辛さの一端を感じ取ることはできます。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 01:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月 5日
遠く離れて・・・
私は今、東京の荻窪に住んでいます。いいところで好きですが、やはり家賃が高かったり、都会なりの住みにくさみたいなものも同時にあります。
日本という国は、あまり大きな国ではなく、カリフォルニア州よりも小さい。何となく思うんですが、稚内から指宿まで旅行する方が、カリフォルニアを縦断するよりも遠い気がします。もっというなら、北海道へ出張するのは、カリフォルニアからテキサスまで行くくらいの感じがします。例えば映画で、FBIやCIAの局員がニューヨークから全く別の、しかもアメリカ中部の田舎町に派遣されるとき、なんだかすごく近くて、秋田県の現場に本庁の刑事一課から来ましたというのと同じくらいの気軽さを感じてしまいます。
住まいとして適しているのは便利でのんびりして空気がいいところ。
何となく映画の気軽さで、どこかに移動できるなら、信州や、東北の温泉地、あるいは北海道と、自分の好きな土地で暮らしたいなあ、望みとしては星がきれいで、1年を通じて天気が比較的いいところ。余生は自家製の天文台で星を見て暮らしたい、なんて思ったりするわけですが、そうは簡単にいかないわけです。
でも、先ほどちょっとテレビでやっていたのですが、新幹線の通勤費を300万円も出してくれる村があるとか。その辺りに越したら、意外と望みに近い生活ができるのかもしれません。
まあそのためにはもう少し事業を成功させて、様々な問題をクリアしないといけませんが。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 14:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月 3日
反省
文章を書くっていうことは、少なくとも私にとっては重要なことで、リハビリとは言いつつも、訳の分からない文章を、どれほどの人が読んでいるか分からない(実際には非常に限られたごく少数だと思いますが、今のところ)こういう場で公開するというのはいかがなものか、そんな内からの声が聞こえてくるような、前回のエントリーでした。
正直言って自分で何が書きたかったのかも分からないし、本音を言えば、書いている時点で自己破綻していたというのが正しい。
文章というのはそもそも、意志や情報を第三者に伝えるための道具であって、その根本的な機能を果たしていないとすれば、それは文章とも呼べないわけです。そういう意味で、自分が何が書きたいのか分からなくなった時点でそれは文章としての価値を失います。であれば、修正するなり、消すなりというのが普通の処理でしょうが、まあそこはリハビリ故、寝起きの約束のような、それこそいい加減だけど憎めない、かすかに伝わる趣旨を尊重して残しておきます。その意味の自省を込めて、次回からはちゃんと書こう。 敬具っと。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 16:44 | コメント (0)
いいかげんの美学
いい加減と好い加減は似て非なる言葉。
世の中といえば、きちんとまじめに生きることが、あたかも正しい生き方で、いい加減な生き方はよろしくないと、おおかた相場が決まっているようだ。
まじめに宿題をやる生徒と、宿題をやってこない生徒、この差の大きさは一つのいい加減さの基準ともなろう。
確かに、いい加減な医者、いい加減な工事、いい加減な装備の冬山登山など、いい加減じゃいけないことは枚挙にいとまがない。いい加減じゃ飛行機も空を飛べなかっただろうし、人間も月に降り立っていない。
でもこれは、いい加減なことがいけないと言うことの証明にはならない。いい加減が不向きな事柄が世の中にはたくさんあるのだと言うことの例を挙げているにすぎない。
「もういい加減にしなさい」と、ゲームばっかりにうつつを抜かす息子に母親が小言を言う。このいい加減は、微妙にいい加減と好い加減の狭間を行き来している。
投稿者 keisuke_yui : 人生 | 02:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月 2日
?
昨日書いたエントリーが消えてしまった!
なんて事だ。
と、これはテストで書いております。
投稿者 keisuke_yui : 日常的 | 15:11 | コメント (0) | トラックバック (0)