しばらく前に、都がハトにえさをやらないキャンペーンを始めた。ハトが増えすぎて、駅の近くとか公園などがある近くでは、被害が相当ひどいらしい。ただ糞が汚いという以上に、乾いた糞が人体にも影響を及ぼすらしい。
 カラスは大分前からゴミをあさるし、雛が成長する時期は人を襲ったりと、被害は大きかった。私のところでも、ゴミにはネットをかぶせている。
 杉並区の一部で、青だったかのゴミ袋をカラス対策でテストしているところがあるというのもニュースで見た。カラスに見えないのだそうだ。
 カラスが利口だとか、猿は利口だとか、鯨は知能が有るだとか、人は多くの場合、脳の大きさや能力で生物を判断する。カラスを処分したり、猿を薬殺したりというのは、よっぽど困ったとき以外にはやらない。ハトも例外ではなく、増えすぎたものは餌をやらずに自然にヘルのを待つというのが方針だ。
 
 私はよく思うのだが、この自然という切り口は果たして自然なのだろうか?確かに自然と人工という言葉が対であるなら、人が関わらないものを自然と呼ぶのもいいかもしれないが、そもそも、例えば上野公園ではとが増えたと言うことを考えてみて、それが人が餌をやったせいだとしても、あまりそれが人工的には思えない。たまたま人の手が関与しているだけで、自然の成り行きのように見える。
 前にも書いたが、地球上で人に進化した生物は、やはり自然の成り行きなので、その結果文明を生んだ。昔のSFなどのように、このまま核戦争か何かで人が滅んでも、それこそ自然の成り行きというものだ。個人個人にとっては違うが、大局的に見ると、悠久の流れみたいなものがそこに見える。
 諸行は無常で終わりのないものはない。人類がどんなにがんばったって、地球が無くなれば、この星にはいられないし、そこまで長大な未来を見なくても、この先何千年もつのか解りもしない。
 それでも人の一生は短いので、カラスやハトの被害が当面の解決すべき出来事であり、明日の食事が大切だ。一生を金儲けやセックスや、その他諸々の享楽や欲望のために生きるのも、人様のために銃弾の盾となって息絶える諜報機関の人間も実はそれほど違いがない。
 それであれば、後者の行き方を尊ぶ世界であって欲しいし、自らも命を張るかどうかは別にして、そうありたいと思う。
 
 カラスやハトの被害を、殺さずに自然の流れに乗せようというのは、いわば、力で世界をどうこうしようと言うのとは全く違った行き方である。身近な、こんな些細なことの中に、実は政治と宗教、様々な社会の進むべき道が見えてこないだろうか?

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