由比敬介のブログ
万物理論
万物理論

万物理論

「万物理論」という小説を読んでいる。グレッグ・イーガンという作家の本で、結構分厚い。まだ読み終わったわけではないが、ここに出ている「人間宇宙論」というのがちょっと面白いので、読了前に書く気になった。
 相変わらず、外出先でしか読まないので、非常に時間がかかっている。こういう本は、ある程度一気に読んだ方がいいのかなと思うが、小説そのものはそれほど上手いとは思えないが、これだけのハードSFはなかなか読み応えがある。
 ここに出てくる「人間宇宙論」というのは、現在の「人間原理」の延長版のようなもの
だ。人間原理は、現在の宇宙を人間の存在そのものにその存在意義を帰結させるようなものであると思う。小説ではAnthrocosmorogyという言葉が使われているが、人間原理はanthropic principleと言い、strong とweekに分かれる。人がいて、人が生きて生きやすいように宇宙が作られたと考えるのがstrongで、偶然そうなったというのがweekだ。
 小説内の人間宇宙論は(これから読む方はいかねたバレ少し)、万物理論-現在追求されている統一場理論をさらに一歩進めた、宇宙の根幹を説明できる原理-を解明する、ある特定の人物により、ビッグバンから現在、そして未来までの全ての宇宙ができあがっているという、ちょっと説明しただけではよく分からない内容だ。
 
 そもそも宇宙の成り立ちを人間的立場から説明しようとするこれらの理論(小説はより架空の理論だが、それほど現実の人間原理と乖離があるようには思えない。どちらも実験的証明は難しいから)は、宇宙論を考える科学者の畏怖みたいなものを感じざるを得ない。
 もし仮に、何かの力が少し強かったら、生命は誕生していなかったという理屈で、人間原理を提唱するのなら、sれは人間原理というよりも、運命論のような気がする。尤も、そういう言い方をするなら、実験で証明できない多くの宇宙論は、まさに運命論的であり、いみじくも小説の中で万物理論の提唱者の一人、ヴァイオレット・モサラはその考え方に反論している(但しモサラは人間宇宙論者ではないが)。
 例えば宇宙の中心に地球があると考えた中世の人々や、相当時代が下っても、太陽系が銀河の端にあるとは考えられていなかったり、銀河系すら全く特色のない大宇宙の小さな一粒の小宇宙になったり、宇宙論の歴史は、常に人間中心主義をその高みから引き下ろしてきた。
 人間原理のような、証明が極めて困難、あるいは不可能な理論は、どうして提唱され、賛同され、研究されているのだろうか?こういう異端的なものの考え方に、常にフレッド・ホイルが噛んでいるというのも面白いが、小説「10月1日では遅すぎる」などで見せたホイルの冴えを思い起こすと、そもそも現代の宇宙論はSFと表裏一体の、というか境界線の曖昧な分野であるような気がして仕方がない。
 数学が導き出す現象の説明としての宇宙論は、あるのかどうか解らない宇宙ひもや、多次元といった概念や、虚数時間といった、最早人間が感覚的には想像すらできない分野に及んでいる。
 返す返すも、これらの議論の中にいられない自分が悔しい。戻れることなら10代にもどり、数学と物理の勉強を徹底的にやり直したいとすら思う。
 この世の解明されないものの追求や、答えのない問を一生続けて考えることの有意義を、これらの科学は教えてくれ、しかも人生の意義は、富や快楽、愛など、様々に身近なものにだけあるのではないことを改めて認識させてくれる。
 人の脳の奥、心の奥に潜む何かが、追求しないではいられない衝動を支えているに違いない。その衝動こそが、人間原理を生むのであり、「万物理論」でそれをSFたらしめている「一人の人間による宇宙創生」というテーマを生むのである。
 ああ、面白い。

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