由比敬介のブログ
ぼくは明日昨日のきみとデートする
ぼくは明日昨日のきみとデートする

ぼくは明日昨日のきみとデートする

標題のDVDを観て、いたく感動し、原作を購入して読んだ。このエントリーはその双方の感想。

「いたく感動」などと書いたが、文字どおりそうで、ぼくはこういう作品が好きらしい。

SFを読み始めたきっかけがどの作品かは既に忘れたが、ラインスター辺りではなかったかと思う。だがその後、中学生で『タイムトラベラー』と出会い、当然のように筒井康隆の『時をかける少女』を読んだ。時間小説はパラドックスに深く突っ込めば突っ込むほど、結論として多元宇宙論に逃げざるを得ない。取りあえず多元宇宙に逃げておけば、全てのパラドックスを回避できるように見えるからだ(実際に回避できているとは言いがたいが)。
もう一つ、回避せず、事は起こるようにしか起こらないという風に決めてしまい、そこに深入りしなければ、こういう良い作品ができあがるという証拠のような作品だった。
と書くと、これがSFであるといっているように聞こえるかも知れないが、広義では十分SFだと言える。『スター・ウォーズ』がSFであるのなら、これも十分SFだという意味でSFである。
前述の筒井康隆はかつて、自ら編集と著述を兼ねた子供けの『SF教室』という書籍の中で、SFとはまず第一義小説であると言っている。SFのF、fictionは、小説のことだから間違ってはいない。でも、fictionには作り話的な意味がそもそも存在するので、映画もマンガも含まれるわけなのだが、ここで問題にしたいのは、SFが小説的科学なのではなく、科学的小説なのだという順序の問題である。
このScienceがScientificだったり、果てはSpeculativeに化けるように、Fもfictionからfantasyにも化ける。

そういった中で、この作品は逆向きに時間の流れる世界との接点を扱った作品として、バラードやディック、オールディスとかが書いていてもおかしくないテーマだし(ぼくが知らないだけで書いているかも知れない!)、そもそも逆周りの世界だけならたくさんある。いや、他の作家ならこのテーマそのものがそのままあるだろう。
だがこれも、テーマが同じだからと言って同じテーマで小説を書いてはならないというわけではない。
今回アカデミー賞を受賞した『シェイプ・オブ・ウォーター』も、観る人が観れば、『スプラッシュ』と同じだ!とディスりの対象になるのだ。

たまたま昨日、SmartNewsで、空中で飛び上がった瞬間を切り取った写真について、これはどのパクリだとかいう批判について、著作権的観点から書かれた記事を読んだが、至極もっともで、創作の意図や創作された作品によって、判断されるわけだ。
なぜこんな事を書くかというと、この『ぼく明日』と略される作品は、そういう批判にも晒されているようだから、作品ではなく、その作品を褒める自分を擁護するための、長い前置きだ。

さて、ここから先、ネタバレとか気にせず書く。そもそもネタバレですとか、××外から失礼しますとか、あまりそういうところを気にしたことがないので、万が一このブログを読んで失敗した!と思った方はごめんなさい(何だ、気にしてるじゃん、おれ)。

福士蒼汰と小松菜奈という主演以外、ある意味ほとんど重要でない(と書くと語弊はあるのだが)この映画は、アラ還たるぼくにとっても切ないラブストーリーで、なおかつ泣ける作品だった。
物語の全てがタイトルに凝縮されているという意味で、ぼくは素晴らしいタイトルだとも思うし、言ってみればそれしか書いてないわけだが、だからこそ、この恋愛には共感できる人とできない人は存在するだろうと思われる。
文章が稚拙という人もいるようだが、そこまで稚拙ではない。著名な作家でももっとずっとわかりにくい文章を書く人は大勢いる。
ただぼくはこの原作を読んだときに、こう言うのをラノベと言うのだなと思ったが、ラノベはもっとライトらしい。
ローダンでライトノベルを読んだ気になっている身としては、甚だカルチャーショックだ。

かつてSF以外で最初にきちんと読んだ小説が岩波文庫版の『レ・ミゼラブル』で、小説とはこういうものだというユゴーと豊島与志雄からの強烈なダブルパンチを受けながら育ってきたので、それから言ったら別世界の作品ではある。

電車で一目惚れした彼女との僅か40日(あるいは映画では30日)間の恋愛を描いているわけだが、前述のパラドックスで言えば、どちらかと言えば彼女は、これから起こるべく二人の1ヶ月を、敢えて彼からかつて聞いた、そして出会いの初日に聞くデータによって、正確に履行していこうとする恋愛なのだ。
この日に何時にどこへ行き、何を食べる。どこで手を繋ぎ、どこでキスをする。その全てが彼女にとっては決まったことであるが、彼はそれをしばらく知らなかったというアンバランスな設定が、この作品を面白くしている。
どうしてこんな事が起こるのかとか、どう管理されているのかとか、細かい部分はスルーされていて潔い。これを書き出すと、本気でSFになってしまうのを、そこで阻止している感じだ。筒井言うところの第一義小説という意味がよく解る(ヒューゴー・ガーンズバックは文句を言うかも知れないけど)。

映画は小説をかなり忠実に映像化していて共感がもてた。往々にして小説でもマンガでも、大きく改変されるのが常だからだ。だったら映像化なんてしないでオリジナル作れよ!とは良く思うことだ。横山光輝の『マーズ』どうにかしてくれ。1回でいいから地球を消し去ってくれ!というお話しだ。

ぼくは邦画をあまり観ないので、この作品もさほど期待していたわけではない。ただタイトルには惹かれるというか、どういうことなのかという曖昧な興味があったので観たのだが、思いの外掘り出し物だったと言うことだ。
一目惚れした奥手の大学生が、最初の恋愛から成就するという夢のような設定が、冒頭から軽く見えることこそが、この作品の真骨頂であり、一目惚れをした彼が初めてナンパするシーンこそが、彼女にとって彼との別れの日だったのだということを回想していく映画最後のフラッシュバックは、こういう作品ならではの切なさをうまく表している。小説でも同じように書かれているが、影像だとより切なさが増す気がした。

この映画の主題歌に採用されたback numberというグループの歌もなかなかよく(実は未だにこの歌の歌詞の一部がよく解らないというか、国語の試験だったら、間違いなくぼくは点数取れていないなという読解力のまま止まっている)、ここしばらく、battle beast等と一緒にヘビロテしている。

1日経つごとに前の日の相手と会うという設定は、ともすれば扱いが難しい。なぜなら単純に、お互いの出会いのタイミングを設定するための意味づけが必要になってくるからだが、最初に書いたうように、こういうものだといってそこの理屈を回避してしまえば、前述のような切ない表現が可能になるのだ。最初に彼が告るシーンと、最後に同じシーンが映されたときの衝撃は、ぼくにとって、ストルムグレンの前に一瞬だけ姿を現したカレルレンを思い出させさえした(『幼年期の終わり』を知らない人は無視視して下さい)。

ここまででどこがネタバレだか解らないくらい、ぼくは実はネタバレした気でいる。
つまりこの作品はこれだけの内容なのだ。
一組の男女の出会いと別れ、その40日乃至は30日の話だ。
しかもその間、ことさら大変なことは起きない。楽しい日々なのだ。だが彼女は最初から、そして彼は途中から、僅かの時間で別れに向かっていることを知っている楽しい時間なのだ。そして20歳という、まだ十分に多感と言っていい年の話なのだ。

以前、仲里依紗の『時をかける少女』でブログを書いたことがあり、あれもなかなかキュンとする結末だったが、今回の方がテーマが絞られていたせいか、より胸に迫るものがあった。

本は短いし、ほとんど会話といってもいいので、あっという間に読めるが、映画を先に観ていたせいで、登場人物の顔がほとんどその出演者にしか思えず、ある意味少し残念だった。逆になっていれば良かった。とはいえ原作は100万部売れているベストセラーだそうなので、特に手を出そうとは思わなかったはずだ。やむを得ない。

この勢いで普段は読まないマンガにも手を出そうかどうか模索中。・・・でもこの小説からマンガ3冊分を描くなんて・・・ある意味すごい。

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