「モーツァルトの旅」その2

 先日、台東区のミレニアムホールというところで上演された『モーツァルトの旅』を観てきた。これは、一昨年、大塚のホールで上演されたものの再演である。もう一度観たいと思っていたので、改めて観に行った。
 前回とは若干キャストの変更はあるものの三分の二は初演と同じキャストであった。
 端的に言えば、やはり面白かった。同時に、前回よりもクオリティは増していたと思う。中でも吉田伸昭のダ・ポンテは前回に比べても出色だったと思う。

 この作品は、前回のブログでも書いたが、クラシックのアリアや重唱をお芝居で繋げる形式で書かれているが、実際の所は、既存の音楽を利用した一つのオペラである。モーツァルトの名曲をいいところ取りして作り上げられているのだから、ある意味卑怯と言えば卑怯だが、でも、ではいい音楽にお芝居を付ければ楽しいのか?というのはまた別な話だと思う。
 つまりは、いかに音楽とお芝居が不可分に融合しているかがこういった作品の一つの成功の鍵だと思うからである。

 例えば、モーツァルトが死ぬシーンがある。
 姉、ナンネルの腕に抱かれながら、自らの寂しさを吐露し、「こんな弟でごめんなさい」という天才らしからぬ台詞を絞り出し、そんな弟を、「愛してるわ、ヴォルフガング」と、これまで理屈で励ましてきた弟に、全てを包み込む愛情でかき抱く。そこでピアノが奏でる音楽は、かつてこどもの頃にモーツァルトの父が子守歌代わりに歌った歌(実際には『後宮からの逃走』の中でオスミンが2幕で歌うアリアだが)で、舞台右手にいる二人の元へ、その歌を歌う父親と思われる影が近寄り、とん、とモーツァルトの肩を叩く。だらっと落ちるモーツァルトの腕。「眠ったの?ヴォルフガング?」そして弟の名を叫ぶ姉。暗転。
 あるいは、非常にコテコテの演出かも知れない。だが、この短い時間で、観客は涙を流すだろう。このオスミンのアリアは、一幕もこの時も少しテンポが遅過ぎる。しかし、十分な演出効果がある。1幕冒頭のパパゲーノのアリアの旋律と、このオスミンのアリアは、ここでしっかりと回収される。

 音楽とストーリーが融合しているのは、当に優れたオペラの特質である。モーツァルトもヴェルディも、ワーグナーだって、台本に曲を付けるのだ。違いは、曲と曲の間を全て音楽でつなぐのか、レチタティーボで繋ぐのか、それとも台詞で繋ぐのか、だ。この『モーツァルトの旅』は、その3番目の様式であり、なおかつお芝居の比重が大きい。
 最大の相違点は、今回書かれた台本に作曲家が曲を付けたものではないという点だけだ。
 こういった手法は恐らく、今回が初めてでもないだろうし、実は似たような方法は、年中どこかで上演されているのかも知れない。だが、それらとこの作品を分けているのは、前回も書いたとおり、音楽と芝居の融合の度合いであり、未だにこれは意見を変えることはないが、モーツァルト以外ではこの高みに達することはないだろう。
 他の作曲家に比べてモーツァルトが優れているという論ではない。こういった作品に適合しうるのが、モーツァルト以外にいないというだけだ。

 個人的には、好きなマーラーで作り上げて欲しいが、無理だと思う。

 さて、今回は前述したように、吉田伸昭が誰より良かった。アリアは1曲しかないが、この作品に彼がなぜ登場しなくてはいけないのかがよく解る演技だった。
 モーツァルトに『コジ・ファン・トゥッテ』を書かせるシーンでの、タイトルだけを高らかに歌い上げる部分は前回もだが、好きなシーンの一つだ。
 だが何より、前回はどうだったか全く覚えていないが、モーツァルトがダ・ポンテにコンビを解消だと告げた後、つまりは彼唯一のアリアの後だが、モーツァルトの元を去るシーン。去りかけただ・ポンテが、一瞬躊躇してモーツァルトを振り返り、最敬礼して去って行く。ダ・ポンテの性格も、そこに内在された気持ちも、全てを表現し尽くしたかのような最敬礼に、心の中で泣けた。

 そもそも、サリエリがモーツァルトにダ・ポンテを引き合わせたシーンで、水と油のような二人について、「だからこそいいものができる」という可能性を示唆し、そこからダ・ポンテ三部作と言われる3本のオペラが生まれるわけだが、その事が、モーツァルトの人生を彼が思っていたのとは違った方向へ向けて行く、というのがこの作品の一つの軸であると思う。
 その対立軸にあるのが、その後『魔笛』を生むことになるシカネーダーの存在であり、彼がいみじくもモーツァルトに語る台詞が、最終的にこの作品を決定づける台詞でもあり、同時にこの作品を悲劇で終わらせることがない最大の要因となっている。
 いかにもモーツァルトを描くに相応しいと感じる。『アマデウス』も『モーツァルト!』も、多くの作品が、彼の不可解な死と早世という事実によって、音楽とは別次元の場所で作品が作られている。それはそれでいいのだが、それはそれぞれが伝記だからである。
 だがこの作品は伝記ではない。誤解を恐れないでいうなら、前述の著名な作品たちがモーツァルトという人間を扱っているのだとすれば、この作品はその音楽を扱っているのだ(声楽に偏ってはいるが)。だからこそ、過度に劇的である必要は無い。なぜならモーツァルトの音楽がそうではないか!劇的な音楽ももちろんあるが、α波を出すと言われさえする彼の音楽は、その劇的な部分も包み込んで、幸せな何かを聴き手に伝えてくれるではないか。この作品は、モーツァルトのそういった部分も拾い上げているからこそ評価するのだ。

 だから、モーツァルトの死でも、その後親友シカネーダーがその事で慟哭するシーンでもこの作品は終わらない。ただの芝居なら、このどちらかで終わるという選択肢もあるだろう。より劇的にしたいのなら、その後にレクイエムを合唱して終わってもいい。だがそれではモーツァルトの音楽を描いた舞台としては不十分だ。
 その中で『フィガロの結婚』のフィナーレを選択した中川美和に、私は拍手を送りたい。このシーンがあるからこそ、この作品を高く評価するのだ。
 
 それと同時に、この作品が一部に持つ劇的な部分に、今回は出演者が少し引きずられているように見受けられる部分もあった。
 例えば前述したとおり、冒頭の父親の歌は、テンポが遅すぎる。そのシーンの意味から考えても、もう少し速くていい。恐らくはこの歌は、モーツァルトが最後に死ぬシーンでもう一度かかる。そこの影響されているのではないか?と勝手に解釈したが、であればこそ、後半のその部分も、冒頭同様重くならないテンポで歌って欲しい。そうしないと、モーツァルトの死が悲劇にこの作品を傾けてしまう。意外に重要な歌なのだ。とはいえ、『ドン・ジョヴァンニ』の騎士長も合わせて、バスは前回より今回の岸本大の方が圧倒的に良かった。

 また、ナンネルとナンシー・ストレースを歌う伊藤邦恵も、この作品を少し劇的に解釈しすぎているように思えた。彼女は別にコミカルな部分をあてがわれてはいないので、全般シリアスでいいのだが、モーツァルトとナンネルの成長してからのすれ違いのような部分を(それはナンシーという不倫相手的な歌手においても)、モーツァルトの音楽という面と一瞬乖離した部分で捉えているのではないかと思った。確かに台本自体はそういう側面もあるし、単なるお芝居ならそれでもいいと思う。だからこそ最後に「ヴォルフガング!」と叫ぶシーンは涙を誘うのだと言ってしまえばそれまでなのだが、前述したように、この作品は通奏低音のようにモーツァルトの音楽が流れ、いみじくも作中でシカネーダーが語るように、その音楽は優しく、常に作品に寄り添っているのだ。
 この部分を斟酌すれば、少し違ったナンネル像になるだろうし、どちらかと言えば、それが音楽にも反映されるのではないかと思った。
 ただその上で、『皇帝ティトの慈悲』からのアリアは素晴らしかったと思う。惜しむらくはナンシーのアリアは冗長だった。その後の「最高傑作と言われるコンサートアリア」という台詞が空々しく聞こえる程度には。

 サリエリ役の杉野正隆は、前回同様安定して実直な「サリエリ」を演じていた。これは映画『アマデウス』とは対極にいいるサリエリだが、この作品にはこの、”大人な”サリエリが相応しい。惜しむらくは、最後にシカネーダーを諭すシーンがあるのだが、台詞が少し棒読みだった。

 恐らく前回はなかったように思うのだが、一カ所だけ背景からナレーションが入る。だがこの部分はいらないと思う。内容から考えて、時間経過を伝えたかったのだと思うが、その時間経過が台詞で解らないわけではないので(仮にそういう指摘がどこからかあったのだとしても)ここは蛇足だ。
 
 尤も、ぼくが書いているこの文章も含め、見た人間、関わった人間は色々いう。それはどんな作品にもつきものだ。小説でも何でも、それらの意見の取捨選択や、作家が書き落としたと思われる部分の加除などでも、全てがいい方向に出るわけではない。
 ここでこんな例を挙げるのはどうかなとも思うが、永井豪の『デビルマン』は不朽の名作だと思うが(卒論で1章を割いたほどだ)、文庫化されたときだったと思うが、永井が加筆している。オリジナルが出色なだけに、このクソみたいな加筆は何だ!!と、当時思った。永井は連載では描ききれなかった部分を補筆したのか、まあ個人的には、編集から長さ調整に無理矢理描かされたと解釈している。
 
 なので、今回蛇足と書いたところが、次回どうなっているかが楽しみだ。・・・・これ読んでくれないかも知れないけど。

 さてここまで書いたのだから、残りの出演者にも触れておこう。
 モーツァルトの妻、夜の女王などを歌った末吉朋子は、劇場支配人も含めて、高音をバキバキ決めていたが、僕が感心するのは、コンスタンツェがモーツァルトに迫る歌を歌うまでの鼻歌交じりの演技だ。ソプラノ歌手と彼女は台詞が一切無い中で、しっかり存在感を出しているのだが、何度も書くように、芝居と歌が融合するためには、こういった部分がとても大切だと感じるし、こういう所がおろそかにされていないのがいいと思う。
 ソプラノ歌手は前回とは別の人に変わっていたが、欲をいえば『オレステスとアイアスの』の場面では、もう一歩切迫感みたいなものが欲しいと感じた。このシーンは、ある意味においてモーツァルトの心情描写でもあると思うので、歌い手がいかにそのシーンと歌とをシンクロさせるかが鍵になるシーンだと思う。その上で前回同様このシーンは堪能しているのだが、好きなシーンだけに要求は大きい。
 
 シカネーダー役の古澤利人は、一番声が通っていて、安定した芝居だった。シカネーダーという役は、『アマデウス』でもあまりクローズアップされていたとは言えない。今回のこの作品は、シカネーダーとダ・ポンテという、謂わばモーツァルトの4大オペラの台本を作った人物に焦点を当てているのも面白い。
 本来であればモーツァルトは、その生涯の中で、オペラの何倍もの器楽作品や声楽作品を作曲しているわけで、その中からオペラを切り取り、そしてさらに二人の台本作家に焦点を当てることで、既存の作品とは違った曲面を見せることに成功しているのだと思う。
 この作品でバリトンは二人いるが、シカネーダーの古澤と、サリエリの杉野、どちらも適材だと思う。

 そして、モーツァルト役の中川美和だが、今回改めて、出ずっぱりの役なのだなと感心した。他の誰かが演じるってこと考えてないだろ!と思えるくらい負担が大きそうだ。
 だが、女性をモーツァルト役に置くというアクロバティックな配役は成功していると思う。
 一つには、初めの方に歌われる『後宮からの誘拐』のコンスタンツェのアリアを彼女が歌うからであり、モーツァルトとシカネーダーの『魔笛』からのパミーナとパパゲーノの重唱が、二人の友情をうまく表現しているからである。実際は男女の愛の歌だが、ここでは上手く、もっと広い意味に捉えられるように歌詞が付けられている。
 モーツァルトは主役なので、もう一曲くらいアリアを聴きたいところだが、それでは体力的に保たないのかも知れない。
 ところで、『後宮からの誘拐』は『後宮からの逃走』とも訳されるが、全然意味が逆なのになぜそうなっているのだろう。素朴な疑問。

 いずれにしても、この作品はもっと上演して欲しいし、オケでやって欲しい。前回今回と見ていると、シンプルな舞台装置も売りの一つなのかも知れないし、より多くの場面で手軽に上演できるという意味ではいいのかもしれない(モーツァルトをやる人の負担を考えると、それほど手軽かどうかは別にして)。それでも尚、もう少し手の込んだ舞台でも見てみたいと思う。
 
 これを観た翌日からこのブログを書き始めて、およそ一ヶ月くらいかかった。途中で記憶も曖昧になりかけたが、それでも尚印象に残っているというのはいいことだ。
 三度目を楽しみに、Bravi!でした。

 

 

 

 

 

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