由比敬介のブログ
いいかげんの美学
いいかげんの美学

いいかげんの美学

いい加減と好い加減は似て非なる言葉。
世の中といえば、きちんとまじめに生きることが、あたかも正しい生き方で、いい加減な生き方はよろしくないと、おおかた相場が決まっているようだ。
まじめに宿題をやる生徒と、宿題をやってこない生徒、この差の大きさは一つのいい加減さの基準ともなろう。
確かに、いい加減な医者、いい加減な工事、いい加減な装備の冬山登山など、いい加減じゃいけないことは枚挙にいとまがない。いい加減じゃ飛行機も空を飛べなかっただろうし、人間も月に降り立っていない。
でもこれは、いい加減なことがいけないと言うことの証明にはならない。いい加減が不向きな事柄が世の中にはたくさんあるのだと言うことの例を挙げているにすぎない。
「もういい加減にしなさい」と、ゲームばっかりにうつつを抜かす息子に母親が小言を言う。このいい加減は、微妙にいい加減と好い加減の狭間を行き来している。


この文章はいい加減なことを言っているのかそうでないのか、判断が読んだ人間に任せられるように、そしてアインシュタインが言っているように、世の中のことどもは、概ね相対的で、走る列車から見た反対方向へ走るもう一台の列車が走っているとしても、自分はただ座っているにすぎないように、いい加減に見える生き方と、まじめに見える生き方は、実は紙一重のことがある。
この世がなべて不公平であるのは、汚職をしながら100まで生きた男が、家族中からその誕生を祝福されている瞬間に、空から降ってきた爆弾によって、そのわずかな命の時間を終わらせられる子供がいることを見ても分かる。これが人の力で変えることのできないことから、宗教は生まれるし、人は目に見えない何かに頼りたがる。
さて、人は生きていく上で、他人との関係無しで生きられないことは自明のことだ。例外が全くないとも言い切れないが、その例外を以てその理屈を覆すに足るほどの数はいないだろう。幼少期、青年期の初期に我々は多くのことを学ぶ。学びつつ、かなり狭いアローアンスの中でがんばって生きていくことを教えられる。成績を付けられて、下より上がいいという、理屈としては成り立たない論法で、上を目指すようにし向けられる。
でも時折人は立ち止まり、疲れて周りを見回したり、手を抜いたり、いい加減なことをけっこうするものだ。同じ人生はなく、同様に幸不幸は糾える縄であったり、あるいは隣の芝生であったりしながら、生きていく中で、いい加減なことやいい加減な瞬間は、実はとても心地よく、価値あるものだ。
人が人と人の関係で人生をある程度決められていくのなら、いい加減さを発揮する基準は、その対人にいやがられない程度にとどめておけばいいのであって、そこそこ長いようで短く、短いようで長い人生を送るのに、常にマラソンの42.195キロを走るランナーのように生きる必要はあるまい。
広辞苑で引くとその中に「無責任」という表現が出てくるが、そもそも人生、常に責任を持って生きることなどできない。いい加減さをうまく使いこなし、楽な人生を送ろう、これも一つの処世訓ではないか?体を休めるとか、こころをリラックスさせるとか、そんなのではない。取り敢えず時にはいい加減にやってみる。それがいい加減でも人様に迷惑がかからないと思えば、いい加減にやってみる。このいい加減さの美学といってもいい「いい加減」称揚は、言ってみれば、人生が一度しかないことの別な謂だ。
不確定性原理は現代物理において、相対性理論と同じくらい重要だといわれる。人間を形作る大元のミクロな世界でさえ、結構いい加減だ。
さて、いい加減なところで止めておかないと、仕事にならんな。こちらはまじめに。

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