由比敬介のブログ
東京室内歌劇場『モーツァルトの旅』
東京室内歌劇場『モーツァルトの旅』

東京室内歌劇場『モーツァルトの旅』

標題の作品を昨日、あ、日が変わって正確には一昨日だが、南大塚ホール(東京大塚)で観てきた。
素晴らしい作品に出会えたので、久々にブログを更新。

内容は、モーツァルトの一生をストーリーの軸にモーツァルトのオペラアリアを聴かせるものだが、単純にこう書いてしまっては申し訳ない。なぜなら、物語と音楽が、元々のオペラそのものでもないのに、極めて融合し、意味のある選曲になっていて、ある意味これが一つのオペラとしても成立しているからである。
脚本・構成・訳詞・ステージングをモーツァルト役の中川美和が一人でこなしている。この一作を見る限りにおいて希有な才能というべきである。

物語はモーツァルトの子供時代の説明から始まるが、既にこの時に伏線が用意されている。それは幼いモーツァルトが自ら弾くパパゲーノのアリアの単旋律だ。
この作品には多くの伏線や場面と歌詞の絡み合い(オリジナルの歌詞を付けているわけではなく、元々のアリアの訳詞だ)など、非常に練られていて、正直一回の観劇ではそのすべてを解って観ることは難しいかも知れない。

そのほとんどをモーツァルトの音楽で構成しているため、当然のことながら使われる音楽の時代設定は前後する。中には敢えて「ケッヘル」という単語を使って笑いを取る場面もある。モーツァルト以外の音楽は、ギャグとして使っている「運命」と「人知れぬ涙」(この2曲はシカネーダーに作曲者を言わせることで笑いをしっかり取っている)そして、メンデルスゾーンの結婚行進曲だ。この辺りのモーツァルトにこだわりながらも拘泥しすぎないという姿勢も実は評価したい。

恐らくこの作品が最も評価されるのは、(個人的にはそこではないのだが、)モーツァルトの一生を描いた物語をモーツァルトの音楽で構成し尽くしているという点だと思う。

古今、モーツァルトを描いた作品というのはたくさんあるに違いないが、ぼくが知っていて比較対象となるのは、アカデミー賞受賞作でもある映画『アマデウス』と、東宝かな?のミュージカル『モーツァルト!』なのだが、今回の『モーツァルトの旅』はそのどちらとも立ち位置が違っていて、さすがにクラシック音楽家が(恐らく矜持を込めて)作ったであろうこだわりが、モーツァルト作品としてこの作品をほかの2作と比較しても遜色ない高みに上げている。

音楽の使い方としては『アマデウス』に近いが、極論すれば『アマデウス』の音楽は、どこまで行ってもBGMである。この時代にこの音楽が作られたその表現プラス、シーンを装飾するために音楽が使われる。『モーツァルト!』に関しては、そもそもオリジナル音楽を使った作品なので、モーツァルトの音楽はほとんどおまけである。ただこれはこれで良い。モーツァルトを描くからといってモーツァルトの音楽を使わねばならぬという決まりは無いからである。
ただ今回の『モーツァルトの旅』に関していえば、東京室内歌劇場という団体が上演するに相応しい、実力派歌手がアリア等を存分に聴かせた上での劇になっているという点が、大きく他作品と音楽の扱いを画す点である。モーツァルトの音楽がまさに作品と融合し、その物語の一部になっているのである。

今回の作品を観て思ったのは、俳優と歌手が分離していてはこういった作品の実現は難しいし、かといってオペラ歌手にここまでの台詞のやり取りをさせる困難というのは、恐らくオペレッタの比ではなかったであろうということだ。
しかし、であればこそだが、『アマデウス』や『モーツァルト!』では実現できない、モーツァルトの人生をドラマとして体験しながら、なおかつモーツァルトの音楽を堪能できるという新しい地平を切り開く作品なのだということだ。
尤も、なぜこれまでこういった類いの作品はなかったのだろうか?という疑問がすぐ浮かぶが、考えてみると実はハードルの高い類の作品なのだ。

まず、前述したようにモーツァルトの音楽を演奏しなくはいけないので、優れた素養を持った音楽家が演じなくてはならない。歌唱の出来は作品の完成度を大きく左右する。次に、同じ歌手が俳優としての技量を兼ね備えていなくてはいけない。でなければ芝居がへたってしまう。だがこの二つだけならば決してクリアすることはそこまで難しくないであろう。

問題は、脚本とそれを含めた上での構成を誰がやるのかと言うことだ。恐らくこういった作品が企画に上がる時点で、今回のような形ではなく概ねは「新作」が企図されるであろう。なぜなら、優れた作品を描く脚本家は、モーツァルトの音楽と自らの脚本を融合させるなどということに、それほど長けていないだろうし、今回のように実は音楽を抜いたとしても一つの芝居として完成されている作品にとっては、音楽の役割はやはり『アマデウス』的なBGMになってしまう可能性が高いからである。
敢えて『アマデウス』的と書いたのは、『アマデウス』でも音楽は単なるBGMではないからであるが、いずれにせよ、芝居と音楽が対等に伍する作品にはなりにくい。
つまり、優れた脚本とそこに音楽を融合させる試みができる作家がいなくては、まず作品が成立しないし、既存の音楽を使ってそれをやろうとするなら、オリジナルを作った方が楽だし(話には合わせやすくなる)、話題性もあるのじゃないだろうか?などといった思惑が働き、同時に、作っても誰が上演するの?という危惧が最初からあるために、これまでこういった物を作ろうとした人はいなかったのだと思われる。
似た作品はきっとある。だがここまでこだわった作品は、残念ながらぼくの知識にの中にはない。
と同時に、この作品のような形態はそれが持つ可能性と危うさがそこにはある。

これだけ面白いのだから、どんどん新たな作品も観たいと思うが、一つには、クラシックの中でも「歌」という他の楽器とは一線を画するツールではなく、すなわち、いわゆる器楽を使ってこれが成立するだろうか?と考えた時、恐らくは難しいだろうと思えるのだ。
歌と器楽が持つ最大の違い、それは歌詞という意味を持ったコミュニケーションツールがそこに存在するかどうかという点だ。今回も場面展開などのために『後宮からの誘拐』や『魔笛』の序曲などがピアノ演奏で使われていたが、では歌のほとんどを器楽演奏に変えて、ここでは「アイネクライネ」、ここでは40番の交響曲と言った感じで音楽を挟んでも、それは劇の合間にモーツァルトの音楽を聴いただけに過ぎなくなってくる。つまりはこの感覚が『アマデウス』の音楽を、どうしてもBGM的に思わせてしまう(そうでないのは百も承知だが)最大の理由なのだ。
器楽で何かを表現するというのは、極論すれば、「雰囲気作りはできるが、芝居の一部にはならない」と言うことで、ここまで書いた「融合」という言葉が一切白々しいものとなってしまう予感がするのである(いや、もちろんそれはそれで、そういった形態の作品があっても楽しめる可能性はあるわけで、それを否定するものではないので念のため。)

歌の持つ力はそれとは次元が少し違うところに存在する気がするのだ(器楽を低く見ているわけではなく、声楽はちょっと立ち位置が違うと言うことだ)。そしてそれが今回の作品を、芝居+音楽というだけの作品ではないものに仕上げている本質的な点ある。雰囲気を演出する音楽ではなく、意味を持った音楽、言ってみればミュージカルそのものなのだが、それを既存の作曲家が作った歌を利用して行うと言うこと自体が、ある意味離れ業なのだと思う。

そして、では同じ形態の別の作品を観たいと考えた時に、ではそういったものは可能なのか?と疑問に思う。
取りあえず他の作曲家で、と思うと、ヴェルディ、プッチーニ、ロッシーニ、ドニゼッティ、ワーグナー、R.シュトラウス……
オペラ作曲家の名前を挙げても、物語になりそうなのはワーグナーくらい?
ワーグナー歌手を5人も10人も並べる大変さもさることながら、そもそもむちゃくちゃ重い作品で、面白くなるのだろうか?という疑問がわく。ではベートーヴェンは?ショパンは?マーラーは?と考えていくとモーツァルトほど扱いやすくないことがよく解る。そもそもこの3人で思い浮かぶオペラは『フィデリオ』しかない!
まあ、作曲家の一生シリーズである必要は必ずしも無いので、他人事として新作には期待なのだが……

さて、そういった評価はあるとしても、ぼくが今回絶賛してやまないのは、前述の意味も若干込めた上での脚本そのものである。ストーリーはある意味単純だ。というより、概ねは史実に基づいているので、大きく変えるのは難しい。だがその上で、面白く見えるためには音楽の成立時期などにはこだわらず、大胆に前後させ、何より物語の進行と構成がうまく結実した脚本になっている。文章力としての脚本力もあるとは思うが、むしろその構成力に感服する。
オーソドックスではあるが、よく考えられていて、1幕と2幕のコントラスト、様々な伏線、キャラクターのかき分けと、よくぞまあ、こんな作品をものしたなと思う。
その構成がよくできているからこそ、相俟ってモーツァルトの作品が際立っているのだ。

一つ例を挙げれば、モーツァルトが妻と弟子に裏切られたことへの憎しみを吐露する場面で、もちろんモーツァルト/中川の慟哭のような叫びだけでもいいのだが、すっと脇から出てきたソプラノ歌手が歌う「オレステスとアイアスの」で始まるオペラ『イドメネオ』のアリア。極めて効果的にモーツァルトの心情を描き出している。モーツァルトの音楽もそうだし、ソプラノ田中紗綾子の歌唱も、余すところなく表現していた。

我々は名前のある人たちが作り上げたものを信じる。定評のあるものを尊ぶ。だが、その第一歩は常に無名、無冠の状態から始まる。東京室内歌劇場も、他の歌手たちも、あるいは既にそれないりのネームバリューはあるに違いない。ただ恐らくは、歌手としてではない脚本家としての中川美和に関しては、間違いなく無名であろう。だが、こういう所にも才能はあるのだと言うことを実感させてくれる作品であった。

ミュージカルと違いロングランを課すのはクラシック歌手には酷である。だが、間をおいて再演、再再演と続け、一人でも多くの人にこの作品を観てもらいたい。それだけの価値がある作品だとも思う。
本来は感想として、内容や曲について触れるつもりで書き始めたのだが、なぜか作品論のようになってしまった。

あ、YouTubeにでも上げて見せてくれるとうれしいのだが……なぜかみんなあまりやらないよな。

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