Tarja Turunenとのコラボ、「Paradise (What About Us?)」について途中まで書いて、ずっと放置していたのだが、そちらは続けて放置しながら、同じWithin Temptationの、2011年に発表された1枚前のアルバム「The Unforgiving」からの1曲。

 元々iPhoneにも入れていたのだが、あまり意識していなかった。たまたまYouTubeで本筋とは関係ない動画を見て、こんな曲だったっけか?と思って、そこから毎日聴いているのだ。

この動画は、2012年の『タイタンの逆襲(Wrath of the Titans)』という映画を編集して、この曲の背景に当てているのだが、意外に歌とマッチしていていい感じなのだ。つい映画も観たくなった。

映画は『タイタンの戦い』の続編な訳だが、この『タイタンの戦い』自体が、1980年頃の映画のリメイクだったりする。

 さて、「A Demon’s Fate」だが、そもそも悪魔の運命というタイトルなので、当にこういう神話的スペクタクルはぴったりきてもおかしくない。ゴシックメタルらしくオーケストラアレンジも秀逸で、うまく楽曲に融け込んでいる。
 ヴォーカルのシャロンは、個人的には普通すぎてそれほど好きかと訊かれれば、そうでもないのだが、だが、メタルの女性ヴォーカルは、時々とてつもなく下手なのがいるので、そういう意味では彼女は素晴らしい。歌唱力は抜群だと思う。
 リズムギターを弾いているウェスターホルトとはパートナーらしいが、結婚しているのかよく解らない。ただ、ほとんどの曲がこの二人によるので、Within Temptationはこの二人のバンドであると言ってもいいのかもしれない。
 96年デビューらしいのでもう20年選手。なのに6枚しかアルバムを出していない。それはそれですごい感じもする。3~4年に1枚のペースなので、そろそろ次のアルバムが出る頃かも知れない。

 未だにレインボーとかディープ・パープルを聴いているわけだが、それはそれとして、21世紀の音楽もなかなかいいのだ。
 でも、ジャスティン・ビーバーとか、アリアナ・グランデとか、全く聴かないんだよな~。セリーナ・ゴメスは聴くのに。
 昔に比べて、情報量が多すぎて、追う気が無くなるというのもあるかも知れない。
 

ohhohoho

you’ll burn this time
Seeing the violence
It’s feeding my mind
No one is saving you
How can you find
A heaven in this hell?

Leave it behind
Hearing your silence
It screams our goodbye
Cannot believe it’s an eye for an eye
Life is gone to waste

Angels have faith
I don’t want to be a part of his sin
I don’t want to get lost in his world
I’m not playing this game

When the shadows remain in the light of day
On the wings of darkness he’ll retaliate
He’ll be falling from grace
Till the end of all his days

From the ashes of hate
It’s a cruel demon’s fate
On the wings of darkness
He’s returned to stay
There will be no escape
Cause he’s fallen far from grace

ohhohoho

What have you done?
Is this what you wanted?
What have you become?
His soul’s not forsaken
You’re walking alone
From heaven into hell
Now that you know
Your way in this madness
Your powers are gone
Your chains have been broken
You’ve suffered so long
You will never change.

Angels have faith
I don’t want to be a part of his sin
I don’t want to get lost in his world
I’m not playing this game

When the shadows remain in the light of day
On the wings of darkness
He’ll retaliate
He’ll be falling from grace
Till the end of all his days

From the ashes of hate
It’s a cruel demon’s fate
On the wings of darkness
He’s returned to stay
There will be no escape
Cause he’s fallen far from grace

Angels have faith
I don’t want to be a part of his sin
I don’t want to get lost in his world
I’m not playing this game

When the shadows remain in the light of day
On the wings of darkness
He’ll retaliate
He’ll be falling from grace
Till the end of all his days

From the ashes of hate
It’s a cruel demon’s fate
On the wings of darkness
He’s returned to stay
There will be no escape
Cause he’s fallen far from grace

アルバム自体、曲は粒ぞろいだ。名盤かどうかという話は好みの問題なので、個人的にはこれは名盤。

昨月発売になった『ローダン NEO』の第1巻を読み終わった。

 基本的なプロットとしては、正編の「宇宙英雄ローダンシリーズ」と同じで、月に行ったアメリカ人のローダン少佐が、月面でアルコン人と出会い、白血病のクレストを治療すべく、ゴビ砂漠に降り立つという話が、正編のシェール&ダールトンに代わってフランク・ボルシェという一人の作家によって書かれている。
 週間ベースの正編とは違い、隔週で以前の2話分が1話として描かれている。

 大きな違いは、1971年の人類初月面到達が、既にアームストロングご一行で69年に済んでしまっているので、2036年に消息を絶った月面のアームストロング基地を調査しに行くという内容になっている。
 ローダンの腹心レジナルド・ブルの愛称がブリーからレジに代わっているのが、少し痛い。

 ただそれよりも、ジョン・マーシャルとその仲間たちの方が気になる。既にシド・ゴンザレスという少年が、明らかにテレポーターで、タコ・カクタの出番が無さそうな気配がある。タコ・カクタ、タマ・ヨキダ、イシ・マツ(これは女性)などの日本人がこのネーミングセンスの洒脱さと共に、初期ローダンのいいところなのだが、何となく今回のはちゃんとしている。

 マーシャルも、バターパンを食べながら銀行強盗を防ぐ、とぼけた男ではなく、ストリート・チルドレンを救うためのNPO的な事物として描かれているのだが、この辺りが、時代と共に作品により深みを持たせようという意図が見えるのだが、この辺りが少しまだるっこしい。

 全体として、純粋なエンターテイナーから少し脱却して、少し小説としての深味を足してみましたという部分が見えるのだが、まあそれでも第1巻、どうなるのかがこんごたのしみ。
 2巻の表紙はきっとトーラなのかな?と思うのだが、ぼくはおっさんなので、納得いかない。

 先日、台東区のミレニアムホールというところで上演された『モーツァルトの旅』を観てきた。これは、一昨年、大塚のホールで上演されたものの再演である。もう一度観たいと思っていたので、改めて観に行った。
 前回とは若干キャストの変更はあるものの三分の二は初演と同じキャストであった。
 端的に言えば、やはり面白かった。同時に、前回よりもクオリティは増していたと思う。中でも吉田伸昭のダ・ポンテは前回に比べても出色だったと思う。

 この作品は、前回のブログでも書いたが、クラシックのアリアや重唱をお芝居で繋げる形式で書かれているが、実際の所は、既存の音楽を利用した一つのオペラである。モーツァルトの名曲をいいところ取りして作り上げられているのだから、ある意味卑怯と言えば卑怯だが、でも、ではいい音楽にお芝居を付ければ楽しいのか?というのはまた別な話だと思う。
 つまりは、いかに音楽とお芝居が不可分に融合しているかがこういった作品の一つの成功の鍵だと思うからである。

 例えば、モーツァルトが死ぬシーンがある。
 姉、ナンネルの腕に抱かれながら、自らの寂しさを吐露し、「こんな弟でごめんなさい」という天才らしからぬ台詞を絞り出し、そんな弟を、「愛してるわ、ヴォルフガング」と、これまで理屈で励ましてきた弟に、全てを包み込む愛情でかき抱く。そこでピアノが奏でる音楽は、かつてこどもの頃にモーツァルトの父が子守歌代わりに歌った歌(実際には『後宮からの逃走』の中でオスミンが2幕で歌うアリアだが)で、舞台右手にいる二人の元へ、その歌を歌う父親と思われる影が近寄り、とん、とモーツァルトの肩を叩く。だらっと落ちるモーツァルトの腕。「眠ったの?ヴォルフガング?」そして弟の名を叫ぶ姉。暗転。
 あるいは、非常にコテコテの演出かも知れない。だが、この短い時間で、観客は涙を流すだろう。このオスミンのアリアは、一幕もこの時も少しテンポが遅過ぎる。しかし、十分な演出効果がある。1幕冒頭のパパゲーノのアリアの旋律と、このオスミンのアリアは、ここでしっかりと回収される。

 音楽とストーリーが融合しているのは、当に優れたオペラの特質である。モーツァルトもヴェルディも、ワーグナーだって、台本に曲を付けるのだ。違いは、曲と曲の間を全て音楽でつなぐのか、レチタティーボで繋ぐのか、それとも台詞で繋ぐのか、だ。この『モーツァルトの旅』は、その3番目の様式であり、なおかつお芝居の比重が大きい。
 最大の相違点は、今回書かれた台本に作曲家が曲を付けたものではないという点だけだ。
 こういった手法は恐らく、今回が初めてでもないだろうし、実は似たような方法は、年中どこかで上演されているのかも知れない。だが、それらとこの作品を分けているのは、前回も書いたとおり、音楽と芝居の融合の度合いであり、未だにこれは意見を変えることはないが、モーツァルト以外ではこの高みに達することはないだろう。
 他の作曲家に比べてモーツァルトが優れているという論ではない。こういった作品に適合しうるのが、モーツァルト以外にいないというだけだ。

 個人的には、好きなマーラーで作り上げて欲しいが、無理だと思う。

 さて、今回は前述したように、吉田伸昭が誰より良かった。アリアは1曲しかないが、この作品に彼がなぜ登場しなくてはいけないのかがよく解る演技だった。
 モーツァルトに『コジ・ファン・トゥッテ』を書かせるシーンでの、タイトルだけを高らかに歌い上げる部分は前回もだが、好きなシーンの一つだ。
 だが何より、前回はどうだったか全く覚えていないが、モーツァルトがダ・ポンテにコンビを解消だと告げた後、つまりは彼唯一のアリアの後だが、モーツァルトの元を去るシーン。去りかけただ・ポンテが、一瞬躊躇してモーツァルトを振り返り、最敬礼して去って行く。ダ・ポンテの性格も、そこに内在された気持ちも、全てを表現し尽くしたかのような最敬礼に、心の中で泣けた。

 そもそも、サリエリがモーツァルトにダ・ポンテを引き合わせたシーンで、水と油のような二人について、「だからこそいいものができる」という可能性を示唆し、そこからダ・ポンテ三部作と言われる3本のオペラが生まれるわけだが、その事が、モーツァルトの人生を彼が思っていたのとは違った方向へ向けて行く、というのがこの作品の一つの軸であると思う。
 その対立軸にあるのが、その後『魔笛』を生むことになるシカネーダーの存在であり、彼がいみじくもモーツァルトに語る台詞が、最終的にこの作品を決定づける台詞でもあり、同時にこの作品を悲劇で終わらせることがない最大の要因となっている。
 いかにもモーツァルトを描くに相応しいと感じる。『アマデウス』も『モーツァルト!』も、多くの作品が、彼の不可解な死と早世という事実によって、音楽とは別次元の場所で作品が作られている。それはそれでいいのだが、それはそれぞれが伝記だからである。
 だがこの作品は伝記ではない。誤解を恐れないでいうなら、前述の著名な作品たちがモーツァルトという人間を扱っているのだとすれば、この作品はその音楽を扱っているのだ(声楽に偏ってはいるが)。だからこそ、過度に劇的である必要は無い。なぜならモーツァルトの音楽がそうではないか!劇的な音楽ももちろんあるが、α波を出すと言われさえする彼の音楽は、その劇的な部分も包み込んで、幸せな何かを聴き手に伝えてくれるではないか。この作品は、モーツァルトのそういった部分も拾い上げているからこそ評価するのだ。

 だから、モーツァルトの死でも、その後親友シカネーダーがその事で慟哭するシーンでもこの作品は終わらない。ただの芝居なら、このどちらかで終わるという選択肢もあるだろう。より劇的にしたいのなら、その後にレクイエムを合唱して終わってもいい。だがそれではモーツァルトの音楽を描いた舞台としては不十分だ。
 その中で『フィガロの結婚』のフィナーレを選択した中川美和に、私は拍手を送りたい。このシーンがあるからこそ、この作品を高く評価するのだ。
 
 それと同時に、この作品が一部に持つ劇的な部分に、今回は出演者が少し引きずられているように見受けられる部分もあった。
 例えば前述したとおり、冒頭の父親の歌は、テンポが遅すぎる。そのシーンの意味から考えても、もう少し速くていい。恐らくはこの歌は、モーツァルトが最後に死ぬシーンでもう一度かかる。そこの影響されているのではないか?と勝手に解釈したが、であればこそ、後半のその部分も、冒頭同様重くならないテンポで歌って欲しい。そうしないと、モーツァルトの死が悲劇にこの作品を傾けてしまう。意外に重要な歌なのだ。とはいえ、『ドン・ジョヴァンニ』の騎士長も合わせて、バスは前回より今回の岸本大の方が圧倒的に良かった。

 また、ナンネルとナンシー・ストレースを歌う伊藤邦恵も、この作品を少し劇的に解釈しすぎているように思えた。彼女は別にコミカルな部分をあてがわれてはいないので、全般シリアスでいいのだが、モーツァルトとナンネルの成長してからのすれ違いのような部分を(それはナンシーという不倫相手的な歌手においても)、モーツァルトの音楽という面と一瞬乖離した部分で捉えているのではないかと思った。確かに台本自体はそういう側面もあるし、単なるお芝居ならそれでもいいと思う。だからこそ最後に「ヴォルフガング!」と叫ぶシーンは涙を誘うのだと言ってしまえばそれまでなのだが、前述したように、この作品は通奏低音のようにモーツァルトの音楽が流れ、いみじくも作中でシカネーダーが語るように、その音楽は優しく、常に作品に寄り添っているのだ。
 この部分を斟酌すれば、少し違ったナンネル像になるだろうし、どちらかと言えば、それが音楽にも反映されるのではないかと思った。
 ただその上で、『皇帝ティトの慈悲』からのアリアは素晴らしかったと思う。惜しむらくはナンシーのアリアは冗長だった。その後の「最高傑作と言われるコンサートアリア」という台詞が空々しく聞こえる程度には。

 サリエリ役の杉野正隆は、前回同様安定して実直な「サリエリ」を演じていた。これは映画『アマデウス』とは対極にいいるサリエリだが、この作品にはこの、”大人な”サリエリが相応しい。惜しむらくは、最後にシカネーダーを諭すシーンがあるのだが、台詞が少し棒読みだった。

 恐らく前回はなかったように思うのだが、一カ所だけ背景からナレーションが入る。だがこの部分はいらないと思う。内容から考えて、時間経過を伝えたかったのだと思うが、その時間経過が台詞で解らないわけではないので(仮にそういう指摘がどこからかあったのだとしても)ここは蛇足だ。
 
 尤も、ぼくが書いているこの文章も含め、見た人間、関わった人間は色々いう。それはどんな作品にもつきものだ。小説でも何でも、それらの意見の取捨選択や、作家が書き落としたと思われる部分の加除などでも、全てがいい方向に出るわけではない。
 ここでこんな例を挙げるのはどうかなとも思うが、永井豪の『デビルマン』は不朽の名作だと思うが(卒論で1章を割いたほどだ)、文庫化されたときだったと思うが、永井が加筆している。オリジナルが出色なだけに、このクソみたいな加筆は何だ!!と、当時思った。永井は連載では描ききれなかった部分を補筆したのか、まあ個人的には、編集から長さ調整に無理矢理描かされたと解釈している。
 
 なので、今回蛇足と書いたところが、次回どうなっているかが楽しみだ。・・・・これ読んでくれないかも知れないけど。

 さてここまで書いたのだから、残りの出演者にも触れておこう。
 モーツァルトの妻、夜の女王などを歌った末吉朋子は、劇場支配人も含めて、高音をバキバキ決めていたが、僕が感心するのは、コンスタンツェがモーツァルトに迫る歌を歌うまでの鼻歌交じりの演技だ。ソプラノ歌手と彼女は台詞が一切無い中で、しっかり存在感を出しているのだが、何度も書くように、芝居と歌が融合するためには、こういった部分がとても大切だと感じるし、こういう所がおろそかにされていないのがいいと思う。
 ソプラノ歌手は前回とは別の人に変わっていたが、欲をいえば『オレステスとアイアスの』の場面では、もう一歩切迫感みたいなものが欲しいと感じた。このシーンは、ある意味においてモーツァルトの心情描写でもあると思うので、歌い手がいかにそのシーンと歌とをシンクロさせるかが鍵になるシーンだと思う。その上で前回同様このシーンは堪能しているのだが、好きなシーンだけに要求は大きい。
 
 シカネーダー役の古澤利人は、一番声が通っていて、安定した芝居だった。シカネーダーという役は、『アマデウス』でもあまりクローズアップされていたとは言えない。今回のこの作品は、シカネーダーとダ・ポンテという、謂わばモーツァルトの4大オペラの台本を作った人物に焦点を当てているのも面白い。
 本来であればモーツァルトは、その生涯の中で、オペラの何倍もの器楽作品や声楽作品を作曲しているわけで、その中からオペラを切り取り、そしてさらに二人の台本作家に焦点を当てることで、既存の作品とは違った曲面を見せることに成功しているのだと思う。
 この作品でバリトンは二人いるが、シカネーダーの古澤と、サリエリの杉野、どちらも適材だと思う。

 そして、モーツァルト役の中川美和だが、今回改めて、出ずっぱりの役なのだなと感心した。他の誰かが演じるってこと考えてないだろ!と思えるくらい負担が大きそうだ。
 だが、女性をモーツァルト役に置くというアクロバティックな配役は成功していると思う。
 一つには、初めの方に歌われる『後宮からの誘拐』のコンスタンツェのアリアを彼女が歌うからであり、モーツァルトとシカネーダーの『魔笛』からのパミーナとパパゲーノの重唱が、二人の友情をうまく表現しているからである。実際は男女の愛の歌だが、ここでは上手く、もっと広い意味に捉えられるように歌詞が付けられている。
 モーツァルトは主役なので、もう一曲くらいアリアを聴きたいところだが、それでは体力的に保たないのかも知れない。
 ところで、『後宮からの誘拐』は『後宮からの逃走』とも訳されるが、全然意味が逆なのになぜそうなっているのだろう。素朴な疑問。

 いずれにしても、この作品はもっと上演して欲しいし、オケでやって欲しい。前回今回と見ていると、シンプルな舞台装置も売りの一つなのかも知れないし、より多くの場面で手軽に上演できるという意味ではいいのかもしれない(モーツァルトをやる人の負担を考えると、それほど手軽かどうかは別にして)。それでも尚、もう少し手の込んだ舞台でも見てみたいと思う。
 
 これを観た翌日からこのブログを書き始めて、およそ一ヶ月くらいかかった。途中で記憶も曖昧になりかけたが、それでも尚印象に残っているというのはいいことだ。
 三度目を楽しみに、Bravi!でした。

 

 

 

 

 

 世間では稲田朋美が、自衛隊や防衛大臣として投票をお願いみたいなことを言って、様々なところから批判を受けている。
 そして数時間後に、特に謝罪もなく
「その中で誤解を招きかねない発言があったことに関しまして、その誤解を招きかねない発言に関して、撤回をいたしたいと、そのように思っております。」と、発言を撤回した。
 発言の内容については、他の人がたくさん言っているし、「なんとまあ」と思うわけだが、今日の論点はそこではない。

 こういった発言は稲田朋美ではなくとも、多くの閣僚、議員、有名人が時々している。謂わば、言わでもの事を言って、追い込まれ、後で撤回したり謝罪したりする。
 その時ほとんどの議員が言うのがこの「誤解を与える発言」という、人をバカにしたような表現だ。

 誰も誤解していないし、それを口にしたときの、あなたの考えがよく解っただけだから、といつでも思う。
 人間なので、言い間違えや、意図しない言い回しになることもあると思うが、その多くが、日常的に思っていることが口に出た結果、社会から糾弾されたり、ツッコまれたりと言うことで、その言い訳として誤解を与えるという、相手が間違った解釈をする可能性に言及することで、自分が言ったことをなかったことにしようとする。
 
 こんな事は実は日常的に家族や友人間でもあることだし、結構な確率で人間はこれらの議員と同じ行動を取る。
「そういう意味じゃなかった・・・・」
 まあ、多くの場合そういう意味だ。だが言ってはいけない言葉なのだ。素直に謝ればいい。

 ところが政治に携わる人たちはそうはいかない。

 先日の「東北地方だったからまだ良かった」みたいな発言も趣旨は、「東京だったらより甚大な被害があった」という規模だけのことを言おうとしたという解釈もできるが、それはそう言わなくてはいけない。

 今回の自衛隊の件でも、この人のこれまでの、教育勅語についてや様々な意見を聞いていれば、少なからず歴史修正主義に傾いた思想と、明らかに自衛隊を国軍と認識しながら、自らがその頂点に立って意気揚々としているように見えてしまう。だからこういう発言が出ても仕方ないよな、と思う人が多いし、こういう人に防衛大臣を任せていていいのか?と思う人がとても多いと思う。そもそも撤回の仕方も、印象としては、嫌々している感は否めない。

 こういったことは「誤解を与える発言」といういい方で、自らの発言を否定し、あるいは謝罪したとしても、それで解決することなのだろうか?
 あるいは解決する場合もあろう。だがテレビを観ていたりして、多くの発言は「誤解」とは無縁だ。誤解ではなくただの「誤った発言」であり、「訂正」すればそれがなかったことになるわけではない。それをこれで解決させようとするのは、間違った発言を誤解という表現で塗り固めようとする、文脈を無視した国語力の無さに感じられる。
 ケースバイケース、その時の発言にあった修正の仕方や謝罪の仕方、認識の過誤や思想的な過ちを認めないのは、政治家に許された特権のようである。

 ぼくなどは、そもそも稲田朋美は、普通に自分が思っていることを言ったので潔いと思うし、そのまま政治の世界から消えて頂いても結構なのだが、むしろその撤回とその言葉のチョイスにこそ卑怯と許しがたさを感じるのだ。
 あなたの言葉は誤解を与えるのではなく、あなたという人間の考え方をよく知らしめてくれる貴重な言葉なので、だとすれば、同じことを言ったのが他党の別の人だったときに、どのような批判をその人に対してするだろうかを想像し、その通りに行動しましょう、というだけだ。

 そろそろこの「誤解を与えるような表現」という言い訳を、政治家に限っては使ってはいけないと決めてはどうだろう。

 まあ、そうしたら別の表現使うのだろうな・・・・。こんなんあったんか!みたいな。

 

 以前から思っていることだが、厚生労働省が求める「屋内全面禁煙」に対して、店が立ち行かなくなるからという理由で、自民党のたばこ議連というおじさんたちが(おばさんもいるのかな)出している、一定面積以下の店は禁煙室を作ることで喫煙可能って言う、すごく差別的な条件、本当にいいと思っているのだろうか?
 そういう中途半端なことを言えば、その境目みたいな面積の店から、苦情の嵐だろうに。そんなことも解らないのだろうか?
 そもそも、飲食店が全て禁煙になれば、喫煙者は選択の余地なく禁煙の店に行かねばならない。微妙に選択肢を残せば、それこそ不公平で、むしろその結果つぶれる店だってあるだろう。

 また、喫煙室を設けて分煙すればって、よっぽど宇宙船のエアロックみたいにでもしてもらわなければ、我々の鼻を舐めちゃいけない。小部屋を作ってそこで吸えばいいなんてのは全くだめだ。また、喫煙者のマナーになども頼れない。もちろん素晴らしい人たちもたくさんいるが、多くはそうではない。飲食店で周りの客に気を使ってたばこを吸っている人など見たことがない。
 といって、路上で吸うのはやめて欲しいけどね。近所にも禁煙の店があるが、店の外に出て客が時折吸っている。前を通るにも非常に迷惑な話だ。

 あ、吸ってもいいですか?ってのがあるが、あんなのをマナーだと思っている人は、人の心の機微に全く鈍感な人たちだ。それを断れる間柄ならいいが、多くはそこでNoといえないものだ。しかも、隣のテーブルの他人に訊く人はまずいないだろう。同行者に訊けばマナーを守っているなんてのはちゃんちゃらおかしい!

 何十年も望んできた煙のほとんどない世界がようやく実現しようかというこの時、厚生労働省は、もっと本気になって政治家と戦って欲しい。いや、今でも十分本気だと思うが、こんな屁理屈みたいなアイディアに負けてはいけない。

 

 ぼくが時々書くローダン(ローガンじゃないぞ!)、これは、アメリカの空軍少佐だったペリー・ローダンが、人類初の月着陸の時、異星人と出会い、彼らの目的であった「永遠の生命の星」を探し、元々探していた彼らアルコン人を差し置いて、自らが不死となり、取りあえずそこから数千年の話を、延々と週間ペースで発行し続ける、ドイツの小説のことだ。
 現在原書で2900巻を超えて、終わる気配は無い。
 世界でも続けて翻訳しているのは日本くらいらしく、2話を1巻の文庫に収め、現在月2冊ペースで早川書房より発行が続いている。こちらはもうじき(多分8月の上旬)550巻になるので、原作の1100話を迎えるということになる。その差が1800話で900巻分ということになるわけで、今のペースで翻訳が続けば、現在の最新刊は大体19年後くらいに読めることになる。
 それくらいだと読める可能性はあるが、その時点で、原書は4000話近くになっている可能性は十分にあるので、生きている間に最終巻が読めることはまず無いと思っている。
 計算すれば判るが3000話は約60年、つまりそれくらい前から続いているシリーズだと言うことだ。実際は第1話「スターダスト計画」が1961年発刊なので57年ということになる。

 ここまで続くと言うことは人気があるからで、百科事典や、サイドストーリーなどもかなり昔から出ている。
 さて、そんなサイドストーリーとは別に、「PERRY RHODAN NEO」というシリーズが2011年からスタートし、既に150話近くが発刊されている。
 こちらも第1話は「スターダスト(Sternenstaub/Frank Borsch)・・・まあ、ドイツ語を翻訳して英語のスターダストというのが面白いが、要するに、これはプロットを少し変えて、ゼロから新しいローダンを書き始めたプロジェクトなのだ。そして、早川書房は2匹目のドジョウを狙って、こちらの翻訳を7月から、毎月刊行するという。勘弁してくれ・・・・ローダンしか読めなくなる。
ローダン新プロジェクト〈ローダンNEO〉刊行開始!

 そして判らないけど、きっと紙でしか出さない。
 現在のローダンも、古いものから順次電子書籍で読めるが、なぜか最新刊は出さないという不思議。まず最新刊出せよ!
 
 そしてイラストレーターも決まった。
〈ローダンNEO〉日本版 イラストレーターがtoi8氏に決定!
 ただなぁ、絵はすごく上手だが、なんかアニメチックで個人的にはあまり好ましくない。誰が何と言おうと、ライトノベルじゃないんだから!原書に比べたら、はるかにクオリティは高いと思うんだけど、何か受け付けない・・・・人間年取ると、こういう所の柔軟さがなくなっていくのかも知れないと思ったりして・・・・

 まあ、何はともあれ、今まだ521巻を読んでいるぼくとしては、早いとこ20巻の差を詰めないとなぁ。

あ、これが150巻の表紙。
150

 

 80年代後半のバンド・・・らしい。
 どこから手に入れたのか不明だが、1990年のライブを持っていた。

 音はあまり良くなかったが、この曲だけよく聴いていた。

 どんなバンドなのかもよく判らないが、イギリスのプログレバンドではあるらしい。
 でもこのライブの元になったスタジオ録音のもYouTubeにあるんだが、あまり良くない。

 桑田靖子は83年に東芝EMIからデビューしたアイドル歌手だ。実は、顔と名前、デビュー曲の微かな記憶しかない。
 ぼくはこの年から配属先の経理を嫌がってレコード店の店頭で働き出したのだが、毎月何人もの歌手がデビューし売れたり消えたり。
 この前年はよく言われる花の82年で、ビッグネームがたくさんデビューしている。
 以下はWikipedia からのコピペだが、当時のレコード売上から見ても82年と83年は、なんでこんなに違うの?というくらい違う。
 分けても中森明菜は突出していたし、『艶姿ナミダ娘』辺りからの小泉今日子もすごかった。それに次ぐのは石川秀美、早見優、堀ちえみで、他はさほどでも無かったと記憶している。83年デビューの人は、確かにわらべはテレビの影響でシングルヒットはしたが、他はたいしたことなかった。

1982年…小泉今日子、中森明菜、北原佐和子、三田寛子、堀ちえみ、早見優、石川秀美、原田知世、伊藤かずえ、新井薫子、松居直美、白石まるみ、つちやかおり、川田あつ子、中野美紀、川島恵、伊藤さやか、水谷絵津子、渡辺めぐみ、水野きみこ、真鍋ちえみ、三井比佐子、坂上とし恵ら。
1983年…わらべ、岩井小百合、富田靖子、伊藤麻衣子、武田久美子、桑田靖子、松本明子、大沢逸美、森尾由美、小林千絵、横田早苗、原真祐美、高橋美枝、徳丸純子、木元ゆうこ、小出広美、河上幸恵、松尾久美子、太田貴子、小久保尚美ら。

 なので、桑田靖子も、さほど売れた記憶はない。ではなぜ、『脱・プラトニック』かと言えば、たまたま今日、仕事をしながらYouTubeの「1983年のヒット曲200」というのを聴いていたら、そこにあったからで、そして、何で当時聴いてなかったのかな?と思ったからである。
 同時に、このYouTubeの投稿がとても面白かったからだ。

 桑田靖子のデビューから86年までのシングルをメドレーにしているのだが、シャカシャカ言うバックのリズムがあるせいで、すごく統一感を持って聴ける。時々同じ曲に聞こえたりするんだが・・・
 そして何より、歌が上手い!
 楽曲も悪くないのに、なんであまり売れなかったんだろう?と思う。
 

 このデビューから10年経った影像を見ると、尚更思う。
 これは福岡音楽祭という、ググっても出てこない音楽祭の風景だが、彼女はこの第1回のグランプリだったらしい。平尾昌晃に付いたからなのかちょっと演歌っぽい雰囲気の発声を感じることもあるが、仕事人の歌でも歌わせてあげれば良かったのに、などと下らないことを考えたりして。
 東芝EMIと考えると、本田美奈子よりRockには向いていたと思う。

教えてどうぞあなたから いくつの悲しみ重ねたら
私は 本当に あなたのものになれるでしょうか
春めく街に立ちすくみ 口びる小指でなぞってます
あなたの 面影が まぶしくて うつむきがちな 夕暮れです

胸に 秘めた あなたの 淡い 想い出に心乱れます
嫌われても嫌われても あなただけです
初めての日 忘れられず 胸を責めます
愛し方は 憶えたけど 愛され方は
忘れそうな16歳 春をまたひとつ 見送ります

本当の齢よりも上に 見られて愛されていたから
今では 同い年 男の子たち もの足りません
この髪二度とあなたから 触れられることはないですか
はしゃいで 街を行く 恋人たちの後姿 見とれてます

胸に 残る あの日の 夢を 消せないで 心乱れます
好きなんです 好きなんです あなただけです
あきらめさえ できないから 苦しいのです
愛し方は 憶えたけど 愛され方は
忘れそうな16歳 春をまたひとつ 見送ります

嫌われても 嫌われても あなただけです
初めての日 忘れられず 胸を責めます
愛し方は 憶えたけど 愛され方は
忘れそうな16歳 春をまたひとつ 見送ります

 ビデオを観ていると、芳本美代子もこのコンテストの受賞者だったことが判るが、それより第1回の司会をしていたのがタモリに見えて仕方がない。いや、きっとタモリだ!

Uriah HeepといえばDavid Bylon(あ、ヴォーカリストのことです)というのが、Black SabbathといえばOzzy Osbournというのと同じく相場なのだろうが、ぼくはHeepはJon Lawtonだし、SabbathはRonnie Dioなのだ。
とはいえ、この『Easy Livin’』が無かったら、そもそもUriah Heepを聴いていたかどうか解らない。確かに『July Morning』でも可能性はあったが、やはりこっちだ。謂わばUriah Heepを、一見プログレッシブバンドに分類しかける人がいた原因はロジャー・ディーンのアルバムジャケットと『July Morning』だと勝手に思っているのだが、『Easy Livin’』はめちゃまっとうなハードロックだ。


最初に買った2枚組のライブアルバム。A面の最後がこの曲だった。2枚組の中で最も短い曲だ。Ken Hensleyの面目躍如の名曲だ。
ドライブ感のあるアップテンポで、最初から最後まで一貫している。

This is a thing I’ve never known before
It’s called easy livin’
This is a place I’ve never seen before
And I’ve been forgiven

Easy livin’ and I’ve been forgiven
Since you’ve taken your place in my heart

Somewhere along the lonely road I had tried to find you
Day after day on that windy road I had walked behind you

Easy livin’ and I’ve been forgiven
Since you’ve taken your place in my heart

Waiting, watching
Wishing my whole life away
Dreaming, thinking
Ready for my happy day
And some easy livin’

Somewhere along the lonely road I had tried to find you
Day after day on that windy road I had walked, walked behind you

Easy livin’ and I’ve been forgiven
Since you’ve taken your place in my heart
Easy livin’ and I’ve been forgiven
Since you’ve taken your place in my heart

ちなみに、Uriah Heepは『Look at Yourself』だろうという向きもあるかも知れない。ザ・ピーナッツだって歌ってるし。
そのいい方をすれば、個人的にはUriah Heepは『Sympathy』なのだ。
ザ・ピーナッツはこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=ZGkFbl2-U1U
ついでにこの続きで、キング・クリムゾンの『Epitaph』まで歌ってらっしゃる。

ところで、こんな動画を見つけた。

 演奏以外にほとんど動かないおじいちゃんおばあちゃんの、めちゃくちゃ上手い『Easy Livin’』カバー。ハンガリーのアマチュアバンドだと書いてある。調べてみると、並のアマチュアじゃ無さそう。
 まあ、考えてみれば、そもそもカバーされている人たちが、今ではおじいちゃんだものな。

 この曲は以前、つちやかおりの時に少し触れているのだが、改めて。
 しかしまさかYouTubeにあるとは!

 
 実際ぼくは、この人がテレビで歌ったのを見たことが無い。
 東芝の歌手だとばかり思っていたが、FUNHOUSEだったのだな。レコードを持っていてももはや見ないので。
 作詞は誰だか覚えていないが、作曲は井上大輔(ジャッキー吉川とブルーコメッツのメインボーカルでフルートを担当していた井上忠夫)だが、この人は結構ヒット曲もいっぱい持っている。有名なところでは、ASSUKAが作詞した葛城ユキの歌で有名な『ボヘミアン』(そもそもは大友裕子が最初だが)とかシブがき隊屋シャネルズの歌いっぱい書いてる。
 さて、この『太陽のアラベスク』だが、個人的に、同時期に書かれた大西結花の『シャドウハンター』とかぶる。
 どちらもアップテンポで、アイドルの歌としては非常に僕好みのメロディ。
 アイドルの歌としてはロックと言ってもいいのかもしれないけど、なぜか歌謡曲とロックの間には微妙な差異が存在する。
 
 秋山絵美は結局ほとんど売れることなく、このシングルもあまり売れていた記憶はない。でも店頭演奏のテープにも入れて流していた。まあ、店頭演奏のテープにスコーピオンズの『This is my song』なんてマイナーな曲を入れて流していたので(でもかけていたらこれは一回売れたのだ!)、秋山絵美もただのセルフ押しだったが。
 シングルは覚えているが(持っているわけだから)、アルバムが出たのかの記憶がない。

 CDなんか出てないだろうと思ったら、

こんなものが!そして、秋山絵美だけで8曲も!
 このアイドルミラクルバイブルというシリーズ、チェリッシュなんかも入っている辺りがちょっと不思議な気もするが、ほかはこれでもかというくらいマイナーなアイドルてんこ盛り。じっくり見よう。