2008年5月 5日

闘牛

 スペインで闘牛がいずれ無くなるのでは、というようなニュースを見た。
 バルセロナでは、3つあった闘牛場が一つに減り、1万人以上収容できる観客席も年平均3千人くらいしか入らないということらしい。尤も、スペインはバルセロナだけではないので、マドリッドなどではどうなのかとか、スペイン全体がどういう状況にあるのかまでは放送されていなかったと思う。
 闘牛廃絶を訴える政党もあるらしいし、世論調査でも、闘牛は野蛮だとか興味がないとか、その方向にあることは事実のようだ。

 闘牛については、おそらく世間一般の人以上の知識はない。闘牛と言えば、スペインや中米の赤い布を振る闘牛士が、牛を斃す行事くらいの認識しかない。
 闘牛について、最初に自分の意識が向いたのは、先頃亡くなったクラークの「幼年期の終わり」でだった。
 圧倒的な科学力を持つオーバーロードが、人類に「生きるため以外の他生物の殺害」を禁じ、それに従わない闘牛場の観客全員が強烈な痛みを味わい、それで闘牛が終焉を迎えるという行だ。

 映画「スパルタカス」「グラディエーター」や多くのローマを扱った映画では、貴族の前で死闘を演じる剣闘士(グラディエーター)の姿が描かれているが、人類史の中で、自分の意志とは関係なく、命をかけて他人の娯楽のために戦わされた人間は、きっとたくさんいるに違いない。
 人間がだめなら動物で、とい短絡的な発想だとは思いたくはないが、どちらかというと、それに賭け事の加わった形で、闘牛やその他の「闘動物」といった競技が始まったであろう事は想像に難くない。

 歴史や伝統というのは、物事に箔を付けるが、所詮は長期間続いたというだけのことに過ぎない。
 伝統だって、時代時代で意味も変わるし、存在意義が変化するのは当たり前だ。「伝統とは自堕落のことだ」というマーラーの言葉は大好きだが、闇雲に使うとまったく持って無責任な言葉になる。
 闘牛を自堕落とは言わないが、娯楽のラメの殺生というのは、おそらく時代に合わないに違いない。

 闘牛協会の人がインタビューで、「闘牛は日本の捕鯨と一緒で理解されない文化」みたいなことを言っていたが、逆に言えば、日本の捕鯨はそういう理解を、海外にされているのだ。捕鯨が単なる文化的行事なら、廃止は大賛成だが、捕鯨は食文化に根ざした日本人の生活を支える部分だし、それで生計を立ててきた人も多い。
 鯨を食わなくても他の肉があるというのは当然詭弁だし、鯨と牛や豚を区別しているものが何なのか、分かりづらい。それが知能だなどというのであれば、なおさら分かりづらい。
 前述の闘牛と捕鯨の比較は、所詮は最終的に食うという意味かもしれないが、だからといって、文化や歴史という名目で、殺害を楽しんでいい訳はない。闘牛士の精神がいかに高邁であろうと、やっていることは確かに野蛮だ。
 闘牛に意義があるとすれば、それはそういう歴史的な意味において、そういう時代もあったというように将来言われ、書物やネットに記載されるということくらいだろう。
 捕鯨だって、鯨を追うことそのものを観客に見せて金を取るのなら、同じ事になるかもしれないが、そこは違っている。

 実は日本にも闘牛はあるが、これは牛闘士を闘わせるものだ。
 闘犬や闘鶏など様々な競技があるが、現在では禁止されているところもあるようだ。詳細を調べたわけではないので分からないが、これらもあまりいいとは思えない。

 先日、水戸市の湖で黒鳥と白鳥が、中学生に撲殺される事件があったが、古かったり文化だったりというお題目をのぞけば、闘牛の底流を流れるのはこれと同じ事だ。

 さて、生き物を殺すのはよろしくないことだが、例外的に食べるためにそれをすることを否定はできない。
 精進料理というのがあるが、植物だって生き物には違いないので、肉を食わなければいいなどと言うのは、宗教的な意味をのぞけば、これも詭弁に近い。仏教やヒンズー教やイスラム教、それぞれの教義の中で、これはよくてこれはよくないというのは、ルールだからやむを得ない。「食べない」事は宗教だし文化だ。意味があると思う。
 それでも、それ以外のものは食べるわけで、食物連鎖は、人間が無機物から食料を合成してそれだけで生きていける時代が来るまでは、必要なことなのだ。

 だが、それではゴキブリや蚊はどうかというと、マラリアなどを媒介する場合は別にして、どちらかというと、「害虫」という意味で殺害する。

 要するに、人類の進化過程が一種のヒエラルキーとなっていて、人間を頂点とし、微生物を最下層として、下に行くほど、殺害が自由になると言うのが現代における生命の重要度の物差しなのだ。
 その基準をほ乳類に置くのか、昆虫に置くのか、大まかな常識がそこにはあると思われる。

 ただ、それでも尚、「猿は猿を殺さない」を標榜する「猿の惑星」ではないが、たとえ食べるためでも唯一殺してはいけないのが人間のはずなのだが、人間は人間を簡単に殺す。
 爆弾や戦車が戦場で人を殺すのは、あるいは闘牛と同じくらい軽い気持ちではないのか?少なくとも実際に戦場にはいない命令をする人間には、そんな意識しかないように、どうしても思えてしまう。

 闘牛をなくすことは、あるいは簡単なことかもしれない。同じくらい生命を尊重する考え方で、少なくともより重いと思える人間の命を救うために、戦争をなくすことが、どうしてそんなに難しいのだろうか?

投稿者 keisuke : | 16:42 | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月29日

瀬尾佳美とか・・・諸々

 3か月半ぶりの書き込みである。

 瀬尾佳美という青学の准教授(この准教授というのは、なぜ助教授じゃなくなったのだろう・・・最近の言葉の言い換えには、何とも興味がそそられる)が、先日の光市母子殺人事件の死刑判決後にブログで発した発言を期に、話題になっている。
 この教授の発言に関する意見というのは、その多くが非難であり、基本的にはぼくも大筋でその意見に同調するので、敢えてここで、正面からそのことをわざわざ書くつもりはない。

 あくまで参考のためにこの人の文章を引用の引用で掲載する。

 繰り返すが私は死刑廃止論者ではない。麻原なんかさっさと首絞めたらいいと思っている。 だが、光市の事件に関しては死刑は重すぎるように思えてならない。犯人が少年だからだ。 私は少年に対する死刑には原則反対だ。 理由は日本では18歳になっても選挙権がないから。選挙権もないのに、義務だけあるのは気に入らない。 金の掛け金を何千万も横領している公務員がなんのお咎めもない一方で、いくら重大犯罪人だといっても子供を死刑にするのは私の「正義感」には合わない。 もちろん、だからといって何をしてもいい訳ではないが、国が死刑という形で犯す殺人には、熟慮が必要だと思うのである。 最低でも永山基準くらいをラインにしてほしいものだ。 永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ(まったくの個人的意見だが赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうので、傷害致死の可能性は捨てきれないと思っている)。 一審、二審の判断は、相場から言えば妥当なところではなかったろうか。
引用元

 この人は、すでにWikipediaにまで項目があるし、今回の事件についてばかりではなく、これまでも多くの問題発言を繰り返し、シンパもいないわけではないようだ(詳細は知らないが)。

 いずれにしても、大学で学生に何かを教えているわけで、教える内容の賛否はともかく(個人的にはとても「否」だが)、その文章を読んでいると、とても稚拙な感じがする。この場合、稚拙という表現が合っているのかは、自分自身疑問なのだが、大学の先生が書くにしては、ということだ。
 この人、「リスク理論入門」というタイトルの本を出しているが、自信の身に降りかかるリスクをうまく回避できなかったようだ。
 この後、青山学院への山のような直接抗議などに対して、謝罪や言い訳を言って、最も反発の強かった「幼児を0.5人と換算した」と見える場所についても、「傷害致死の可能性」を0.5としていると書いている。

この准教授は、例えば拉致被害者に対しても

「(拉致被害者は)私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います」
この引用はJ-CASTのニュースから

というような発言を以前にしているらしい。

 これは、もって他山の石となすべき事なのだけれど、内容は別にしても、この表現方法はどうしてこうなるのだろう。
 日本のブログ文化は、内容の善し悪しに関わらず、この表現という点において、とても自由で、危うい。
「不幸面してられるアンタ」という表現が、この場の書き手の心情を最もよく表しているとしても、この文章を不特定多数に公開する場合、どういう効果があるか、考えないで表現できる危うさが、そこに存在する。

 書籍や雑誌は、編集者が、テレビも様々なフィルターが、多くの場合かかる。
 しかしながらブログは、「日記」との狭間で、フィルター無しに直接的に伝わり、なおかつ、流行というか、それぞれに特有の文章的傾向がある。
 2チャンネルの隆盛により、匿名で感情を吐露したり、あるいは補遺とを傷つけるような表現が日常的に、しかも安直に使用されることがよくある。

 この瀬尾という人の場合は、根本的に何かが欠落しているような内容なので、そのことも相まって、読者感情を逆撫でする。
 ただ、最近はやりの学校裏サイトやプロフなどでも、ニュースで見る限り(実際のサイトは見たことがないが)直接的に人を傷つける発言が、ある意味効果的に使われているし、それが日常語であるようにさえ思える。

 福田首相が、後期高齢者医療者制度について、山口の補選で街頭演説するシーンが何度も流れたが、あの年齢で、首相までやっている人が、ああいう表現をして、選挙に勝てると思っているのが恐ろしい。
 尤も、友人の友人がアルカイダの友達だったり、大臣をしてこの発言という人たちは多いし、年金記録の付け合わせが3月までに解決しなかったことに対しても、「誤解を与えた」という表現で謝罪をするような国家なのだから、表現についてはまず大人が正さなければいけないのかもしれない。

 人間が社会生活を送らなくてはならないのは、もはややむを得ない事だし、自分と他人の関係を抜きにして、生きていくことは、基本的に不可能だ。
 であれば、自由というのは、自己の自由であると同時に、他人の自由でもある。そのこと抜きには自由を語れない。
 だからこそ、中国はチベット問題で世界から非難されているわけだ。・・・尤も、中国の「自由」は、自由主義国家の自由とは、意味が違うのかもしれないが。

 日本には、幸か不幸か敬語が存在する。こんなものがなければ、もっと表現は平易なのかもしれない。
 しかし、存在して、まだその威力があるうちは、それなりに使い分けが必要になろう。

 ぼくは、朝青龍の尤も好きになれない点が、その敬語をほとんど使えない点にある。彼はモンゴル人なので、関係ないと言うほど、日本語は下手ではないし、新聞やテレビの記者相手に、丁寧語すら使おうとしない彼に、横綱としての資質のなさを感じる。
 横綱はまず強くなければならないと言われるし、それももっともなことだが、相撲が品格の高さを失ってしまったら、プロレスと何ら変わらないとさえ思えてしまう。それならば、プロレスの方がずっとおもしろい。・・・いや、プロレスにはプロレスの品格があり、それは言葉遣いとはあまり関係ないのだ。
 しかし相撲は違う。・・・ただ、そう感じない人が増えてくれば、それはそれで、仕方がないのかもしれない。

 さて、言葉や文章というのは、斯様に人に対する心象を形成する。
 例えば内容は別にして、丁寧な言葉で書かれた文章で、いやな思いをする人はあまりいないだろう。
 しかし、正論であっても、攻撃的であったり、人を小馬鹿にしたような表現方法を採られると、反発したくなったり、いやな思いをするものではないだろうか。

 どんなことでも一概には言えない。時には過激な表現手段が必要なこともあるかもしれない。
 だがどんな場合でも、読む人の心象を大切にするという姿勢は、必要なはずだし、それは自ずと文章に表れる。

 もちろん表現だけではない。意見の表出はある程度自由だが、人の考え方には流行や道徳的なことも含めて、ある程度の規範が、時代時代にある。それを超越して変化もあるには違いないが、そのバランスの中で我々は生きている。淘汰されていく考え方や行動がある一方、守られ、継続していくそれもあるのだ。
 それらの基本にあるのが、自他のの関係性であることは間違いない。

 表現手段も、表現内容も、実はそのバランスがとれる内側で使用される間は、きっと自由なのだ。

 しばらくぶりに書くとどうも、こうしてまとまらない。・・・続けて書こう。
 

投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 00:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月12日

XHTML1.0 Strict

 職業柄、ホームページにエラーがないように、という配慮は当たり前のことではあるが、ホームページを構成するタグのあり方には、どうも解らない部分がある。

 最近!DOCTYPEの宣言をXHTML1.0にし始めてから、できるだけstrictで書きたいと考えているのだが、なかなかそうは問屋が卸さない。
 そもそもXHTMLとHTMLはXHTMLの方が厳密なので、これまでHTMLで許されていた、というか普通だった
などのタグも
と自己完結しなくてはならない。
 ただこんなものは、大したことではない。

 例えば、〜の中でを使おうと思うとXHTML strictではがインライン(行内)要素なのでそのまま記述してはいけないということになる。

で囲んで、ブロック要素にするように、ということになる。

 そもそもこのインラインだのブロックだのの要素分けが、その使命について今ひとつよく分からない部分もあるのだが、まあそれはよいとして、元々HTMLでも、この

〜などは非常に使いづらかった。なぜならこれらのタグは、それだけでそこに改行を含んでいるため、続けて表示したくても、1行空いてしまうからだ。
 何でこんな仕様になっているのか、そこいらは勉強していないので未だに解らないが、使用感から言えば煩わしいことこの上ない。

 また、<form>や<a>で「target」属性というのがあり、これによって、リンク先を別ファイルにしたり、別フレームにしたり、制作者側から言わせてもらえば、非常に役立つ仕組みなのだ。
 ところがXHTMLではその思想そのものが無くなっている。

 もちろん、何でもかんでも新しいウインドウを開くようなサイトも時折あるので、それはそれでどうかと思うが、意図的に新たなウインドウを開いて欲しい場合もある。特に、Firafoxなどのタブブラウジングを装備したブラウザでは、一つのウインドウだけで先に進んだり戻ったりする過去のブラウジングはありがたくない場合も多くある。

 これはリンク先を元のウインドウにするのか新しいウインドウにするのかは、閲覧者の権利だという考えから発している。shift+クリックで新しいウインドウが開くからというのだが、閲覧者の権利と便利は違っていて、shift+クリックなどは知らない人も大勢いるはずだ。
 また、何でもかんでも閲覧者の自由というのであれば、制作者の意図というのはどこで斟酌されるのであろう?

 もちろん、利用しやすく閲覧者フレンドリーなサイトが望ましいのは当たり前のことだ。
 だが、リンク先ウインドウをどうするかなどは、双方の意図があるだろう。

 また、<iframe>というインラインで埋め込むタイプのフレームがあるが、フレーム内で情報を更新するとすれば、当然target属性を使わざるを得ない。ところがこれは、XHTML strictばかりでなく、flamesetでもエラーや警告対象になり、transitionalで書かざるを得ない。
 であれば、strictの意味というのはどこにあるのだろうか?

 transitionalであれば、おおかたのことは大目に見てもらえるが、何か中途半端さを感じる。
 
 xml宣言というのもまたややこしいが、これについてはまたいずれ。・・・という書き方をしていずれ書いたことがないのだが。

投稿者 keisuke : インターネット・PC | 22:37 | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月11日

ポータブル・オーディオ3

 あけましておめでとうございました。
 笑っていいともでの里田まいの挨拶だが、日本語としてどうかということとは別に、こうやって日数が過ぎ、松の内でもない1月の挨拶としては、理屈に合っているように思えてしまう。現在形で言うには時間経過が大きく、とはいえ1年の最初の挨拶を交えておきたい、みたいな場合には。

 言葉というのは、文法的に合っていようがいまいが、定着してしまえば価値なので、「マジ?」みたいに、いつのまにか年齢関係無しに誰でも使えるようになれば、問題ないのだ。尤も、「まじ」は、昔からまじめの意味で使われているようなので、口語的に復古したといった方がいいのかも知れないが。

 さて、年末最後がポータブル・オーディオの話題だったが、新年もその続きだ。
 ということで、iriverのT-60を購入した。直営のオンラインショップで、安売りをしていたので、思わず購入した。
 実際にはブラックを注文したつもりだったのに、なぜかホワイトになっていた点が残念だが、気づかなかった自分が悪いので仕方がない。・・・ブラックに変えたつもりだったんだが・・・・ぶつぶつ
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 これは電池駆動なので、基本的に電源部の消耗により駆動時間が短くなるという弊害が無くなる。
 前の時にも書いたが、内蔵充電池は、消耗し、極端に駆動時間が短くなる。電池と違って、外出先で交換できないので、困りものだ。

 単4の充電池を持ち歩けば、カタログ値は19時間持つことになっているので、操作をしても10時間は持つだろうから、予備と合わせれば、外出時に使えなくなることはない。万が一でも通常の電池を購入できる。

 まあ、外出時にそんなにまでして音楽を聴くという執念は、どうかとも思うが、これは、必ずしもずっと聞き続けているということではなく、いざというとき聴けるかどうかという問題である。

 もちろん4GBというメモリの制約があるので、選曲して持ち歩かないといけない。
 前の機種から800曲弱をコピーしたが、MP3のVBRで録音していたため、ここのファイルサイズが大きく、一旦、128kbpsにビットを下げて変換した。以前、たくさん収録するためにMP3-proの64kbps等のを使っていたが、どうも音が薄っぺらくなるようだったので、一応、標準のビットレートを選ぶようにした。

 音質は、iAudioの方が良かったが、外出先で気になるほどではない。早送りなど、こちらの方がいいが、操作性はあまり良くない。何より、付属の説明書に全ての操作に関する記述がないことだ。あまり細かい説明書も困りものだが、書いてないのはもっと困る。日本で発売しているのに、デフォルトが英語仕様なので、まずそこから直していかねばならず、あまり親切とは言い難い。

 ただ前のとは違い、コンパクトなので、携帯には便利だ。ストラップはオプションだったので、同時に購入したが、必要なかったようだ。

 いずれ、メモリタイプで、1TBなどが出てきて、持っている音楽全て収納できるといいのだが。選ぶのがめんどくさい。
 かつて、レコードからカセットに、1曲1曲ダビングしていた時代が懐かしい。今ほど数も持っていなかったが、その行為自体が楽しかった。わずか90分程度のカセットに入れることができる曲は20曲程度で、旅先などにせいぜい5本程度のテープを持って出るのだが、100曲かそこらだ。今ではその10倍を持ち歩ける。単純にカセット50本分だ。

 便利になると、人間、ありがたみが無くなるものだ。文句ばっか書いて。感謝して使わなくては。

 でもやっぱり黒がなあ・・・
 

投稿者 keisuke : 音楽 | 13:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月31日

ポータブル・オーディオ2

 iAudioのM3とうポータブル・オーディオ・プレイヤーを購入して、1年半が経つ。
 非常にお役立ちで、枕元で一晩何か流れているし、外出の時は必須だ。
 しかし、数ヶ月前から電池の持ちが非常に悪くなっている。カタログ値では、1階の充電で14時間くらいだと思ったが、今では2時間がいいところだ。ちょっと操作をすると1時間ちょっとで突然止まる。
 かつてのウォークマンやMDプレイヤーなどは、概ね電池が使えたので、電池切れでも電池を交換すれば良かったが、最近のものはほとんどが充電式なので、切れてしまったら、充電するしかない。
 
 とはいえ、外出先で充電できるかと言えば、最新式の新幹線や一部のファーストフードなど、PCなどのためにコンセントが用意されているケースは稀だ。
 iPodなど、電池式の充電器がサードパーティから発売されていれば、多少はいいと思うが、USBへの電池式旧電気で汎用的なものは、調べても一つしか出てこないし、とても大きくて、携帯には適さない。

 そうやって調べていたら、iriverから出ているT60というタイプが、電池式だということが分かった。単41本で19時間動く。これはT10、T50などの後継機で、1G、2G、4Gの3タイプがある。

 そもそもiAudioを購入した最大の理由は、ハードディスクタイプで、20GBという容量だった。できるだけたくさん携帯したいという気持ちから、とはいえ、60GBくらいのものは高価なので、最初に購入する機種としては値頃感もあり、しかも本体をバッグの中などに入れて、小さなリモコンで操作できるというのも魅力だった。

 実際には、起動が遅い、操作性がいまいち、早送りや巻き戻しがとても遅い、マイナーなので、オプション品もほとんど無いし、他のメーカーからそれにるいするものも発売されないなど、ディメリットもたくさんあった。録音がモノラルで、しかも本体内蔵マイクなので、時折ハードディスクの回転音ノイズが入るし、FM機能はあってなきがもので、不満はたくさんあった。
 但し、メリットに比べれば、改善余地という程度のものだ。でも、動作時間が短くなるというのは致命的なので、買い換えを考えて調べたのだ。

 先に述べたT-60は、最大でも4GBで、容量的には5分の1になる。メモリタイプなので、当然軽くなるから、本体で操作するのは問題ないし、電池式なので、常にエネループのような充電式電池を補助で持っていれば、電池切れの心配はない。
 とはいえ、録音は所詮モノラルだし、操作性などは試すことも叶わない。・・・これは店頭へ行けば多少できるかな。

 SDカード方式などは、昔のカセットやMDと同じで、メディアを入れ替えることで、実質容量は無限になるわけだが、そのタイプには電池式が見あたらないし、そもそも大きなサイズのメモリカードは高い。

 ということでまだ購入には至っていないのだが、これらの機械は、ポータブルのハードディスクとしても使えるので、データ・ストレージとしても役に立つので、本当は100GBくらいで、長時間駆動、電池パックでも動き、リモコン付きというのが望ましい。無駄な動画再生などの画面は入らないので安価なものがでないかな、と思う。
 外出先で、どれほどビデオやテレビを観るのだろうか?音楽は流しっぱなしでも動けるが、映像は流しながら歩くなどできないから、液晶画面などいらないのだが。

 今年最後がこれか・・・

投稿者 keisuke : 音楽 / 日常的 | 17:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月30日

ヴァージン・ウォーズ

 これはDVDについてで、完全ネタバレなので、万が一これから見ようかなどと考えている方は、お気をつけを。
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 標題のようなDVDを観た。レンタルで。・・・レンタルで良かった。
 現代は「MISTRESS OF SOULS」・・・このMistressが誰を指すのかにもよるが、魂の女王様とでも訳すべきなのか、いずれにしてもVirgin Warsというタイトルのような戦争物ではない。

 一般的にはやはり、ひどい映画と言うことになると思うが、ひどいにしてもすごい。あまりこの手の映画を観ないので、たまたま観たこれが特殊なのか、一般的なのか判らないうちのカルチャーショックだったのだ。
 一応あらすじ

石油戦争から7年後。世界は無政府状態に陥り、犯罪が横行していた。アルテミーシャは、戦争中に研究者である父を軍に殺され、その後、奴隷となった。しかし彼女は切り札を隠し持っていた。それは、彼女の父が残した一冊の本であった。その本には、石油の代わりにエネルギーとなる水素を水から抽出する製法が記されていた。戦後、石油危機となった世界で、その価値は計り知れないものであった。だが、囚われの身である彼女は、昼は労働に従事させられ、そして夜は女看守たちの性の相手をさせられ本の隠し場所を追及されていた。自らの気持ちとは裏腹に、体験した事のないとめどない快楽に溺れながらも、彼女は自由を求め脱出の機会を窺っていた。そして彼女はついに牢屋の鍵を手に入れる。果たして、その先に待つ運命とは・・・。
アルバトロス・フィルム

 水から水素を取り出すという、小学校の電気分解の実験のような大発見がまずすごいが、この作品を出しているアルバトロス・フィルムのホームページを見れば解るとおり、この作品は「エッチな」作品だ。AVではないし、R指定でもないが、全編9割以上が女性の裸で満載だ。
 確かにあまりやらしくはないが、一応女性同士の絡みもあるので、一般的に言えば、どこかのR指定が正しいのではないかと思う。

 尤も、今日書きたいのはそんな裸が云々とか、そんなことではなく、ストーリーのことだ。
 上記のあらすじを読めば解るが、当然、主人公は苦境にあり、牢屋の鍵を手に入れた。父親を殺した側のトップはこれも女性なのだが、このアルテミーシャという主人公ばかりでなく、多くの女性を奴隷にしている。女性に革の拘束具を付け、馬の変わりに車を引かせたりもしている。まあ、いわゆる悪い奴なのだ。
 この悪い親分が、アルテミーシャから本の情報を聞き出そうと、スパイを使う。このスパイの女性は、姉を捕らえられていて、姉を助けて二人を自由にする代わりに、スパイをしろということだ。このスパイは本の在処を聞き出すことはできなかったものの、合い鍵の一件はしっかり伝える。
 だが、しっかりスパイをした割には、姉と共に、新しい馬車馬にさせられてしまうのだ。ああ、かわいそう。

 そしてこの悪の親分は、しっかりアルテミーシャの合い鍵も確認しながら「バカな女」といって、そのまま合い鍵を元の場所に置いておく。
 合い鍵の件を知られてしまったアルテミーシャだが、脱出を試みる。

 さてここからが、言わば、悪者とアルテミーシャの駆け引きになるはずだ。いかにしてアルテミーシャはそこから抜け出し、悪と対決するのか、・・・・と思っているうちに、アルテミーシャは、本を地面から掘り起こした瞬間に、悪者の側の兵士に捕らえられてしまう。「バカな女」先ほどの親分の言葉だけが画面に流れる。

 そしてエンドロール!

 おい、ここで終わりか!
 天網恢々疎にして漏らさず・・・漏らしっぱなしかよ!
 結局悪者が勝ったのだった、ちゃんちゃん。

 彼女は抵抗らしい抵抗をしていない。逃げようとして失敗した。それだけの話だ。
 この脚本で、たとえそれがエロビデオでも、作ろうとした監督は偉い。

 ある意味これはどんでん返しだ。
 何だか解らないが、つい他のアルバトロス作品も観たくなる。
 怖いもの見たさだ。

 いやあ、すごい。絶句。

投稿者 keisuke : 映画 | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月16日

 このところ銃の事件が続けて起きている。
 猟銃やらクレー射撃の銃やら、身近に銃を所有している人というのはどれほどいるのだろうか?
 先日の佐世保の事件では、8人が被害に遭っている。

 そもそも人なり獣なりを殺傷する目的しか本来はない銃が、一般の人間の手元にあるということ自体、どんな意味があるのだろうか?

 アメリカでは、西部の開拓時代を通じて、銃社会が定着してしまっている。結果的に銃犯罪は非常に多いし、コロンバインに戻るまでもなく、ここしばらくでも多くの死傷事件が起きている。アメリカは身を守るための銃という意識が高いらしい。
 しかし、そもそも銃がないと身を守れない社会は社会的に成熟していると言えるだろうか?銃が無くても危険のない社会を目指すという発想は、そこにないのだろうか?
 もちろん無いわけはないし、そういう運動をしている人も大勢いることだろう。

 テッド・ニュージェントは僕の好きなハードロックギタリストの一人だが、彼は無類の狩猟好きらしい。ワイルドなヤンキーなのだ。テッドの音楽を聴くと、時折そのことに想いが至る。尤も、できあがった音楽と、彼の思想や行動は、直接的に、少なくとも聴く側にとっては関係がないので、それで聴くのをやめようとは思わないが、それはそれで、そういった彼の部分はあまり好みではない。


 さて、佐世保の事件では、銃の所持に関して、警察は適正の処置であったことを記者会見で述べていたが、銃の所持者がこのような犯罪を犯した時点で、その処理は不適切であったことの証左であり、そうでないとすれば、その決まりに不備があるということだ。

 趣味としての銃による狩りなどというのは、まことに持ってくだらないと思うし、無くなってしかるべきだと思う。

 クラークの「幼年期の終わり」の中に、人類が生きるための目的以外で、他の生物を殺傷することを、オーバーロード(宇宙人)が禁じ、闘牛場の観客全員が、非常に激しい痛みに襲われ、闘牛がこの世からなくなるという行があるが、これは闘牛一個のことではなく、人が、文化だとか伝統だとか趣味だとか言う理由で、動物を殺傷することは、あまり胸を張って言えるような優れた風習ではない。

 当然人間は、生物を食って生きている。仏教の僧侶が、生臭といって四本足の動物を食わなかったり、精進料理などと言うが、では、植物は生きていないのかと言えば、そんなことはなく、進化のどのレベルにあろうと、人間は今のところ、他の生物の死無くしては、生存していけないのだ。
 それは「食べる」という行為だけではない。「駆除」もまた、生存ためにやむを得ない。それが、田畑を荒らす狸や狐や鹿であっても、駆除すべきは駆除する必要があるのだ。

 だが、個人の趣味などによって「狩る」のは、彼らのエゴ以上の行為ではない。趣味のレベルとしては程度が低いと思わざるを得ない。

 古代の人間は狩猟で生計を立てていたかも知れないが、彼らのは生計を立てるのが目的ではないからだ。

 クレー射撃というのがある。
 確かに安全に配慮した射撃場での射撃は、例えばSecondlifeでの戦闘地域のように、ゲーム性やスポーツ性がある。銃というものがそもそもある以上、それが適切な場所で、安全に使われるのであれば、それはそれでいいと思う。
 尤も、戦争の場が適切であるかと言えば、はなはだ疑問だが。

 少なくとも、日本という社会で、職業として狩猟を営むか、山奥などで生活し、熊などの危険を感じながら生きているのではない限り、家庭に銃を所持するというのは、「許可制」などという生ぬるいものではなく、禁止した方がいい。

 こういうことは、なかなか国会でも実現は難しい。それは飲酒運転のより厳しい罰の制定などと同様に、議員の中にも銃を趣味にしていたり、飲酒運転の可能性を自身感じていたりする人がいるからではないかと、うがった見方をしたくなる。
 銃を「自分は適切にしようしているから大丈夫」と思っている人は、「私は酒を飲んでも酔っていないから大丈夫」といっているドライバーと、全く同質のものを感じる。

 銃刀法というが、刃物は少なくとも料理やその他様々な日常生活で必要な場があるが、銃には無かろう。同じテーブルで考えるのは、そもそも間違っている。ただ、この場合の刃物はある程度、「刀」に限られるのかも知れないが。

 以下次回

 

投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)