2010年5月18日
ディオ、永遠に!
ロニーが死んだ。享年67歳。
ロックなどほとんど聴かなかったぼくに、ロックを開眼させたヴォーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオ。
ああ、なんという喪失感。
エルフ、レインボー、ディオ、ブラック・サバス、・・・・どれも好きだった。
身内以外が亡くなって受けたショックで一番大きい。
ああ、あの歌声が大好きだった。今でも年中聞いている。
あの小さな体で、あのパワフルで、彼以外には歌えない歌を歌い続けた。他のヴォーカルは、似たタイプが必ずいるが、ロニーはオンリーワンだ。
「A Light In The Black」
これが、ぼくにとっての、ロニーのレクイエムだ。
「Heaven And Hell」でも、「We Rock」でも「Holy Diver」でもない。
「A Light In The Black」
なのだ。
リッチーのギターが延々続くのも解っている。ロニーであれば、「Stargezer」の方じゃね?
みたいなのもあると思う。
だがそれでもなお
「A Light In The Black」
なのだ。しかもリマスターじゃない方の。この8分11秒は永遠だ。
ロニー、本当にありがとう。
安らかに。
投稿者 keisuke : 音楽 / 社会的 | 03:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年2月20日
祝・ローダン月2冊刊行
またもやローダンの話だが、早川書房の、ペリー・ローダン・シリーズが、今年に入って月2冊の刊行となった。
元々、1冊に2話入っているから、月4話、年間48話ということになる。ほぼ2年で1サイクルは読めることになる。1年は約52週あるので、ドイツとの差は4話ということになる。
かつて翻訳をされていた松谷氏がジェット旅客機を、プロペラ飛行機で追いかけるというたとえは、今や、ボーイングをダグラスで追いかけるとか、その逆とか、その程度になった。
とはいえ、現在の最新刊が371つまり、742話が収録されている状況なので、片やニューヨークに着いている飛行機を、ハワイ辺りで追いかけている感じか。しかも目的地が見えていないのだが。
ドイツでは2530を越えているので、たぶん、生きている間には読み切れない。今後年50話読んでも、現在の差、1800を読み切るには36年かかる。それだけなら、頑張れば実現可能かも知れないが、その間に、おそらく向こうは5000に近づいているはずだからだ。
終わりは見えない。
ここへ来て、1話からずっと表紙と挿絵を描き続けてきた依光隆氏がローダンを引退された。ある意味マンガのようで(これは原作に登場するからやむを得ないのだが)、様々なタイプの宇宙人の絵などが並んだ表紙は、ある意味恥ずかしいこともあった。
ハルト人のように目が三つあって、腕が4本あって、ずんぐりむっくりな生物や、キャプテンウルトラのバンデル星人を、もっと平らにしたようなブルー属や、それ以外にも異形な生物のオンパレードだ。
だが、目力のある依光氏のローダンや、愛すべきデブ、ブリー、ちょっと気位の高いアトランなど、それぞれの特徴がその絵に表れていて、非常に美しい表紙だった。残念だが、最初にローダンを始めたシェール、そしてダールトン亡き今、翻訳も故・松谷氏から他のメンバーに移り、依光氏も退いた。
新しい時代に入ったということかも知れない。
新しく表紙を描き始めたのは工藤稜というイラストレーターだ。これまでの依光氏のカラーを存分に生かした流れを止めない仕事をしている。変わると知ったとき、最近流行の漫画チックな表紙にされたらどうしようと、非常に不安だった。
小説の表紙にコミックまがいの画を描かれると、棲み分けができていないという違和感がどうしてもぬぐいきれない。絵自体の善し悪し以前に、好きになれないだけのことだが。
しかし今回、早川書房はよくわかってらっしゃる。
確かに、線の甘さや、キャラクターが少なからずコミックタッチに柔になっているという難点はあるが、たぶんこれ以上は望めないし、徐々に板に付き、工藤氏の落ち着いたカラーになっていくはずだ。
最新刊の「にせマルコ・ポーロ」は、だいぶ感じが良くなっている。今後の期待大だ。
ようやくローダンも銀河系に戻ってくる。今後アトランとの確執も始まるらしいので目が離せない。以前と違い、読み終わってから次の巻が出るまでに期間が短いので、ずっと続けて読んでいる感がある。
自分自身がすでに、ローダンとは35年のつきあいなので、読書としてもライフワークに近い。
これからもよろしく頼みます、早川書房!
投稿者 keisuke : SF / 科学 / 文学・日本語 | 02:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年1月23日
謝罪
3ヶ月ぶり、そして今年最初の書き込みが「謝罪」というタイトルだからと言って、何か謝るわけではないのだけれど・・・
今日のニュースで、菅家利和さんの謝罪要求に対して、当時の取り調べをした元検事が謝罪はしなかったというのがあった。いずれかのタイミングで彼が謝罪するのかどうか(無罪判決が出た後など)、不明だが、おそらく彼の立場から言えば、自分は確信を持って有罪だと信じていた(少なくとも当時は)ということで、自分は精一杯やったし、間違ったことはしていないという気持ちがあるのかも知れない。たとえ結果が間違っていたとしても。
だがどうだろう、普通の事柄に置き換えてみれば、その時の思いや理屈はどうあれ、謝罪するのではないだろうか?小学生にだってそう教える。
ところが大人になるとなかなかこの謝罪というのが難しいらしい。
特に政治家はどうだろう。なかなか謝らない。また、謝り方が姑息だ。自らが間違っていたという謝り方をする人が非常に少ないように思う。誤っている方向が違うので、国民の怒りを買う。
例えば上記の検事、無罪を出すための裁判をやっているということなのだから、最初から菅谷さんは無実で、えん罪だったという結果が出ることは解っている審議だ。であれば、自分はあのとき、こういう理由で間違いなく菅谷さんを犯人だと思った、証拠もそれを示していた。だが、結果は冤罪で、今となっては大変申し訳ないことをした、あなたの人生を取り戻すことはできないが、大変申し訳ないことをしたと謝れば、一応は終わる話だ。
菅谷さんのような異例の件で、社会も国も、彼の人生を再び返すことはできない。過ぎてしまったことは最早取り戻しようがない。
もちろん、だからこそ捜査や取り調べは慎重を期すべきではあるはずだが、それとは別に、最大限彼に対して誠意ある対応と謝罪が、事件捜査や裁判に関わったものができる唯一のことである。もちろん、それでも尚彼が今でも犯人に違いないと確信しているのなら、話は別だが。
同様に、政治家もまた、謝罪すべきは謝罪すればいいのだ。政治家は、謝ってしまったらおしまいだと思っているのかも知れないが、そんなことはない。そこから始まることもあるのだ。
自分がしでかしてしまったことへの反省や謝罪というのは、新しいことを始めるための一つの区切りであり、対象者への許しの請いだ。もちろんそれでも許せないことはある。謝れば何でも解決するわけではない。だが、せめて謝れ、という部分はないわけではないのだ。
謝れないのは、実は人間の弱さだと思う。自分自身が同じ立場に立たされ、では謝れるかと言えば、その状況に陥ってみないと解らない。だから、謝らない人間を必ずしも責めようとは思わないが、それでも尚、相手が被った被害や、その人の立場などを考えれば、強く謝罪すべきではないのかという意見を、時には言うべきなのだろう。
鳩山総理が、故人献金や、母親からの多額の譲渡などについて、言葉を濁しながら、謝っているのは、それを知らなくて申し訳なかったとか、お騒がせして申し訳なかったといったことなどだ。国民はまだ我慢して民主党の自民とは違う何かをしてくれるというかすかな糸に望みをつなげている。それが、下がったとはいえまだ50%近くある支持率のゆえんだ。
一例を挙げれば、日本郵政の人事は全くもって天下りでした。申しわけございません。すぐに変えますと言って人事を刷新すると化すれば、そんなことを朝令暮改などと責める人はほとんどいないはずだ。
小泉純一郎が何故人気があったかと言えば、果断さと言ったことを行うという部分が、他の政治家よりも秀でていたからだ。彼の政策だって、誰もが支持していたわけでhない。だが郵政選挙は勝った。
鳩山政権が今後も4年間の地位を盤石にするためには、次の参議院選挙に勝たなくてはならない。そのためには、今の政権に残る、自民党の翳を払拭すること、つまり亀井静香を切り、小沢一郎を黙らせることだ。亀井はただの反小泉であって最も自民党らしい議員だし、小沢はまさに田中角栄の亡霊だ。田中角栄がロッキード事件で罪になったとしても、彼は偉大な政治家だった。だが今はそういう政治家の時代ではない。
民主党はまず思惑の違いを謝罪し、できることから順次、そしてなにより天下り根絶などを頑張ればいい(個人的には天下りそのものは全く反対ではない。天下りはどんどんさせてもいいし、その方が、官僚機構は常に刷新されるはずだ。むしろ直すべきは、天下りしても、普通の職員と同じ待遇にするような仕組みを作ることだ。2,3年で数千万円の退職金や、そもそも最初から高い地位に就けたり、年俸で一千万以上などを規制すればいい)。
まさに謝辞をしないで先へ進もうとすることが、ある意味自民でも民主でも同じ「朝三暮四」たるゆえんかも知れないのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 日常的 | 00:17 | コメント (1) | トラックバック (0)
2009年10月14日
新・三銃士
NHKが「新・三銃士」というタイトルで、月曜日から人形劇の放送を開始した。
NHKの人形劇と言えば、個人的には「新・八犬伝」が記憶にある。もちろん、「ひょっこりひょうたん島」も記憶にあると言えばあるが、鮮烈な印象という意味では、近石真介が声をやっていた犬塚志乃とナレーションの坂本九、そして何より玉梓の怨霊だ。
それ以降の「三国志」や他の作品は全く見ていない。
さて、今回「三銃士」ということもあって、見ようと思った。取り敢えず好きなので。
しばらく前に、「巌窟王」というアニメについて書いたが、これはデュマの「モンテクリスト伯」が原作のアニメで、賞なども取っている大作だった。
今回、NHKは相当入れ込んで「三銃士」を放映しているようだ。ただ、脚本・三谷幸喜ではなく、脚色・三谷幸喜となっているところがくせ者で、「巌窟王」とは別の意味でやってくれている。
「三銃士」「モンテクリスト伯」というのは「レ・ミゼラブル」と共に、ぼくが小学生の頃から慣れ親しんだ数少ない世界文学の一つだ。そもそも読書が大嫌いだった僕にとって、小学6年生で友人からSFを教えてもらうまで、ほとんど面白かったという読書の記憶がない。
上記のフランスもの3作品は例外中の例外だ。
しかもこの3作は、何度も繰り返して読むという、ぼくの読書にあっては、比較的珍しい作品に属している。他には、「三国志」「水滸伝」「新書太閤記」「幼年期の終わり」「氷点」「編笠十兵衛」くらいだ。大概は1回読んで終わりだ。
さて、それだけ思い入れがあるということなのだが、映画などでは、比較的原作に忠実な(それでも改編は多いが)作品のような気がする。ディカプリオの「鉄仮面」や、ソフィー・マルソーが主演の「三銃士(原題は「ダルタニアンの娘」)」などは、かなりオリジナリティーが高く、前者はなかなかよくできている。
「モンテクリスト伯」や「レ・ミゼラブル」に比べると、制作者のポイントと、ぼくのポイントにずれがないのかな?と思ったりする。前記の「巌窟王」などは作品そのものの質はともかく、腹立たしい結末だった。これらの、原作に手を加えることで、何がしたいのかよく分からない作品群は、その話が書きたいのならオリジナル作品を作れ!という制作者のレベルの低さを伺わせる。
これは、例えば太閤記や豊臣秀吉の話が複数あるというのとは訳が違う。秀吉は実在した人物で、彼を主人公、乃至は登場人物の一人として描く作品は、作家それぞれのオリジナリティーを生かした作品としての価値がある。だが、そもそも創作に手を加えるというのは、その原作に与えられた作家の力量を利用し、自己満足の世界を実現させているに過ぎない。
最近「アトム」のハリウッド版が公開されたが(これからかな?)、これだって所詮は人のふんどしで相撲を取っているのだ。原作を歪めて作品化するというのは、原作者が生きているならいざ知らず、はっきり言って興ざめな感じは否めない。ただし、それを凌駕して素晴らしい作品に仕上げてくれるのであれば、それはそれとしての価値はあると思うが。
「新・三銃士」の第1回を夕べ見た。
ダルタニアンの父が、ロシュフォールと知り合いだった。ロシュフォールは彼を殺した。つまり、ロシュフォールはダルタニアンと共に天を頂かぬ仇敵となった。これで、ラストシーン、リシュリューの薦めでダルタニアンがロシュフォールと手を握ることはなくなった、そして彼らのその後の友情も葬り去られた。
第2回以降の録画を全て解除した。
この時点で見るのを止めることができた点で、「巌窟王」よりはましだな。
映画化や漫画化というのは、オリジナル作品に手を加える必要が必ずあると考えているに違いない制作者に言いたい。完璧に原作通りの作品を、たまには作ってみろよ!
投稿者 keisuke : まんが / 映画 / 文学・日本語 | 02:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年10月11日
くだらないこと
昼にとんかつ定食を食った。
メニューに右から、とんかつ定食、ロースカツ定食、ヒレカツ定食・・・・と並んでいる。昼のランチなのにちょっと高い(ランチは昼だが)。
そこではたと気になった。
このとんかつ定食の部位はどこなのだ?
もちろん、肉の部位などそれほど詳しくはない。
でも、ロースカツとヒレカツはよく聞くが、とんかつで他の部位のカツというのをあまり聞いたことがない。
豚肉ランド
を見ると、肩やばらなど聞いたことがある名称が並ぶ。
だがこの中で「とんかつ」に使うのはロースとひれに書いてあるだけだ。
もちろん、他の部位をとんかつにしても一向に構わないはずだが、概ね代表的なのはこの二つの部位だ。
では、ロースでもなくヒレでもないとんかつ定食は、いったいどこの部位のカツを食ったのだろうか?
何となく聞きづらいので聞かなかったが、何しろとんかつ定食とロースやヒレの間に、昼だというのに500円の差があるので、聞きにくい。
海鮮丼などを食べても、時々乗っているネタが解らないことがある。おいしけりゃいいので、敢えて尋ねないが、一瞬何かな?と思う。
確か泉昌之のマンガだったと思うが、渋いトレンチコートのおじさんが、駅弁をうんちくを並べながら食べ、カツだと思って最後まで残しておいたフライが、実はタマネギのフライだった、というのを何となく思い出したが、フライの中身って、時々分からないものがあるな。
近所のクイーンズ伊勢丹の串カツは、ただのカツを串に刺しただけの串カツだ。タマネギは混在していない。全て肉だ。これまたちょっとしたフェイントだよな、と思ったことがある。
悲しい串カツは、大量のタマネギと申し訳程度の肉というのが相場だろうから。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年9月25日
店舗などでの携帯電話
携帯電話が日常的なアイテムとなり、人々のコミュニケーションの手段として定着して久しい。
この際、携帯の機能がどうのこうのということではなく、電話としての携帯は、非常に便利でもあるし、また、それまで家や事務所を出てしまえば、こちらから連絡しない限り、呼び出されることがなかった仕事などで、お構いなしに連絡が来たりする。これは、利用者には功罪どちらかと言えば、たぶん功の方が圧倒的に多いのだと思う。
さて、新幹線に限らず電車では、一応のマナーとして、「通話はご遠慮ください」ということになっている。優先席近くでは電源を切るというのもよくアナウンスがある。
寡聞ながら、優先席付近だからと言って電源を切っている人を見かけたことがないし、電源が入っていたということで、ペースメーカーなどに支障が実際にあったという話も聞いたことがない。あくまで聞いたことがないであって、無いと断定できる根拠はもちろんない。
さて、電車に限らず、喫茶やファーストフード、飲み屋、レストラン、コンサートホールと様々な公共の場で、携帯電話はどういうポジションにあるのだろうか?
例えばコンサートといっても、クラシックとロックでは大きく違う。ロックのコンサートでは呼び出し音など聞こえない。通話してても、通話している側の方がおそらくよく聞こえないに違いない。ただし、バラードや演歌など、以外に目立つ場面ではたぶん御法度だ。クラシックともなれば、ちょっとやそっとの大音量の曲でも目立つ。
先日もとあるコンサートで、携帯が鳴り始めた場面に出くわした。その人は、開演前にも携帯が鳴って会話していたので、その時点で切るか、せめてマナーモードにしておけば、どうということもなかったと思うが、近くだったので、以外に集中力を阻害された。しかも直ぐ切らない。何度も鳴る。そこそこひどかった。
ぼくの斜め前の人は、演奏中にメールか何かを見ていた。
後者は見えただけなので関係ないが、前者は、マナーとか言う以前の問題で、迷惑な話だ。めげずに素晴らしい演奏を続けた歌手に喝采を送りたい。
たかだか2時間程度のコンサートの間だけ、電源を切るくらいのことは、たいしたことではないはずで、それでも尚大変な何かがあるのであれば、コンサートなどでうつつを抜かしている場合ではないと思うのだが。
さて、コンサートは音楽を聴きに来ている場なので、携帯の呼び出し音や会話は、そもそもの目的にとって弊害となるわけだが、では、それ以外の、少なくとも音楽や芝居などを目的としていない場、例えば電車であったり、飲食店の場合はどうなのだろう?
社会通念上、そういった公共の場では、遠慮するというのが一般的な考え方ではあると思うが、人にはそれぞれ事情というものもあるし、例えば、大声で会話している他の人たちと、携帯の通話はそれほど変わらん、というか、場合によっては携帯の会話の方がよっぽど静かな場面もあるような気がする。
今日、近くにある店にランチを食べに行ったのだが、直ぐ隣の席に座った男性二人の内、一人に電話がかかってきた。彼は全く遠慮も、周囲に気を遣うこともなく、普通にビジネスの話を始め、5分くらい堂々と通話をしていた。気になったが、ではそれほど不快かというと、そうでもない。
その店は良く、なぜか7〜8人のおばちゃん達がランチを食べているところに出くわすのだが、彼女たちの会話の方が圧倒的にうるさく、こちらは時折不快だ。そういう場合には、手持ちの音楽プレーヤーで音楽を聴くのだが、それを圧して会話が聞こえてくる。
以前、中央線の車内で実家の母から電話があった。小声で出て、後でかけ直すつもりだったが、震える声で、家に泥棒が入ったという電話だった。周りも気にせず、次の駅で降りるまで、普通に会話をした。こんな場合もあるので、やむを得ない事もあるとは思う。
だがそれでも、大きな声で仕事の話を延々しているおやじは以外にに多い。そして、あたかもこういうことをするのは若者のような気がするのだが、実はそうではない。若いのは基本がメールだから、通話は稀である。大体うるさいのはビジネスマンだ。
彼らは、仕事だからいいと思っているのかもしれないが、おまえの仕事でこちらを煩わさないでくれ、と思うことが時々ある。外へ出て話せと思う。
不思議なもので、さっき書いたこととは相反するようだが、声というのはおそらくトーンと、それから周囲の騒音との相対的な具合で、うるさく感じる場合と、そうでない場合があるのだ。
高校生などが多いマックと、一人客が読書や勉強に没頭していることが比較的多いエクセルシオールや、その中間のドトールでは、自ずと影響が違う。
さて、ぼくはよくマナーや伝統を嫌いだと言って、反抗的な文章を書く。なぜ人前でみんなネクタイしてるのだとか、これらは新から変革されるべきだと思っているのでそう書く。
テーブルマナーほど下らないことはない。と思うが、最低限の何かがそこにあることは認めていないわけではない。だがおそらく、テーブルマナーとして学ばねば解らないようなことの80%は無意味だ。
そういうぼくが、例えば携帯電話のマナーということを書くのであれば、もっと自由にとか書きそうだが、そんなことはない。実は、会話というのは比較的受け入れやすい。前出のうるさいおばちゃんや、ちょっと安めで、ちょっとしゃれた居酒屋とかでのうるさい客の場合は別だ。マナーとかとは別に、彼らは彼らで盛り上がっているので、こちらが我慢しましょうという気になる。
だが、携帯の通話というのは以外に目立ち、煩わしいこともある。
全然出るななどとは全く思わない。出ないできる必要など無い。出て、必要ならば外で話す、あるいは今は話ができないので後ほど、くらいの気遣いを、すべきシチュエーションは少なくない。これはマナーとか決まり事ではなく、時に応じて斟酌すべきことだと思うが、実は普段からそう思っていないと決してできない。
まあ、この程度はマナーってことなのか。
昨日、横浜駅周辺の喫煙の取り締まりについてニュースをやっていた。だいぶ減ったが、役所の見回りの人がいなくなると吸う人が後を絶たないと言っていた。たぶんそれでもむかしよりは圧倒的に減ったのだとは思う。
喫煙者の内、非常にそう言うことに気をつけている人たちも大勢いて、そういう人たちは世の中がどんどん禁煙化していくことに対して、もっと喫煙者の自主規制にと思っている人も少なくはない。だが、結局のところ、横浜駅の状況がそうであるように、そのことを悪いと思っていない、逆に、自分たちが虐げられているくらいに感じている人も、少なくはないのだ。そうである限り、JTがいくらマナーのCMをやろうと、状況がそれほど良くなる訳ではない。
喫煙ほど不愉快ではないが、携帯もいわばそう言うことで、最終的には、周囲との兼ね合いということが、人間生活においては常に問われることなのだと気づく。
自分にできることは、少なくとも自分が迷惑だと感じることをしないということしかない。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 日常的 | 02:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年9月14日
「ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判」という記事
ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判9月13日14時48分配信 時事通信
【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。
というニュースがYahoo!にあった。そしてちょっと驚いた。
ダーウィンの進化論(「種の起源」)そのものが、どこまで正しいのか、それは別にして、大筋では天地創造も、人類の進化も、教科書にはたぶん、ビッグバンやダーウィンのものが世界共通で,ある程度は学ばれているに違いないと思っていた。
宇宙の始まりや終わりを描くSFに比べて、生物の進化を描くSFは比較的少ない。後者はどちらかというと、タイムトラベルものになりがちだ。「太陽の黄金の林檎」に収録されている「雷のような音(または「いかずちの音」)−レイ・ブラッドベリ」とそれを原作とした映画「サウンド・オブ・サンダー」などは、背景に厳然と進化論がある。
まあ、本当にアメリカ人で進化論を信じているのが39%で、残りの人がみんな聖書を文字通り信じているのだとすれば、とっても驚異的だが、どちらかというと、そういうキリスト教団体の力が、日本では想像できないくらいに強いのだろうと思える。
先日、テレ朝の「学べるニュースショー」で池上彰が(この人はかつて、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さんとしても、非常にわかりやすい解説をしていたが)、丁寧に説明していたが、ユダヤ教が信じる旧約聖書、キリスト教が信じる新・旧約聖書、イスラム教が信じる新・旧約聖書とコーラン、いずれにしても、旧約聖書を信じている人は(文字通りという意味ではなくても)、世界の人口の半分くらいはいるという計算になる。
一週間で世界を想像した神が最後に人間を作ったわけで、「光あれ」はビッグバンと相応しているからきっと問題はないけど、進化論は人間が神によって神に似せて作られたというところに抵触するのだろうな。
宗教を信じるあり方というのは何通りかあると思うが、それはぼくが日本人だからそう客観的に言えるのかも知れない。よく、海外で無宗教だというと不思議がられると言う話を聞くが、本当に無宗教であるなら、盆も彼岸も無くて良いわけだし、神社に参る必要もない。
非常に希薄な信仰心の中で、おそらくたいていの人は何かにすがっていて、日常的には何も感じていなくても、いざというときに見えない何かに頼むと言うだけで十分宗教であるに違いない。もちろん、体系化された何かを主体性を持って拝むなり祈るという行為がそこに必要であれば、確かに日本人はそこから外れる人が格段に減る。そして、神を信じる外国人には、おそらくそのことはいい加減という風に映るかも知れない。
ビッグバンや、それ以前の宇宙を論じる、理論天文学者の多くは、常に始まりの前という誰も踏み込むことができない領域、無限の外側という、人間が規定できない領域に挑みつつ、そこで論理を組み立てることができないときに、神を持ち出すしか無くなる。
それが旧約聖書の神なのか、ギリシャ神話の神なのか、ヒンドゥー教の神なのか、人によって様々だろうが、この世が人の想像、あるいは学問なり論理が及ぶ以外の部分を持っているため、それはやむを得ない事なのだ。
テレビを見ていると、以外に心霊写真や幽霊を信じている人が多いように思える。テレ朝のスピリチュアルな番組(最近はやってないのかな)などを見ても、いわば日本仏教的な先祖だったり、生まれ変わりや守護霊や、そんなことを某か信じている人は多いように見える。
生まれ変わりに関しては持論があって、過去何であろうと、そのときの記憶がない限り、生まれ変わりなど存在しない、と思っている。
ただ先祖は間違いなく存在するので、お父さんの霊が守ってますよとか、この写真に写っているのはこの滝から身を投げた女性の霊ですとか、そんな話はあるとも言えないしないとも言えない。こういうものに限らず、「ない」ことを証明するのはとても難しい。
「わしは裸だ」とのたまう王様に、見えない生地などないと証明するのは、なかなか難しいことなのだ。
人類が猿から進化したという表現は、たぶん、日光の山にいる猿が、いずれ人間になるような錯覚を与えるので、あるいはよろしくないのかも知れないが、よくある人類進化の絵のように、・・・昔、UriahHeepなどがレコードを出していたブロンズというレーベルは、その絵を使っていた・・・類人猿やさらに猿人と言われるような、人類の原型が、単純に神の似姿としてではなく、いたという話は、単純にエデンのそので一対の男女が作られたという人類誕生の話よりも説得力はある。
アダムとイブ、そしてその子孫であるカインや、とても重要なアブラハムなどの話の中で、ふと気づくと、聖書にはおそらくアダムとイブを祖先としていないように見える他の部族がどんどん出てくる(ように見える)モーゼが脱出し、その前は世話になっていたエジプトの人間も、どうやら聖書の神とは一線を画すようだ。
さて、バベルの塔の故事以前は、世界が同じ言葉を話していたそうなので、そこを基準に、神を信じる部族と信じない部族ができ、それ以前は一つだったという考え方もできるのかも知れない。
ぼくはクリスチャンじゃないし、聖書学者でもないので、拙い知識でいろいろ考えるが、自分の祖先の一番古い人は神が作ったのだ、と信じることは、とりもなおさず、アダムとイブに帰着し、「人類皆兄弟」となるわけだが、カインとアベルの故事よろしく、人類は殺し合っている。十戒ですでに禁止されている殺人を、まあキリスト教を信じて生きたこれまでの歴史上の人々も、現代の人々も、犯しまくっているように見える。だがこれはまあ、神に敵対する者への聖戦という位置づけで、少なくとも宗教上は回避できるのかも知れない。
さて、であれば、ダーウィンの映画など、神を知らぬあほどもの(異端の民の)映画として、鷹揚に見られないものなのだろうか?
ぼくは、マイクル・ムアコックという人の「この人を見よ(Behold the Man)」という小説が好きなのだが、一般的にこのタイトルはニーチェの小説として名高い。ヨハネの福音書で、ピラトが群衆に向けてイエスを指さして言う言葉だ。この後イエスは十字架にかかる。
ムアコックの小説は、サウンド・オブ・サンダーではないが、イエスの時代にタイムスリップした男が、イエスを見ると白痴だった。彼は、未来の技術で人の病を治したりしているうちに、なぜか自分が聖書に書かれているイエスの行跡をたどっていることに気づき、やがて十字架にかかるという話だったと記憶しているが(ずいぶん前に読んだので、面白かったという記憶だけで結末などを覚えていない)、こんな小説は、批判の対象にならないのだろうか、と、当時思ったものだった。
いずれにしても、ああびっくりなニュースでした。
ニーチェの作品
ムアコックの作品。現在絶版中のよう


